第三章 【 婚約 】
【 第三章 ① 】
ロジィは正式に、ベルローズ公爵夫人の客人としてメルヴェイユ宮殿での滞在を許可された。
体調が戻り、ベルローズの居室から移動できるようになるまで二週間を要したが、与えられた
ラルデニア伯の娘として考えれば東翼棟に居室を賜るべきところ、王弟妃の双子の姉ということで王族待遇を許されたのだという。
ラルデニア伯家の姫ともなれば仰々しい入場儀礼を執り行うのが慣例だが、ロジィは「いつの間にか」メルヴェイユ宮殿にいた。そのことを疑問視する向きもあるにはあったが、フィリップが「秘密裏に招待した」という切り札を用いて黙らせたのだ。
ラルデニア伯家と王家との、婚姻を巡るいざこざは有名な話。筆頭女子相続人であるローゼリアを宮殿へ招き、高度な政治的解決を図るつもりなのだろうと、宮廷雀たちは納得したという。
実際はすべてが後付けの理由なので、実家の両親がどのように動くか予測がつかず、ロジィは内心で不安を抱えていた。
「ショコラは足りていらっしゃる? スミレのコンポートもありますわ」
二日に一度、ロジィはベルローズの部屋に招かれる。
場所はベルローズのこぢんまりとした応接間だが、同じ部屋で毎週木曜日に開催される「ベルローズのサロン」ではなく、ごくごく私的な茶会だ。
私的な茶会なので招待客は少ない。いや、ロジィしか、いない。
それなのに毎回、ベルローズはテーブルに載りきらないほど豪勢な菓子を用意させていた。
焼き菓子に生のフルーツ、数種類のコンフィチュール、口直しのサンドウィッチまで。
どちらかといえば小食のロジィにとっては正直、見るだけで満腹になってしまう量だが、それには理由があった。
高貴な人の食卓に上った「食べ残し」は、宮廷で働く人々に下げ渡されるのが宮廷の通例なのだ。
身分が違う者が同じ食卓に着くことは宮廷規範によって許されないが、料理を下賜するという形式を取ることで側近たちは「お相伴に預かる」ことができる。大量の食材も無駄にならない画期的なシステムだ。
そのため、宮廷での食事や茶会では必ず、食べきれない量の料理が饗され、身分の上から下へ順に下げ渡されていく。
ラルデニアの城館でも同じようなことは行われていたし、宮殿だから異様に量が多いだけだとわかってはいるが。
(……こんなに、いらない)
ルガールでは昼の食事が〈正餐〉とされ、もっとも格式が高く正式なものとされている。
現在の時刻は午後。豪勢な正餐を食したあとの茶会だ。こってりと重そうな菓子類が胃袋に入っていくはずがない。
困ったロジィは銀皿に盛られているオレンジに目をつけた。酸味の利いたフルーツなら食べられるかもしれない。
すかさず、その視線を察したのがベルローズだ。
「こちらのオランジュは陛下の温室で作られたものですわ」
オランジュとはルガールでのオレンジの呼び名だ。ベルローズの腕が伸び、皿からもっとも色の濃いものを一個、持ち去っていく。手ずから皮を剥いてくれるらしい。
ベルローズはいつもそうだった。リンゴも、葡萄も。切り分けたり、房から取り分けたりと、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる。
そのくらいは自分でできると伝えるのだが、客人の世話をするのは主人の務めだといって聞かない。あまり遠慮するとベルローズが悲しむので任せることにしている。
いつものように手際よく皮を剥き、食べやすいようにと切り分けてくれるベルローズの手元から、ロジィは目が離せなかった。
(本当に、上手)
ベルローズはナイフ捌きが絶品なのだ。まるで、ひらひらと蝶が羽ばたいているかのようにナイフが動き、するすると皮が剥かれていく。
手の動かし方や指の使い方、それらがとても上品で、優雅なダンスを見ているかのよう。
その手つきに、いつもうっかり見惚れてしまうのだが……。
(…………。殿方、よね?)
古来より、戦闘力を暗喩する刃物は男性の象徴とされているが、卓上における果物ナイフだけは別だ。
扱うのは貴婦人に限定されていて、切り分けた果物を親密な男性に分け与えることで、愛情を示す時代もあったほど。
ルガール宮廷では、男性が果物ナイフを扱うのは「女々しい」と非難されると聞いていた。
彼が〈
寵姫として現れる前から、ベルローズは女性として生きていたのだろうか――――
「お待たせしました、どうぞ」
ことり、と、ガラスの器に盛られたオレンジが差し出される。
皮だけでなく、身を包んでいる薄皮も一房ずつ丁寧にナイフで剥いてくれているので、水分をぎゅっと蓄えて瑞々しい姿がよく見えた。窓から差し込む午後の日差しに照らされて、艶々と輝いている。
さあ、食べようと思った瞬間。
「――――え」
唇に、オレンジが触れた。
ロジィの唇に押し当てられているオレンジの一房をつまんでいるのは、ベルローズの優美な指先。
「どうぞ。……召し上がれ」
オレンジをつまむ指から手首、腕へと視線で辿り、やがてロジィはベルローズの眼差しと正面から見つめ合った。
この人、何がしたいの……?
口を真一文字に結んだまま、無言で見つめ続けるロジィに何を思ったのか、ベルローズは晴れやかに微笑みを浮かべた。
「オランジュの汁で姫のお手が汚れてしまいますから」
――――だから!?
あなたがわたしの口に入れなくていいのよ!?
テーブルにはフィンガーボールがきちんと用意されている。オレンジの果汁で指がべたべたになったなら、それで手を洗えばいいのだ。
「遠慮なさらないで。メルヴェイユでは、親しい貴婦人同士は恋人のように振る舞うのが約束事ですの」
にっこりと、今度は華やかな微笑みを向けられて、ロジィは内心で、ふらっと目眩を起こした。
あなたは〈貴婦人〉じゃないでしょう!!
どんなに、どんなにローブ姿が麗しくても、ベルローズの中身は殿方なのだから!
見た目に惑わされてしまうが、この構図は、ロジィが貴公子に手ずから果物を食べさせられている、という図に等しい。
男女のことについて古風なしきたりを守り続けているラルデニアだったら、それだけで「ふしだら娘」という烙印を押されてしまうだろう。ラルデニア伯爵家の名誉にも傷がつく事態だ。
「……姫?」
それなのに、ベルローズは不思議そうに首をかしげて、こちらの様子をうかがっている。
ベルローズは、ロジィが秘密を知っていると思っていない。だからロジィの戸惑いや困惑など知るよしもないのだ。
促されるままに口を開け、彼女――いや、彼から直にオレンジを食べさせてもらう、という行為に、ロジィがどれほど恥ずかしさを覚えているかなど。
ベルローズの秘密を知らないふりをしている以上、口を開けないわけにはいかない。
けれど、本当は男性であるベルローズが、どうしてここまで〈女友達〉としての距離感にこだわっているのかよくわからなくて、素直に応じられないのだ。
ロジィはベルローズの客人としてメルヴェイユ宮殿への滞在を許されているから、人目があるところでそれらしく振る舞う必要があるのは理解している。
でも、ここにはベルローズとロジィの、ふたりしかいない。
誰に見せつける必要もないのに、どうしてそこまで親密さを強調しようとするのだろう……。
(ベルローズは何を考えているの)
ロジィの口元に、ずっと添えられたままのオレンジが、爽やかな香気を立ち上らせる。
無言で見つめ合っていても埒が明かない。覚悟を決めたロジィが口を開けようとしたとき。
「おや、楽しそうなことをなさっていますね、ベルローズ、ローゼリア姫」
唐突に開く扉。国王寵姫が過ごす部屋の扉を先触れもなしに開けられる人物は、メルヴェイユ宮殿にひとりしかいない。
国王フィリップのお出ましだ。
ベルローズの私的な茶会に、フィリップは必ずと言っていいほど顔を出す。そのため、ロジィもすっかり国王と顔なじみになってしまっていた。
フィリップの登場を幸いとばかりに、宮廷作法に則ってロジィは席を立つ。
国王へ礼を執るというしおらしい態度を装いながら、ベルローズの「手ずから食べさせよう攻撃」から逃れた格好だ。
「ご尊顔を拝し光栄に存じます、国王陛下」
「ご機嫌よう。どうぞ、お掛けなさい」
立ち上がって宮廷人らしくお辞儀するロジィを、フィリップは優しく手で制する。楽にせよ、と合図されても、国王の前で気兼ねなく振る舞えるはずはない。
ぎこちない態度で椅子に座り直すロジィとは対照的に、座ったまま国王を迎えるのはサロンの女主人だ。
ロジィの口元に差し出していたオレンジを自分の口に放り込んで、指先をフィンガーボールに浸す。
「また、いらしたのですか、陛下」
「愛しい薔薇を見なければ、余は息をすることも忘れてしまうからな」
濡れた指先を絹ハンカチでゆったりと拭き取りながら、呆れたように肩をすくめてベルローズが返答した。
「まあ。生きるために必要不可欠な呼吸を忘れるとは大変ですわね。偉大なるルガールの王は、ずいぶんと物忘れが激しいお方でいらっしゃいますこと」
「昨日より今日、今日より明日。日一日と美しくなるそなたのせいだぞ、ベルローズ。余の記憶を追い抜く薔薇の美しさが悪いのだ」
大げさに溜め息を零しながら、フィリップは勝手知ったる風情でテーブルに近づいてくる。
部屋の隅に放置されていた椅子を一脚運んできて、国王の座を整えるのは国王付侍従のロッシュ伯だ。
呆れた表情のまま、フィリップの分のお茶を用意するベルローズは、少しばかり意地悪な表情を浮かべる。
「花は盛りが過ぎれば衰えるものです。人の容色も同じこと。もうお目が悪くなられたとは、おいたわしい」
「何を言う。余の薔薇はこれからが盛りだ」
「そうでしたわね。陛下の温室の薔薇はこれからが見頃です。わたくしも楽しみですわ」
「いや、その薔薇ではなくてだな……」
軽妙な口説きの言葉を、にべもなくあしらっていくベルローズ。
端から見ていれば、美しい貴婦人に骨抜きの国王は暗愚にも思える。――だが。
(ベルローズは殿方なのに)
いつの時代、どこの国にも存在する、艶福家の国王たちとフィリップが決定的に異なっているのは、そこだ。
相手の性別にとらわれることなく愛を貫くフィリップの姿は、ローゼリアには尊いものに映った。
フィリップ王は〈ベルローズ〉そのものを愛しておられるのだ。
一方のベルローズのほうはどうなのだろうと、ロジィはそれとなく視線を向けてみる。
ロジィに見せる笑顔の、十分の一すらフィリップに見せていなかった。
本気で国王を嫌っているのだろうか……?
首をかしげたロジィは、空になったフィリップのカップに、甲斐甲斐しくお茶のおかわりを注いでいるベルローズを見て、そんなこともなさそうだと胸中で呟いた。
(本気で嫌がっているのなら女装までして
真実が明らかになったとき、ベルローズに待っているのは火炙りの刑だ。命を賭してまで女装をする意味など、たったひとつ。
――――ベルローズも陛下を愛しているのだ。
ベルローズが本当は殿方であると知ってから、ずっとくすぶっていた疑問が、氷が溶けるように消えていく。
そう。愛だ。
神に背いても、臣民に偽ってでも、それでも、ふたりは愛し合っているのだ。
そう納得したロジィは、残りのショコラを品位を保って素早く飲み干すと、カップを置いた。
「ベルローズ公爵夫人、本日はお招きいただきましてありがとうございました」
「まあ。もう、お帰りですの、姫」
ベルローズの美しい蒼瞳が寂しさに陰る。
友人として大切に思ってくれている気持ちは純粋に嬉しいが、彼が優先すべきはロジィではなく国王だ。
ロジィは、ちらっとフィリップに視線を泳がせる。何かな、という柔らかな表情で首をかしげた国王に、立ち上がったロジィは丁寧に頭を下げた。
「陛下にお目にかかれて光栄でございました」
「余も可憐な白薔薇を拝見できて眼福でしたよ」
メルヴェイユ宮廷の社交辞令に則った甘い台詞。国王の言葉は、ただの挨拶だとわかっているのに、心の奥がくすぐられたようにこそばゆい。
ここで気の利いた台詞のひとつやふたつで切り返すのがメルヴェイユ流なのだが、ラルデニアの片田舎で育ったロジィにはなかなか難しい芸当だった。世辞に愛想笑いで応じるのが精一杯。
辞去の言葉を探して、ロジィが無意識に扉へ視線を向けると、ベルローズが拗ねたような口調で引き留めにかかる。
「わたくしは、まだ白薔薇の薫りを堪能していませんわ」
話し足りないから帰るな、という意味だ。
ロジィは、思わず国王の様子を盗み見た。にこにこと、穏やかな微笑みを浮かべているが、その笑顔が建前ではないとどうして言えるだろう。
最愛の寵姫と過ごしたいからこそ、国王は忙しい政務の合間を縫ってわざわざ彼女の茶会に顔を出しているのだから。
ここでお邪魔虫になっているのはどう考えてもロジィ。さっさとお暇すべきだ。
ベルローズの見送りを丁重に断って、辞去の挨拶もそこそこに、ロジィは逃げるように部屋を出た。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「薔薇園の薔薇が盛りですの。ご一緒にいかがです?」
うららかな午後。私室で読書を楽しんでいたロジィを誘いに、ベルローズがやって来た。
今日は私的な茶会が催されない日だ。ベルローズと顔を合わせる機会もないはずだったが、いつもそうなのだ。茶会のない日、ベルローズは何かしらの口実を作ってロジィの部屋に来る。
あれから一ヶ月。季節は冬から春へと移り変わった。
ベリエ公に殴られた傷もすっかりよくなり、日常生活に支障はないというのに、ベルローズは心配らしい。
なので、ベルローズと顔を合わせない日は一日たりともない、という奇妙な毎日が続いている。
「ローゼリア様、日傘をお持ちしました」
てきぱきと。すっかり有能な筆頭女官になったミミが、白い日傘を差しだしてくる。散歩に日傘を持つのは、宮廷における貴婦人の嗜みだ。
ロジィがメルヴェイユで暮らすことになってから、ミミが世話係に決められた。レティに疎まれて居場所をなくし、宮殿の退去を願い出たところ、ロジィに仕えるよう命じられたという。
その命令が、ベルローズ公爵夫人の〈おねだり〉によって国王から出されたことは周知の事実。以来、窮地を救ってくれた恩人だと、ミミはベルローズに心酔していた。
「ベルローズ公爵夫人の、せっかくのお誘いです。ローゼリア様、ぜひに」
熱心に勧めるミミも伴い、ロジィはベルローズと連れ立って温室へと向かった。
メルヴェイユの西の庭に建てられている温室は、国王のお声掛かりで造られたため、限られた人物しか出入りできない。
「昨日までは蕾が多かったのですが、今朝、見事に咲き始めて」
ベルローズの日傘は薄紅のレース仕立てだった。春らしい色合いだ。
優美な手つきで日傘を持ち、ローブの裾をふわりと翻して品良く歩いている姿は、とても殿方とは思えない。
もっとも、性別を簡単に見破られるようでは
「こちらですわ」
全面ガラス張りという高級感溢れる建物は、地上の季節より一ヶ月ほど先を行き、一歩入ると初夏のような温かさだという。ロワイヤルを冠する建物なので、遠慮して温室の外に控えるミミに、二人分の日傘を預けて中へ入った。
ベルローズは薔薇園と言っていたが、育てられているのは薔薇だけでなく、フランボワーズやメロンなどの果物もある。宮廷の食卓に上る果物は、こうした温室で育てられたものなのだろう。
七分咲きの薔薇を一輪、ベルローズが手折った。淡紅色の花弁はとても愛らしい色合いだ。
ベルローズは薔薇の棘を丹念に取っている。その様子を、ロジィは不躾にならないように気をつけながら、そっと眺めた。
すらりとした細身の立ち姿は涼やかで、中性的な面差しはそのまま、男性貴族として通用する。
ローブが似合いすぎているから〈貴婦人〉としてしか見ることができないでいるが、彼が男性用の宮廷服に身を包んだら、きっと宮廷中の貴婦人に取り囲まれるだろう。
異国情緒あふれる艶やかな黒髪に、海をはめ込んだかのような蒼い双眸。
東方風でもあり西方風でもある独特で神秘的な雰囲気は、遠方からの客人と名乗っても通用するに違いない。
――――ベルローズとは何者なのか。
それが、先日以来、ロジィの頭を離れない疑問だった。
ベルローズは出自不明の独身女性、という触れ込みになっている。だが、それが〈ベルローズ〉として作られた経歴なのか、ベルローズを演じている〈本人〉の経歴なのか、明確ではない。
本当に出自不明で身分が低いのであれば、これだけ洗練した所作で振る舞うことは不可能だ。没落貴族と言われたほうが納得がいく。
……あるいは、そうした立ち居振る舞いの訓練を積んだ〈役者〉とか?
ここ数年、女性の役を女性が演じる、ということがルガール宮廷で普通になりつつあるが、一昔前まで役者には男性しか存在しなかった。つまり、女性役も男性がこなしていたのだ。
彼は、そうした女性役俳優の一人だった……と考えると、つじつまは合う。
役者に爵位があるはずはなく、宮廷貴族の目線で考えれば〈卑しい身分〉だ。国王フィリップは、そんな〈彼〉を見初めてしまい、女性役を務める役者なのを利用して〈貴婦人〉として宮廷に滞在させている――――。
(特に矛盾点は見つけられないわね)
ひとしきり「仮説」を検証していると、視界に淡い紅の薔薇が飛び込んできた。
「どうぞ」
顔を上げると、海のように蒼い瞳が、柔らかく微笑んでロジィを見ていた。ベルローズは棘を取った薔薇をロジィに差し出している。
自分が持つために棘を抜いていると思っていたのに、まさか――。
「わたくし、に……?」
「美しい薔薇は可憐な姫君にお似合いですもの」
「そんな……薔薇は、麗しの薔薇がお持ちになってこそ……」
ベルローズだったら男装に戻ったとしても薔薇が似合うだろうけれど、と、心の中でだけ付け加えておく。
「受け取ってはいただけませんの?」
ロジィは、差し出された薔薇を、じっと見つめた。
薔薇の花は基本的に愛を伝えるキーアイテムとして使用される。ルガール宮廷では、貴婦人たちが友情を深める証として利用することも多いと教えられたが、相手はベルローズだ。
殿方から薔薇の花を受け取れば、それはすなわち、愛を受け入れたことになる。
ベルローズは貴婦人を演じていて、貴婦人としてロジィに薔薇を差し出しているのだから、そのような意図が全くないことは分かっているのだが……。
(ベルローズが薔薇を渡すべき相手は、わたしじゃなくて陛下なのに)
彼の〈愛〉は、微笑みひとつであっても、国王へ捧げられるべきだとロジィは思っている。
この薔薇も、しかり。
どのような言葉で固辞すれば非礼にならないだろうか。ふと顔を上げたロジィは、ベルローズの背後に人影を見た。
ベルローズはこちらを向いているので気がついていないが、向こう側から数人の廷臣を取り巻きにして、国王フィリップが歩いてくる。
温室は全面ガラス張りなので、庭を通る人々は丸見えだ。むろん、中にいるロジィたちの姿も隠れることはない。
ロジィが気づくとほぼ同時に、フィリップもこちらの姿に気がついたようだ。廷臣たちを下がらせると、側近のロッシュ伯だけを連れて温室に向かって来た。
「ローゼリア姫?」
なかなか受け取らないロジィに、ベルローズが怪訝そうな表情を浮かべる。ロジィはそれに微笑みを返した。
フィリップが、そっとベルローズの背後に立ったタイミングを見計らって、口を開く。
「ベルローズ公爵夫人の薔薇には、わたくしよりも相応しい方がいらっしゃいます」
「それは、余のことかな、ローゼリア姫」
「!?」
本当に、今の今までフィリップが現れたことに気がつかなかったのだろう。ぎょっとした表情でベルローズが振り返る。少し荒っぽい動きのせいで、彼が愛用している薔薇の薫りがふわりと散った。
ベルローズの後ろで、ロジィは丁寧に膝を折って国王への挨拶をする。
「ご機嫌麗しく、国王陛下」
「今日の白薔薇はまた格別な愛らしさですね。温室の薔薇もかすんでいます」
「もったいのうございます、陛下。ベルローズ公爵夫人の艶やかさには、とても」
にこにこと表面的には微笑みながら、その実、中身のない会話を繰り広げる宮廷式の社交辞令。無意味なそれを切り裂いたのはベルローズだった。
「何をしにいらしたのですか、陛下」
フィリップに不意を突かれたことが悔しかったのか、薔薇のように刺々しい声だ。だが、それすらも楽しんでいるかのように、フィリップはにこやかな笑顔を崩さない。
「薔薇を愛でに来たのだよ」
「さようですか。では、わたくしたちはお暇いたしますわ」
「何を仰いますか、ベルローズ公爵夫人」
あまりに素っ気ないベルローズの言葉にロジィは驚いた。国王が言う〈薔薇〉とは、温室の薔薇であって、薔薇ではない。
「何もおかしなことは申しておりませんわ、ローゼリア姫。陛下は、こちらの薔薇を愛でにいらしたそうですから、わたくしたちは場をお譲りしたほうがよろしいでしょう? 音もなく近づいていらっしゃるなんて、お行儀の悪いこと」
やはり、国王に不意打ちされたことで機嫌を損ねているようだが、まるで子供のような拗ね方ではないか。宮廷一の貴婦人らしくもない。
痴話喧嘩といえばそれまでだが、せっかく足を運んだ国王が振られてしまうのが不憫で、ロジィはベルローズをなだめることにした。
「せっかく陛下がお出ましなのです。ご一緒に薔薇をご覧になってはいかがですか」
「……ローゼリア姫は……陛下と、一緒がよろしいのですか……?」
国王と寵姫が睦まじく過ごすのは当然だ。今だって、フィリップはベルローズが温室にいる姿を見つけたからこそ、こうしてわざわざ足を向けているのだろうし。……それに。
ベルローズも、ロジィがいるから照れ隠しにつれない態度を取っているだけで、内心では嬉しいはずだから。
「はい」
ロジィは、こくりと頷いた。途端、ベルローズの表情が歪む。
見てはいけないものを見たような、知りたくなかったことを知ったような、絶望にも似た表情。
(……あ)
誤解させた。
姫は陛下と一緒がいいのか――というベルローズの言葉をそのままに受け止めれば、ロジィが国王と同席することを望んでいるように聞こえてしまう。
ベルローズはきっと、ロジィが国王と近づきになりたいと思っていると、勘違いしたのだろう。
そうではなくて、ベルローズと国王が一緒なのがいいと思っている――というのが正答。ロジィはベルローズのライバルになる気持ちなど、欠片も持っていないのだから。
だが、そうした真意をくどくどと説明するより、この場を離れるのが手っ取り早いだろう。
ロジィはフィリップに向き直った。
「陛下のお供をして温室を散策するのは大変に名誉なことと存じますが……残念です」
「いかがされた?」
急に何を言い出すんだと首を傾げるフィリップに、ロジィはできる限り、心残りがあるように微笑んだ。国王との別れを惜しむ芝居をするのは、ルガール宮廷で必須の技能。
「薔薇の薫りに酔ってしまいました。部屋に下がらせていただきます」
「お送りしますわ」
ベルローズが、そう言ってくるだろうことは予想済み。なので、ロジィは慌てることなく切り返した。
「陛下の薔薇が、陛下から離れてはいけません。メラニエ男爵夫人もおりますから、どうぞご心配なさらずに」
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