【 第二章  ⑥ 】

 ――――いつから?


 ロジィは、目を丸くして麗人を見つめた。

 この美女とお友達になった覚えはない。ルガール宮廷では、茶会に出席すると友達になるという決まり事でもあったのだろうか。


「わたくしは陛下より〈ベルローズ〉の美名を頂戴しました。姫のお名前はローゼリア様。同じ薔薇を冠しているところにも親しみを感じております。フロランタン侯爵夫人のご用向きは終わられたのでしょうが、わたくしの友人として改めて、メルヴェイユ宮殿にお招きしたいのです」


 ……なぜ、滞在の許可を、わたしではなく、ベルローズあなたが申請しているのでしょうか。


 絢爛豪華で落ち着かない宮殿からは、さっさと立ち退いてしまいたいのに、これでは帰るきっかけを失ってしまう。


「たかが寵姫が、何をしゃしゃり出てくるんだ!」


 ロジィなら怖くて身を竦めてしまうベリエ公の怒号だが、ベルローズは平気なようだった。

 堂々とした風情でベリエ公に言い返す。


「わたくしが、わたくしの友人をメルヴェイユに招くことに、ベリエ公のお許しが必要なのですか?」

「生意気な口を叩くな! 貴様など、生まれの不確かな卑しい女のくせに!」


「……それは、わたくしの母のことも、非難なさっておいででしょうか」

 迫力のある声で割って入ったのはフロランタン侯爵夫人だった。


 ベリエ公の両肩が、びくっと跳ね上がる。怯えた子鹿のような態度。フロランタン侯爵夫人の、何がそこまで怖いのだろう。


「わたくしの母も、自慢できるような血筋ではございません。それは宮廷中の誰もがご承知のこと。ベルローズ公爵夫人を貶めるご発言は、わたくしの母を貶めるお言葉と受け取りますが、よろしゅうございますね?」


 狼に狙われた子羊よろしく、ベリエ公は顔色を蒼白にしてフロランタン侯爵夫人を見る。


「ベ、ベル、ベルローズと、夫人の母君とは、まったく違、違う、から……」


 もごもごと言い訳を続けるベリエ公に苦笑を浮かべたフィリップが、ベルローズに視線を向けながら口を開いた。


「ベルローズの友人は、余の友人でもある」


 物わかりがよすぎる国王のお言葉。寵姫にべた惚れなのが丸わかりだ。

 このままではメルヴェイユ宮殿に滞在を続けることが、なし崩しに決まってしまう。ロジィは、あちこち殴られてふらふらする身体を叱咤し、寝台から立ち上がった。


 驚いて、支えようと手を差し伸べてくれるベルローズの仕草を丁重に辞退して、自分で歩く。

 椅子に座るフィリップの前まで進み、宮廷式の礼を執った。


「陛下。ご温情は心より感謝申し上げますが、わたくしは尼僧院へ参ろうと存じます」

「尼僧院?」

「故郷の聖クロード女子修道院にございます」


「なりません」

 あっさり却下したのは国王ではなく、なぜかベルローズだった。復活したベリエ公が、早速とばかりに叱りつける。


「おい、こら、フィリップより先に言葉を述べるとは無礼だろう。遠慮しろ」

「ベリエ公にも陛下にご遠慮申し上げるという謙虚さが備わっておいででしたのね」


 辛辣な返しに、ベリエ公が言葉を失う。

 彼を黙らせたベルローズの目配せを受けて、国王が苦笑交じりに口を開いた。


「あー、ベリエ公」

「なんだ!」


「余の薔薇が、可憐な白薔薇を愛でたいと申すゆえ、貴公の願いを聞き入れることは叶わぬ」


 一国の王らしい、威厳のある改まった口調。

 これまでとは異なる言い方から、これが〈王の言葉〉だとベリエ公も理解したらしい。


「ハッ、寵姫の言いなりか。情けないことだ」


 皮肉を言いながらも、それ以上、ロジィを追放しろと頑なに主張することはなかった。

 わがまま三昧に振る舞いながらも、不思議と、引き際をわきまえている人。

 ロジィは、ベリエ公に対してそんな印象を受けた。


「だが、私は、我が天使に、その女が与えた仕打ちを忘れない。再びまみえた折には容赦しないぞ。覚悟しておけ」


 一方的に言い捨てると、ベリエ公はロッシュ伯が動くより早く自身の手で扉を開け、国王寝室を出て行った。

 嵐のようなベリエ公が立ち去ると、途端に室内は静けさに包まれる。


 ふと、一同の視線が自分に集中していることに気がつき、ロジィは慌てて膝を折った。


「も、申し訳ございませんでした!」


 許可なくメルヴェイユ宮殿に来ていたこと。

 レティに成り代わっていたこと。

 国王たちは、それを「なぜか」知っていたが、本来であれば監獄行きの事態だ。


「その必要はないよ、ローゼリア姫。楽になさい」


 フィリップが優しく言葉をかけてくれるが、ロジィは動けなかった。

 いつから知られていたのか、なぜ見逃してくれるのか。


 聞きたいことは山のようにあるけれど、今はそれ以上に、ローゼリアとして滞在が決まってしまったことのほうに困惑していた。


 ――――どこから、何を、話せばよいのか。

 言葉を探して沈黙していると、フロランタン侯爵夫人が一歩、前に進み出た。


「陛下。ローゼリア姫のお部屋アパルトマンが定まるまで、ベルローズ公爵夫人の居室でご一緒にお過ごしいただいてはいかがでしょう」


 夫人の提案はもっともだった。ロジィが内心でどう思っているにせよ、正式に国王の言葉を賜ってしまったからには、当面の間は宮殿で生活するしかない。


 これまでは宝飾品管理庫を間借りしていたが、こうなってしまっては、あの部屋を使い続けることは不可能だ。

 となると、今後は〈ローゼリア〉としてメルヴェイユ宮殿に部屋を賜る必要が出てくる。


 グロリア王国との国境に面している、ルガールの重要地域であるラルデニア。

 その筆頭女子相続人であり、ルガール王弟妃の姉であるローゼリアを、宮廷序列のどこに置くかというのは、なかなかの難問だ。


 儀典に則り、相応しい序列を定めてからでなければ、メルヴェイユ宮殿の、どこに、どれだけの広さの部屋アパルトマンを与えるか、国王であってもおいそれとは決められない。


「ふむ。それもそうだな。……ベルローズ、姫を夫人の部屋へ」


 頷いたフィリップがベルローズに指示する。

 迷惑をかける形になるのは心苦しいが、そうしてもらうよりないので、ロジィもベルローズにお辞儀をしたのだが。


「――――え」


 ベルローズ公爵夫人が、顔色を失った。

 もともと透きとおるように膚が白い人だったが、今は、血の気をなくして真っ青だ。


「いえ、え、あの、お、お気は確かですか、陛下」


 残念なほどに、言葉もしどろもどろ。

 理知的な蒼瞳はせわしなくあちこちを泳ぎ、動揺している様子が手に取るようにわかる。


 彼女の反応が予想外だったのはロジィだけではないようで、怪訝そうな声でフロランタン侯爵夫人が言った。


「何か、問題がおありでしょうか、ベルローズ公爵夫人」

「え、いえ、あの、寝台。そう、寝台がひとつしかございませんから、姫をお迎えするのは難しいかと」


 言いながら、ぎろっと、ベルローズがフィリップを睨みつける。

 フィリップは、寵姫のきつい視線も心地よいのか、にこやかな笑顔を崩さなかった。


(――なんで、そこまで困っているのかしら)


 寝台がひとつしかないことはロジィも想定済みだ。

 だが、寝椅子は普通、設置されている。今までもそうだったから、ロジィは寝椅子さえあれば充分だと思っていた。


「あの」

 思い切って声をかけると、びっくりするような勢いでベルローズが振り返った。


「な、なんでしょう!?」


 彼女の剣幕に首を傾げながら、ロジィは言うべきことを伝える。

「わたくしは寝椅子で充分です」


「!?」


 ベルローズは驚愕の表情を浮かべたが、ロジィは淡々と言葉を続けた。


「わたくしは、身の回りのことは一通りできます。尼僧院では誰の手も借りませんでした」


 もし、ロジィのことをセレスティーヌのように思い、世話をする女官や侍女を配さなければと危惧しているなら不要の心配だと伝えたかった。


「ベルローズ公爵夫人にご迷惑はお掛けしないようにいたします。なので、陛下からお部屋を賜るまでの間、お世話になってもよろしいでしょうか」


「え。いえ、あの。……ローゼリア姫は、わたくしと同じ部屋で、その、一緒にお暮らしになることを、あの、お嫌ではないのですか……?」


「はい」


 きっぱり即答すると、ベルローズの白皙の頬が、今度は艶やかな薔薇色に染まった。

 ……そこまで恥ずかしくなるような返答だっただろうか。


「で、ですが、陛下! ローゼリア姫はこんなにも愛らしい方でいらっしゃいますから、わたくしの部屋で一緒にお暮らしになるのは問題が……」


「あるのか?」

 にんまりとフィリップが言う。


「麗しい薔薇の傍らに、可憐な白薔薇が寄り添う。……なんとも眼福な光景だ。そうでしょう、フロランタン侯爵夫人」

「ええ、本当に。お似合いのお二人でいらっしゃいますこと」


「似合い!?」


 ベルローズの声が裏返った。

 不思議そうな表情でフロランタン侯爵夫人が頷く。


「ええ。美しい貴婦人の横に、愛らしい姫君。絵のような光景ですわ。拝見するだけで幸せです」

 それに、と、フロランタン侯爵夫人は言葉を添えた。


「女性同士でいらっしゃいますのに、何を恥ずかしがっておいでですの?」


 ベルローズは、沈黙した。


「そうだぞ、ベルローズ。姫はお疲れだ。早く下がって、休ませて差し上げなさい」


 肩を震わせて、笑いをこらえながらフィリップが言う。

 彼の様子を見たベルローズの頬が、ますます紅く染まった。


「――――ッ、承知いたしましたわ!!」


 やけっぱちの声と顔。

 ベルローズの態度が不可解で、ロジィは、彼女の横顔から目を離せなかった。


        ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


 ベルローズの居室は国王寝室の隣だった。こちらも隠し扉で繋がっている。

 笑ってしまうほど近い距離なのに、ベルローズは、ロジィが歩いて移動することを嫌がった。


 心配した、というほうが正しいかもしれない。ふらつきながら足を動かすロジィが危なっかしかったのだろう。


 驚いたことに、ベルローズはロジィを抱きかかえて運ぼうとしたのだ。

 それを止めたのはロッシュ伯だった。


「申し訳ありません、ロッシュ伯。重いでしょう」

「何をおっしゃいます。ローゼリア姫は羽のように軽いですよ」


 宮廷美辞麗句の決まりきった社交辞令で返してくれるロッシュ伯の腕の中に、ロジィはいた。


 男性に横抱きに抱えられるのは経験がなくて、心臓が妙に落ち着かない。ロジィは羽織っているガウンの襟を、両手できゅっとかき合わせた。


「落としたら許しませんわよ、ロッシュ伯」

 横合いから、にゅっと顔を出して忠告するベルローズに、ロッシュ伯は微笑みを浮かべた。


「ベルローズ公爵夫人の、か弱い腕とは違いますよ」

「……わたくしの腕が、か弱い?」


 むっとした声でベルローズが言い返した。彼女の不機嫌など意に介さない様子で、ロッシュ伯は朗らかに笑って続ける。


「夫人は宮廷一の貴婦人でいらっしゃるのです。ティーカップより重いものはお持ちにならないでしょう?」


 押し黙ったベルローズがどんな顔をしているのか、そっと上目遣いで盗み見ると、相当に不服そうな表情をしていた。


 儚く、頼りなく、楚々として。

 そうした風情でひっそりと佇むのが、この時代の「美姫」の基準だ。


 しかも、ベルローズは国王寵姫ラ・ファヴォリットとして宮廷に君臨している。それらの美姫を超越した存在でなければならず、ロッシュ伯の言葉は最大級の賛辞であるのに……なぜ、そこまで不満げなのだろう。


 首をひねっている間に、ロジィは無事、ベルローズの部屋へ届けられていた。

「ありがとうございました、ロッシュ伯」


 優雅に一礼してロッシュ伯が去り、国王寵姫の部屋にはロジィとベルローズだけが残った。

 国王寝室と隠し扉で繋がっているここが、ベルローズの閨房のようだ。レティの閨房とは異なり、寝台と寝椅子、小さめの化粧台と洗面台、衣装棚があるだけの質素な部屋。


 先日、ベルローズのサロンに招待されたときにも感じたが、彼女の部屋はかなり狭い。

 壁の一角に扉が見えるので、その向こうが先日通されたサロンの部屋になっているのだろうと当たりをつけた。


「ベルローズ公爵夫人、わたくしは、あちらの部屋をお借りします」

「なりません」

 にべもなく却下されてロジィは困惑する。


「ですが、こちらの寝台で一緒に休むのは窮屈でございましょう」


 いくらロジィが小柄な体型をしていて、ベルローズが細身の女性だといっても、平均的な大きさしかないひとり用の寝台に、ふたりで眠るのは無理だ。そのことにベルローズだって気がついているはずなのに。


「一緒に!?」


 ベルローズの表情が一変した。思いもよらないことを言われたという顔だ。

 顔色も、赤から青へと劇的に変化する。彼女は恐怖におののいた声で叫んだ。


「いけません。絶対に、いけません!!」


 首をぶんぶん左右に振るという、上品な貴婦人の態度からは、かけ離れたベルローズの動き。


 なぜ、そこまで必死になるのだろう。何か変なことを言ってしまったのだろうか。

 ベルローズの様子に気圧されながら、ロジィは提案を続けた。


「ええ。ですから、わたくしがあちらのお部屋のソファーをお借りするか、こちらの寝椅子に……」

 ロジィにみなまで言わせず、ベルローズはさらりと遮る。


「どうぞ、寝台をご利用ください」

「寝台はベルローズ公爵夫人のものです」


「今は、ローゼリア姫がお客人でいらっしゃいますわ。お客様を寝椅子で休ませることなどできません」


 にっこり。

 あまりに艶やかな笑顔を向けられて、ロジィは続けようとしていた言葉を見失ってしまった。

 有無を言わせないその微笑みがなんだか怖くて、それ以上の反論をする勇気が出てこない。


 けれど、ここで引き下がってはよくないと思い直し、真っ向から言い返すのは避けつつ、それとなく遠慮の意思を伝えようと試みる。


「ですが、わたくしが寝台をお借りしてしまったら、ベルローズ公爵夫人は」

「陛下の寝台を取り上げますわ」


 そのひとことを言われてしまったらロジィの負けだ。

 国王寵姫とは、王の寝台で休む権利を持っている人、と言い換えることもできるのだから。

 言い返す手札がなくなったロジィは、潔く敗北を認めた。


「……では、恐れ多いですがお借りいたします」


 勧められるままに靴を脱ぎ、スツールに足を乗せてこわごわ寝台に腰を下ろすと、すぐ隣にベルローズが座った。

 とたんに濃くなる薔薇の薫り。濃密で華やかな薫りはベルローズそのものだ。


 心配そうにこちらを覗き込んでくる瞳は、どこまでも深い海の蒼。白粉の量は控えめで、代わりに唇を彩るルージュが、どきりとする深紅だった。左の眦にはトレードマークの薔薇のムーシュ。


(なんて、綺麗な方)

 国王フィリップが他の貴婦人に見向きもしないというのも頷ける。


「お可哀想に」


 彼女の白手袋をはめたままの手が、いたわるようにロジィの頬を撫でていく。


 小鳥のふわふわしたお腹に頬を押しつけているような、優しい手つきが心地よくて、されるがままになってしまった。

 ロジィの頬を幾度か往復したベルローズの手が、ふと止まる。


「明日は、もっと腫れますわ。氷嚢を用意させます」


 ベルローズはそう言うと、足早に閨房を出た。止める間もない早業だった。

 パタンと、無機質に扉が閉まる音が響いて、遠慮して引き留めようとしたロジィの手が虚しく寝台の上に落ちる。


 急に、真夜中の静寂が自分を包み込もうとしている気がした。


 燭台や暖炉に火は点っているから、それなりに明るさは保たれているのだが、なぜだろう。


 それほど広くない部屋でも、たったひとりで残されると心細くなってくる。寂しさを紛らわせるため、ロジィはきょろきょろと意味もなく周囲を見回してしまった。


 薄青のベッドカバーやピローケースなどで色彩を統一されている寝台は、なんの彫刻もされていない木製の柱で天蓋が支えられている。天蓋から垂れる仕切りのカーテンは、ごく薄い生地で純白。


 彼女の趣味だろうか。レティの寝室のような甘さはない色調だったが、ベルローズらしい爽やかな落ち着きを感じられるコーディネートだった。


 化粧台や衣装棚の造りも質素で、レティの調度品を見慣れてしまうと、味気ない印象を受ける。

 ルガール国王が寵愛する貴婦人の部屋にしては、あまりに地味だ。


 けれど、ラルデニアの城館でロジィが使っていた調度品と、どことなく似ていて、ふと懐かしさを感じた。

 室内に漂うのは、彼女が愛用している香水の薫りだろう。

 その薫りに包まれていると、だんだんと、心がほどけてくるのを感じた。


 ベッドカバーの手触りも心地よくて、何度も撫でているうちに、ついつい頬をすり寄せたくなってしまう。


(少しだけなら、いいかしら)


 そっと身を横たえると、もう駄目だった。

 ロジィは、あっという間に、眠りの女神に連れ去られていた。


        ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


「口裏を合わせてくださってありがとうございました、カトリーヌ姉上」


 ローゼリア姫とベルローズが隣室へ移るのを見届けて、フィリップはフロランタン侯爵夫人に礼を述べた。


 ジュストがベルローズとして〈偽物王弟妃〉に探りを入れたあと、彼女の正体が、王弟妃の双子の姉であるという報告だけは、ピエールに指示してフロランタン侯爵夫人に伝えていた。


 けれど、「なぜローゼリア姫がメルヴェイユ宮殿に滞在しているのか」という根源的な理由については語っていない。ベルローズも確実な答えを聞き出せなかったからだ。


 それなのに、フロランタン侯爵夫人はフィリップがとっさに言った「侯爵夫人の進言」というでまかせを否定せず、何もわからないのに話を合わせてくれたのだった。


「陛下のお言葉ですもの。間違いなどありませんわ」


 フロランタン侯爵夫人が笑う。王の言葉であれば嘘も真実になる、というささやかな皮肉だ。

 その言葉の真意を正しく理解したフィリップは、苦笑を浮かべるよりない。


「本当に申し訳ない。困ったときばかりカトリーヌ姉上に頼ってしまって」

「わたくしも陛下に頼っておりますもの。おあいこですわよ」


 悪戯っぽく笑ったフロランタン侯爵夫人が辞去の挨拶をして部屋を出て行く。

 入れ替わるようにピエールが戻ってくると、ようやく、一日が終わるのだと実感した。


 ピエールも同じことを思ったのだろう。互いに声を出さずに笑い合い、視線は示し合わせたように、ベルローズの部屋に通じる隠し扉に向かった。


「どう思う」

「拝見する限り、ベリエ公が仰るようなご性格の姫君とは思えません。ベリエ公はなぜ、あのような」

「元来、思い込みの激しい子供だったが、年を取って顕著になったな」


「……ベリエ公はまだ二一歳のお若さです。年を取ったというお言葉は……」

「ジュストはルイより年下だが、物わかりがいいぞ?」

「…………。あの方とお比べになってはお可哀想ですよ」


 染み入るようなピエールの声。フィリップは吐息だけで笑った。


 物わかりがいいのではなく、物わかりがいいふりをしている、アルティノワ公ジュスト・ユジェーヌ。


 亡父クロヴィス二世が、最期まで気にかけていたのは息子であるフィリップのことではなく、ジュストの行く末だった。


 父が崩御した十年前のあの日。ジュストはまだ八歳で、フィリップは一八歳だった。


 フィリップは、ときどき思うのだ。もし、あの段階でジュストが〈アルティノワ公〉の称号を有していなかったら。

 なんの権力も持たずに即位した「若き王フィリップ」が、ジュストを守り切ることはとうてい、不可能だっただろうと。


 ジュストが生まれてすぐ、父クロヴィス二世が聖王庁と掛け合って、アルティノワ公の爵位と領地をジュストに与えたこと、あれは英断だったと心から思う。


 おかげで、フィリップは宮廷に味方をひとり、得ることができたのだから。


「しかし、陛下もお人が悪くていらっしゃいますね」

「なんのことだ?」


「ローゼリア姫を〈ベルローズ公爵夫人〉の部屋に、と。あれほど動揺なさった閣下を拝見するのは初めてでした。……よろしいのですか、陛下」


 ピエールの言いたいことはわかる。

 ローゼリア姫は嫁入り前の娘で、ベルローズは正真正銘の〈男〉だ。


 その正体を知っているフィリップが、ベルローズとローゼリア姫を同室に「してしまった」ら、対外的に「何かがあった」と言いふらしているに等しい状況となる。


 うまく利用できれば得をするが、情勢によってはラルデニア伯家や、王太后、ひいては聖王庁と対立する火種になりかねない。危うい橋なのだ。


「だが、ベルローズが姫の引き留め工作をしたからな」


 ラルデニア領の相続権を有したままのローゼリア姫を、無防備な修道院に野放しにすることは、フィリップも内心では反対だった。姫が自身を暗殺してくれと喧伝しているに等しい行為だからだ。


 ルガールにとってラルデニア領は王室直轄領に匹敵する重要な領地。その相続人は絶対に失えない貴重な手札だ。


 フィリップの目の届くところ、つまりはメルヴェイユ宮殿で、保護という名目の監視を続けるのが最善だった。


 その口実を見つけようとした矢先、ベルローズが「お友達だ」と言い出したのだ。


「薔薇の君は……よほど、ローゼリア姫に肩入れなさっているご様子ですね」

 ピエールの声音に不穏な響きを感じ取ったフィリップは、小さく首をかしげた。


「不満か?」

「薔薇の君は陛下の密偵です。あまり他の方に肩入れなさるのは」

「友人のひとりやふたり構わないだろう」


「秘密が知られる危険性が高まります」


 フィリップは、黙って隠し扉を見つめた。

 そうだった。


 ジュストが、あまりにも〈上手に〉ベルローズ公爵夫人の変装をしてしまうから、秘密を抱えているという事実を失念してしまうのだ。


 自分たちは知っているが周囲に見破られることはない、という油断に近いかもしれない。


「ルガール国王の寵姫が男性だったと知られることだけは避けねばなりません」


 ジュストが宮廷舞踏会でフィリップ以外の男とは絶対に踊らないのも、間近で身体を見られる危険性を回避するためだった。

 それなのに、と、ピエールは言葉を重ねた。


「あろうことか、先ほど閣下は薔薇のお姿でいらっしゃるにもかかわらず、ローゼリア姫を抱き上げようとなさいました。……わたくしは卒倒しそうでした」

「……ああ、そうだったな」


 その様子にはフィリップも少しばかり面食らったのだ。

 麗しいローブ姿の貴婦人が、少女を逞しく抱え上げようとするのはどうなのだろう……と。


「そもそも、陛下が焚きつけるようなことを仰ったのが原因です」

「……なんだ、言いたかったのは私への文句か」


 不用意な行動をしているジュストを非難しているのかと思いきや、ピエールの本音はフィリップを責めるところにあったらしい。


「ローゼリア姫のお部屋を、一時的にベルローズ公爵夫人の居室になさるのは妥当でしょう。その際、薔薇の君を陛下の寝室に移動させるなり、何かしらの手を打つべきでした。おふたりを同じ部屋に押し込めるなど危険極まりないことを……」


「わかった、わかったよ、ピエール」

 幼馴染みの言葉が、どんどん説教じみてきたのを察して、フィリップは片手をあげて彼を制した。


「ローゼリア姫の部屋を早急に定めるよう、典礼大臣に申し付けよう」


「それがよろしいでしょう。ベルローズ公爵夫人の居室にローゼリア姫がいらしては、次のご寵姫か、というあらぬ噂が出かねません」

「ああ、そちらの心配もあったか」


 がっくりとフィリップは項垂れた。

 ラルデニア伯家はルガールに従属しているが、半独立諸侯でもある。ルガール王の完全な臣下ではないため、伯家の姫は王妃に立つ資格があった。


 非常に複雑で微妙な立場にいるローゼリア姫に、ルガール王であるフィリップが近づくことは、あらゆる方面に様々な憶測を生じさせ、結果として余計な陰謀を引き寄せてしまう。


 君子危うきに近寄らず、だ。

 ローゼリア姫と距離を取っておいたほうがいい――そう考える一方で、まったく別の考えが脳裏に浮かんだ。


「……私は、私の妃選びを、もっと真剣にするべきだっただろうか」


 隠し扉に視線を固定したまま、フィリップはどこまでも静かな声で呟いた。


「ラルデニア伯領は重要拠点だ。ルガールの国益を最優先に考えるのであれば、王太后が目をつけるより早くラルデニアを押さえておくべきだった」


 フィリップとしては精一杯の反省を込めた言葉だったのだが。

 何を今更と、ピエールは涼しい顔で言った。


「一刻も早くご結婚をという、わたくしども臣下の忠言をお聞き流しになっていたのは陛下ご自身です。執念深く初恋の姫を追い求められて」


 幼馴染みの気安さで、ばっさりと切り捨ててくる。

 言葉ほどは呆れていないピエールの表情を見やって、フィリップは苦笑を浮かべた。


「ルガールのためにローゼリア姫の身柄を留めておくことは必要な措置だ。力を貸し――……」


 言い終えることはできなかった。けたたましい音を立てて隠し扉が開け放たれたからだ。


 そんな乱暴に扉を開けては蝶番が壊れてしまうのではなかろうか。

 心配しながら視線を向けると、血相を変えて飛び込んでくるベルローズ姿のジュストがいた。


「トルヴァン先生を呼んで! 早く!!」


 ――――姫が倒れている、と。

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