【 第四章  ⑤ 】

 さりさりさり。

 イーゼルに載せた紙の上を、ペンが走っていく音だけが聞こえてくる。静謐な空間だ。


 ロジィは「動かないように」という画家の注文に誠実に応えていた。

 視線の動きも制限されるとなれば、自由になるのは思考だけだ。ロジィは微笑みの形に唇を固定した状態のまま、昨日になって初めて聞かされた内容を脳裏で反芻していた。





 肖像画のモデルを務めて欲しい。

 アルティノワ公から、そう言われたとき、ロジィはてっきり「アルティノワ公婚約者」として、肖像画を制作するという意味なのだと思った。


 ところが、蓋を開けてみれば「王弟妃セレスティーヌとして」だった。

 基本的に肖像画は、何かの目的があって作成されるもの。即位や結婚、もっとも多い例としては王族同士の見合いがある。


 ベリエ公の縁談相手は当初ローゼリアだったが、ふたりが肖像画の交換もしないまま結婚に至っているのは周知の事実だ。

 挙式直前に結婚相手がローゼリアからセレスティーヌにすり替わったが、王弟妃候補の肖像画が作成されていなかった、という事実に変わりはない。


 だが、ふたりはめでたく婚姻を果たしているのだし、今さら作成しても意味はないと思ったら。


「メルヴェイユ宮殿のギャラリーに歴代王族の肖像画が飾られているでしょう。あちらに、王弟妃を加えるべきだという意見が出たのです」


 王家の威信と威容を内外に示すため、王族はやたらと肖像画を必要とする。

 宮殿のあちらこちらに「何代前の王妃ほにゃらら」や「何代前の国王しかじか」の肖像画が飾り付けられていて、いかにルガール王国が歴史と伝統ある国家なのかということを訴えているのだ。


「それでどうして、わたくしに……?」

「ベリエ公の要望ですよ。愛妻を宮廷画家の前に出したくないそうで」

 宮廷画家のような身分の卑しい男に妃を見られたくはない。だが肖像画は必要。

「同じ顔の貴婦人がいるのだからお願いしたい、だそうです」

「――――」


 確かに、肖像画にはいろいろと修正が入ってしまうもの。

 肖像画と本人を並べると「え、別人よね」なんてことは日常茶飯事。あんな詐欺があっていいのかと騒ぐ人も多い。

 ベリエ公も大胆なことを画考えるわね――と苦笑したら。


「このことは廷臣会議でも承認されました」


 信じがたい一言を聞いた。レティの我が儘なら、まだ納得もできる。それにベリエ公が便乗したというのも、なんとなく想像できたが……。


 ――――最初から別人で公式肖像画を仕上げるなんて聞いたことがないわ。


 そもそも、別人の肖像画を〈王弟妃〉として並べることは、各国を騙すことにならないだろうか。ルガールという国家に対する信頼が失墜するかもしれないのに。


 唖然として言葉が見つからないロジィに、アルティノワ公は「内密な話ですが」と前置きして、裏事情を話してくれた。


「王族の成員が増えたのであれば、肖像画は早急に仕上げなければなりません。本来ならベリエ公の婚儀が執り行われた段階で肖像画を作成しておくはずでした。しかし、王弟妃が引きこもってしまったので、日延べされているのです」


 新たに王弟妃となったセレスティーヌ姫を描いた肖像画を宮殿に飾る。そしてそれを、周辺諸国の大使たちの目に触れされる。それが廷臣たちの本当の目的だと。


「……ラルデニア伯領がルガールに併呑される事実を早く示したいのですよ」


 王弟妃の肖像画一枚に、ラルデニアを虎視眈々と狙っているグロリア王国を牽制する意味合いが多分に含まれているのだと。


「肖像画を速やかに仕上げる必要があります。そのためにはあらゆる手段を講じることもやむなし……というのが廷臣らの答えなのですよ」


 張りぼてでも偽物でも、王弟妃の肖像画だと言い張れる絵があれば、それで充分。

 国益を最優先に考えるのは当然で、ルガールの庇護を得られればラルデニアにとっても悪い話ではない。

 ロジィは、身代わりのモデルになることを承諾するしかなかった。





 王弟妃の正式肖像画を描くからには、宮廷用ローブで王弟妃の盛装をする必要がある。

 朝の軽食後、ロジィはミミの手を借りて「王弟妃の衣装」に身を包んだ。


 若さと瑞々しさを表す新緑色のローブは、成婚式のお色直しで着用されたローブだという。

 色が緑なのは瞳の色に合わせたからで、ベリエ公が常日頃「我が妃にはこの色がもっともよく似合う」と、絶賛しているからだとか。


 デコルテは宮廷風に大きく開いているが、クリーム色のレースで首元まで覆われていて、大胆でありながら清楚さを醸し出していた。レティの好みとは少し違う意匠だが、王弟妃らしい慎ましさを演出したいという意図だったのだろう。襟ぐりが控えめなので、ロジィも安心して着用することができる。


 レースの上を彩るネックレスは真珠の五連で、ひときわ目を惹くのは中心に飾られている、親指ほどの大粒真珠。

 真珠は「人魚の涙」とも呼ばれる貴重な宝飾品で、黄金にも等しい価値があった。これほど贅沢に使用できるのは王族だからこそだ。


 しかも、ネックレス中央の大粒真珠は、かつてルガール王家に嫁いだフィオーレ王女が婚礼衣装として持ち込んだ品で、王家の宝とされている宝飾品〈愛の雫〉だった。

 イヤリングの意匠がネックレスと合わせたものなのはお約束だが、こちらに使われている真珠が〈愛の雫〉より小ぶりになってしまうのは、致し方ないことだ。


 たっぷりと重ねられたボリュームのあるジュップはごく淡い黄緑で、金糸で細かに花の意匠が刺繍されていた。要所には小粒のダイヤモンドやトパーズなどが縫いつけられていて、繊細な輝きを放っている。


 白絹の長手袋を着け、その上から飾っているブレスレットは、菱形に整えられた小さなエメラルドで手首をぐるりと巡らせたもの。

 それと同じ意匠の髪飾りが結い上げた栗色の髪の毛に一緒に編み込まれていて、愛らしくも品のある髪型になっていた。


 仕上げは小さめのティアラだ。ネックレスと髪飾りに合わせて、エメラルドとダイヤモンド、無数の小粒真珠で飾り立てられた豪華なものだ。

 これだけ豪華なティアラなのに正式な王弟妃冠ではないのだという。


 ロジィが王弟妃の振りをするのは黙認された事態とはいえ、偽物が本物の王弟妃冠を着用してしまうのはいかがなものか――ということになり、王室の宝物庫で眠っている古いティアラを出してきたのだとか。


 羽織っているケープの縁取りは王族しか着用を許されない白貂の毛皮が使用された豪勢な品。ケープ自体の色味はルガール王家を象徴する深い青なので、毛皮の白さが際立つ。


 それらの衣装に身を包んだロジィは部屋の窓辺に寝椅子を置き、ゆったりと腰掛けてポーズを取っていた。

 右手に扇子を持ち、左手は寝椅子近くの小卓に置かれた祈祷書をさりげなく指し示す。


 リジオン教を敬虔に信仰しているルガールの王弟妃らしいポーズだ。このポーズは廷臣たちからの強い要望だと聞いている。


(本当に、こんなことをしていて、いいのかしら)


 真剣な面持ちでペンを動かしている〈宮廷画家〉を、ロジィは視界の隅でそれとなく観察した。

 ロジィをモデルにセレスティーヌ王弟妃の肖像を描いている宮廷画家は、何を隠そうアルティノワ公なのだ。


「姫、少し窓のほうを向いていただけますか。……ああ、そう、そのままで」


 審問会にベリエ公が乱入したことで風向きが一気に変わり、ロジィから「ふしだらな女」という烙印は外された。


 だが、宮廷を騒がせたことは事実であるので、国王フィリップは一ヶ月の謹慎をロジィに命じた。

 今は、その謹慎中である。メルヴェイユ宮殿に賜った私室に引きこもり、一歩も外に出ないこと――と、されているはずなのだが。


 謹慎から三日。アルティノワ公がロジィの部屋を訪れ、肖像画のモデルをする運びになってしまったのだ。およそ、謹慎している人間が取る行動ではない。

 それに、肖像画を描く画家がアルティノワ公だということも、ロジィの困惑を深めていた。


「そちらに伺っても? ローゼリア姫」


 下絵のデッサンに区切りがついたのか、アルティノワ公の視線がロジィに向いた。

 吸い込まれそうな蒼の瞳だ。まるで極上の青玉を磨き上げて、そこに象眼してあるかのように。


「……ええ、どうぞ」


 ポーズをやめて頷くと、数枚の紙を持ったアルティノワ公は滑るようにこちらへ歩み寄ってきた。手近にあったスツールを引き寄せてそこに腰掛ける。


「基本的なポーズはこちらですが、どちらがお好みですか? もしくは、他に何かご希望が?」

「え」


 ……なぜ、そんなことを、わたしに訊くのかしら?


 親しげな物言いで尋ねられて、ロジィはしげしげと、間近に迫った繊細な面差しを凝視してしまった。

 が、美しい蒼玉と見つめ合っていても話が先に進まない。ロジィは遠慮がちに答えた。


「そういったことはベリエ公か、国王陛下にご確認なさったほうがよろしいのではありませんか」


 これは〈王弟妃の肖像画〉だ。ルガールという国家が望んでいる王弟妃の姿が描かれなければ意味がない。――だが。


「なぜ? モデルは姫でいらっしゃるのに」

 至って真面目な表情で言われてロジィは慌てた。

「こちらは、わたくしの肖像画ではありません。わたくしの意思は必要ないのです」

「姫が王弟妃の代役でいらっしゃるのは承知しておりますよ」


 ですが、とアルティノワ公は言葉を続けた。

「この場にいらっしゃるのはローゼリア姫です」


 ロジィは「はい」と頷いた。彼の言いたいことが今ひとつわからず、頷くしかできない。

 きょとんとしてアルティノワ公を見つめるロジィに、正面から視線を重ね合わせ、彼は言った。


「私が描いているのは王弟妃ではなく〈王弟妃のローブに身を包んだローゼリア姫〉だと申し上げたいのです」

「――――」


 一切の音が消えたような錯覚がした。


 現実は違う。向かいの部屋は国王居室で、フィリップが在室していても不在であっても、侍従や従僕たちの出入りは激しい。廊下を歩き回る靴音だって響いてくるし、窓の向こうからは庭を散策している貴婦人たちの甲高い笑い声がひっきりなしに聞こえている。


 でも、アルティノワ公の言葉が聞こえた一瞬だけ、ロジィは別世界に誘われた気がした。


 レティの身代わりを務めている間はずっと、〈ローゼリア〉という個の感情を封じなければいけないと思っていたから。


 ――――王弟妃のローブを着ている、わたし。


 ほんの些細なニュアンスの違いに過ぎない。言っていることは同じだと思うのに、呼吸が楽になった。


 この場にいるのは「王弟妃を演じているロジィ」ではなく「王弟妃の衣装を着ているロジィ」である。――そう、言われただけなのに。

 ローゼリアという一個人を認められているような気持ちになったのだ。


「……わ、たし……」

「ええ、そうです」


 アルティノワ公は力強く首肯した。


「ローゼリア姫を王弟妃らしく描く、ということが王命です。絵が完成したときに誰の肖像だと受け止めるか、それは鑑賞者の問題であって私には関わりのないこと。私の目で見る肖像画のモデルはあくまでも、王弟妃ではなくローゼリア姫なのですから」


 ぽわっと、体温が上がったように感じた。

 レティの身代わりや肩代わりをしているロジィではなく。ローゼリアとして認識してくれる人がいる。そのことが嬉しい。心が温まると、体までほかほかしてくるだと、初めて知った。


 ――――不思議。


 アルティノワ公がロジィを嫌っていることは、燃やされていた招待状の残骸を見たときに理解している。

 それでも、彼の言葉は、こんなにも――ロジィの心を軽くしてくれる。


「画家がモデルに絵の希望を尋ねるのはごく自然なことです」


 だから、どのように描いて欲しいのか仰ってください、とアルティノワ公は問いを重ねた。

 悩むことなくロジィは答える。


「ありません」

「……姫、遠慮なさらずに――」

「本当に、ないのです」


 だって「王弟妃の身代わりをしている人」ではなく「ローゼリア」として見てくれている人に、これ以上、何を望むことがあるの。


 ――――レティの格好をしていても〈わたし〉を見て欲しい。


 誰にも、一度も、言うことができなかった言葉。心からの、願い。

 それを叶えてくれているのに、望みも希望も、ありはしない。肖像画を担当する画家がアルティノワ公であること、この巡り合わせを神に心から感謝したい気持ちだ。


「…………」

 アルティノワ公は不満そうだった。果てしなく。


「肌艶をよくしろとか鼻を高く描けとか身に着けている宝石の数を増やせとか。依頼主は様々に注文をつけてくれますが、何も?」

 並べ立てられる言葉に思わず笑ってしまう。

「何もございません。……ですが本当に、そのような注文が?」

「ありますよ。肖像画など所詮は虚像。他者にどのような印象を持って欲しいか、それを伝える道具に過ぎませんから」


 ふう、と嘆息したアルティノワ公は、デッサンの余白に円形や三角形の図を書き込み、そこに「王弟妃冠」や「百合を活けた花瓶」などのメモを書き加えていく。


 歴代のルガール王弟妃に受け継がれる王弟妃冠は、肖像画に描かれた人物の地位を表す重要な要素で、花瓶に活ける百合の花はルガールの国花。この二つは王弟妃の公的肖像画には必ず描かれる。


 そのため歴代王弟妃の肖像画を並べたらすべてが「同じ」になってしまう。誰を描いたのか識別するため、ここからが重要だった。


「彼女らしさを加える必要があるので、王弟妃のご趣味やお好みを教えていただいても?」

「乗馬です。それとダンスに……狩り」

「狩り!?」


 転がり落ちそうなほど真ん丸の蒼玉がロジィを映して煌めいている。彼の驚きのほどが伝わった。

 アルティノワ公は、静かに息を吐くと動揺を鎮めたらしく、落ち着いた声で問いかけてくる。


「乗馬もお好きと仰いましたね。狩りに同行なさるのがお好きなのですか?」

「いえ、狩猟そのものが好きなのです」


 アルティノワ公はいったん口を閉ざした。二度、ゆっくり瞬いて考えをまとめたらしく、確かめるように尋ねてくる。


「……まさか。猟銃を持って王弟妃自ら獲物を仕留めるのですか?」

「ええ。実家では毎日」

「毎日!?」


 そういうことだったの、と、ロジィは胸中で呟いた。

 貴婦人が狩猟に加わることは、ルガール宮廷ではここまで驚愕をもって受け止められる事柄だったのだ。


(王太后陛下が猛反対なさるわけだわ)


 てっきり、事故でも起きたらと心配しての言葉だと思っていたが、そうではなかったようだ。

 宮廷の価値観で考えれば非常識だったと、そういうことなのだろう。


 激しい驚愕を見せたアルティノワ公だったが、それが王弟妃の趣味だと納得したらしく、すぐに下絵に視線を戻して思考を切り替えている。


「狩り……狩り……ねぇ。――あ。マルスを描けばいいか」

 ぼそりと呟かれた言葉の意味がわからなくて、ロジィはそっと問いかけた。

「軍神マルスですか?」


「いえ、ベリエ公の猟犬の名前ですよ。公は何頭か猟犬を所有していますが、一番可愛がっているのがマルスなんです。ベリエ公の肖像画には頻繁に描かれるので、マルスを王弟妃の肖像画に描き込んでおけば、後世の人間が見てもふたりの関係性に気がつく上、王弟妃のご趣味もそれとなく表現できて一石二鳥かなと」


 アルティノワ公はデッサンの中のロジィの足下に円を描き、マルスとメモした。


「公的肖像画ですからね。王弟妃冠の横に猟銃を描いたら廷臣が卒倒します。マルスが落し所でしょう」

「ご覧になった陛下も驚かれるかもしれませんね」

「……フィルが?」


 国王フィリップはアルティノワ公にとって、母の従弟という間柄だ。叔父甥の系譜に似ている。


 けれど彼らは十歳違いという近しい年齢差。幼い頃から一緒にメルヴェイユ宮殿で育ったことも加味して、実の兄弟のような関係性なのだと、先日の四阿でベリエ公が教えてくれた。


「猟銃程度で驚くかな、あの人」

 うーん、と唸るアルティノワ公の横顔を見つめ、ロジィもあることを思い出す。

「そうですね。陛下はきっと、滅多なことでは驚かれないでしょうね」


 麗しい殿方を〈寵姫〉として認定できるほどだ。フィリップが驚く場面を見るのは至難の業だろう。


 ――そういえば。アルティノワ公は国王と仲がよいが、ベルローズ公爵夫人が殿方であると知っているのかしら。


 もし、知っていたら。アルティノワ公が初めてベルローズの秘密を知ったとき、どのくらい驚いたのか聞いてみたいと思った。そして、自分がどれほど驚いて腰を抜かしたのかも、聞いて欲しい。


 ベルローズの秘密をアルティノワ公と共有できたら、それはとても楽しいことのように思えた。

 そんな未来を夢想して、思わず笑みがこぼれる。


 くすくすと忍び笑いを零していたら、いつの間にか手を止めていたアルティノワ公が、ロジィを見つめていた。

 モデルを観察しているのとは少し違う眼差しに、ロジィも笑いを止めて見つめ返す。


「……フィルが、気になりますか?」

「え?」


 どことなく沈んだ声だ。聞き取れなくて、ロジィは首を傾げた。

 けれど、どこか困ったような苦笑を浮かべたアルティノワ公は言い直すことをせず、そのまま視線を下絵へと向ける。


 落ち込んだように見える横顔。減ってしまった口数。ロジィは、はっと瞳を大きくした。


(……恋人とお逢いになれなくてお寂しいのかしら)


 ロジィの謹慎期間はそろそろ明けるが、アルティノワ公は連日、ロジィの部屋を訪れていた。

 下絵を簡単に済ませて、実際に絵の具を載せていく段階で丁寧に描くという画家もいるらしいが、アルティノワ公は下絵も手抜きしないタイプなのだとか。


 同じ衣裳を着て、同じ部屋で、同じポーズを取る。


 それが三週間も続けば、だんだんと時間の感覚がわからなくなって、まるで世界に二人きりでいるような感覚がしてくる。

 同じ時間を、あの青いローブの貴婦人は、愛しい人と会えずに過ごしているのだ。


(もっとかもしれないわ)


 愛しい人に会えない時間は、たとえ一日であっても一年の長さに思えると聞く。

 アルティノワ公を、愛しい相手のところへ早く返してあげたい。そのためには肖像画をさっさと完成させなければならない。嫌っている人間をモデルにするなど苦痛でしかないだろうから。


「……では、もう一度、ポーズを取っていただけますか?」


 アルティノワ公の要望に、ロジィは気合いを入れて姿勢を保った。


           ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


 肖像画のデッサンにかこつけて、毎日、通っても。

 どこか、よそよそしい表情しか見せてくれない、ローゼリア姫。


 ――――本当は。

 下絵など、最初の一日で完成しているのだ。ジュストの部屋には本番用のイーゼルが置かれていて、絵の具も少しずつ載せている。


 下絵を丹念に描きたい、というのは、ローゼリアに逢うための口実。――嘘。

 ちっとも打ち解けてくれない彼女が、思わずといったように笑顔を見せてくれたのは天に昇るほど嬉しかったが……。


(笑うきっかけがフィルの話題、か)


 ローゼリアは、やはり、フィリップを憎からず想っているんだろうか。だから、この婚約が不満で、ジュストには心を開いてくれないのか……。


 そのことを延々とフィリップに語って聞かせたら、「妻にぞっこんとはベリエ公にそっくりだな」と大笑いされた。


 どうやら、この、ままならない感情を〈恋〉と呼ぶらしい。


「……はぁ」

 沈鬱な溜め息を一つ。ジュストは手の中にある茶葉の瓶に視線を落とした。

 ローゼリアの筆頭女官を務めているメラニエ男爵夫人が、昨日、ジュストの帰り際に耳打ちしてきたのだ。


 ――茶葉が足りない、と。


 フィリップが謹慎を命じたのは、宮廷雀たちの好奇の目からローゼリアを守るための措置だった。だが、ローゼリアは処罰と受け止め、慎ましい謹慎生活を送っているのだという。


 メルヴェイユ宮殿では、部屋を賜っている貴族たちのため、宮廷の厨房から食事が届けられることになっている。


 ところが、ローゼリアは謹慎期間、食事を摂っていないのだと。

 まず貴人に食事が届けられ、その余剰分が仕える者たちに分け与えられる。そのため、厨房が届けてくる食事を断ると、メラニエ夫人の食事を取り上げることになるので、それはしていないのだそうだが……。


 ――パンしか召し上がらないのです。


 スープも飲まず、一切れのパンと紅茶だけで一日を過ごしているというのだ。修道院生活を送っていたせいで、清貧な食事には慣れきっているらしいが、それにしても。


(真面目すぎる)


 下絵を口実に部屋へ向かうたび、痩せているような気がしていたが、あたりだったようだ。

 紅茶の茶葉がなくなりそうだとメラニエ夫人が進言しても、なくなったなら水を飲めばいい……と取り合わなかったとか。


 ジュストは、ローゼリアを好ましく思っているが、そういう自身を犠牲にすることを厭わない潔さは、好きではなかった。

 彼女への感情を自覚してから、ますます、その思いは強くなった。


 もっと、自分自身を大切に扱って欲しい。


 ローゼリアはもう、ラルデニア伯女ではない。アルティノワ公ジュスト・ユジェーヌの妻となるのだ。


 自分で自身を貶めることは、アルティノワ公の愛妻を侮辱するのと同じなのだと、早く気付いてもらいたい。


 色々と言いたいことはあるが、まずは。持ってきた茶葉の瓶をメラニエ夫人に預け、ジュストはとっくに終わっている「下絵の続き」をローゼリアに申し出た。


 ローゼリアが親しく言葉を交わしてくれないのは寂しいが、下絵のためという口実で、好きなだけ彼女を眺めることができるので、この時間は悪くない。


 上品な卵形の顔を縁取る栗色の髪は、妹の異名である〈天使〉そのものの愛らしい巻き毛。

 知性を湛えた翠緑色の双眸は、ジュストが要求した方角だけに固定され、ぴくりとも動かない。

 透き通る肌は雪花石膏の滑らかさで、ほっそりした首筋は嫋やかだ。なだらかな曲線を描く肩は華奢な印象を見るものに与える。


 ラルデニアでは、妹であるセレスティーヌの美貌ばかりがもてはやされていたと聞くが、それがジュストには不思議でならなかった。

 ふたりは双子。容姿は瓜二つなのだ。それなのに、なぜ、姉姫は「美姫」だと言われなかったのだろうか。


「ローゼリア様、アルティノワ公がお届けくださった茶葉でございますよ」


 唐突にメラニエ夫人が割り込んだ。反射的にローゼリアが身体を動かしてしまったらしく、詫びるような眼差しがジュストに向けられる。


 その程度の動きでデッサンが狂うことはなく、そもそも下絵は完成している。真面目にモデルを務めてくれているローゼリアに申し訳なくて、ジュストは「動いて平気ですよ」と苦笑した。


「休憩にいたしましょう。姫も、お疲れでしょうから」

「ありがとうございます」


 ほっとしたように微笑んだローゼリアが、静かに衣擦れの音を立てて移動する。

 テーブルには茶の用意がなされていて、メラニエ夫人がカップに紅茶を注いでいた。ごく当たり前の動き。……そのはずだが。


 ジュストは、違和感を覚えた。

 そしてその勘は、嫌になるほどよく当たるのだ。


「私も喉が渇きました。お茶をいただいても?」

「ええ、もちろんですわ」


 ローゼリアが長時間、モデルとして動かずにいたのと同じだけ、ジュストもデッサンに没頭している。水分補給を訴えるのはごく自然な流れで、ローゼリアも当たり前の表情で頷いた。――だが。


「こちらの茶葉は、アルティノワ公がローゼリア様にと仰った茶葉でございますのに……」

「いただいた茶葉なら、閣下もお好きでいらっしゃるはずよ。お出しすることは失礼ではないわ」

「いえ。まずはローゼリア様がお飲みになって、ご感想なりをお伝えなさったほうが……」


 メラニエ夫人は素直にジュストへ茶を供そうとはしなかった。

 動こうとしないメラニエ夫人へ不思議そうな眼差しを向け、ローゼリアはカップへ手を伸ばす。


「わたくしがいただいても、閣下が召し上がっても同じことよ?」

「ローゼリア様……!」


 メラニエ夫人が驚愕に彩られた声を上げた。ローゼリアが、自分のためにと淹れられた茶を、ジュストへ差し出したからだ。


(……毒入り、か)


 ジュストは内心で失笑した。メラニエ夫人の動揺を見るに、審問会のときのような〈軽い薬〉ではないのだろう。おそらくは致死毒。


 それをローゼリアに飲ませようとしていたなら、それは間違いなく王弟妃の差し金だ。そして、ジュストに茶葉を所望したのも、そのための下準備だったということだろう。


 ローゼリアが体調を崩すか、あるいは急死したあと。ジュストが届けた茶葉を使った――と証言さえすれば、罪を逃れられるという作戦だ。


「ありがとうございます、ローゼリア姫」

 メラニエ夫人の胸中など知らぬ振りで、ジュストはカップを手に取った。


「お待ちください!!」


 鬼気迫る悲鳴。ローゼリアも、今度ばかりは怪訝な顔でメラニエ夫人を見る。

「どうかしたの?」

「いえ、それは、その、そのお茶は……」

「毒でも入っているのですか?」

 ジュストが意地悪く問いかけると。


「――ッ」


 メラニエ夫人の顔色は蒼白なものへと変化した。弾かれたようにこちらを向いたローゼリアが、「馬鹿なことを仰らないで」と叩き伏せるようにジュストを叱る。


「メラニエ男爵夫人が毒を淹れるはずがありません。わたくしの女官を侮辱なさらないで」

「侮辱するつもりなどありません。ですが、あまりに態度が不審ですから」

「……わかりました。そこまでお疑いなのでしたら、わたくしがそのお茶をいただきます」


 眦を吊り上げ、怒りの感情をあらわにするローゼリアの表情は初めて見るものだった。普段の感情を抑えた態度とは打って変わって新鮮で、ジュストの心は浮き立ったが……。


(ローゼリアに飲ませるのは駄目だ)


 毒の種類も、量も、わからないのに。毒に耐性のないローゼリアが飲んで、万が一の事態が生じたら取り返しがつかない。

 このまま問答を繰り返してメラニエ夫人に自白させようと思ったのだが、仕方ない。


「毒味は、私の役目ですよ」

 取り上げようと手を伸ばしてきたローゼリアを制して、ジュストは一息に紅茶を飲み干した。


(!)


 この、痺れ。フィオーレの王族が愛用しているという猛毒〈神の慈悲〉だ。

 香りもなく、味もなく、色もない。何かに混ぜても風味を一切損なうことなく、毒を盛られた人物が舌先の痺れを感じたその瞬間には絶命しているという……。


 痛みも苦しみもなく、瞬くほどの間で天に召されるため、付いた名が〈神の慈悲〉になったとされるが。


 ――――本気だ。


 ジュストは、渾身の怒りを込めてメラニエ夫人を睨み付けた。

 たとえ耳かき一杯の量であっても、人によっては絶命する毒を使った。……つまり。

 本気でローゼリアを殺そうとしたのだ。


「――ひっ!」


 視線だけで人を殺せるのならば、今すぐにメラニエ夫人の息の根を止めてやりたかった。


 がたがたと震えたメラニエ夫人は、証拠を隠滅するためだろう。ティーポットを抱えると足早に部屋を出て行った。

 この場で彼女を拘束するのが最善だったが仕方ない。行き先はおそらく王弟妃の許だろう。

 女官が不在となるローゼリアには、信用のおける人物をこちらで手配すれば安全を確保できるはず。


「……閣下は、メラニエ男爵夫人がお嫌いなのですか?」


 今後の算段をつけていたら、咎めるような眼差しをローゼリアから向けられてしまい、ジュストは苦笑を浮かべた。口で言うより見せたほうが早い。


 ちょうど窓が開いていて、窓辺に小鳥が来ていた。証拠となるポットはメラニエ夫人が持ち去ってしまったが、これで充分だろう。可哀想だが、あとで丁重に弔うことにして。


「……閣下? 何を……――、!?」


 ジュストが飲み干したカップの底に、わずかばかり残っていた紅茶を窓辺にまく。人に馴れている小鳥たちはジュストが近寄っても飛び立つことはなく、与えられた紅茶をくちばしでつついて飲んで――倒れた。


 ジュストは先ほどのテーブルに空になったカップを置き、窓辺へと戻る。

 ぴくりとも動かない小鳥を見つめたまま、言葉を失っているローゼリアを見やり、ジュストは淡々と告げた。


「毒ですよ」


「!?」

「彼女は以前も私に睡眠薬を盛ってくれました。様子がおかしかったので、今回は正真正銘の毒だろうと思ったのです」

「医師を呼びます!」

 こちらの話を最後まで聞かずに、扉に向かって駆け出そうとするローゼリアの手首を掴む。


「急にどうされたのです」

「閣下が、毒、毒を……!」


 毒入りの紅茶を飲み干したジュストを案じて医師を呼ぼうとした、ということなのだろう。

 これまで、誰からも向けられたことのない優しさに、ジュストは思わず微笑みを零した。


「平気ですよ」

「そんなわけがないでしょう!」


 ローゼリアの視線は窓辺で倒れている小鳥に向けられ、ジュストに戻ってくる。

 たった一滴で小鳥は命を落とした。アルティノワ公はカップ一杯を飲み干してしまったのに――と、その瞳は雄弁に語っている。


「私は幼い頃から身体を毒に慣らしているのです」

「……え」


 人間がそんなことをできるはずがない。

 ローゼリアの瞳は、鏡に映すがごとく正直に、彼女の感情をジュストに伝えてくる。だが、ジュストは偽りを口にしていなかった。


 厳密に説明すれば「身体を毒に慣らした」のではなく「一命を取り留め続けたせいで身体が毒に慣れた」というのが正しいのだが、そこまで明確に伝える必要はないだろう。


 重要なのは、この程度の毒を飲み干したくらいでは、ジュストの身にいささかの危険も及ばない――ということだけ。


「一時期はフィルの毒味役も務めていました。ご心配には及びません」


 ほら、元気でしょう、と。

 軽く両手を広げて振ってみせれば、半信半疑の表情を浮かべながらも、ローゼリアは身体から力を抜いた。


「閣下は平気でいらっしゃるかもしれませんが、御身を案じられる方もおいででしょうに」

「…………。――はい?」


 思わず、聞き返してしまった。

 この場合の「身を案じる人物」とは、ローゼリアのことではないだろう。そうであるなら「わたくしが心配いたします」と可愛いことを言ってくれたはず。


 ……フィルのことか?

 内心で首を捻っているジュストの耳に、信じがたい言葉が届いた。


「閣下の大切な方が嘆かれるでしょう」


 ジュストは目を丸くしたが、今が好機だと、掴んだままのローゼリアの手首を引き寄せる。

 彼女の身体が自然とジュストに抱き寄せられる格好となり、ローゼリアは戸惑ったように身じろぎしたが、ジュストは放さなかった。


「私に想い人などいませんよ」


 嘘をつくな――と、ローゼリアの瞳は訴えている。

 婚約者の不実を咎める眼差しではなく、純粋に、偽りを口にした相手を責める眼差しを向けられていることが、無性に哀しかった。


(……ここはもう、正直に言ったほうがいいんじゃないか?)


 想い人がいないことは事実であり真実だ。

 だが、そのことばかりを主張していても、ローゼリアの誤解を解くことは不可能であるように感じた。


 ジュストには欠片も心当たりがないが、ローゼリアは、ジュストを疑うだけの「何か」を見たのか、あるいは耳にしたのだろう。


 そうだとすれば、ジュストの「想い人はいない」という言葉は上滑りしてしまうだけ。

 ならば、ここは潔く。


「私がお慕いしているのはローゼリア姫、あなたですよ」


 まだ婚約段階だからと遠慮していて誤解されたなら、はっきり想いを告げるべきだ。

 そう思って伝えたのに――。


「嘘を仰らないで!!」


 精一杯の愛の告白は、これまでにない剣幕で言い返されてしまった。

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