【 第二章  ⑤ 】

 国王に拝謁するには、事前に申し入れをしておかなければならない。

 きっちりとした宮廷服で身を飾るのは当然のこと、拝謁する時間も重要だ。


 政務を行っている時間帯を外すのはもちろん、食事中や、早朝、深夜など、国王の生活を乱すような時間に拝謁を申し出てはならない。


 他国が戦争を仕掛けてきた、というような緊急事態が勃発していない限り、こんな夜更けに国王寝室の扉を叩くなど、本来であればありえないことだった。


「フィリップ! フィリップ!」


 ベリエ公は異母兄でありルガールの国王である人物を大声で呼び捨てにし、扉を開けるよう催促した。


「珍しい時間にいかがなさいましたか、殿下」


 扉が開いた。くすんだ金髪と薄青の瞳が印象的な青年が顔を出す。

 赤いお仕着せを着込んでいるので国王付侍従だとわかった。


「今すぐ通せ。火急の用件だ」


 ベリエ公が居丈高な声で言い放つ。

 ちら、とロジィに視線を向けたロッシュ伯は、軽く目を瞠ったがそれだけだった。


 さすがは国王付の侍従。ベリエ公が愛妻を引きずって来た、という驚愕の構図を目の当たりにしても表情を変化させない。


「陛下はお休みのお時間です。ご用の向きは明朝に伺いますが」

「黙れ。王弟が国王への面会を求めているんだ。さっさと取り次ぐのが侍従の役目だろう」


 一向に聞き入れようとしないベリエ公の言葉に、諦めたような苦笑を浮かべたロッシュ伯の背後から、ふわっと薔薇の薫りが漂った。


(……え)


 一瞬、覚えのある薫りに驚いたロジィは、はっと目を見開いた。

 この薫りはベルローズ公爵夫人のものだ。なぜ、ここでこの薫りがするのかと考えかけて、すぐに理解する。


 国王寵姫が国王の寝室に出入りしていて、なんの不思議があるだろう。……本当に、なんと非礼な時刻に訪ねてしまったのか。

 ベリエ公も、ほぼ同時に理解したのか、不潔なものを見るように顔をしかめた。


「なんだ。あの女もここにいるのか。それでフィリップは私に面会できないと? 王弟の用件よりも愛妾と戯れるほうが大事か。ご立派な国王だな!」


 苛立ちが、ロジィを掴む指先に込められる。……痛い。

 悲鳴を出さないように、ぐっと奥歯を食いしばったロジィの表情をそれとなく見たロッシュ伯に、室内から「お下がりなさい」と声がかかる。

 いつもと同じ、フリルが上品なローブに身を包んだベルローズだった。


「陛下がお通しせよと仰せです、ロッシュ伯」

「当然だ」


 ベリエ公に引きずられながらロジィは国王寝室へ入る。

 もう寝るところだったのだろう、豪奢な寝台に腰を下ろしている国王フィリップは、ベリエ公と同様に寛いだ寝間着姿だった。


 宮廷儀礼を華麗に無視する異母弟を前にしても、フィリップは国王らしい鷹揚な態度を崩さない。


「どうした、ベリエ公」

「この女を宮殿から追放しろ」

 突き飛ばされ、フィリップの足下に身体が放り出される。


「――――ッ」


 ルガール王の御前で非礼を働くことはできない。慌てて手をついて身を起こそうともがいたロジィは、眼前にフィリップの靴先を見てしまって身体が固まった。

 先ほど、ベリエ公に顎を蹴られた恐怖がよみがえってきた。


「――――、」


 ひとつの恐怖は、もうひとつの恐怖を連れてくる。

 震えが足下から襲った。


 本来、メルヴェイユ宮殿に滞在するには国王の許可が必要なのだ。正しく言えば「ルガール国王からの招待」が。

 だが、ロジィは秘密裏にメルヴェイユ宮殿に入り込み、そればかりかセレスティーヌとして振る舞っていた。

 つまりは国王を騙していたのだ。


 不敬罪。大逆罪。

 間違いなくラルデニア伯領が没収される事態だ。


 父も母も、無事では済まないだろう。修道院送りになるだけなら、まだいい。

 もし、処刑、という話になったら?


「……っ……」


 どうしよう。

 なぜ、ここに来てしまったのだろう。

 いくらレティの手紙が届いても、どれだけ両親から懇願されても。

 あの修道院から離れるべきではなかったのに!


「姫」


 ふわっと。

 薔薇の薫りに包まれた。


「陛下、おみ足をお下げください。貴婦人の面前に靴を出すなど無礼ですこと」


 床に投げ出されたロジィを抱き起こすため、ベルローズは屈んで床に膝をついていた。

 国王の寵姫ともあろう方が、床に膝をつくなど考えられないことだ。その上、国家の頂点たる至高の存在に「足をどけろ」などと指図するとは。


「ああ、これは失礼した。申し訳ない、姫」


 寵姫の高飛車な指図にも怒ることなく、フィリップは静かに寝台から立ち上がると近くの椅子に座を移した。


 ルガールの王を歩かせてしまった。

 申し訳なさといたたまれなさで、冷や汗がどっと出てくる。せめて謝罪をと思うのだが、喉の奥がはりついて声にならなかった。


「……へ、ぃ……」

 陛下、無礼のお許しを――と言いたいのに、引っかかって裏返った声しか出てこない。

「無理にお声を出さなくてよろしいのですよ。さあ、お手を」


 差し伸べられた、白い手袋に包まれているベルローズの手。

 その手が、まるで、すべてから救ってくれる光のように思えて、涙があふれてくる。

 ベルローズが慌てた。


「痛みますか!? お待ちください、手当ていたします。――ロッシュ伯、夫人をこちらへ」

「かしこまりました」

 ベルローズの指示でロッシュ伯が足早に部屋を出て行った。


「……っ、……ぅ……」

 ベリエ公に叩かれた頬に涙が沁みて痛かった。口の端も切れているのか、ピリピリする。

 傷が痛くて、心も痛くて、ぽろぽろと零れる涙を我慢できない。


「……姫」

 眉根を寄せて、困ったように、つらそうに、ベルローズがこちらを見ていた。


 メルヴェイユ宮殿で涙は禁物だ。

 華やかに美しく享楽的に生きることを求められる、王のために「創られた」空間。


 その箱庭に招待されるという栄誉を得た人々が、苦悩の表情を浮かべるなど許されるはずはない。

 泣いては駄目だと思うのに、止められない。


「何をぐだぐだしているんだ。私は、この女を追放しろと言ったんだ!」


 ベリエ公の怒号に肩が跳ねた。怖かった。

 怒鳴られ、殴られ、脅された記憶が一瞬で脳裏に浮かび上がる。


 す、と。

 ベルローズの掌が、震えた肩に置かれた。

 ……温かい。

 人のぬくもりは、これほどに心を落ち着かせてくれるものなのだ。


「聞いているのか、フィリップ!」

「なぜ、追放しなければならないんだ、ベリエ公」


 のんびりと、間延びしたようなフィリップの声。ベリエ公の怒気が膨れあがった。


「なぜ、だと!? この女は、我が愛する妃の振りをして、私たちの寝室にまで入り込むような痴れ者だ。いいか、貴様はわかっていなかったから親切に教えてやるが、この女は、仮にも国王である貴様の許しなく、勝手にメルヴェイユに入り込み、あまつさえ我が妃に成りすまして宮廷行事に出席していた。凡庸な貴様は騙されても当然だが、曲がりなりにも貴様はルガール王だ。貴様は、この女にこけにされていたんだ!」


 ベリエ公の怒号のひとつひとつが、ロジィの全身を切り刻んでいる気がした。

 そのとおりだった。


 ローゼリアは、ルガール王弟妃という高貴な存在に成り代わり、宮廷を闊歩して国王に拝謁し、セレスティーヌが受けるべき言葉を、代わりに聞いていた。


 最低だ。

 弁明の余地はない。


 いかなる処罰を与えられようとも、受け入れるよりないのだ。

 固く目を閉じて、国王から与えられる断罪の言葉をじっと待っているロジィの耳に、フィリップの声が届いた。


「余は、ベリエ公と、ベリエ公妃が行事に参加してくれないことを、残念に思っていた」


 国王の返答は、いささか的外れのところから始まった。

 厳罰を言い渡されると思っていたので肩すかしを食らった気分だ。おそるおそる目を開けると、ベルローズが優しく微笑んでいた。

 ――――大丈夫、と、言われているような気がした。


「だからなんだ。言っておくが、今こうして貴様の顔を見ていることさえ、私にとっては苦痛だ」

「王太后陛下とベリエ公が余を好ましく思っておられないことは承知している」


 やんわりとしたフィリップの物言いに対して、ベリエ公の返しは容赦なかった。


「大嫌いだ」

 その切り返しにもフィリップは動じない。


「だが、せめて王弟妃となる貴婦人には宮廷行事にご出席願いたいものだ」


「ふざけるな!!」

 とうとう、ベリエ公が渾身の声で叫んだ。


「私の天使を、どうして貴様の側に行かせなければならない! 私の天使を眺めることができる男は、この世で私ただひとりだ!」


 清々しさすら感じさせる独占欲だった。

 妻を溺愛する夫としては美しい姿だが、ルガール王に伺候する貴族の姿としては間違っている。

 ここまで言い切られれば、いくら鷹揚なフィリップでも叱責するはずだと思ったのだが。


「貴公がそう言うことはわかっていた」

「だったら――」

「そのため、そちらの姫をお招きしたのだ」

「あ?」


(――――え?)


 ロジィは耳を疑った。

 ルガール王に招待された記憶はどこにも残っていないけれど……?


 ロジィが受けた驚愕は、ベリエ公も同じらしかった。しばらく、口を半開きにした表情でフィリップを凝視していたが、やがて、はっとした表情に改まる。


「招いた、だと? この女がどこの誰か、まさか貴様、わかっているのか……?」

 当然だというようにフィリップは小さく顎を引いた。


「ラルデニア伯のご長女、ローゼリア・ブランシュ姫だろう。貴公の妃セレスティーヌ・ブランシュ姫の双子の姉姫の」


「――――」


 ベリエ公が絶句した。それは、ロジィも同じだった。

 ――――いったい、いつから。

 いつから、双子の姉だと、バレていたのだろう。


「な、ど……、招いた? いつ、招いたんだ。なぜ招いたんだ。貴様は何を考えているんだ!」

「言っただろう。我が宮廷行事に身分ある貴婦人がいないのは困ると」

「意味がわからん!!」


 絶叫に近い怒号を上げたベリエ公に答えたのは、フィリップではなく、ロジィの傍らに膝をついたままのベルローズだった。


「妃殿下が宮廷行事に不参加でいらっしゃることを、宮廷貴族たちが快く思っていないことは、殿下もよくよくご承知でいらっしゃったはずです」

「だからなんだ」


「陛下は、殿下と、妃殿下のご評判が地に落ちることのないように、せめて妃殿下だけでもご出席いただけないかと手を尽くされたのです」

「それでどうして、この女を呼ぶことになるんだ!」


 ベルローズは、ぞっとするほど艶やかな微笑を浮かべた。その笑顔に気圧されたのか、ベリエ公も口を閉ざす。

 相手を黙らせてから、ベルローズは優雅に、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。


「他に、お美しい妃殿下の〈代わり〉を務められる貴婦人が、ルガールにいるとお思いですか?」

「な……」


「妃殿下は天使のような美貌をお持ちです。世に麗しい姫は数多いらっしゃいますが、妃殿下に成り代われるほどの美貌を持つ姫は、この世にただひとり。――そう、思われませんこと?」


 挑発しているようなベルローズの言葉。

 顔を真っ赤に染め上げたベリエ公は、わなわなと全身を震わせながら叫んだ。


「ふ、ふ、ふざけるな! 我が妃と、この女とでは雲泥の差だ! ならばどうして、はじめから我が妃の姉を宮殿に招いたと、そうはっきり宣言しなかったんだ!」


「必要か?」

 けろりとした口調でフィリップが言った。

 再び絶句するベリエ公に、国王はほのかな微笑みを浮かべる。


「余が、余の友人を招くことを、わざわざ公表する必要があるのか?」


 貴族が、国王からの招待状を持たずに、メルヴェイユ宮殿へ勝手に来訪することは許されていない。


 しかし、国王が、自らの意思で客を招き入れることは、誰にも憚る必要がないのだ。

 それが爵位を有さない、ごく一般の農夫であったとしても、国王が招いたのならば正式な「宮殿の客」だ。


 国王が誰を宮殿に招待したのか、いちいち公表する義務もない。

 例えば、交戦中の敵国と和平交渉をするために、秘密裏に相手国の外交官を招き入れたとする。わざわざそれを〈公表〉する愚かな国王が、どこにいるというのか。


「この女に関しては、私にだけは報告する必要があったと思うが!?」

「そうだな。姉姫に王弟妃の振りをしていただくと伝えれば、貴公が進んで公妃を宮廷行事に出席させたかもしれないな」


「誰がレティを貴様の前に行かせるか!」

「そうか。では、報告しても意味がないな」


「~~~~~~~~ッ」

 額に青筋を浮かべたベリエ公が奥歯をギリッと噛み締める。憤怒の表情だ。


 ――――庇われているのだろうか。


 そうとしか思えなかった。フィリップが何を言っても、どう言い繕っても、ロジィが国王の招待状を持っていないという事実を変えることはできない。


 この場で、ベリエ公がロジィに「招待状を提示しろ」とひとこと言ったなら、フィリップの嘘も暴かれてしまうのだ。

 それなのに、あくまでも「ロジィを招いた」と言い張る国王の真意は、いったいどこにあるのだろう。


 ルガール国王の思惑がまったく予測できなくて、お手上げの心境になったロジィは、そっと視線を落とした。


「痛みますか?」


 白い絹手袋に包まれた繊細な指先が、羽毛のような優しさでロジィの頬を撫でていく。

 国王と王弟の口喧嘩に圧倒されてすっかり忘れていたが、ベルローズはずっと、ロジィの傍らにいてくれたのだ。


「あ、ベルローズ公爵夫人、どうぞ、お立ちになって……」


 ルガール王がこの世で最も寵愛する貴婦人に膝をつかせたままでいるなんて、自分の非常識さに涙が出そうだった。

 それなのに、丹念に巻かれた黒髪をふるりと揺らして微笑んで、麗しの薔薇は動こうとしない。


「少し、落ち着かれましたか?」

「はい」

「では、こちらに」


 もう一度、差し伸べられるベルローズの手。

 その手に掴まって立ち上がろうとしたとき、けたたましい勢いで国王寝室の扉が開いた。


「ローゼリア姫!!」

 悲鳴と一緒に飛び込んできたのは、フロランタン侯爵夫人だった。その後ろにはロッシュ伯もいる。


(……なぜ、わたしの名前、を……?)


 驚いているわずかな間に、フロランタン侯爵夫人はローブの裾を蹴り飛ばしながら駆け寄ってくる。


「まあ! ……まあまあ! なんってひどいこと! さ、こちらに。すぐに手当をいたします。ロッシュ伯、消毒のアルコールと清潔な布、ありますわね!?」


 ふたりの貴婦人の手を借りて、ロジィは立ち上がった。身体中、あちこち殴られているので、どこもかしこも痛くて、よろけてしまう。


 それをしっかりと支えてくれたのは、ベルローズだった。

 フロランタン侯爵夫人よりも華奢な体つきをしているのに、ロジィを抱えて歩く足取りに不安はない。


 ぐっと握ってくれている手が、ロジィの体重のすべてを支えているような頼りがいがあった。

 宮廷一の貴婦人に「頼りがい」など、最も縁遠い言葉のはずなのに、不思議だ。


「さあ、こちらにお掛けになって」


 連れて行かれたのは国王の寝台だった。困惑して辞退しようにも、両手を握られているので方向転換ができない。

 戸惑うロジィを察したのか、ベルローズが柔らかな口調で言った。


「お気になさらず、お使いください」

「ですが……!」


 王の玉座。王の寝室。

 そのほか、「王の」と形容がつくものを使用してよいのは、王だけだ。


 だからこそ王の宮殿パレ・ロワイヤルと称されるメルヴェイユ宮殿に、王の許可なく参上することが禁じられている。

 いくら寵姫の言葉でも、はいそうですかと腰掛けるわけには――――。


「ローゼリア姫。そのふたりには逆らわないほうがよい。遠慮なくお使いなさい」


 寝台の持ち主であるフィリップに、にっこりと笑顔で言われてしまっては、断ることもできなくなる。

 ロジィはぎこちなく頭を下げて謝意を伝え、促されるままに腰を下ろした。ふかふかの座り心地だった。座り心地はよいが、居心地は悪い。


「沁みますわよ。ご辛抱あそばして」


 フロランタン侯爵夫人に治療されている最中、飛び上がって逃げ出しそうになるロジィの手を、しっかりと握りしめて動きを封じているのもベルローズだった。

 見た目からは想像もできない、強い力。そんなに必死に握らなくても、ちゃんと我慢するのに。


「おい。待て。フロランタン侯爵夫人」

 傲岸なベリエ公の声に、フロランタン侯爵夫人は眉ひとつ動かさず、肝の据わった表情で振り返った。


「なんでしょうか、ベリエ公」

「夫人は今、その女を〈ローゼリア〉と呼んだな」


「!」


 はっとして、ロジィもフロランタン侯爵夫人の顔を見つめる。

 そうだ。うっかり忘れていたが、彼女はロジィを正しく「ローゼリア」と呼んだのだ。


「ええ。お呼び申し上げました。こちらの方はラルデニア伯家のご息女、ローゼリア姫でいらっしゃいますから」

「なぜ、それを知っている!?」


 ベリエ公の疑問はもっともだった。

 ロジィがセレスティーヌに成りすましてフロランタン侯爵夫人の前に立っていたとき、夫人は見破っていなかったはずなのに――。


「姫を宮殿へ招くよう、余に進言したのがフロランタン侯爵夫人だからだよ」


(――――――――は?)


 話が、さらにややこしくなった。

 ロジィはレティの頼みで宮殿に来た。――はずだ。

 それが、国王の招待ということになっていて、しかもフロランタン侯爵夫人の進言だった?


 まったく意味がわからない。

 ロジィにわからないものを、ベリエ公が理解しているはずもなく、怪訝な顔をしている。


「夫人が? なぜ、この女を宮殿に招けと?」

 コホンと軽く咳払いをして、フロランタン侯爵夫人が口を開いた。


「畏れながら、わたくしは王弟妃殿下の教育係を仰せつかっております」

「ああ、そうだな。私の天使に教育係など不要だが」


「どれほどご説得申し上げましても、妃殿下が宮廷行事にご出席なさることはありません」

「当然だ。私が止めている」


 ぎろり、と。フロランタン侯爵夫人が険しい視線をベリエ公に向けた。

 これまで傲慢な表情しか浮かべていなかったベリエ公の顔に、初めて動揺が走った。


「な、なんだ、その目は。ぶ、無礼だぞ」

「止めている? 止めていると仰せですか、ベリエ公」


 ロジィに宮廷生活のあれこれを指導しているときには見せたことのない表情をして、フロランタン侯爵夫人はベリエ公を睨みつける。

 裁きの女神のような形相が恐ろしかったのだろう。さすがのベリエ公も声が小さくなる。


「……そうだ」


「何を寝惚けたことを仰っているのですか。宮廷行事に出席するのは王族の義務でございましょう。畏れ多くも陛下に王后陛下がおられない以上、王太后陛下と王弟妃殿下のご出席は当然の義務でございます」


「な――ッ、母上を侮辱するのか!?」


 フロランタン侯爵夫人の言葉にはロジィも驚いた。

 ここまで正面きって王太后を批判する貴婦人に出会ったことがなかった。


 国王が何も言わないところから察するに、どうやらフロランタン侯爵夫人はそれを「許されている」立場にあるようだった。


 レティからは、国王によって教育係に任命されたフロランタン侯爵夫人は、宮廷でも相当に地位の高い女性だと聞いていたが、何者なのだろうか。


「侮辱申し上げた覚えはございません。ご出席なさるのが義務だと、ごく当たり前のことを申し上げたまでです」

「言葉が過ぎるぞ、侯爵夫人!! 私の母上は夫人にとっても〈母〉だろう!!」


 ――――え?


 ベリエ公の〈母〉は先王クロヴィス二世の三人目の王妃マリー・エレーヌ・ドゥ・ダンベール。


 マリー王太后には子どもがベリエ公しかいないし、そもそも三八歳の王太后と、フロランタン侯爵夫人は同い年だ。何をどう計算したら「母娘」という関係性に落ち着くのだろう。


「王太后陛下がわたくしの〈母〉でいらっしゃるなら、王弟妃殿下はわたくしの〈義妹いもうと〉です。義姉あね義妹いもうとを叱責して、なんの不都合がございましょう」


「な――――ッ!?」


「付け加えますれば、わたくしが〈母〉とお慕い申し上げているのは国王陛下の母上であらせられる、アデル王妃様ただお一人にございます。夫の庶子など憎らしいでしょうに、アデル王妃様は妹のように可愛がってくださいましたから」


 フロランタン侯爵夫人はクロヴィス二世陛下のお子だったのか。

 ロジィはようやく、ベリエ公や国王フィリップに対して遠慮のない夫人の態度に合点がいった。


「な、は、母上を、母上を母だと思っていないと?」

「同い年の女性を母と思える奇特な人物がいるのでしたら、ご紹介いただきたいものです」


 ベリエ公の完敗だった。

 わなわなと身を震わせて、しかし、フロランタン侯爵夫人に反論ができない。


 控えていたロッシュ伯に布を渡し、代わりに受け取った氷嚢をロジィの頬に押し当てながら、フロランタン侯爵夫人は子どもを叱りつける乳母のような口調で言った。


「それで、ベリエ公。まだ何か仰りたいことがおありでいらっしゃいますか」

「だ、だから、この女を追放しろと言っているんだ!」


「わたくしが陛下に招待をお願い申し上げ、陛下がご招待あそばしました。ベリエ公が追放を願い出ることは僭越にございますよ」

「だからなぜだ! この女のせいで我が妃は体調を崩しているというのに」


「……そうなのか?」


 それまでフロランタン侯爵夫人が喋るのに任せていたフィリップが、ようやく言葉を発した。

 夫人に対する態度とは打って変わって、威圧的な表情でベリエ公がフィリップに答える。


「直接に聞いたわけではないが、そうに決まっている」

「憶測でものを言うのは感心しないぞ、ベリエ公」


 淡々としたフィリップの口調が気に入らなかったのだろう、ベリエ公は瞬時に沸騰した。


「この女がいるせいで具合が悪くなられたに決まっているだろう!! その隙を突いて寝室にまで入り込んだに違いないのだ!」


 ベリエ公は、先ほどロジィに展開したのとまったく同じ主張を、国王の面前でも繰り返した。


 ロジィがずっとレティを虐げていたこと。

 そのせいでレティは幼少期からずっと不幸だったこと。

 しかし、自身の身の上を不幸と思わず、健気にも姉を慕い続けるレティの姿に、心を射貫かれたこと。


「我が天使は人の悪口を好まれない。とりわけ、姉を悪く言うことを嫌っておられた。私が必死になって聞き出して、ようやく姫は口になさったのだ。――姉が、自分をいじめていたと」


(――――嘘)


 思わず、ロジィはベリエ公を見上げてしまった。

 フロランタン侯爵夫人の手当を受けていたので、顔を動かさないようにじっとしていたが、聞き逃すことができなかった。


 ……レティが、言った?


 ベリエ公の言葉は、本当だろうか。本当に、あの子が、そんなことを。

 そんな、ありもしない嘘を――――?


「両親の愛情を姉に奪われ、家庭教師も横取りされ、ひとり寂しく生きてきたと。けれど、それは仕方のないことだとセレスティーヌ姫は笑っておられた。悲しげな微笑みだった」


 父と母が愛しているのはロジィではない。

 レティだ。


 あの子の願いを、母は何でも叶えようとしていた。あの子が欲しがるものは、どんなものでも、レティに譲るようにとロジィに言った。レティだって、それは知っていた。


「姫は仰った。ラルデニア伯領を継ぐのは自分ではなく、姉だ。だから、誰も彼もが姉を大切に扱うのは仕方のないことで、自分を見てくれる人が誰もいなくても、おまけのように産まれてしまった自分を、姉が見下していても、それは当然のことなのだと」


 見下したことなど一度もない。

 ロジィは、レティが大好きだ。この世でたったひとりの、大切な片割れ。

 ベリエ公は、誰か別の人のことを言っているのではないだろうか……。


「私は、セレスティーヌ姫の気持ちが痛いほどわかった。この私も、どれほど優秀であっても、すぐにルガールを統治することが叶わない。フィリップ、貴様がいるからだ。姫も同じだろう。相続権を持たぬ身の上が哀しいと、故郷を離れる定めを嘆いておられた」


 ベリエ公は、憎しみの宿った眼差しでロジィを見た。


「あれほど優しく慈愛に満ちた姫が、聡明で完璧なセレスティーヌ姫が、ラルデニアを統治することができない。なんという皮肉だろうか。だが私と違って、姫は姉を憎んでいなかった。慕っておられた。その心の美しさが眩かったのだ!」


 くぅぅっと感動の涙にむせんでいるベリエ公に言葉をかけたのは、それまで沈黙を貫いていたベルローズだった。

 彼女は、実に静かな声で問いかける。


「それはすべて、妃殿下から、殿下が直接はっきりと、お聞きになったお話ですか」

「そうだ」

「妃殿下が自ら仰ったのですね、相続権を持たないことが哀しい、と」

「そうだと言っている。貴様の耳は壊れているのか!?」


 ベルローズは目を伏せ、そして上げた。何かを決意したような、凜々しい横顔だった。

 蒼瞳にベリエ公が映り込む。


「ローゼリア姫を修道院へ送るよう提案なさったのは、殿下ですか」

「我が天使だ」


 心に、ひびが、入った。


 ロジィはずっと、ルガール側の圧力によって修道院へ追いやられたのだと信じていたのだ。

 まさか、レティの発案だったとは、本当に思いもしなかった。


「我が姫は、こう仰った。ラルデニアの相続権は姉が有しています、権利のないわたくしでは王太后様がご不満でしょう、姉を修道院へ送ればお心も休まるのではありませんか、と」


 ベリエ公は、王太后の心情を慮るレティの言葉に、涙が止まらないほど感動したと付け加えた。


「姉を修道院へ送れば穏便に相続権を移行できるかもしれないとも仰った。我らルガールの権益を思いやってくださるばかりか、姉と争うことなく相続権を得たいのだと仰る姿は、まさに未来のルガール王妃に相応しい気高いものだった」


 争うことなく相続権を得たい――――。


 初耳だった。レティは、今まで一度も、自分にラルデニアの相続権がないことについて、触れようとしなかったから。


 自分は他家へ嫁ぐのだからと、それが口癖で、大国に嫁いで贅沢がしたいとしか言っていなかった。

 ラルデニアの財政にも無頓着で、病床の父に代わって家臣たちと相談しているロジィを横目に、レティが遠乗りへ出掛けるのはいつものことだった。


 自分が継がない領地のことになど関心がないのだと、ずっと思っていた。

 違ったのか。


「我が天使は心が美しいから何も仰らない。だが、お側で見ていればわかる。これまでどれだけ、その女のせいで理不尽な思いを噛み締めてこられたか。あの方が、ラルデニアの相続権を欲するのはごく当たり前のことだ!」


 同じ双子。

 その言葉を、あの子はよく口にしていた。

 けれど、ロジィとレティ、ふたりには決定的に違うところがある。

 ――――ラルデニアの相続権だ。


 同じなのに、違う。

 そのことをロジィが感じるよりも鋭敏に、しかも、ずっと以前から、レティは感じていたのかもしれない。

 ベリエ公の妃に決まっていたのに、挙式前夜に棄てられた、あの感情。


 それをレティは、ずっと、幼い頃から感じていたのだろうか。

 同じ双子なのに、何もかもが同じなのに、ラルデニアを相続するのは〈自分ではない〉と。

 絶望していたのだろうか、ずっと。


(勉強を逃げていたのも、もしかしたら)


 学んでも、それを生かすことはできない。勉強すること自体が虚しいと感じていたのかもしれない。だから、いつもいつも、逃げ出していたのか。


「もし、あの婚姻の場で。私がセレスティーヌ姫と出逢わなければ、姫はいまだに愚かな姉の陰に怯えていらしたのだろう。本当は姉を憎んでいらっしゃるという、姫の本心を察することのできた自分を褒めてやりたい」


 ベリエ公の言葉に、横面を張り倒されたような気分になった。

 ――――わたしは、レティに、憎まれていたのか。


 しみじみとロジィは思った。

 ときどき、わけもなく彼女が癇癪を起こすことがあって。


 理由のわからない八つ当たりを、いつも必死に受け止めて、宥めてきたけれど。――あれは、もしかして。


(……わたしへの、憎しみだった?)


 レティに好かれていると思い込んで、脳天気に無神経に振る舞っていたのは、わたしだった。

 あの子に与え続けてきた痛みに比べれば、こんなもの――――。


「……もう、いいです。フロランタン侯爵夫人」


 傷口に氷嚢を押し当てているフロランタン侯爵夫人の手を、ロジィは、そっと押し戻した。

「しかし、きちんと冷やしませんとお顔が腫れてしまいます」

「構いません」


 もう、偽物だとバレているのだ。宮廷行事に出席する必要もない。顔がどれだけ腫れていても問題ない。それに。


 ……腫れていたほうがいい。


 鏡で見れば、レティをどれだけ傷つけていたか、実感が湧くだろうから――――。


「夫人、そちらを貸してください」


 フロランタン侯爵夫人から、ひったくるように氷嚢を取り上げて、ベルローズがロジィに向き直った。

 無表情なのがたまらなく怖かった。もともとの造作が美しいので異様な迫力がある。


「顔は女の命ですわ。手当てをしない? どの口が仰いますの」

「いえ、あの……」

「黙って。……動かないで」


 言葉は怖いのに、表情も冷たいのに、頬に氷嚢を押しつけているベルローズの手つきは、フロランタン侯爵夫人よりも優しかった。


「……あれほど、妹姫を大切にお思いでいらっしゃいましたのに」

「!」


 先日の、茶会でのことを指しているのだとすぐにわかった。

 そうか。あの頃からもうとっくに、妹の振りをしている〈ローゼリア〉だと、バレていたのか。


「ふむ。まあ、貴公の主張はよくわかったが、それが通らないこともまた、よくわかったのではないか?」

 のんびりと。どこまでも穏やかな口調でフィリップが言った。


「我らが異母姉上あねうえのご依頼だ。追放などできないことは、貴公もよくよくご承知だろう」

「だから、夫人はどうしてこの女を宮殿に――」


「妃殿下のお手本になっていただこうと思ったまでのこと。無意味だということがよくわかりました」


 冷ややかな声音でフロランタン侯爵夫人が答えた。

 それを聞いたベリエ公の表情が、極上の獲物を仕留めたときのように明るく光る。


「ほら見ろ、聞いたか、フィリップ。夫人が無意味だと言ったぞ。この女がメルヴェイユにいる権利はないな。さっさと追い返せ!」


 瞳をキラキラと輝かせる姿は、まるで十二、三歳の少年のようだった。

 苦笑を浮かべたフィリップが何かを言おうと口を開いたが、王が言葉を発するより早くに、ベルローズが声を出した。


「陛下。薔薇のおねだりをお聞き届けくださいますか?」

「ん?」


 こてん、と。柔らかく首を傾げるフィリップの仕草もまた、少年のようだ。

 反目し合っている異母兄弟は、不思議なところでよく似ていた。


「おい、待て。口を挟むな、寵姫風情が」


 不機嫌そうに唸るベリエ公を綺麗さっぱり無視して、ベルローズはしれっと続けた。


「わたくし、ローゼリア姫とお友達ですの」


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