第四章 【 アルティノワ公 】 

【 第四章  ① 】


 レティが満足するように、甘いお菓子をたっぷりと。ティーセットは手持ちの中でも高価な品を選ぶ。

 室内を掃除し、花を飾り終えた頃、ミミに呼びに行かせたレティが部屋へ到着した。


「このような雰囲気でいかがでしょうか、王弟妃様マダム

「……部屋は狭いし茶器は貧相だし……でも、お菓子はたくさんね。まあ、いいわ」


 王弟妃の居室で茶会を催すとなると、公的な要素が多分に含まれてしまう。夫であるベリエ公を招かないわけにもいかない。

 アルティノワ公だけを招待したいというレティの希望に添うため、ロジィの居室を茶会の場として提供する運びになったのだ。

 周囲から見れば、ロジィが主催する茶会に、婚約者と、妹が招待されているように映る構図。


 だが、実際の主催はレティだった。ロジィは王弟妃に仕える侍女という役回りで、レティが連れてきた王弟妃付きの女官やミミと一緒に、つつがなく茶会が進行するよう給仕を担当する。

 いわば、王弟妃の「ごっこ遊び」なのだが、それは一度では終わらなかった。


 違う菓子が食べたい、新しいローブを仕立てたから着る機会を作りたい、等々。数日おきに茶会を開くように催促されるようになって一ヶ月――、


「お姉さまが用意する茶器はどれもいいものじゃないのね。しょうがないから、わたしのを貸してあげるわ。感謝してよね」


 何度目かの茶会の準備をしていたときだった。

 いつもより人数の多い女官と侍女を引き連れて、まだ準備中のロジィの部屋にレティが来た。


 レティのお付き女官が、侍女から受け取った箱をもったいぶった態度でテーブルに置く。整然と詰められているのは、彩色も鮮やかな揃いの茶器だ。


「わたしは、もっと金で装飾がされてるのが好きだから、これはあんまり好きじゃないの。だから貸してあげてもいいわ」

「ご温情に感謝申し上げます」


 ロジィは恭しく礼を述べたが、この茶器には見覚えがあった。ラルデニアで、花嫁支度の一環として用意されたもの。……つまり、ロジィの結婚用に注文された品だ。

 レティは、ロジィの花嫁支度をそっくりそのまま受け継いだから、好みではない品もいくつか混ざっているのだろう。


「それと」


 椅子に座ったレティがロジィを見上げる。若葉色の瞳に宿るのはかすかな苛立ちだ。


 ……何か、気に入らない設えがあっただろうか?


 そろりと視線を室内に巡らせる。飾っている花も、テーブルクロスも。細部に至るまでレティ好みで調えているはずだが。


「お姉さまは、わたしの侍女じゃないわ」

「…………」


 そんなことは言われるまでもないことだ。

 茶会の主催者がレティなので、部屋の持ち主であるロジィは女主人の役割を担えない。ロジィを客人にするのはレティが嫌がったから、侍女役を務めているだけだ。


「わたしは、ちゃんと女官を連れてきているの」

 それがどうかしたのか、と、無言でレティを見つめ返す。逆にレティは、ロジィを切り捨てるように視線を逸らした。


「ミミもいるんだし、侍女の手まで必要としてないわ」

「…………。御前を失礼いたします」


 レティの言わんとしていることをようやく理解できたロジィは、辞去の挨拶をして部屋を出た。


 アルティノワ公と親しく語り合うためには、婚約者であるロジィが邪魔だ。女官たちがいる手前はっきりと言うことができず、席を外せと婉曲に命じていたのだろう。


 ロジィを遠ざけ、アルティノワ公と親しく語り合いたいのだろうが……アルティノワ公には、秘やかな恋人がいる。


 ――――あの、青いローブの似合う貴婦人が。


 アルティノワ公は王命で与えられた婚約者にも義理を果たそうとする誠実なお人だ。恋人を裏切るようなことはしないだろう。

 レティがどれほどアルティノワ公に接近しても、公が応えることはない――ということだ。


 レティには可哀想だが、アルティノワ公がきっちり拒んでくれるなら、王弟妃の名誉が傷つく心配はない。それがわかったから、ロジィは安心して部屋を出たのだった。


(宮廷庭園をゆっくり巡るのもいいわね)


 アルティノワ公との結婚が決まった以上、生涯をメルヴェイユ宮殿で過ごすことになる。

 お気に入りの場所を一つくらい見つけておくのもいいだろう。







 ジュストを出迎えたのは王弟妃だった。室内を見回すが、ローゼリアの姿は見えない。

 ローゼリア付き女官のメラニエ男爵夫人を探すと、彼女は王弟妃の女官に入り交じって、茶会の準備に勤しんでいる。


(……ローゼリアだけ、外した?)


 だが、何が目的で?

 ジュストは内心の戸惑いを笑顔の仮面で隠して、王弟妃が促すままに席へ着く。


 王弟妃がベリエ公の妬心を警戒して、ローゼリア主催の茶会を装っているのは察していた。

 だが、それが度重なればベリエ公も疑念を抱くだろう。いつまで偽装するのか高みの見物をしていたのだが……。


「部屋の主は、どちらへ?」

 ローゼリアの部屋を乗っ取って何を企んでいるのか。にこやかに切り込むと、王弟妃は哀しげな表情を作った。


「怒らないでね、アルティノワ公」

 王弟妃がメルヴェイユ宮殿に登場してから、ジュストが一度も見たことのない「しおらしい顔」だ。

 何かあるなと内心で身構えるジュストを前に、王弟妃はつらつらと言葉を並べる。


「お姉さまは気まぐれを起こして出かけてしまったの。アルティノワ公のお相手をするようにって、頼まれてしまったわ。……だから、わたししかいないのよ」


 奇妙な言い訳だとジュストは思った。ローゼリアが、ジュストの相手を王弟妃に押しつける理由がない。

 この茶会で、ローゼリアは最初からジュストの相手をしていないのだから。


 主催は王弟妃で、主役も王弟妃だった。もっと露骨に言えば、部屋の主かつジュストの婚約者でありながら、ローゼリアは茶会のテーブルに同席していなかったのだ。


 メラニエ男爵夫人と一緒にテーブルを調え、茶のおかわりを注ぎ、王弟妃の世話を焼く。

 王弟妃もまた、ローゼリアを徹底的に侍女として扱っていた。端的に言えば話しかけない。指図は目顔で示して、文字どおり顎で使っていた。


 侍女が「気まぐれを起こす」ことがあるだろうか。王弟妃の指示で部屋を出たというのが妥当だろうと、ジュストは内心で反論する。


 微笑を保ったまま無言を貫くジュストの態度を見て、王弟妃はさらに言葉を重ねてきた。

「……アルティノワ公は、相手がわたしだと不満なの?」


 ジュストが口を開くより早く、控えていた女官たちが小鳥の囀りよろしく喋り始める。

「妃殿下が御自らもてなしてくださるなど、メルヴェイユに滞在する者にとって光栄の極みでございます」

「妃殿下にご自分の婚約者のお相手を押しつけて席を外すとは、ラルデニア伯女は礼儀知らずですわね」

「なんと無礼な女でしょう。妃殿下、きっちりメルヴェイユの儀礼をお教えになりませんと」


 不在の相手をこき下ろすのはサロンでよくある手段だ。

 ベルローズを演じていたとき、似たような場面に何度も出くわした。たいていは嫉妬が理由なのだが、まれに謀略も含まれる。


 それを放置しておくと政治問題に発展する場合があるため、ジュストは気が進まなくても聞き出しておくことを癖にしていた。


(……この場合は、どれだろうな)


 普通、貴婦人は徒党を組んで特定の人物を除外しようと試みる。その例に照らすと、この場の招待客にめぼしい貴婦人がいないのは不自然だ。


 王弟妃に仕える女官や侍女は貴族夫人、あるいは貴族令嬢だが、身分はそれほど高くない。もっと大貴族の奥方を招かなければ派閥は作れないのに。


 ――――招待客が俺だけ。つまり標的は……俺。


 ジュストをローゼリアから遠ざけることが目的ならば政治的要素はないだろう。ジュストは政権に関わっていないのだから。

 となると、王弟や王太后が裏工作している可能性は低い。フィリップにまで危険が及ぶ心配はなさそうなので、ジュストは焦らず王弟妃の出方を見守る作戦にした。


「お姉さまの悪口を言わないで」

「まあ、妃殿下はどこまでもお優しい」

「妃殿下がそのように寛容でいらっしゃるから、あの女がつけあがるのですわ」


 どうでもいい追従を聞き流して、ジュストはショコラを口に運ぶ。王弟妃好みのショコラは甘ったるく、一口で辟易してしまった。

 ローゼリアが侍女としてこの場にいたときは、それとなくジュストの表情を読んで甘くない珈琲を用意してくれた。


 だが、今日は彼女がいない。客人の好みに合わせた飲み物を用意する……という、茶会の主人として当然の気遣いも、王弟妃や女官たちにはできないのだ。


 その場の会話に耳を傾けているだけで、世辞の一つも言わないジュストに焦れたのか、王弟妃は探るような声で言った。

「……アルティノワ公は、お姉さまが大切?」

「はい」


 ジュストは正直に答えた。自分の婚約者である……というだけでも大切だが、この婚約には王命が関わっている。公的な意味でも私的な意味でも、非常に大切というのが本音だ。


「そう……なの」

 王弟妃は口元に手を添え、困惑したような素振りを見せる。言っていいものかどうか迷うような仕草。

 ちらり、と、こちらに視線を投げ、どうしましょうと目を泳がせる。


(思わせぶりだな)


 社交儀礼でも、通常の会話でも。相手がそのような仕草を見せたなら「どうしたのか」と問うのが思いやりだろう。


 ジュストは、あえて無視した。

 王弟妃の芝居が、あまりに下手すぎて付き合う気にもなれなかったのだ。


 ちらちらとジュストの顔色を窺い、尋ねてくれるのを待ち構えている仕草が、わざとらしくて苦笑が零れる。

 美人が助けを求めている風情は、男の庇護欲をそそるだろう。妻に骨抜きの夫なら、なおさら。……だが。


 ――――俺は、ベリエ公とは違う。


 天使の中身が魔性の女ファム・ファタルだと知っている。あれだけ挑発的に、妖艶な表情を作れる女性が、ここまで清楚を演じる理由はなんなのか。


(下手な芝居も最後まで見ないと)


 表面的にはにこやかな笑みを絶やさず、ジュストは甘ったるいショコラを舐めるように少しずつ飲む。質問を誘おうとする王弟妃の目配せはすべて無視して。


「…………ッ」

 王弟妃の、相手の反応を待つ表情が、本格的に困惑した表情に変わった。ジュストがまったく反応を示さないので、次の手を見失っているのだろう。


 やがて王弟妃は、ジュストから尋ねてもらうことは諦めたようだった。仕方なさそうに溜め息を落として、自分から口火を切る。


「アルティノワ公は、お姉さまのことを、どう思ってるの?」


 曖昧で範囲の広い質問。ジュストの返答次第によっては王弟妃の策に嵌まる可能性がある問いだった。

 王弟妃が何を聞き出そうとしているのか、それがわからないことには、こちらの手の内を明かすことはできない。ジュストは初めて聞き返した。


「……、……どう、とは?」


「そうね。印象って言えばいいのかしら。アルティノワ公にとって、お姉さまって、どんな人?」

「……ああ。なるほど」


 ジュストは軽く頷き、けれど、すぐに口を開かなかった。――王弟妃はいったい何を考えている?

 ローゼリアに対する印象を聞き出して、どうするつもりなのだろう。


(……まさか。ローゼリアから、俺がどう思っているか訊きだしてくれと言われたのか?)


 仮にそうだとしても、胸の内を第三者に明かすことをジュストは好まなかった。陰口の巣窟メルヴェイユで生き残るための処世術とも言える。大事なことは本人に伝えないと、どれだけ歪曲されるかわからない。


「白薔薇でいらっしゃる、とは思っていますよ。お名前がローゼリア・ブランシュ姫ですから」

 だからジュストは、当たり障りのない返答だけを言葉にした。宮廷会話としては洒脱さに欠けるが。


「これだから殿方は!」


 王弟妃付きの女官が、話にならないと言わんばかりに、大仰な仕草で首を振った。

 コルザス伯爵夫人。夫が王弟ベリエ公の友人で、王太后派の有力な取り巻きの一人に数えられる。王弟妃が実家から連れてきたメラニエ男爵夫人が抜けた後、王弟妃付き筆頭女官の座に就いた。


 夫人は、深刻そうな表情を作って身を乗り出すと、まるで占い師のように重々しい口調でジュストに告げた。


「騙されてはなりませんよ、閣下。白薔薇とは真っ赤な偽り。あの女は牝狐めぎつねなのですから」


 ……天使の名を冠したセレスティーヌも魔性なのだから、薔薇が狐でも驚かないが。


 ジュストは、まったく表情を変えずにコルザス夫人を見やった。冷静な態度に面食らったようで、夫人は怪訝そうな顔をする。


「もしや、アルティノワ公はご存知なのですか?」

「何をですか」

「あの女の本性をですよ」


 本性とは、また穏やかでない言葉の選び方だ。婚約者を侮蔑されたのだから激怒してもよいのだが、それでは王弟妃の思惑が読み取れない。感情を隠し、ジュストは微笑んだ。


「さて。貴婦人の本性とはいったいどのようなものでしょう」

「なんと暢気なことを。妃殿下がどれだけ煮え湯を飲まされてきたか」


 まるで見てきたかのようにコルザス夫人は語った。

 ラルデニアで過ごした少女時代。セレスティーヌと親しくなる男性は必ず、最終的にローゼリアの取り巻きになった。ローゼリアが相手の男を横取りするのだそうだ。


「自分にラルデニアの相続権があることをひけらかし、セレスティーヌ様と結婚しても領主になれないと吹き込んだのですわ」

「コルザス夫人、事実だもの。お姉さまを悪く言わないで」

「いいえ。言わせていただきます。純粋に愛情を競うならまだしも、相続権を振りかざして殿方の歓心を得ようとするなど、性根が腐っております」

「お姉さまは優しいの」

「妹姫の恋人をかすめ取る女のどこが優しいのです」


 ジュストは冷ややかな眼差しで、二人の小芝居を見物した。

 ローゼリアに妹の恋人を奪うほどの甲斐性があるのなら、ベリエ公との結婚は成立していたと思うが。


「きっと、お姉さまは財産目的の男性から、わたしを守ろうとしてくれたのよ」

「妃殿下はお優しすぎます。セレスティーヌ様と王弟殿下との縁談が壊れそうになっても、お許しになったのですから」


 セレスティーヌ「と」ベリエ公の縁談が壊れる?

 あれはもともとローゼリアを相手に申し込んだ縁談のはずだ。なぜ王弟妃の名が出てくる。

 聞き捨てならなくて、ジュストは口を挟んだ。


「……どういう意味ですか?」


 キラリと、王弟妃の瞳が輝いた。獲物を見つけた猫のような目つき。

 言葉選びを誤ったかと、ジュストが内心で渋面を作ったとき、王弟妃は勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。


「人前でお話しできることじゃないの。……今度、庭を散策しながらなら、いいわ。二人きりで」


 楽しみにしてるわと言い置いて、王弟妃は女官らを引き連れると部屋を出て行く。引き留める暇を与えない早業で扉が閉められてから、ジュストは内心で苦笑した。

 そうだった。ここはローゼリアの部屋だ。言い逃げという手段を取るには最適の。


(……ベリエ公が怒るだろうな)


 婚約者のいる身で二人きりにはなれない――と、即座に断れなかったのはジュストの落ち度だ。

 なるべく人目に触れる庭園を選ぶことにしよう。


 そう決めたジュストは、ローゼリアに対して疚しいことは何もないと伝えるため、部屋に残っているメラニエ男爵夫人に言づてを託す。


「こちらを、必ずローゼリア姫にお渡ししなさい」


 ポケットに入れていた、ローゼリアから届けられた茶会の招待状。その裏に手書きのメッセージを記して。


 ――妹姫と散策するお約束をしましたが、よろしければ姫もご一緒に。








 整然と調えられているメルヴェイユ様式庭園の片隅。貴族たちの起居に宛がわれる東翼棟に近い場所に、樹木が多い区画があった。


 今日のように暑い日には木陰を利用して散策ができるし、少し先には休息用の四阿もある。

 ロジィが夢中になって歩いていたら、前方から馬車が近づいてきた。


 広大な宮殿を移動するために使われる、貴婦人用の馬車だ。装飾が少なく、造りも簡素だが、これを使用できるのは公爵夫人と王族女性、そして同乗を許可された女官だけ。


 乗っている人物が誰かわからないので、宮廷式の最大級の礼で迎えると、馬車はロジィのすぐ傍で停まった。


「こんなところにいたの。ずいぶん遠くまで歩いたのね。探したわ」


 王弟妃の馬車だった。レティは馬車に乗ったまま、窓越しに言葉を投げてくる。

 馬車を降りない王弟妃セレスティーヌと、膝を折って話を聞く貴族の娘ローゼリア。歴然とした身分差が姉妹の間に横たわっていることを肌で感じた。


「お茶会は楽しまれましたか」

「ええ。そのことで一応、お姉さまに報告してあげようと思って」

「まあ、妃殿下。そのようにお気を遣われることはございませんのよ」

「本当に妃殿下はお優しいですこと」


 馬車の中で交わされる会話は要領を得ない。口を挟むことは非礼なので、ロジィは黙って待つしかなかった。

 女官とのお喋りをひとしきり楽しんだレティが、ようやくロジィに顔を向ける。


「今度、アルティノワ公と逢引するの」

「…………。――え」


 逢引。それはつまり、男女が密かに逢うことを意味する。ロジィは驚愕した。

 アルティノワ公が承諾したのだろうか。レティと秘密裏に逢うことを。……そんなまさか。


(あの方には愛する貴婦人がいらっしゃるのに?)


 それとも、メルヴェイユ宮廷の悪習に染まり、王弟妃と逢瀬することに抵抗がないとでも?


 いや、アルティノワ公の本心はこの際、どうでもいい。

 アルティノワ公と密会する……などというレティの発言が知られたら、王弟妃の貞節を疑われてしまうことのほうが重大だ。


 この場にいるのはレティの忠実な取り巻きたち。レティの立場を悪くするような流言はしないだろう。王弟妃の失脚は自分たちの破滅に繋がるのだから。


 あとは、ベリエ公の反応だ。このことを把握しているならいい。そうでなければ大問題になる。

 宮廷での夫婦喧嘩は筒抜けだ。ベリエ公が激怒したら、レティが不貞だと見なされてしまうと思ったほうがいい。

 逢引ではないと証明するためには、二人きりにさせないことが肝要。


「畏れながら、王弟妃様マダム。その場に……――」

「自分も加えて欲しい、なんて、言わないわよね」


 氷のように冷たい声。驚いて顔を上げると、声音よりも凍える眼差しがロジィを突き刺していた。真夏なのに背筋が冷え冷えとしてくる。


「あら。顔色が悪いわね、お姉さま。……なぁに? わたしが婚約者と逢引するの、そんなに嫌なの?」


 レティは鼻で笑った。追従するように、馬車に同乗している女官が甲高い笑い声を立てる。人を見下し、嘲るための笑い声は、ひどく耳に障った。


「あの……本当に、本当にアルティノワ公は、……マダムと逢引をされると……?」


 彼には自分の寝室に招き入れるような貴婦人がいるのに?

 あんなに大切そうに抱き締めている女性がいるのに、王弟妃と逢引を?


「そうよ」


 衝撃だった。

 自分との婚姻は王命であり、政略。愛されていないこと、愛される可能性がないこと、そのことはもう、受け入れている。


 秘密の恋人と、アルティノワ公の仲を引き裂くつもりはない。ロジィが邪魔者だというのなら、できる限り身を潜めて生きていく。

 だから、秘やかに愛する女性への誠実な想いだけは、裏切らないで欲しかったのに――――。


「二人きりで逢うの」

 満面の笑みでレティが付け加える。ロジィはそれを、声もなく見上げることしかできなかった。


 申し訳ないと、思った。

 顔も、名前も知らない、アルティノワ公の想い人に。


 ロジィの妹がちょっかいを出したから、あの貴婦人に悲しい思いをさせることになってしまった。恋人が王命で結婚するというだけでもつらいだろうに……追い打ちだ。


「泣きそうね、お姉さま。……ねぇ。まさか……本当に、アルティノワ公を好きなの?」


 レティの若葉色の瞳が、瞬きもせずロジィを凝視する。ロジィの胸中を透かし見ようとするかのように。


「政略結婚の相手を本気で好きになるなんて、脳天気なお姉さまらしいわね」

「おほほ。苦労知らずで育つとこうなるのでしょうね、妃殿下」

「ふふ、馬鹿馬鹿しすぎて涙が出るわ。気分がいいから、いいこと教えてあげる。アルティノワ公はね、お姉さまのことを〈白薔薇〉だとしか思ってないそうよ。名前がローゼリア・ブランシュだからって。お姉さまの印象なんてそれだけなのよ、ふふ、うっふふ」


 容姿にも人柄にも取り立てて感想は言ってなかったわ――と、レティは笑い転げた。


「教えてあげたでしょ? お姉さまが婚約者から愛されるわけないって。妹の忠告はちゃんと聞きなさいよ。素直じゃないんだから」


 ひときわ大きな笑い声を残して、王弟妃の馬車は去って行った。

 それから、どうやって居室に戻ったのか、ロジィはよく覚えていない。部屋の中はミミによって片付けられていて、茶会が催されていた痕跡など跡形もなかった。


「お借りした茶器をお返しして参ります」

「ええ。ありがとう」


 ミミが箱を抱えて部屋を出ると、ロジィだけが残される。真夏なのに、一人でいると寒々しい気持ちになった。凍えた気持ちを温めたくて、目が暖炉に向かう。


(……?)


 この季節に使用するはずのない暖炉。そこに真新しい燃え滓があった。薪を燃やしたのではない。紙片、だろうか。膝を折り、手を伸ばして燃え残った切れ端をつまみ上げる。

 目の高さまで持ち上げて、ロジィは目を瞠った。


「…………ッ」


 縁取りの金泥模様に覚えがある。ロジィがアルティノワ公に宛てた、この茶会の招待状に間違いない。


 アルティノワ公が、この暖炉で招待状を燃やしたのだ。


 招待状を燃やすのは侮蔑と決別。男性間における決闘の申し込みのような意味合いを、貴婦人の間では有している。異性間であったとしても、招待状を破ったり燃やしたりするのは最大の侮辱だ。


 アルティノワ公は、招待状を燃やし尽くしたいと思うくらい、ロジィの招きを不快に思っていたのだろう。

 そして、それを言葉ではなく態度で示すために、あえてロジィの部屋の暖炉を使った……。


「――……」


 ロジィの頬を、涙が一筋、伝った。愛されることはないと覚悟していた。でも。


 ――――嫌われる覚悟は、できていなかったから。






 ロジィは部屋を留守にすることが多くなった。

 逢引の約束を取り付けることに成功したためか、レティから茶会の催促をされることはなくなったが、アルティノワ公は婚約者への機嫌伺いという名目で、ふらりとロジィの部屋を訪れる。


 顔を合わせれば、暖炉で燃やされていた招待状を思い出してしまう。今までのように当たり障りなく会話をする自信がなくて、ロジィは逃げることを選んだのだ。


 幸いなことにメルヴェイユの庭園は広大で、一日や二日ではすべてを回りきることはできない。

 ロジィは日傘を手に、のんびりと散策を楽しんでいたのだが、四阿にさしかかったところで邪魔が入った。


「セレスティーヌ様!」


「……?」

 なぜ、その名で呼ばれるのか不思議で、思わず足を止めてしまったのがいけなかった。

 ロジィを〈レティ〉と見間違えた人物は、呼んだ相手が止まったことで、本人だと信じ込んでしまったようだった。


「私のことをお忘れになったのかと不安になりました」


 赤みがかった金髪と薄茶の瞳。アルティノワ公の面差しを見慣れてしまうと物足りなさを覚えるが、ロジィを呼び止めた青年貴族も充分に整った容貌をしていた。


 戸惑って立ちすくんでいる間に、大股で距離を縮めてくる。あっという間に目の前に立たれてしまった。


「あの日、麗しいお声を賜ったときから私は、セレスティーヌ様の恋の下僕なのです」

「…………、……」


 どちら様ですか――と、尋ねにくい雰囲気だ。レティと間違えられることはラルデニアにいた頃から日常茶飯事だったが、こういう場面で勘違いされることはなかったからだ。


 殿方がレティの虜になるのはいつものこと。並んで立っていても、ロジィが声を掛けられることはない――はずだったのに。

 ……なぜ、ロジィをレティと思い込んでいるのか。


「お言葉どおり、ずっとこちらでお待ちしておりました。いっこうにお姿を拝することが叶わず、このまま朽ち果ててしまうのではないかと」


 お言葉……。ならば、レティはこの男性貴族と会う約束をしていた、ということになる。

 メルヴェイユ宮殿でも人の気配が少ない、こんな奥まった四阿で。


「ですが、もう、よいのです。こうしてお目に掛かれた。セレスティーヌ様は私との約束を守ってくださった。再びお姿を拝見できただけでこの上ない僥倖……」


 口では謙虚なことを言いながら、男の手は迷わずロジィの頬に伸ばされていた。

 ……触れようとしている。


 ロジィは慌てて後ろに下がった。さっと開いた距離に風が吹き抜け、真夏なのにひんやりとした雰囲気が、二人の間に漂う。


「なぜ、私を拒むのですか」

「当然でしょう、わたくしは……――」


 王弟妃なのだから、と突き放すべきか。王弟妃の姉なのだ、と真実を告げるべきか。

 どちらが相手に効力を発揮する言葉なのか判断がつかなくて、口ごもる。男はその隙を逃さなかった。


「貴女様が仰ったのですよ! この場でお待ちしていれば、必ずや私の想いに応えると……!!」

「そ……」


 それはいったい、どういうことなのか。

 ここで待っていれば想いに応える……? 想いとは、まさか。……いいえ、そんなはずは……。


「……なぜ、そのように驚いた表情かおをなさる。妃殿下にお声を賜った、それだけで満足しようと必死に耐えている私に、甘い口づけをくださったのはセレスティーヌ様でいらっしゃるのに」


「!?」

 口づけですって!?


 ロジィは、自分がしたことではないのに、思わず唇を両手で覆ってしまった。ばさっと日傘が倒れる。


「ああ。今になって照れていらっしゃるのですか。あのときは手慣れておいでだと、この胸を嫉妬に焦がしたのですが……背伸びをしておいでだったのですね」


 うっとりと、酒に酔ったようにとろけた表情で、男が微笑む。その笑顔はなぜか、ロジィの背筋を凍らせた。

 レティの美貌に心を奪われた殿方は、瞳の色を変えて跪く。レティを至高の女神と崇め、賛美し、愛を請う。


 ――けれど、目の前にいる彼は、少し違う。


 恋に狂っているというよりは、もっと別の、もっと激しいものに心を狂わせているようで……。


「あの日。アルティノワ公の婚約披露の舞踏会で、私は初めて貴女様と眼差しを交わしました」

 男は、聞かれてもいないのに馴れ初めを語り出す。


「しっとりと夜露を含んだ若葉色の瞳。この世に、これほど妖艶で甘美な色彩があるのだと、私は初めて知ったのです。これまでの恋は、恋ではなかった。貴女様を想うこの痛みこそが本物の恋……」


 婚約祝賀の舞踏会には、メルヴェイユに伺候しているほぼすべての貴族が参加していた。

 だから、目の前でレティへの恋情を語る彼が誰だったのか、思い出せない。入れ替わり立ち替わり祝辞を述べに来た中の、誰かだったのだろうとは思うけれど。……目が合った記憶などない。


「貴女様はなぜ、王弟妃でいらっしゃるのか。ラルデニアの姫でいらしたならば、この私にも求婚の機会が得られたものを……」


 ラルデニアの姫だったなら、メルヴェイユに伺候する貴族と接点を持つことはなかっただろう。

 レティが王弟妃になったからこそ、彼はあの子と面識を持つことができたのだ。


 相手が抱えている根本的な矛盾は脇へ追いやるとして、この状況をどうにかしなければいけないとロジィは思った。

 道ならぬ恋に溺れようとしている彼を正気に返さなければ、レティの貞節が疑われてしまう。


「貴女様を私の妻にすることは叶わなくとも、未来永劫、私の愛はセレスティーヌ様のためにあるのです。どうか、今ひとたびの口づけを私に」


 男は一歩、前へと足を踏み出してきた。逃げる隙を与えられず、肩を掴まれる。

 円蓋型の屋根が特徴的な四阿は、秘密の愛を語らうのにうってつけの舞台装置だ。漂ってくる花の香りにも気分を高揚させたのだろう。


「放しなさい」


 ぞっとしたロジィは強い口調で拒絶したが、それで怯むような男ではなかった。

「なぜ、今日は嫌がる素振りをなさるのです。あの日はセレスティーヌ様から抱擁を求めていらしたではありませんか」


 熱に浮かされた男の視線が、ロジィの首元と腰のあたりを這った。粘つく眼差しをロジィの胸へと移した男は、まるで舐めるようにじっくりと、目で胸の輪郭を辿っていく。


(……!!)


 男が求めていること。男の心を狂わせている目的がなんであるか、ロジィは理解した。


「人を呼びますよ!!」


 叫んでも、男の手は止まらなかった。首元の薄いレースに男の指が掛かったと思った瞬間、ぴりっと嫌な音を立てて破かれる。


「!?」


 デコルテが風に触れた。涼しさを感じる一方で、心許なさといたたまれなさを同時に感じる。


「あの日も思ったのです、絹のような肌だと。次に会うときには触れてよいと仰った。私がどれだけ今日という日を待ち焦がれていたか、セレスティーヌ様にはおわかりになりますまい……」


 男の熱い吐息が鎖骨を撫でた。

 淑女教育に武芸など入っていなくて、身をよじって逃げようにも腰を押さえつけられているので動けない。

 恐怖と嫌悪で、眦にたまった涙が零れそうになったとき。


「いい加減にしろ」


 男の頭がロジィから離れた。唇が鎖骨に触れる直前、まさに間一髪だった。

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