【 第二章  ③ 】

「駄目って言ったら駄目なの!」


 黄金で装飾された小花模様のティーカップが見事な放物線を描いて宙を飛び、床で割れた。粉々に。


 耳障りな音が消えるより早く、今度は銀の燭台が壁に激突する。火がついていない燭台だったのは幸いだが、大きくへこんだ壁が、ぶつかった勢いの激しさを物語った。


 けたたましい音とともにポットが倒され、テーブルにはまだ熱いショコラがぶちまけられた。

 真っ白なテーブルクロスがみるみるうちにショコラを吸い上げていき、胸焼けするような甘い香りが室内に充満する。


「ですが、マダム――」

「口答えしないで!」


 果物を切り分けるためにと用意されていた小ぶりのナイフが、豪奢な寝椅子に置かれたクッションを滑るように切り裂いた。

 鋭利に切られ、散らばっていった糸くずとクッションの中身に、ミミが怯えた表情を浮かべる。


「絶対に帰さないわ!」


 手当たり次第にものを投げ、周囲を破壊したレティは、倒れこむように椅子に座った。


 彼女によってあらゆるものが散乱し、壊れ、破かれた休息用の小部屋は、まるで嵐が過ぎ去ったあとのような惨状だ。

 後始末が面倒だなと思いながら、ロジィは毅然とした態度で妹に相対する。


「わたくしが宮殿に留まることはマダムの益になりません」

「帰さないって言ってるの!」

「お考えをお改めください」

 真っ向から言葉を返され、レティの眉が跳ね上がった。


「わたしに命令するの!? わたしは王弟妃よ!」

「王弟妃でいらっしゃるなら、わたくしが宮殿に留まる不利益についてもご理解なさいますように」


「何その言い方! お姉さま、わたしを馬鹿にしてるんでしょう!?」

「そ――……」


 言い返そうとしたロジィだったが、実際に言葉を発することはできなかった。

 ミミが、半べそをかきながらロジィの腕にすがりついてきたからだ。


「もう、もう、そのくらいでおやめくださいませ、ローゼリア様。これ以上、妃殿下がお怒りになっては、ベリエ公のお耳にも入ります。どうか、どうか――」


 ロジィは吸った息を吐いて、わかったと、軽く目で頷く。

 表向きはレティとミミしかいないはずの部屋で、すさまじい怒号と騒音が聞こえてくれば耳目を集めてしまうのは明白だ。


 今日こそはレティを説得する――と、ロジィとミミは結託していたのだが、早くも暗礁に乗り上げてしまった。


 視線で会話するふたりを見たレティは、手にしていた小さなナイフを放り投げて肩を竦める。


「仲がいいのね。わたしの言うことは聞けないのに、ミミの言葉は聞くってわけ」


 レティが投げたナイフが思いがけず足下に転がってきて、ミミがびくっと肩を震わせた。


「お心をお静めください、マダム」


 怯えるミミの腕を撫でて落ち着かせてあげながら、レティの感情が凪ぐように、ロジィは努めておっとりと話しかけたが逆効果だった。


「命令しないでって言ってるでしょ!」


 焼き菓子が盛られた銀皿が床に落ちて、繊細な彫金が施されていた縁が無残に変形した。ミミが再び、びくっと震える。


 女官や侍従たちが駆け込んできてもおかしくない物音だったが、レティが癇癪持ちだということは宮廷に知れ渡っているそうで、ミミが呼びつけない限り立ち入ってくることはないという。


 ただし、それは使用人たちに限った話だ。

 ベリエ公を足止めする方法はないので、この状況で踏み込まれたら、ロジィの存在に言い訳ができない。それもあってミミは必死に口論を止めようとしていた。


「ロ、ローゼリア様、今日のところは、もう」

「でも、言わないと駄目でしょう」

「もっともですが、けれど、今の妃殿下には……」


 機嫌を伺うように、弱々しい視線をそぉっと向けるミミの態度が逆に癇に障ったのか、レティはますます激高した。


「何をこそこそ話してるのよ! わたしは仲間はずれってこと!?」

「め、滅相もありません、妃殿下。これ以上の無礼なご発言はおやめくださいとローゼリア様に……」


「そうかしら。ずいぶんと仲が良さそうに見えるわよ。あなた本当はわたしの女官じゃなくて、お姉さまの侍女なんじゃないの?」


 女主人から強い口調で叱責され、泣き出しそうな表情でミミが口を閉ざす。


 沸騰しているレティには何を言っても無駄だ。しばらく放置しておいて、レティの怒りが沈静化してからでないと会話ができない。


 ロジィも長いつきあいでそれは充分に理解しているが、今回ばかりは悠長なことを言っていられなかった。

 ラルデニアの相続権を有しているローゼリアが、この宮廷に留まっていることはレティの不利益になる。


 現状、ロジィが選べる選択肢はふたつだ。

 セレスティーヌに成りすましたまま〈姉〉の身勝手を証言するか、あるいはローゼリアが正真正銘の修道女になるか。


 どちらかしか選べないなら、ロジィは「偽らないほう」を選びたかった。


 紛糾する相続権移行問題を解決するためには、ローゼリアが身勝手だったと偽るほうが角も立たず、容易だろう。


 わかってはいるが、ロジィはもう、レティの振りをして何かを言ったりやったりするのは、嫌だった。


(わたしの、わがままだけど)


 生涯にわたる不名誉を引き受ける覚悟ができない自分が情けなくて、自嘲気味に落とした溜息を、レティが耳ざとく聞きつけた。


「何。その溜息。わたしといるのは退屈ってわけ?」


 違います、と答えかけたロジィは、そこで思いとどまった。

 これは好機かもしれない、と。


「――――。そうですね」


 レティが、眦を吊り上げて怒りの形相を浮かべた。


 その言葉を間近で聞いていたミミは、口を大きく開けたままロジィを見つめている。呼吸も忘れているかのような表情だ。


 彼女の衝撃はわかるが、穏便な話し合いがもはや不可能なら、腹をくくって目標を達するよりない。

 ――――たとえ、姉妹の仲に決定的な亀裂が入ったとしても。


「そういう解釈をなさって結構ですから、どうかマダム。わたくしをラルデニアにお帰しくださいますよう」


 レティの顔から、表情が消えた。

 傷つけてしまった――と、ロジィの胸が痛んだとき。


「帰る? 帰る、ですって? なに言ってるの、お姉さま。ラルデニアに帰れるって思ってるの?」


 呆れた、と言わんばかりに肩を竦めて、レティは冷ややかにこちらを見やった。


「ラルデニアは、わたしたちフロワ家の領地よ。お姉さまは修道院送りになったんじゃない。フロワから追放されてるのに、わたしたちが統治してるラルデニアに帰れるわけないでしょ。言葉を間違えないで。お姉さまに帰る場所なんて、ないのよ」


「……ひ、妃殿下……、それはあんまりな……」

「お姉さまの味方をするの!?」


 鞭打つような烈しい声で怒鳴られて、ミミが慌てて口を閉ざす。

 これまでになく豹変したレティの態度にはロジィも驚いたが、彼女の言い分は正しいので、反論せず丁寧に頭を下げた。


「マダムの仰るとおりです。失礼いたしました。どうか、マダムのご温情をもって、わたくしが聖クロード女子修道院へ赴くご許可を賜りたく存じます」


「許さないわ」

 氷よりも冷たいレティの声だった。


「誰のせいで、わたしがここにいると思ってるの? 自分だけ逃げ出そうなんて、勝手なこと言わないでよ」


 逃げ出そうなんて思っていない。

 ロジィの居場所も、いる権利も、ここにはないから立ち去ろうとしただけだ。

 でも。


 ――――誰のせいで。

 その一言は、深く、強く、ロジィの心に突き刺さった。


 わたし、の、せいなのだろうか。

 レティがルガール王弟に嫁いだのは、わたしのせい?


 ローゼリアとベリエ公との縁組は、そもそも。

 ルガールと、ラルデニアと。双方の思惑と利害が一致して為された婚約だった。


 一度も会ったことのない婚約者が結婚式のために領地にやってきて。顔を合わせる機会もないまま「修道院へ行け」と伝えられた。


 ロジィにとっては、それ以上でも、それ以下でもない。自分の意思とはかけ離れたところで話がまとまり、そして壊れた。


 わたしに落ち度があったのか。あったとしたら、どこなのか。


 婚約が定まってから、ベリエ公とは手紙のやりとりどころか、肖像画の交換すらしていなかった。それなのに、ベリエ公がロジィに対して何を思い、レティの何を見て愛したのかなんて、わかるはずもない。


 ――――わからないと、思うことがいけないのだろうか。


 そのせいで、レティはこんなにも苦しんでいる……?

 どう言葉を掛けたらいいのかもわからなくて、口からほろりとこぼれ落ちたのは、ずっと昔から呼び慣れている愛称だった。


「……レティ」

 聞き咎めたレティが、すかさず烈火の声を上げた。


「わたしは〈王弟妃〉よ!!」


 切り裂かれたクッションがロジィに向かって投げつけられる。

 ロジィの顔面にぶつかったクッションは、中身の羽毛をふわふわと撒き散らしながら、床に転がった。


「ローゼリア様!」


 顔に傷がついていないかのぞき込もうとするミミを手で制して、ロジィはレティに視線を向けた。


 ――仇を見るような、敵意に満ちた眼差しがロジィを迎え撃つ。


 初めてメルヴェイユ宮殿に来た頃は、あんなに「レティと呼んで」とねだっていたのに……。


「失礼しました、王弟妃様マダム


 膝を折っても、形式ばかりの謝罪としか思ってもらえないだろう。

 案の定、レティはロジィの言葉を鼻先で笑い飛ばした。


「許さないって言ってるでしょ。お姉さまには、ちゃぁんと、お務めを果たしてもらわなきゃ」

「……お務めとは、なんでしょうか」

「王弟妃の務めよ」


 ロジィは首を傾げた。


「これまで、充分に代行したと存じておりますが」

「そ、そうです、妃殿下。正当な妃殿下ではない方が、妃殿下としてメルヴェイユ宮殿に滞在なさるのは――」

「黙りなさい、ミミ」


 若葉色の瞳に睨みつけられて、ミミはそれ以上の言葉を口にできない。


「肝心な務めを、果たしてもらってないわ」


「……肝心な……?」

「務め、で、ございますか……?」


 ミミとロジィは、オウム返しにレティの言葉を繰り返し、互いにじっと見つめ合った。

 レティの言いたいことがわかるかと、無言で会話する。……理解できるはずはなかったが。


「あら嫌だ。お姉さまともあろうお人が、王弟妃の務めもわからないの?」


 試すように言われて、ロジィは必死に思考を巡らせる。


 国王主催の舞踏会では無難に振る舞い、ベルローズ公爵夫人のサロンにも出席した。

 ベリエ公と並んで出席する宮廷行事には出ていないが、それをして欲しいと言いたいのだろうか……。


 困惑したまま何も答えられないロジィに痺れを切らしたのか、レティは吐き捨てるように言った。


「世継ぎに決まってるでしょ」


 ――――世継ぎ。


 ルガール王国の将来を考えるならば、絶対に必要な存在。

 それと、王弟妃の務めが、どう繋がると?


「懐妊したら馬に乗れなくなるわ。そんなのは嫌なの。もともと、お姉さまが王弟妃になるはずだったんだから、ルイ様の子どもも、お姉さまが産んであげればいいのよ」


「何を言っているの!」


 ロジィは思わず叫んでいた。

 この子は――レティは、いったい何を考えているのだろうか。正気なのか。


「ベリエ公と婚姻したのは、あなたよ、セレスティーヌ」

「ええ。お姉さまの〈代わり〉にね!」


 煮えたぎった双眸がロジィを射貫いた。


「お姉さまの代わりに、わたしは結婚したわ。だから、わたしが嫌なことはぜぇんぶ、お姉さまが代わりにすべきよ。そうでしょ?」


「……結婚が、嫌だったの……?」

「そうじゃないわ。ルイ様は顔も好みだし、王子様だし、ちやほやしてくれるし。でも、わたし、子どもはいらないの。けど、ルイ様も王太后様も、早く世継ぎを産んでくれって煩くって」


 国王フィリップに嫡男が誕生するより早く、愛息のベリエ公に男児を得たいという王太后の考えは理解できる。


 王太后の思惑は横に追いやるとしても、現実問題としてフィリップには妃がいないのだから、このまま進めば嫡男誕生は夢のまた夢だ。


 次世代の王位継承者確保は、王太后に限らず、ルガール国民すべての切なる願いだろう。


 国王の嫡子であることが最も望ましいが、王太后の専横を退けられない以上、直系にこだわれる状況でないことは貴族たちも承知のはず。


 ルガールの法により、庶子と女児には王位継承権が与えられない。

 しかし、女王の誕生を認めていないだけで、女系は認めるという複雑な継承法を持っていた。

 王位継承と領土相続を別物として捉えるルガール族特有の考え方からだ。


 国王に王女しかいないまま崩御が発生した際には、王女の夫が次代の「王」となり、王の妻である先王の王女は「王妃」として遇する。


 だが、この場合、王女の夫は他国王族である確率が高い。そうするとルガール王が他国の王族ということになり、王の母国からの干渉を受けやすい不安定な状況を招いてしまう。


 ルガールの独立性を確保するならば、可能な限り「ルガール王家の血を引く男王」が望ましいのが本音。


 国王が健在で、王女夫妻に男児が誕生していれば、一代飛ばして「王の孫」を次期国王として指名することは可能だ。この場合は王太子殿下ではなく〈王太孫殿下〉の称号が与えられる。


 だが、このルールを現状に当てはめようにも、フィリップには妃がおらず、嫡出となる女児すら得られていない。孫が生まれるかもわからない。


 となれば、たとえ王弟の子であっても、男児の嫡子が一刻も早く欲しい。

 王弟妃となったレティの「馬に乗れなくなる」などといった個人的な感情は、考慮されないところに来ているのだ。


 けれど、レティは自分の主張が当然であるかのように、続けた。

「だから、お姉さまを呼んだのよ」


「え」

 ロジィは、嫌な予感に背筋を凍らせた。


 ――――「だから」? だから、って、何?


 顔を強張らせたロジィを見て、レティは面白そうに表情を綻ばせる。


「わたしの代わりをして欲しい――最初に、お姉さまに言ったでしょ?」


 ……言われた。


 言われたが、まさか、そんなことを要求されていたとは思っていなかった。

 だって、考えられるだろうか。


 身代わりになって子を産んで欲しい、など。そんな意味合いを含んだ〈代わり〉とは。


「賢いお姉さまだもの。初めからわかってたんでしょ?」

「わかるわけないでしょう!」


「バカ言わないでよ。王弟妃の務めよ、王弟妃の、つ・と・め。一番大事な務めが〈世継ぎを産むこと〉だって、お姉さまなら理解してたはずじゃない」


「まさかそこまで身代わりを務めるとは考えないわよ!」


 相手を〈王弟妃〉ではなく〈双子の妹〉として、敬語を付けずに会話してしまったが、それを真っ先に咎めるはずのミミは、レティのあまりな要求に意識を失いかけている。


「わたしは、ここで、窮屈な生活をさせられてるの。それもこれも全部、お姉さまの代わりに結婚したからよ」


 床にぶちまけた菓子を、行儀悪く靴の先で蹴り飛ばしながら、レティが言う。


「面白そうだったから、お父さまやお母さまを助けてあげるくらいの気持ちで結婚するって言ったけど、絶対に子どもを産まなきゃいけないなんて知らなかったわ。知ってたら、絶対に結婚するって言わなかったのに。失敗した」


 レティが、この婚姻を後悔しているなら、取り消すことは不可能ではない。――非常に困難ではあるが。

 その、たったひとつの可能性に思い至って、ロジィはふと呟いた。


「……聖王庁に根回しができるかしら」

「なんで聖王庁?」


 菓子を蹴る爪先に落とされていたレティの視線が、ロジィと重なった。

 妹の若葉色の瞳をしっかりと見据えて答える。


「特赦を得ることができれば離婚も可能になるわ」


 一夫一婦制を推奨しているリジオン教では離婚が御法度。どんなに仲が悪い夫婦でも〈死がふたりを別つまで〉婚姻を継続しなければいけない。


 ――ただし、それはやはり〈建前〉だ。

 身分が上になればなるほど、つまり王侯貴族になればなるほど離婚例は増える。


 王族の結婚は領土問題や外交政策と直結しており、国家にとってよりよい婚姻相手を見つけてしまった場合、今いる配偶者を切り捨てる必要があるからだ。


 時代を遡れば、邪魔になった配偶者が〈急死〉することは多かったという。

 流感の流行などと時期が重なっているため「灰色」とされている案件の中には、毒殺説や暗殺説がまことしやかに囁かれているものもある。


 とある国王の伴侶が立て続けに五人も〈急死〉したことを受け、聖王庁は「特例」を設けて離婚を認める方向へ舵を切った。殺人よりも離婚のほうが教義に反しないという苦肉の策だ。


 確か、ルガール国王の従姉姫も国家間の思惑により離婚し、別の相手へ再嫁していた。

 引き続いて二人目も、というのは難色を示されるかもしれないが、父の従姉ベアトリスは聖クロード女子修道院の院長だ。そちらの線から聖王庁に働きかければ、あるいは――。


 必死に頭の中で算段を付けていると、レティが不機嫌な声で言った。


「なんで離婚しなきゃいけないのよ」

「え? だって――」


 失敗したと、そう嘆くほど後悔しているのではないのか?


「ここにいれば最高の贅沢ができるわ。しきたりだの作法だの、窮屈なのは嫌だけど、ローブも料理も、ラルデニアとは比べものにならないもの。ルイ様は毎日、たくさんの贈り物をくれるし」


 ロジィは、しぱしぱと瞬いた。

 毎朝の熱烈な情景を思い出し、ああ、と頷く。


「そうね。あなたをベリエ公が手放すはずがないわね」


 あれだけ〈天使〉を崇拝しているのだ。手元から飛び立とうとするならば、その翼をへし折るくらい平気でやるだろう。――菓子と衣装で懐柔するという手段で。


「ルイ様のことは嫌いじゃないけど、子どもを産むのは別の話だわ」


 出産は婚姻の絶対条件ではないが、この時代、子を産めないことを理由に離縁される女性は少なくない。王侯貴族であれば世継ぎの確保は死活問題だからだ。


 聖王庁が設けた離婚の「特例」にも、夫婦に子がないこと――つまりは正式な婚姻関係が成立していないという〈白い結婚〉が理由として数えられているほどだ。


「……わがまま言わないで」


「わがまま? どこが? わたしは、お姉さまの代わりに結婚して「あげた」の。それで充分でしょ。どうして子どもを産むことまで強制されなきゃいけないのよ」


 子を産みたくないと主張することは、周囲から離婚の圧力をかけられる要因になる。ルガール王弟妃の座を狙っている国家は多いのだ。


 レティにベリエ公と別れる気がないならば、隙を見せるべきではない。

 それなのに、レティはどうしてそこまで頑なに拒むのだろう。


「……子どもが、嫌い?」

「わたしにはいらないわ。好きなことができなくなるもの。今まで以上に」


 レティの趣味は狩猟と乗馬。懐妊すれば問答無用で取り上げられるだろう。


 これもルガール宮廷の規則だ。

 現王フィリップの生母である先王クロヴィス二世の二人目の王妃アデルは、フィリップを出産した翌年、落馬事故により十九の若さで急逝した。


 以来、ルガール宮廷では王族女性の乗馬が原則として禁止になっている。

 あまり速度を出さない、宮殿の馬場から出ない、最低でもふたりの従者を付ける、などの条件付きで許可される場合はあるが、懐妊した身で乗馬は無理だ。


 ラルデニアにいた頃、レティは朝と夕、馬を駆けさせることを日課にしていた。

 豪華な宮殿に閉じ込められていては、気分が鬱々としてしまうのだろう。それが、子どもを拒絶している理由かもしれない。


「子どもと、乗馬を、交換条件にしてみては」


 世継ぎを産んだあとならば、とやかく言われるいわれはないだろう。

 呟いたロジィに、噛みつくような勢いでレティが叫んだ。


「したわよ! そうしたら王太后様、なんて言ったと思う? こうよ。「わたくしが満足する子どもを満足する数だけ産めたら許してあげてもよろしいのよ」ですって!」


「それは……」

 王太后の心次第ということではないか。事実上、不許可を宣告されたに等しい。


「なんで馬に乗るのに王太后様の許しが必要なのよ!」


 レティは荒っぽい仕草で立ち上がり、近くにあったものを手当たり次第に床へ叩きつける。

 幸いなことに、寝椅子に置かれていたのはクッションばかりだったので、派手な音が鳴り響くことはなかった。


「産まれてくる子が女の子ばっかりだったらどうするの!? 男の子が産まれても、もうひとり、もうひとりって催促されたら!? わたしは王妃になりたくて結婚しただけよ! ルガールの繁栄なんて知らないわ! 王太后様が世継ぎを産めばいいのよ!!」


「ひ、ひ、妃殿下、おお、お静まりあそばしませ……」

「うるさい!」


 止めようとしたミミが振り払われ、床に倒れ込んだ。顔の横に、ちょうど先ほど転がったナイフが落ちていて、それを見てしまったミミはとうとう泣き出した。恐慌状態だ。


 ロジィは彼女を助け起こしながら、落ち着かせようと話しかける。

 宮廷での呼び名である「メラニエ男爵夫人」ではなく、あえて昔からの呼び名で声をかけた。


「……ミミ、ここはいいから、部屋に下がって休みなさい」

「わたしの女官に勝手に命令しないで」


 ゆっくり、ゆっくりと。

 レティがミミに歩み寄る。落ちていたナイフを拾い、それをミミの鼻先に突きつけた。


「あ……、ひ……ッ」


 ミミの身体が、尋常ではないほど震え出すのが、支えていたロジィにも伝わってくる。


「レティ、やめてあげて。やめなさい!」

「うるさいわよ、わたしの女官をわたしがどう扱ったって自由でしょ?」

「主人なら仕えてくれる者を大事にしなさい」

「あーら、ご立派なお考え」


 薄く笑いながら、けれど、レティはナイフを下ろさない。

 ミミの全身はますます震えて、瞳からは止まらない涙があふれ続ける。


 ミミアンは、ラルデニアの村娘だった。

 ごく普通に小麦を育てて領主に治める農家の娘だったが、運悪く、強盗に家を荒らされたことがあったのだ。


 家族の誰も怪我をすることはなく、ただ蓄えていた小麦をあらかた持って行かれたというだけだったが、剣を突きつけられて脅されたのが相当に恐ろしかったようで、以来、ミミは刃物を極端に怖がるようになった。


 農家なら、鎌や鍬などの農具を扱う。その刃すら怖がるので、家の仕事も手伝えない。

 困った両親が領主に相談し、刃物を扱わなくても大丈夫な〈侍女〉として城館に奉公させることにしたのだ。


 ロジィも、レティも、そのことは母からよく聞かされていた。

 日常的に使う小さな刃物でさえ、ミミが怖がらないように気を遣っていたのに。


「ミミ、あなた、わたしの女官でしょ。ほぉら、言うことを聞きなさいよ。お姉さまを「わたし」に仕立てて、あの寝室に送り込みなさい」

「――――」


 ナイフをミミの顔面に突きつけ、脅すように命令するレティの異様な気迫に呑まれて、ロジィも言葉が出せなかった。


 レティが、ひどいことをしているとわかるのに。ミミの前からナイフを早くどかさなくてはと思うのに。

 ――――妹が怖くて、声が出ない。


「ちょっと、返事は。……わかったの? わからないの?」

「わ、わ、わかりました」


 ミミが震えながら頷くと、レティは、さっと立ち上がって周囲を見回した。


「じゃあ、さっさとやってよ。あと、ここも早く片付けて。汚くって居られないわ」

「も、申し訳ございません」


 ガタガタと身を震わせるミミを見下ろし、レティは再びナイフを突きつける。


「謝罪は要らないの。早く動いて早くやって」

「は、はいっ」


 恐ろしいナイフから逃れたい一心なのだろう。

 ミミは、すさまじいほどの力でロジィの腕を掴み、引き起こした。


 そのまま無言でレティの閨房まで引きずられていく。ロジィよりも背の高いミミが大股で歩くので、小走りについていくしかなく、実際、脚がもつれて転びかけ、文字通り「引きずられ」る。


 レティがミミに何を命令したのか。自分がこれから、何をさせられてしまうのか。

 わかっているのに、身体が思うように動かない。


 豹変してしまった妹の姿。

 自分の女官にナイフを突きつけて脅しているときの、血走った瞳。


 それらが眼裏にこびりついて、抵抗することができない。

 レティの姿だけが残像となってよみがえって、自分がどこを歩き、何をされているのか、まるでわからなかった。








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