【 第二章  ⑦ 】

 主席宮廷医師ジャン・トルヴァンは、孫娘のエンマを助手としてやって来た。

 いつもの助手でないのは、呼びに行ったピエールが、患者は女性だときちんと伝えてくれたからだろう。


 天蓋のカーテンをめくって中に入ったトルヴァンは、腹部を除き、ほぼ全身に傷があると診断した。皮膚が裂けて血が滲んでいる傷もあるという。


(どんだけ殴ったんだよ、あの野郎)


 ベルローズに扮したままのジュストは、見えないところで拳をぎゅっと握りしめた。


 王弟ベリエ公が、側近にたやすく手を上げる人物だということは、ルガール宮廷では昔から知られていた。


 王太后が息子の妃選びに早い段階から奔走していながら、二十歳近くになるまで話がまとまらなかったのは、それが大きな要因だった。


 気性が激しいベリエ公が妃に暴力を振るわないという保証はない。王族の妃は他国から迎え入れるのが常なので、夫婦間の揉め事は外交問題に発展する。大きく転がれば戦争だ。


 ベリエ公の性格を危惧し、なかなか候補者を絞り込めないでいる中、王太后はラルデニアの姫に目をつけた。


 ルガールの重要拠点でありながら一国の規模を持たないラルデニア伯領の姫は、ベリエ公にとって誂えたかのように、うってつけの結婚相手だったのだ。


 ――――まさか、妹姫を娶るとは思わなかったけどな。


 そして、その娶った妹姫に一切手を上げていないという事実は、ルガール宮廷で驚愕とともに受け止められた。


 あの、ベリエ公が。母親以外の人間を大切に扱うことができたのか、と。


「とりあえずはこれで様子を見るよりないでしょう」


 怪我はそれほど深刻なものではなく、きちんと薬を塗れば痕も残らず完治するとトルヴァンは言った。


「大丈夫ですよ、ベルローズ夫人、そのような顔をなさらなくても。数日後には起き上がれるでしょう。それまで丁寧にお世話をすることです」


 そう言い残し、トルヴァンは天蓋のカーテンを垂らすと、エンマを伴って部屋を出て行ってしまった。


 広くない閨房に、熱を出して横たわるローゼリア姫とふたりきり。

 姫の寝姿は薄布で遮られているが、このまま同じ部屋で一夜を明かすのは問題がある気がする。


 フィリップの寝室に転がり込もうか。

 寝ているフィリップを蹴り落として寝台を横取りする……のは、さすがに悪いから、寝椅子を拝借するにとどめておこう。

 胸中で勝手に算段をつけて、隠し扉に手を掛けたとき。


「……ん……」


 天蓋から垂らしたカーテン越しに、姫の声が漏れ聞こえてきた。

 熱が、上がったのだろうか。


「……レ、ティ、……か…ぁ…」


 途切れることなく、か細い譫言が響いてくる。苦しそうな、辛そうな……淋しそうな、声。

 ジュストは様子を見ようと踵を返してカーテンに手を伸ばし、そこで動きが止まる。


 この中にいるのはラルデニア伯の姫だ。

 高貴な姫が休んでいる寝台のカーテンを、男性が許可もなく勝手にめくることはできない。例外は医者だけだ。


 ジュストはカーテンを握りしめた。強く掴みすぎて、カーテンに皺が寄る。


(――――〈ベルローズ〉なら)


 真実、国王から寵愛を受けている愛妾であるなら……。同じ女性のよしみでこのカーテンをめくることができる。


 だが、ベルローズはジュストだ。得ているのは偽りの寵愛。


 男のジュストが姫の寝姿を見ることは、この宮廷において、姫を辱めることと同じだった。

 万に一つ、ベルローズが男だと知られてしまったとき、言い逃れができなくなる。


 だから、これをめくってはいけない。ここから先に入ってはいけない。

 姫が、どれほど苦しんでいても――――


「……、――、ぁさ……」


 故郷から遠く離れた宮殿で、高熱に浮かされながら、たったひとりで眠っている姫の姿が胸に迫った。


(宮殿は、いつもそうだ)


 苦しんでいても、孤独でも、誰も手を差し伸べてくれない場所。


 建物も、調度品も、そこに存在する人間でさえ、雪でできているのかと錯覚するくらいに冷たい空間。

 うなされる姫が、幼い頃の自分に思えた……。


「――――ッ」

 ジュストはきつく目をつぶり、そして開けた。


(ここにいるのはベルローズだ)


 邪魔になる手袋を脱ぎ捨て、思い切ってカーテンをめくる。姫は、額に玉のような汗を浮かべて眠っていた。


 氷嚢を交換したほうがいい。ジュストは洗面台に走った。陶器の桶を抱えて窓辺に駆け寄る。


 ルガールでは、冬に熱を出すと氷嚢に雪を詰め込んで介抱するのが一般的だ。桶に雪を山盛り積み、乾いた布もいくつか抱えて、ジュストは寝台に戻る。


「失礼します……」


 横たわる姫の姿をぶしつけに凝視しないよう、ジュストは手に持つ布にだけ視線を集中させた。


 額、首筋、鎖骨のあたり。

 栗色の柔らかな髪をどかしながら、寝間着を脱がさなくても拭くことができる範囲だけ汗を拭き取る。


 冷たい雪を詰め込んだ氷嚢を額に置き、頬と肩口の傷にはトルヴァンが置いていった薬を塗った。


「こんなものかな」

 ふぅっと深く息を吐いて心を落ち着かせたところで、姫の苦しそうな声がした。


 発熱のためか、姫の顔がいつもより赤い。寝間着は汗で姫の肢体にぴったりと張り付いていた。

 きちんと介抱するならば、寝間着の中も汗を拭くべきだし、見えないところにある傷にも薬を塗るべきだ。


「――――」


 ジュストは口を真一文字に結んで、じっと姫の寝顔を見つめる。


 トルヴァンは主席宮廷医師だ。国王が危篤という状況でない限り、寝ずの看病はしてくれない。彼が来ないなら、孫娘のエンマに頼むことも無理。頼れる人材がいない。


 宮廷医師はトルヴァンだけではないが、他の面々を呼びつけるのは気が進まなかった。


 国王寵姫の閨房に王弟妃そっくりの姫が眠っているなどと知られたら、宮廷雀たちに格好の餌を与えることになってしまう。トルヴァン以外の宮廷医師たちの口は羽毛のように軽いのだ。


 こういうときにいつも頼るのはフロランタン侯爵夫人なのだが、彼女はベルローズを正真正銘の貴婦人だと信じている。なぜベルローズが姫の世話をしないのかと問い質されるだろう。


 彼女と相対したとき、うまく取り繕って言い逃れをする自信が、ジュストにはなかった。

 フロランタン侯爵夫人が秘密を吹聴する人物でないことはわかっているが、ベルローズはあくまでも国王の間諜。


 今後、侯爵夫人に近しい「誰か」に探りを入れる事態が生じたとき、ベルローズがジュストだとフロランタン侯爵夫人に知られているのは問題がある。


(誰も呼べない……)


 ローゼリア姫を預けるに足る、ジュストが信頼できる女性は、この宮廷に残っていなかった。

 かといって、高熱の姫をこのまま放っておいたら悪化するのは目に見えている。


 ――――俺が、やるしか。


 アルティノワ公がラルデニア伯の姫と同じ寝所で朝を迎えた、という事実が、後々になってどのような影響をもたらすのか考えるのは、もう辞めた。


 ジュストは暑苦しい鬘を脱ぎ捨てる。今日は男物の服を着込んでいないので、ローブまでは脱げない。動きづらいが仕方なかった。代わりに袖口のレースを引きちぎり、長い金髪を手早く結ぶ。


 自分が治療をすると決めたものの、どうしたものかとしばし迷った。

 姫の姿を眺め、ふと閃く。


「脱がさなければ大丈夫か」


 ジュストは寝間着の裾をめくりあげた。太股が見えるところで手を止め、今度は袖を大きくまくり上げる。腹に傷はないとトルヴァンが診断しているから、これだけで充分だ。


 時間が経ったせいだろう、赤かった痣は赤紫色に変色していた。軟膏入れの蓋を開け、指先でたっぷりと薬をすくい、傷に塗りつけていく。


 眠って意識がないはずなのに、ジュストが傷に触れると、姫は眉根を寄せた。とても痛そうに。


(あのバカ王弟、なんでこんなに)


 以前から、ベリエ公が小姓や侍従に手を上げるのはどうかと思っていたが、か弱い姫君までこれほど殴打するとは。


 触れる膚の熱さに、ジュストは唇を噛む。


 トルヴァンは怪我による発熱ではないと言っていたが、これだけの裂傷だ。患部が熱を持つのは当然だった。


 姫の膚は汗でしっとりとしているが、ジュストのほうもすっかり汗だくだ。おもに緊張で。

 乾いた布で姫の汗をくまなく拭き、安堵の息を吐いたところで、はたと気づいた。


「水」


 これだけの熱だ。飲ませたほうがいいのではないか?

 水差しからグラスに移し替え、ジュストは寝台の傍らに立った。


(……このあと、どうすれば?)


 意識がある状態なら、介助しながら起こして飲ませることができただろう。


 姫の頬を撫でても、額に触れても、目覚める気配はどこにもない。無理に起こすというのも気が引けて、立ち尽くすしかなかった。


 スプーンで水をすくって少しずつ飲ませるというのもひとつの手だが、あいにく、ここにスプーンはない。


「………………」


 ジュストは、姫と、グラスの水を、交互に見比べた。

 見つめているだけでは、姫に水を飲ませることはできない。――――と、なれば。


(これは治療。治療。治療)


 ジュストはグラスを自分の口に運んだ。そのまま、眠る姫の唇に、そっと、自分の唇を重ねる。


 高熱で、姫の唇はかさついていた。


 自分の口に含んだ水を、零さないように、姫が咽せないように、ゆっくりゆっくり流し込んでいく。


 コクリ、と。

 姫の喉が動いたのがわかった。


(飲んだ!)


 ジュストは急いでもう一口、水を口に含む。

 親鳥が雛に餌付けするように、ジュストはグラスの水が空になるまで繰り返した。


 グラス一杯の水を与え終わる頃、姫の呼吸が落ち着いてくるのがわかった。

 窓を見ると、もう日が高く昇っている。大きく嘆息したジュストはグラスを置き、髪をまとめて黒髪の鬘をかぶった。


 トルヴァンは昼頃に来ると言っていた。言葉は厳しいがトルヴァンは心配性だ。昼を待たずに様子を見に来る可能性が高い。ベルローズの姿に戻っていないと危険だった。


 看病している間、一度も目を覚まさなかった姫の髪を一房すくって、唇を寄せる。


「早く良くなるように、おまじない」


 ――――本当は。

 早く目覚めて、その瞳に自分を映して欲しいだけかもしれないけれど。


        ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


 薪が爆ぜる音で目が覚めた。


 天井が、見事なブロルナ織りの生地で覆い尽くされ、そこから薄布が垂れている。


 まだ薄暗いので夜明け前だとわかった。それでもブロルナ織りだと判別ができたのは、室内の要所に置かれている燭台のおかげだろう。


 ロジィは内心で首をかしげた。

 いつも、目が覚めて真っ先に飛び込んでくる光景は漆喰の天井なのに。


(……どこ? ここ)


 びっくりして起き上がろうと手をつき、身体が沈み込んでしまうほどの柔らかな感触に、また驚いた。


 天蓋付きの豪勢な寝台に、ロジィは寝ていた。天井だと思ったのは天蓋の裏地だった。


 一度、二度。ロジィは瞬く。

 住み慣れたラルデニアの城館ではない。尼僧院ではないし、宝飾品管理庫でも、ない。


 ざわっと恐怖に襲われた。身体の節々が痛んだが、無理をして起き上がる。


 手元で、ちゃぷん、と音がした。


 はっとして視線を落とすと、すっかり溶けて温んだ氷嚢が寝台に転がっていた。


 寝台を覆っているのは薄青のベッドカバー。共布のピローケースと、天蓋から垂れる薄いカーテン。どこか落ち着く甘い薫り……。


 ――――ベルローズ公爵夫人の。


 ほっとすると、一気に記憶が蘇ってくる。

 昨夜、氷嚢を取ってくると部屋を出たベルローズを待っている間に眠ってしまったのだろう。


 なんと図々しい態度を取ってしまったのか。寝台を借りたあげく、さっさと熟睡してしまうなんて。

 恥ずかしくて頬が火照る。冷やしたくて手で触れると、痛くなかった。ベリエ公に殴られた腫れが引いている。


 氷嚢がここに落ちていることから想像するに、ベルローズが、眠ったロジィの傍らで傷を冷やし続けてくれたのだ。本当に優しい人。


 起き出そうと周囲を見回すと、ガウンは寝台の足下に置いてあった。意識のない間に脱がせてくれたらしい。


 引き寄せて羽織ってからスツールに足を乗せる。脱ぎ捨てた靴が見当たらなかったので、裸足で床に足をつけた。一晩中、暖炉の火が燃えていたせいか室内は暖かく、素足でも充分だった。


 ただの水袋と化してしまった氷嚢を手に、ロジィは天蓋から垂れるカーテンをめくる。寝間着にガウンという砕けた格好だが大丈夫だろう。


 ベルローズは国王寝室に移ると言っていたし、今はこの部屋に誰もいないはず。


 ――――そう、思ったのに。


 人影があった。

 暖炉の近くに置かれている寝椅子の上。


 シルエットから察するに、ローブを着たままの窮屈な格好で、ベルローズが横になっていた。


(……だから、言ったのに)


 自分は寝椅子でいいと。

 ベルローズよりロジィのほうが小柄だ。同じ寝椅子で眠るにしても、ロジィのほうが窮屈には感じないから。


 ロジィは困り切った息を吐いた。そんなところで眠っては身体を痛めてしまう。

 ベルローズを起こそうと、手が届く距離まで寝椅子に近づいて。


(――――――――え)


 ぴたっと、足が止まった。

 ルガール式のローブは、前開きか後ろ開きか、着る人の好みによって異なっている。


 ベルローズは前開きのローブを好んでいるようで、これまでに着用しているローブがすべて、前身頃のボタンで留められているのは知っていた。


 いつも華やかな印象を与えている襟元のフリルは後付けだったらしく、今は外されてデコルテが丸見えだ。眠るのに苦しかったのだろう、前身頃のボタンも外されている。


 すべて。


 だから、彼女の素肌が、よく見えた。――――〈彼女〉の胸元が。

 ロジィの鼓動が加速していく。


(……どう、いう、ことなの……?)


 ベルローズは貴婦人だ。

 宮廷で一番の。


 彼女が細身の体型なのはわかっていた。大樹というよりは若木の体つき。


 フロランタン侯爵夫人のように豊満ではなく、慎ましい胸元であろうことも予想していたが、けれど、あれは。



(どう考えても〈殿方〉よね!?)



 混乱も極限にまで達すると、悲鳴を上げる余裕をなくす。

 ロジィは、こぼれ落ちそうなほどに両目を見開いたまま、ただただ呆然とベルローズの姿を見つめ続けた。


(なんで? どうして? どうなってるの!?)


 足が震えて、ロジィは、へなへなとその場にへたり込んだ。

 揺らめく暖炉の火が、眠るベルローズの顔を、不規則に明るく照らし出している。


 すっきりした顎のラインは、改めて観察してみれば男性的だった。だらりと、力なく床に向かって垂れている腕にいつもの手袋はなく、骨張った指が剥き出しになっている。


 伸ばされた指の先では、真珠のイヤリングが床に落ちていた。ベルローズが好んで使っているイヤリング。


 もう一度、視線をベルローズの胸元に向けて、さっと戻した。

 やっぱり男性だった。


 ……本当に、わたしは目覚めているのかしら。まさかまだ眠っていて、これが夢の中なのでは。


 ロジィは、思い切り頬をつねった。とんでもなく痛かった。

 現実だった。


(待って、じゃあ、わたし……!)


 殿方と同じ部屋で一晩を明かしてしまったのだ。

 知らなかったとはいえ、未婚の娘が殿方とふたりきり。ロジィは青ざめた。


 寝間着の裾をたくし上げると、傷が快方に向かっているのがわかる。薬を塗り、冷やしてくれたのだ。ベルローズが。

 それはつまり、殿方に素肌を見られてしまった、ということで。


(!!)


 なんと不名誉な行為をしてしまったのだろう。両親に顔向けできない。王弟妃であるセレスティーヌにもどれだけ迷惑を掛けることになるか。


 ああ、それとも。

 それだけ不名誉な行為をする娘だから相続権を剥奪しろと、そういう話に持って行くだろうか。


(ラルデニアの相続権なんていらないから、この過ちをなかったことにできないの!?)


 泣きたい気持ちで頭を抱えたら、膝の上に氷嚢が落ちた。

 優しく頬を撫でてくれたベルローズ。まるで自分のことのように心配して、頬の傷を冷やしてくれた。


 優しい貴婦人なのに。憧れていたのに。――――殿方だったなんて。


(……殿方。……そう、殿方。……え?)


 何かがおかしい気が、した。

 はしたないと思いつつ、ついつい視線がベルローズの胸元に吸い寄せられてしまう。


 あの人は殿方だけれども、ベルローズのローブを着ている。だから間違いなく〈ベルローズ〉だ。

 そのベルローズはルガール国王のご寵姫様で――――。


(え。嘘、でしょう?)


 大陸全土が信奉するリジオン教は原則として、異なる性による恋愛を推奨している。


 一方で「神と、愛の前では、すべてが平等である」という文言も教典には含まれており、庶民に関しては聖王庁も水面下で黙認しているが、国土を統治する王族に対しては厳しい。


 国王は、聖別を受けることで〈王〉として承認されるからだ。

 聖別とは聖王庁が施す儀式のひとつ。王冠は神から与えられるという観念に基づき、王を他者とは異なる聖なる存在であると認めて統治権を保証する。


 だからこそ、聖王庁の権威に守られて統治する国王は、聖王庁が掲げるリジオン教の教義に忠実でなければならない。……それなのに。



 ルガール王が寵愛する相手が〈男性〉だったなんて――。



 身体がひとりでに震える。恐ろしい秘密を知ってしまった。

 リジオン教の教義に反し、男性のベルローズを寵姫にしているフィリップは破門の対象になる。


 国王が破門された国は、周辺国にとって格好の餌食だ。リジオン教を守るという大義名分を隠れ蓑に侵略を仕掛けることができるから。


「……んー……」


 ベルローズが小さく唸る。

 ロジィは飛び上がった。彼女――いや、彼が目覚めてしまう。


 慌てて寝台に駆け戻り、カーテンを跳ね上げて飛び込んだ。どさりと大きな音が響いてしまったが、それよりも心臓の音のほうが大きく感じて、ベルローズに聞かれてしまわないか不安になった。


「あー……、寝てたのか、俺」


 ベルローズらしくない口調。寝起きで気が緩んでいるのだろう。

 少し低めの声と、貴婦人とは思えない粗野な物言いは、ベルローズが男性だという証拠をまざまざとロジィに突きつけてくる。


「! そうだ、姫は」


 近づいてくる気配。ロジィは、横向きになって寝たふりをしたまま、ぎゅっと目をつぶった。

 緊張と、恐怖とで、全身が心臓になったみたいだ。


 カーテンがめくられる気配と、ふわりと濃くなる薔薇の薫り。

 手袋をしていないベルローズの手が、なんの躊躇いもなくロジィの頬を撫で、額に触れた。


「!!」


 びくっと。

 身体が震えてしまった。


 どうしよう。秘密を知ったと、知られてしまう!


 身を縮めるロジィに掛けられたのは、のんびりとした〈ベルローズ〉の声だった。


「あら、お目覚めになりましたのね、ローゼリア姫」


 今までと変わらない〈彼女〉の声音。以前と同じ優しい響きなのが、ロジィにはつらかった。

 殿方だと知ってしまったベルローズに、これまでと同じ態度で接することはできそうになかったから。


「ご気分はいかが?」


 どこまでも優しく問いかけられて、だんまりを続けることもできない。ロジィは、そっと寝返りを打った。


 寝台の傍らでこちらを覗き込むベルローズは、ローブのボタンを綺麗に留めていた。フリルも襟元に着けてある。いつもと変わらない、隙のない着こなしと上品な姿。


 宮廷の流行に迎合せず、清楚で慎ましいローブを着る人だと思っていたけれど。上手に体型を隠していたのだと、秘密を知った今ならわかった。


「熱が下がったようで、ようございましたわ。お腹はすいていらっしゃいません? 三日も眠ったままでしたもの。ホットミルクなどいかがです?」


「……三日?」

 ロジィは驚いた。一晩眠っていただけではなかったの?

 ここで、三日も眠りこけていたと!?


 目を丸くするロジィを見て、ベルローズは困ったように微笑んだ。

「お怪我が酷かったのです。お目覚めにならないので心配いたしました」


 応接室側の扉が開き、老齢の男性と、若い女性が入ってきたのが見える。視線を向けたベルローズは、ほっとしたように声を上げた。


「ああ、トルヴァン先生」

 呼ばれた男性がカーテンをめくり、起きているロジィを見て、皺だらけの相好を崩した。


「お目覚めになりましたか。ようございました。気分は?」

「……悪く、ないです」

「結構。傷を診ますぞ。……エンマ」


 エンマと呼ばれた若い女性がロジィの近くに来て、寝間着をそっと脱がせていく。


「あの……」

 ベルローズがまだそこにいるのに寝間着を脱がせるつもり!?


 恥ずかしくて、困って、女性の手を押しとどめようとしたら、トルヴァンに怒られた。


「我らは医者ですぞ。何を抵抗なさるか。ほれ、さっさと脱ぐ」

 言いながら、トルヴァンはベルローズにてきぱきと指示を飛ばす。


「身体を拭かねばなりませんな。ああ、夫人。お手伝いを」

「え」


 ベルローズが引きつった声を上げたが、ロジィも内心で悲鳴を上げていた。


 殿方のベルローズに身体を拭かれる!?


 唖然とするロジィの表情に気づくことなく、トルヴァンはさらなる爆弾を落とした。


「三日三晩、ずっと介抱なさったのはベルローズ公爵夫人でしょうに。今になって何を躊躇っておられるのやら」


 ――――三日三晩、ですって?


 ロジィは気絶しそうだった。意識のない間、見知らぬ殿方に身体を見られていたなんて。

 このまま、消え失せてしまいたい。


 都合よく身体が透明になってくれるはずはなく、ロジィの寝間着はあらかためくられてしまった。それでも、すべてを脱がさずにいてくれたのはエンマの優しさだろう。


「ありがとうございます」


 小さく礼を言うと、エンマはにこっと笑った。愛らしい笑顔だった。

 濡らした布を手にしたベルローズが寝台に腰を下ろす。……本当に、拭くつもりだ!


「いえ、あの、ベルローズ公爵夫人、もう自分で……」


 布を受け取ろうと手を出したら、ベルローズが安堵の息を吐いた。

 驚いてベルローズの顔を見上げると、表情もどことなく穏やかになっている。安心したようにほころぶ口元を見て、ロジィは、はっとした。


 ――――気に、してくれていたのだろうか。男性の彼が、ロジィの世話をすることを。


(そういえば、そういう人だった)


 思い出した。レティに成り代わって初めて宮廷舞踏会に参加したときのことだ。

 ベルローズ公爵夫人は、教育係のフロランタン侯爵夫人が近くにいないことを心配して、怒っていた。


 そんな良識ある人物が、ロジィの世話をする事態に直面して、何も感じなかったはずはない。


 殿方であるベルローズが、なぜ、国王寵姫を務めているのか。

 リジオン教の教義に反してまで、どうして……。


 疑問が次から次へと脳裏に浮かんでくる。ロジィは、ベルローズから布を受け取ることで思考を切り替えた。


 ……それはきっと、ロジィが知る必要のない事情だ。


 今、こうして、細やかに気遣ってくれる〈ベルローズ〉がロジィにとってはすべてで、それだけでいいと思った。それだけにすべきなのだ。


 この秘密がどこかに漏れ出したら、ルガールに従属しているラルデニアをも巻き込む事態になる。


 父と母が、ロジィにとってはやはり一番だ。

 ルガールが揺るぎない大国であること。それがラルデニアの平穏に繋がるのであれば、今までと同じように振る舞っていればいい。


 そのためには、何も知らないでいることが一番なのだから――――。


「何か、召し上がれるものを運ばせますわね」


 上手に口実を見つけて、ベルローズは部屋を出てくれた。

 その背中を呼び止めたい衝動に駆られて、言葉が見つけられないまま彼を見送る。


 どうして、思ったのだろう。




 ――――彼の秘密を、知りたいと。

 

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