【 第四章 ② 】
「ジュストに殺されたいのか」
ロジィに迫った男の頭を鷲掴みにしているのは――――ベリエ公。
「この女は我が妃ではない。そんなこともわからないで口説いていたのか、セルマン伯」
「王弟殿下……ッ」
セルマン伯と呼ばれた男の顔色が、瞬く間に青ざめていく。それはそうだろう。今まさに、ベリエ公の妃に不埒な振る舞いをしようとしていたのだから。
「これを我が妃と勘違いしたことも腹立たしいが、我が妃に見立てたこの女に働いていた狼藉は、なおいっそう許しがたい」
「……セレスティーヌ様では、ない……!?」
「穢らわしい口で我が妃の名を呼ぶな無礼者が!」
ベリエ公がセルマン伯を突き飛ばす。よろけた伯を羽交い締めにしたのは、ベリエ公の従僕たちだった。四阿の外に引きずり出し、地面に跪かせる。
「一部始終は聞かせてもらった。我が妃と、ずいぶん懇ろな様子だったが」
四阿に設置されている石製の長椅子に腰掛けたベリエ公は、感情の宿らない眼差しでセルマン伯を見下ろす。
「そのことについては、場を改めて、じっくりと聞かせてもらおう。……当座の問題は、この女についてだ」
深みのある榛色の瞳が自分に向いて、ロジィはびくっと肩を揺らす。殴られた日のことを思い出して逃げ出したくなったが、ベリエ公がロジィに憎悪の感情を向けてくることはなかった。
「これは、あの化け物の妻となる女だ。ちょっかいを出すのは命懸けだとわかっているのか」
……化け物?
首を傾げるロジィを置き去りに、ベリエ公は淡々と言葉を続けた。
「通りがかったのが私で命拾いしたな。あれの目に触れていたら、今頃は首と胴が離れている」
疲れたような声音でそう言うと、ベリエ公は手を振って従僕たちを下がらせた。従僕に拘束されているセルマン伯も、一緒に四阿から遠ざかる。
「おい。ジュストの婚約者」
ベリエ公の声は鋭い棘のようだ。できればこのまま、この場を立ち去ってしまいたいが――。
「王弟殿下におかれましてはご機嫌麗しく……」
ベリエ公の双眸が、膝を折って挨拶するロジィをまっすぐに映す。
再会したときには容赦しないとロジィを脅したベリエ公が、わざわざ姿を見せた目的など一つしかない。ロジィの身体は恐怖で無意識に強張ったのだが。
「おまえに危害は加えない」
ベリエ公は静かな声音で、そう言った。思いがけない言葉だった。びっくりして見つめると、ベリエ公は居心地が悪そうに視線を逸らす。
「化け物に殺されるのは嫌だからな」
ぼそりと呟かれた言葉の意味がわからなくて、ロジィは思わず聞き返した。
「化け物とは、なんのことでしょうか」
「ジュストのことだ」
「…………」
アルティノワ公が魔性のように麗しい貴公子でいらっしゃるのは確かだが、化け物とはまた、穏やかでない。
どう返答すればいいのかわからなくてロジィが沈黙していると、ベリエ公は「そうか。知らないのか」と、小声で言った。
「いいだろう。私はおまえに訊きたいことがある。その代わりに、ジュストの話をしてやろう」
ベリエ公とは思えない友好的な申し出だ。殴られた一件を思い出して、どうしてもすぐに頷くことができないロジィを見ても、怒鳴りつけることはなかった。
「座れ」
ベリエ公が顎をしゃくって、向かい側の椅子を示した。着席の許しを固辞することもまた、宮廷においては非礼に該当する。ロジィは軽く一礼して、素直に腰を下ろした。
「びくびくするな。もう危害は加えないと言っただろう。王弟の言葉くらい信用したらどうだ」
そう言われても、烈火の如く激怒したベリエ公の姿は脳裏に焼き付いている。いつまた態度が豹変するか、戦々恐々としているというのに信用など……。
「それにしても、セレスティーヌではないとさっさと言っていれば、ああまで無体を強いられることはなかっただろうに。……鈍くさい女だ」
苛立った口調で口早に呟いたベリエ公は、さらりと視線をロジィの胸元に滑らせ、再び大仰な溜め息を零した。
「そんな格好をあれが見てみろ。殺されるのは私だ、冗談じゃない」
ぶつぶつと口の中で言いながら、ベリエ公は洗練された所作で上着を脱ぐ。まだ温もりが宿っているそれを、ベリエ公はロジィへと突き出してきた。
「着ろ」
レティの瞳に似た、若葉色の上着。ペリドットとトパーズがふんだんに縫いつけられていて、真夏の太陽光を反射して目に眩しい。……これをどうしろと?
「グズグズするな。早く着て、見苦しい胸元を隠せ」
「は、はい……!」
細身に思えるベリエ公も肩幅はしっかりとあるようで、上着を羽織るだけで破れたレースを充分に隠すことができた。
「まったく。レティとは似ても似つかないな。おまえたち、本当に双子か?」
ぶつけられる言葉は優しくないが、ロジィを見つめる眼差しに怒りはない。気が狂ったようにロジィを責め立てたのが嘘のように、今は穏やかな態度でそこに座っている。
「……何があったのかと、思っているんだろう」
「!?」
胸中を言い当てられて、ロジィは取り繕うことができなかった。言い訳を探して視線を彷徨わせるロジィを見たベリエ公は「本当に似ていないな」と、苦い笑みを零す。
「あの化け物……いや、ジュストが、私のところに来たんだ」
国王から、ベリエ公とロジィのいきさつを聞いたアルティノワ公は、今後一切、危害を加えないように要求したのだという。
「あれは、ずいぶんと婚約者を大事にしているらしい」
しみじみと呟くベリエ公の言葉に心が浮き立ちそうになったロジィの脳裏に、燃やされていた招待状の残骸が蘇った。
アルティノワ公がロジィを大事にしてくれるのは建前。それを嬉しいと思うことはおこがましい。ルガール宮廷の夫婦像を忘れ、婚約者から好かれていると愚かな勘違いをすれば笑われるだろう。滑稽な田舎者だ――と。
「……。王命で成立した婚約ですから、無碍になさることができないのでしょう」
ぎこちなく作った笑顔で答えたロジィを無言で見つめたベリエ公は、面白がるように口の端を吊り上げた。
「そう思いたいなら、思っていればいい」
にやりと笑った表情は悪童のように意地悪なのに、からかいを混ぜて囁いてくる声音は優しい。
……レティが惹かれたのは、ベリエ公のこういうところ、だろうか。ロジィには理解できないけれども。
「まあとにかく。あの化け物が婚約者を傷つけたら決闘だと息巻くから、私はおまえを害さないと約束した。王弟の言葉が信用できなくても、王命で決まった婚約者の根回しは信用してやれ」
ふいっと、ベリエ公が横を向く。風にそよぐ木々を見つめる眼差しは穏やかで、静謐な佇まいは王族の気品を感じさせた。
でも、アルティノワ公の横顔よりも、雰囲気はやはり冷たかった。
「……訊きたいことがあるなら言え」
顔を背けたまま、ベリエ公は面倒くさそうに言った。視線が交わっていないのに、ロジィが戸惑っているとどうしてわかったのか。
じろり。榛色の瞳がロジィを横目に睨んだ。ベリエ公は、なかなかに気が短いらしい。
彼をこれ以上、苛立たせないうちにと、ロジィは慌てて口を開く。
「王弟殿下は、なぜアルティノワ公爵閣下を化け物とお呼びになるのですか」
「化け物でいらっしゃるからだよ」
揶揄するような口調でベリエ公は答えた。皮肉たっぷりに言い終えたベリエ公は、そんな自分の態度を反省するように苦笑を浮かべて、ロジィに顔を向ける。
「ジュストの話をしてやると約束したのだったな」
ロジィにしてみれば、ベリエ公が申し出た一方的な交換条件だが、反論はせずに小さく首肯した。婚約者が化け物と呼ばれていることは、聞き流すには重すぎる。
「あれの特技が何か、聞いているか」
「絵がお得意でいらっしゃいます」
「聞いてないのか」
そこからなのか、と、ベリエ公は重苦しい溜め息を落とした。全力で「面倒だ」と顔をしかめ、けれど、約束を反故にする気はないようだった。
「ジュストの出自は複雑だ。その部分について私は語る言葉を持たない。興味があるなら本人に訊け。ただし、あまり楽しい話ではないとだけ言っておく」
ベリエ公の表情は真剣だった。国王フィリップに反目している王弟ではなく、純粋なルガール王族としての立場で、ロジィに話をしようとしてくれているのを感じる。
「ジュストは、その出自が原因で産まれたときから命を狙われていた」
「どうして……」
「だから、それは本人に訊け」
思わず口を挟んだロジィをぴしゃりと黙らせ、ベリエ公は続きを口にする。
「母上も、私の頭上にルガールの王冠を戴かせようと躍起になっておられたから、フィリップの命を狙っていた」
母后が企てた国王暗殺事件の顛末を、ベリエ公は表情を変えることもなく、静かな口調で語った。ルガール史の一端を説明する家庭教師のような態度で。
「あれは父上が崩御されてすぐ……フィリップが即位して、だが、戴冠式を迎える前のことだ。私が十かそこらで、フィリップが十七。ジュストは七歳だった」
聖ダンベルク帝国の大公女だったマリー王太后は、実家のウォルシュタイン家が抱えている暗殺集団を呼び寄せ、国王を亡き者にしようと画策したのだという。
フィリップは将来の国王として相応しいように、当然ながら武芸も修得していた。模擬試合程度であれば切り抜けられる腕前を有していたが、相手は暗殺の専門家。それが二十人以上も束になって襲撃すれば、どう足掻いても生き残ることはできない。
「母上はすっかり安心して仕立屋を呼んだ。私が戴冠式で着用するための宮廷服を準備すると言って」
自分も、異母兄が虚しく命を散らし、王冠を譲り渡してくれるのだと信じていた――と、ベリエ公は乾いた笑みを浮かべた。
「だが、そうはならなかった。フィリップは今でもルガールの王で、私は王弟の地位に甘んじている。なぜかわかるか」
ベリエ公は「ジュストの話」と前置きしていた。彼もまた命を狙われていたと。――まさか。
「暗殺者は、陛下ではなくアルティノワ公のお命を狙ったのですか? 閣下は九死に一生を得られて、不可能な状況から生還なさったから〈化け物〉と……?」
「それはそれで面白い話だが、違う」
フィリップはアルティノワ公を実の弟のように可愛がっていたから、一緒に行動するのは常だった。暗殺が決行されたときも、フィリップの傍らにはアルティノワ公がいたという。
「暗殺集団は間違えることなくフィリップを狙ったが、フィリップも手練れだったから、一撃を凌いだ」
だが、多勢に無勢。しかも、その場にいるアルティノワ公はまだ七歳の幼さだ。
「死を覚悟したフィリップはジュストを逃がそうとした。まあ当然だ。子どもは足手まといだし、あいつに王位継承権はない。王冠を巡る争いに巻き込むのは不憫だ。私がその場にいても、そうする」
逃げろ――という国王の言葉に、アルティノワ公は従わなかった。
「私もその場にいたわけではない。すべては伝聞だが……」
唯一、かろうじて生き残った暗殺者が治療を受けながら口走った言葉は、「悪夢だ」だったという。
「……悪夢、ですか?」
ロジィの問いに軽く頷いたベリエ公は、記憶を辿るように目を閉じた。
「異変に気づいた近衛騎士がその場に駆けつけたとき、まともに動ける人間はジュストとフィリップだけだった。フィリップは肩を浅く斬られていて、ジュストは、頬に飛んだ血が一滴。それだけだったらしい」
当時のメルヴェイユ宮殿警護担当クールモン将軍の聴取を受けたフィリップの説明は、こうだった。
軽傷を受けたこととアルティノワ公を逃がそうとしたことで、自分は暗殺者への注意を怠っていた。自身への襲撃が途絶えていることに気がついたとき、暗殺者の大多数は地に伏していた。
続いて聴取を受けた近衛騎士は、こう証言した。
あまりに激しい剣戟の音が続いたので、異常が起きたことを察した。その場に到着したとき、暗殺者はすべて動けない状態になっていた。そのため近衛騎士は剣すら抜いていない。
これらの言葉から考えられる展開は一つしかなかった――と、静かな所作で目を開けたベリエ公は言った。
「ジュストが、熟練の暗殺集団を退けたんだ。……たった一人で」
フィリップより十歳年下のアルティノワ公は、同じ師の許で剣術を学んでいた。練習相手はフィリップで、普段から互角に剣を交えることから、相当な腕前だということは知れ渡っていた。
けれど、それはあくまでも宮廷剣術。儀礼的な要素を多分に含んだ華麗な技だ。
暗殺集団が駆使する剣技は違う。必殺の剣術。相手の命を奪うことに特化した残酷な技。
「ジュストは、それができた。絶命した暗殺者は皆、一撃で倒されていた。相手を苦しめることがなかった……という点で、ある意味では慈悲深い剣術ではあるが……」
フィリップとアルティノワ公の剣術の師は、王族の教養として必要な宮廷剣術しか教えなかった。守られる立場である王族が、命を奪う技を習得する必要はないからだ。
それなのに、なぜアルティノワ公は、暗殺者と渡り合うことができたのか。――暗殺者を、仕留めてしまえたのか。
過去を語るベリエ公の表情が、初めて苦く歪んだ。
「ジュストが幼い頃から、そいつらの襲撃を受けていたからだ」
暗殺者が狙ってくる箇所、それがすなわち急所なのだと、アルティノワ公は戦う中で覚えてしまった。どこに剣を突き立てれば勝てるのか――相手の命を奪えるのか、アルティノワ公は実戦で修得していたのだ。
「フィリップと手合わせをするとき、その癖が出なかったのは、ジュストが本気ではなかったからだ」
わずか四歳で剣を握り、十も年上のフィリップを相手に研鑽していたのだ。剣術の腕前が熟練しないはずはない。しかも、暗殺の専門家が朝に夕に襲いかかって、命を奪おうとしていたら……。
「ごく自然に、ジュストは〈暗殺者〉として育てられてしまった……そういうことだ」
効率よく敵の動きを封じて、アルティノワ公は剣を振るい、フィリップを守った。――その行為で相手を絶命させてしまうことに躊躇いを抱かず。
相手が倒れてもアルティノワ公は止まらなかったという。最後の一人が戦意を喪失するまで、澄んだ蒼い瞳で周囲を見回し、フィリップを庇いながら動き続けた。
「駆けつけた近衛騎士の証言だが。……池のような血溜まりの中、子どもが血まみれの剣を片手に立っている姿は悪魔に思えた……だ、そうだ」
まさに、死屍累々。息苦しいほどの血の臭いと、おびただしい赤が流れているその場所で、幼い子は近衛騎士に振り向いた。
感情の宿らないガラスのような瞳。頬に飛んでいる一滴の〈赤〉が、ツ……と丸みを伝って顎まで垂れる。まるで血の涙のようなのに、こちらを向いている子どもの顔に表情はない。
子どもの姿をした悪魔が降臨して暗殺者をことごとく屠ったのではないか――近衛騎士は、そんな現実離れした報告をして減俸に処されたという。
そこまで語り終えたベリエ公は、遠くを見つめたまま、しばらく口を閉ざしていた。
ロジィも掛ける言葉を見つけられなくて、借りている上着の縁をぎゅっと握る。
「成功すると思った暗殺が、たかが七歳の子どもに阻止された。あのときの母上は半狂乱だった。……恐怖で」
ダンベルク帝国の支配者ウォルシュタイン家が長年飼い続けてきた暗殺集団。
彼らを、あっさりと退けてしまった〈アルティノワ公〉という存在に、大陸中が震え上がった。
特に、彼らをフィリップに差し向けたマリー王太后の怯え方は尋常ではなく、アルティノワ公が乗り込んできて自分を殺すのではないか、とまで恐れた。
「おかげで、母上はフィリップを暗殺しようとなさらなくなった。よかった」
ロジィは少し驚いてベリエ公を見た。王太后も、ベリエ公も、ルガールの王位を欲している。現国王が亡き者になればよいと思っているはず。
……今の言葉は、国王フィリップが存命することを望んでいるように聞こえるけれど。
「私を王にするため母上がフィリップを殺したら、人殺しの咎を負う。そんなことはして欲しくない。……同じクロヴィス二世を父に産まれて、フィリップだけが王位に就いているのは許せないが」
「……王弟殿下は、お優しいお方でいらっしゃるのですね」
ベリエ公は身内にだけ甘いのですよ……と、以前、ベルローズ公爵夫人から聞いたことがあった。ベリエ公が大切にする人物は母親と妻だけだと。
彼が大切にする人の中に、レティが加えられていることが嬉しい。王位より、母親の名誉を尊重するベリエ公が大切にしてくれるなら、レティの生涯は愛に満ちた幸せなものとなるだろう。
「私のことはいい。ジュストの話だ。それ以来、私はあいつを〈化け物〉と呼んでいる」
ふいに強く吹いた風が、ベリエ公の前髪をふわふわと揺らした。
「そのあいつが、おまえに危害を加えるなと脅してきた。だから私は、おまえを害さない」
納得したか、と、ベリエ公は小さく付け加えた。
「はい」
頷いてから、ロジィは俯いた。義務でしかない婚約者のために、アルティノワ公はそこまでしてくれていたのだ。申し訳ないと思った。
ロジィがベリエ公に疎まれていること、そのことは、アルティノワ公とはなんの関わりもないことだったのに。
「だから今後、おまえは私を見て怯えるな。逃げるな。怖がるな」
「はい……?」
急に話の矛先が変わって、ロジィは俯いていた顔を上げた。ベリエ公の端麗な顔が引きつっていた。
「おまえが少しでも私を見て怖がったら、ジュストが怒るだろう。私だって命は惜しい。いいな? わかったな?」
返事は!? と、怒鳴られて、ロジィは慌てて何度も頷いた。……この状況が恐いですとは、言わないほうがベリエ公のためだろう。
「よし」
これで安心して宮廷を歩ける……と、肩から力を抜いたベリエ公は、今度は自分の番だと言ってロジィに向き直った。
「おまえに訊きたいことがある」
「そのように仰せでしたね。わたくしでお答えできることでしたら、なんなりと」
ロジィもきちんとベリエ公を見つめ、誠実な態度で頷きを返す。
アルティノワ公の過去を丁寧に語ってくれたことに、精一杯の感謝を示したい。ロジィは何も知らなかった。いや、知ろうとしていなかった。
形ばかりとはいえ、ロジィはアルティノワ公の妻になるのだ。
どこまで踏み込んでよいのか迷う気持ちもあるけれど、少しずつでも相手を知っていかなければ、上手に仮面夫婦を演じることもできなくなる。そのことに、思い至った。
(……まずは、公の想い人を尊重しておりますと、そうお伝えしよう)
妻よりも恋人を優先してあげてください、と。それが本心なのですと言おう。
嫌われているのはわかっているから、王命を忠実に守ろうと無理をしないでください――と。
心の中で静かに決意して、ロジィはベリエ公の言葉を待った。
先ほどまでとは打って変わって、ずいぶんと逡巡していたが、ようやく覚悟を決めたのか、咳払いをする。
色の深い榛の瞳にロジィを映し込んで、ベリエ公は言った。
「セレスティーヌのことだ」
――――避けられてる。
ジュストは、苛々としながら上着に袖を通した。
王弟妃が参加する茶会の招きが途絶えたことは喜ばしいが、ローゼリアの部屋に行っても会えないことが多くなった。
庭園を散策しているとメラニエ男爵夫人は言っていたが、それならどうして婚約者である自分を誘ってくれないのか。ジュストは産まれたときからこの宮殿で暮らしているのだ。季節ごとの穴場にも詳しい。退屈させずに案内すると約束するのに。
……いや、一人きりで散策したいときもあるだろう。それはいい。いいが……。
(居留守を使ってるときもあるよな)
朝早くや、夜遅く。いささか非常識と言われる時間帯に突撃したこともあるが、部屋に入れてもらえなかった。
――正式に婚姻していない相手を閨房に入れるほど、慎みのない姫君ではないだろう。
とは、ジュストの愚痴を聞かされたフィリップの感想だが、それでも扉を開けて言葉を交わすくらいはしてくれてもいいだろうと思うのだ。……婚約者、なのだから。
見苦しい姿をしておりますので、とか。もう、お休みになりました、とか。
そうした返事をメラニエ男爵夫人が届けてくれたときは、まだいいほうだった。ローゼリアの居室を訪問するのはジュストだけだと判断したのか、呼び鈴の紐を引いても応対してくれないことが増えた。
仕える女官や侍女は、主人がいなければ「留守だ」と訪問者に伝えるのが仕事。それすらしないということは、主人が部屋にいて、なおかつ応対を避けているときだけ。
明確な拒絶だった。自分は何か、嫌われるようなことをしただろうか。心当たりと言えば、王弟妃と散策する約束を断れなかったことだけなのだが……。
(招待状の裏にメモ書きしたのが、気に障ったのだろうか)
受け取った招待状の裏を再利用するような、横着な言づては不快だったのかもしれない。
ローゼリアは、生真面目で、いついかなる時も誠実に振る舞おうとする姫君だ。
つい、フィリップを相手にしているような気安さで接してしまったが、もう少し〈婚約者〉らしく敬意を持って対応すべきだったか。
後悔と反省は泉のようにわき出てくるが、会えば誤解も解けるだろうと、ジュストは思った。
王弟妃との散策は気が乗らないが、その場にはローゼリアも招いてあるのだ。ジュストが王弟妃よりローゼリアを優先して振る舞えば、おざなりな言づてをしたわけではないのだと、わかってもらえるだろう。――――そう、思っていたのだが。
「お付きの女官はどうされたのです」
指定された待ち合わせ場所にいたのは王弟妃だけだった。いつもの取り巻きたちも姿を見せず、当然ながらローゼリアの姿もない。
「あら。二人きりでって言ったじゃない。女官たちが来るはずないでしょ?」
悪びれない態度で王弟妃は笑った。夫ではない男と二人きりで面会する――という事実の危険性には、まったく思案が及んでいないらしい。
(……ローゼリアとは大違いだ)
慎重で、思慮深い彼女であったなら、そもそも二人きりで散策しようなどと申し出ることもしないだろうが。
「さ。行きましょ。風が抜ける涼しい場所を見つけたの」
「お待ちください。ローゼリア姫が、まだいらしておりません」
王弟妃の顔色が変わった。怒りと、苛立ち。それらを内包したものに。
「お姉さまを呼んだの?」
「当然でしょう」
「逢引なのに、お姉さまを誘ったの!?」
……逢引? どこから出てきた、その単語。
冗談にしてもたちが悪い言葉選びだ。内心で面食らったが、驚愕と動揺を表には一切出さず、にこやかな笑顔を作り上げる。
「いつ、逢引と?」
落ち着いて応じるジュストの声を、冷酷だと感じ取ったのか、王弟妃はわずかに頬を青ざめさせた。
だが、すかさず顎をそびやかして傲岸な物言いに切り替えるところは見事だった。
「二人きりで散策するのよ。逢引の他に、どんな解釈があるっていうの」
逢引、などという不謹慎な言葉は、王弟妃の冗談なのだろうと思っていたが。……まさか本気だったとは。
「夫をお持ちの貴婦人と逢引するような趣味を、私は持ち合わせておりません」
今度こそ、声音に氷を混ぜ込んでジュストは言った。冷え冷えとした眼差しも追加する。……と。
「……アルティノワ公は、お姉さまが好き、なの?」
唐突に話題が変わった。先日の質問は「ローゼリアをどう思っているか」だった気がするが、やけに食い下がって訊いてくる。何かあるのだろうか。
どこまで答えるか。何を答えるか。風にそよぐ樹木を見ながらジュストは逡巡した。
王弟妃の話はころころと変わって脈絡がない。だが、それは第三者から見た視点であって、当人の中では筋道が通っているのだろう。
王弟妃が使用した「逢引」という単語。そして、ローゼリアへの好意の確認。
ヒントとなるものはこれくらいだ。この段階では選択肢がいくつもある。結論を出すのは時期尚早だと頭を振った。
(とりあえず、王弟妃と会話を続けないと)
交渉と同じだ。少しでも多くの言葉を交わし、相手の情報と感情を引き出して、真意を探る。
より多くの言葉を引きずり出すために、ジュストの返答は餌として効果的なものでなければならないが、迷ったときは単純に考えるのが一番だ。
ローゼリアを、好きか、嫌いか。答えは一つ。
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