最終章 【 白薔薇に愛を捧ぐ 】

【 最終章  ① 】

「……その〈子〉が、閣下でいらっしゃる……?」


 ロジィの問いに、アルティノワ公は「ええ」と頷いた。

 彼は、グロリア「王子」として産まれるはずが、両親の結婚が無効とされたことにより、一転して「父がわからない子ども」とされてしまったのだ。他ならぬ聖王庁の画策によって。


 聖王庁が認めない婚姻によって誕生した子は、産まれながらに神の祝福を得られなかった〈魔物〉として忌避されてしまう。


 懐妊中のイザベルの周辺は、彼女に「出産させない方法」を耳打ちしていたとまで伝わる。授かった命を摘み取ることもリジオン教では〈罪〉とされるというのに、だ。


 産んでも、産まなくても、リジオン教の祝福を得られない。その狭間でイザベルは出産を強行する。


 アルティノワ公が〈ジュスト〉と名付けられたのは、それが理由だと公は語った。

 ジュストの意味はリジオン教において〈正義〉とされる。自分が産んだ男児は「正しくグロリア王の子である」という、イザベルの強烈な主張が秘められているのだと。


 そうまでしても、結局、イザベルの産んだ男児がグロリア王子として承認されることはなかった。聖王庁の祝福を得られなかったのだ。

 絶望したイザベルは、周囲に抵抗してまで出産した子どもを見ようともせず、果ては修道院へ追いやろうとまで思い詰めた。


 それを不憫に思ったクロヴィス二世が聖王庁に掛け合い、男児を、イザベルの父であるロンティエ公シャルルの〈孫〉として認めさせたのだという。


 イザベルとミゲル四世との婚姻は無効――すなわち「なかったこと」にされているので、イザベルは未婚のまま男児を産んだことになっている。リジオン教の教えでは「子の誕生は婚姻ありき」とされるので、イザベル自身も教義に反した異端者とされてしまう。


 そのため、産まれた男児を「イザベラの子」ではなく「ロンティエ公家の子」だと定めることによって、イザベルの名誉を守ろうという思惑もあった。


「母がグロリアに嫁いだ段階で、実家であるロンティエ公家は断絶しています。私がロンティエ公家に産まれたと言い張るのは無理があるのですが」


 子供だましの言い訳だったが大陸はそれを承認したのだ、と、アルティノワ公は苦笑を浮かべる。


「聖王庁にも後ろ暗い気持ちがあったのだと思いますよ」


 グロリア王族として生きることができないのであれば、せめてルガール王族の待遇くらいは与えてやりたい――という、クロヴィス二世の説得が功を奏したのだとか。


 だが、いくら聖王庁が婚姻無効を宣言し、誕生した〈ジュスト〉のことをグロリア王家が「我らとは関わりがない」と見なしても。

 聖王庁とグロリアに気を遣ったクロヴィス二世が、イザベルの生家であるロンティエ公家を継承させず、アルティノワ公に叙していても。


 いざこざの真っ只中で誕生した男児が、グロリア国王ミゲル四世の血を引いた子であることは、誰の目から見ても明らかだった。

 ――だから、と、アルティノワ公は言葉を継いだ。


「私は幼い頃から命を狙われていました」


 グロリアにとっての目の上のたんこぶ。ルガール王族として生きている〈アルティノワ公〉さえいなくなれば、王位継承を巡る争いが生じなくなる――と。


「!」


 ベリエ公が語っていた「ジュストの複雑な出自」というのは、このことだったのか。

 はっと瞳を見開いたロジィに、アルティノワ公は「ご存知でしたか」と呟いた。


「……以前、ベリエ公とお話しをする機会を得まして、その折に少しだけ。……剣技が見事でいらっしゃると伺ったものですから」

「ああ。あの話をしたんですか、ベリエ公は。よりによってそれを話すとか、人が悪いな」


 ふ、と。横を向いたアルティノワ公の表情は、まるで一気に十も年を取ったように冷ややかだ。


「まあ、そういうわけなので、死なないように剣の腕も磨きましたし、盛られた毒を飲んでいるうちに平気になって、ベリエ公からは「化け物」と呼ばれるまでになりました」


 一息に語ると「ふぅ」と息を吐き、アルティノワ公はロジィに視線を戻した。いつもと変わらない優しい蒼の瞳。

 けれど、話を聞いた今となっては、なんだか無理をしているように感じられてしまって胸が痛かった。


「グロリアが悪いわけではないのです。母を殺して〈死別〉という方法にしてもよかったのに円滑な離婚を手段として選んだ。私を殺そうと魔手を伸ばしてきても、結局のところで殺しきれなかった」

「でも、それは……」

「そう。私の悪運が強かったのです」


「悪運ではありません。神のご加護ですわ」

 蒼い瞳が頼りなく揺れた。

「神の、ご加護……」


「自身が生き延びるために殺生を行うことを神はお赦しになっておられます。閣下は、陛下のお命をお助けするために剣を振るわれた。それは悪ではありません。王とは、天に選ばれた至高の存在。その方をお救いすることは善なる行いなのですから」


 ロジィがそう言うと、アルティノワ公はふわりと微笑んだ。泣き出しそうに滲んだ瞳からは、けれど、涙が零れることはない。


「かろうじて生き延びた私ですが、ご存知のようにルガールの王位継承権を有していません。しかし、ルガールの王族であるという矛盾を抱えています」


 グロリア王の子ではないと宣言されても、その身に流れる血筋を恐れて暗殺者が差し向けられたように。

 ルガールの王位継承権がなくても、ルガール王族の血脈に連なる事実を覆すことはできない。


 なぜなら、ルガール王弟だった〈ロンティエ公シャルルの孫〉だと聖王庁が認め、国王親族封アパナージュを与えられているからだ。


 強引に聖王庁が介入した「イザベル離婚事件」のときのように、将来、アルティノワ公の身に「どんでん返し」が起こらないという保証はなかった。


「ルガールは「世継ぎ」を確保しておくため、私に自由恋愛を禁じました。王位継承権はあとからでも付与できます、貴賤結婚されてしまってはその資格がなくなる。その一方で、私には王侯貴族の姫と婚姻を結ぶ自由もなかった」


 グロリアの顔色を窺っていたからだと、アルティノワ公は口角を歪めて言う。


「私が他国王族の姫と婚姻すれば継承権の有無はどうあれ〈次期国王〉と見なされます。そうすれば、グロリアが干渉してくるのは明白でした。将来のルガール王はグロリア王家の血脈だと言い張って」


 王位を継ぐスペアであることを求められ、それでいて、自身の血脈を増やすことは、簡単には許されない。

 矛盾した思惑に雁字搦めになっていたアルティノワ公に舞い込んだのが、「王命による婚姻」だったのだという。


 飼い殺しにするはずだったアルティノワ公に婚姻させる〈大義名分〉が発生したから。

 大義名分――ラルデニアの女子相続人をルガールに繋ぎ止めること。


「本来であれば、ローゼリア姫はベリエ公妃となられるはずでした」

「ええ、そうです」


 ロジィはラルデニア領を持参金にルガール王家に嫁ぐはずだった。だが、現実は違った。


「ルガールはなんとしてもラルデニアを手中に収めたいと考えました。しかし、ラルデニアは南方諸侯の影響力が強すぎる。ベリエ公が駄目になったからと、独身の国王が求婚したら戦争が起きます」


 アルティノワ公は、ロジィを見た。もうおわかりですね、と、その瞳が言っている。


「王族でありながら王族ではない。南方諸侯から見れば実に都合がいい身分です。煩い彼らを黙らせる切り札として、私はルガールのよい手駒でした。グロリアにしても、王位継承権を持たない私の婚姻に、表立って反対することはできません。結婚相手が、国境を接するラルデニアの姫だとしても」


 グロリアを刺激しない属国の姫。しかしながら、相続権を有するため〈一国の姫〉とも表現できるローゼリアならば、貴賤結婚には当たらない。将来、継承権を付与する事態が発生しても差し障りはない。ルガールの条件を満たしている。


 一方、グロリアと国境を接するラルデニア伯領ではあるが、王位継承権を持たない〈アルティノワ公〉が相手ではグロリアは文句が言えない。ラルデニアがただちに〈王室直轄領〉に変貌するわけではないからだ。


 ルガールからも、グロリアからも横槍を入れられない「アルティノワ公の結婚相手」は、大陸中を探してもロジィしかいないのだとアルティノワ公は言った。


「私は、妻となった貴婦人を生涯愛そうと決めていました。ですがそれは、叶うはずもない願いだということも承知していました。生涯、誰とも婚姻を結べないと思っていた」


 けれど、と。アルティノワ公はロジィの手を握る。先ほどと同じように、恭しく捧げ持って、手の甲に唇を寄せて。


「私は、姫を得た。――どうか、私の心をお疑いにならないでください」




           ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★




 婚約が定まったのが唐突なら、成婚式が決まったのもまた、唐突だった。


 夏が過ぎ去り、木々が色づき始める頃。ロジィの謹慎期間が明けるのを待っていたかのように、国王フィリップから成婚式の日取りを伝えられた。


 初夏の婚約式からちょうど半年後。皮肉にも、セレスティーヌとベリエ公の婚姻が成立した日と、まったく同じ日付だった。

 それはつまり、ロジィの「当初の」結婚記念日と同じになる、ということ。


(……これもまた、神が定めたもうた〈運命〉なのかしら)


 不可思議な巡り合わせだ。ロジィは胸中で呟きながら、準備された婚礼衣装に袖を通す。


 謹慎が終わって、わずか十日。こんなに早く挙式を迎えることになるなんて夢にも思わなかった。――なぜなら。ロジィは花嫁支度に、一切、関わっていなかったからだ。


 本来、王侯貴族の娘が嫁ぐ場合は、実家で様々に嫁入り支度を調える。

 日常用、式典用、盛装用などの数え切れないローブを始め、宝飾品、小物、果ては調度品まで含めて〈嫁入り支度〉なのだ。


 だが、今回、ロジィの嫁入り支度を整えたのは〈アルティノワ公〉だった。

 現実的な金銭問題として、ベリエ公との挙式の際、ラルデニアは相当額の財を費やした。つまり、豪勢な嫁入り支度を調える余裕がなかった。


 半年前に、ロジィとアルティノワ公との婚約式が急遽、王命で定められたときにも、ラルデニア伯家は頭を抱えたのだ。


 幾ばくかの宝石を取り寄せてローブを手直しするまではできたが、婚約用のパリュールを新調することはできず、アルティノワ公家の宝飾品を借り受けて式に臨んだ。

 そうした懐都合を熟知しているアルティノワ公が、こちらですべて用意してあると申し出てくれたのだった。


 ――ローゼリア姫はラルデニアからルガール王族に嫁がれるのですから、一切をルガールの品物で用意することは廷臣らに好感を持って迎え入れられるでしょう。


 かつて、フィオーレの王女がルガールに嫁したときには、国境付近の宮殿で衣装を着替える儀式まで行ったのだという。


 フィオーレのローブから、ルガールのローブへと。髪飾りも扇子も、装身具はもちろん、ハンカチ一枚、母国のものを着用してはならないからだとか。

 その前例に倣えば、実家が嫁入り支度を準備できなかったことにも、正当な言い訳が成り立つ……と。


 屁理屈だと思うが、ベリエ公との縁談でラルデニアの財政が火の車になっているのは事実。アルティノワ公の申し出に感謝こそすれど、文句を言っては罰が当たる。ロジィは心から感謝を述べ、すべてを婚約者の采配に委ねた。


 アルティノワ公が用意してくれた婚礼用のローブは、清楚な白だった。

 名が、ローゼリア・ブランシュだからだと、言う。


 婚約からたった半年で、どうやって豪勢なローブを仕立てさせたのかしらと思っていたけれど、アルティノワ公は頭がよい。

 生成りのまま、染色しなければ仕上がりを早められる。だからこその〈白〉なのだろう。


 デコルテや袖口のレースは、あらかじめ作ってあった別のレース生地をローブに合わせて裁断し、縫いつけてある。ローブの意匠が完成してからレースの柄を決め、編み上げるのが通常なので、こちらも格段に早く仕上がった。


 手が掛かっている部分は、ローブの生地に銀糸で薔薇が刺繍されているところだが、宮殿には王家の針子が五十人いる。真珠とダイヤモンドを縫いつける作業を加えても、わずか三ヶ月ほどで完成したらしい。


 だから、ロジィの謹慎が明ける前には、もう、婚礼用のローブは出来上がっていたのだという。

 ローブが準備万端となれば次に重要なのはパリュールである。


 こちらは、ルガール王家伝来の装身具を使用してよいと、国王フィリップから許可が出た。

 ロジィを飾り立てることに異様な熱意を燃やすアルティノワ公により選ばれたのは、ルガール王家を象徴する〈青〉の宝石。――サファイアがふんだんに使用されたパリュールだった。


 これらはルガール王家に没収された、かつてのアルティノワ公家の宝石だとかで、これを機に公家に返却される運びとなったらしい。


 婚礼は、メルヴェイユ宮殿の王立礼拝堂にて挙行された。

 国王と王太子の婚礼にのみ使用される、格式の高い礼拝堂だ。王位継承権を保有しないアルティノワ公の婚礼を許可するのは前例がないと、典礼大臣が渋い顔をしたのだが、国王フィリップが強引にねじ伏せたのだとか。


 聖王庁からわざわざ派遣された〈聖王代理〉が、粛々と挙式を進行させていく。

 永遠の愛を神の御前で誓い、結婚指輪アリアンスの交換を終えると、顔を覆っていた純白のベールが、アルティノワ公の手によって外された。


 リジオン教の婚礼において〈誓約の口づけ〉と呼ばれるこの段取りは、婚姻を交わす双方が、身も心も結ばれたことを象徴的に意味する重要な手順だった。


 ――あの、日。


 ロジィは遠くから、自分の婚約者と妹が口づけを交わす瞬間を見つめていた。

 幸せそうに頬を紅潮させた花婿が、期待に満ちた瞳でレティのベールを外し、堪えきれないといった様子で唇を重ねた。――周囲が呆れるほど、長い時間。


 あれからずっと、ロジィにとって誓約の口づけは、絶望を思い起こさせるものだったけれど。


「……私の白薔薇」


 アルティノワ公の優しい声が耳朶に届く。それだけで、ロジィの肩から強張りが抜けた。思っていた以上に緊張していたらしい。


 ほんのわずか、ふらついたロジィの身体を支えるように、腰にアルティノワ公の腕が回る。

 反対の手がロジィの頬をそっと撫で、指が顎先を掴んだ。


「愛しています。――永遠に」


 そよ風のように触れる唇は、泣きたくなるほど優しかった。






 滞りなく式が完了すれば、お次は結婚披露の祝賀会である。

 お色直ししなければならないのはお約束で、アルティノワ公が用意してくれたローブの色は、ごくごく淡い翠緑だった。ジュップは柔らかなシトロン色なので、夏の深緑から秋の色づく葉へと移行する季節感を、繊細な色彩で表現しているようにも見える色合わせ。


 上半身の前身頃には、ペリドットやトパーズがびっしりと縫いつけられていて、裾へ向かってだんだんと少なくなっていく。代わりに増えるのは刺繍で、草花を簡略化した文様が金糸で丹念に施されていた。


 装いの主役となるパリュールは、大きくカットしたガーネットを芥子真珠で取り巻いた、非常に手の込んだ意匠だ。


 ガーネットは貞節を意味する宝石でもあるので、結婚披露で着用するには相応しい。また、深みのある赤い色が、淡緑色のローブのアクセントとして鮮烈な存在感を示していた。


「お綺麗ですよ、姫」

 そう言って微笑むアルティノワ公こそ、この場の視線を一身に集めているとロジィは思う。


 海の蒼に真珠を一滴垂らしたような、甘いヒヤシンス色の宮廷服が実によく似合っていた。ロジィのローブに合わせてなのか、上着アビの刺繍は金糸で施してあるので、柔らかな印象がいっそう引き立っている。


「今宵こそは、私と一番に踊っていただけますね?」


 半年前の婚約披露で、ロジィはアルティノワ公ではなく、レティと最初に踊ってしまった。

 大変な非礼を働いてしまったわけだが、アルティノワ公がそのことについて触れないので、もう忘れているのだとばかり思っていたけれど。


(……根に持っていらしたのかしら)


 にこやかな笑顔を浮かべながらも、有無を言わせない圧力を掛けてくるアルティノワ公を見て、ロジィは内心で冷や汗を流した。


 もう一度、促すように首を傾げられて、ロジィはアルティノワ公の手を取った。

 繊細でありながら大胆なアルティノワ公のリードは、ダンスが得意ではないロジィのことを、上手に導いてくれる。


「どうして目を逸らすのですか」


 拗ねたような声音で咎められるが、大天使もかくやという麗しい顔を見つめながらダンスができるわけがない。


 ロジィが考えている〈想い人〉などいないと真っ向から否定して以来、アルティノワ公がやたらと甘い台詞を囁いてくることもまた、彼を直視できない要因の一つだ。

 こんなにも美しい殿方に、夜ごと日ごと、薔薇の花束を捧げるような言葉を紡がれて、貴婦人らしい冷静な対応ができなくなっていた。


 ――鼓動が、早くなってしまうから。

 だから、落ち着いて、王族の妻らしい振る舞いができるようになるまで、そっとしておいて欲しいと思うのに。


「!?」

 ふわりと、こめかみを掠めていく温もり。キス、された。


「ああ、やっとこちらを向いてくださいましたね」

「閣下!」


 こんな、人前で、なんてこと。

 いくら結婚披露の舞踏会であると言っても、過度に睦まじい様子を見せつけるのは作法に反する。ここはメルヴェイユ宮殿で、敬意を払うべき国王が臨席しているのだ。内輪の晩餐会ではないのだから。


「閣下、などと他人行儀な。神の御前で永遠を誓ったのです。どうぞ、ジュストと」

「……閣下も、わたくしを〈姫〉とお呼びくださいますのに」


 だから名前で呼ぶことはしません――と、続けるはずだった。アルティノワ公が満面の笑みを浮かべたことで、その先の言葉を見失う。


「お呼びしてよいのですか?」

「え?」


 きょとんと首を傾けたロジィに、アルティノワ公はいきいきとした明るい笑顔で。


「姫のお名をお呼びしてよいのですか?」

「……あ」


 あなたこそ、わたしのことを姫と呼ぶ――その言葉は裏返せば、名を呼んで欲しいという我が儘にも受け取れる。


(違うわ!)


 夫婦であっても節度は重要。とりわけ、メルヴェイユ宮廷に伺候している間は、いわば公務中なのだ。夫を〈閣下〉と呼び、妻を〈公妃〉と呼ぶのは当然の作法。国王夫妻であっても、互いに〈陛下〉〈王妃〉と呼び合う。

 だから、名前を呼んで欲しいなんてことを言ったわけでは――……。


「ローゼリア。私のことはどうか、ジュスト、と」

「!」


 丁重な断りの言葉を探して逡巡したのが悪かった。さらりと名を呼ばれてしまい、ロジィは退路を封じられたことを悟る。


 名前で呼び合うなんて、まるで恋人のようではないか。

 メルヴェイユでは、夫婦は仮面夫婦。恋愛は既婚者同士の遊戯であり、夫婦で恋仲になるのは野暮とまで言われているのに。


「呼んでくださるまで、お手を放しませんよ」


 ダンスはとっくに踊り終わって、今は邪魔にならないように端に避けていた。

 アルティノワ公はロジィをタブレに座らせ、自身は床に膝をついて、さながら騎士が貴婦人に忠誠を誓うような格好でもって、名を呼べと脅迫しているのだ。


 夫を名前で呼ぶのは、はしたない振る舞いとされる。しかし、夫の要望に応えることもまた、貞淑な妻として当然の義務だ。……いったいどうすれば。


「ジュスト。それだと、義姉上が素直に名前を呼んだときに、すぐに手を放さなければならなくなるぞ」


 割り込む声は突然だった。王弟ベリエ公が、アルティノワ公の後ろから、ひょっこりと顔を覗かせたのだ。

 彼の隣に、愛妻の姿はない。


 ロジィが謹慎に処されている間、ベリエ公の詳細な証言により、セルマン伯はメルヴェイユ宮廷を追放になった。永遠に。


 そして、王弟妃セレスティーヌは、今回の騒動で心を痛めたベリエ公の懇願によって、しばらく部屋で療養することになったらしい。


 ――早い話が軟禁である。

 表向き、王弟妃がプレイボーイに誘いを掛けたと認めるわけにはいかない。


 そのため、ロジィの謹慎理由は「宮廷を少しばかり騒がせた罪により」とされた。王弟妃に仕組まれたと公表できないからだ。


 だが、当事者たちにとって、レティが黒幕なのは明白だった。その罪状で罰することができないので、ベリエ公の「お願い」を隠れ蓑に軟禁しているのだという。王族の体面を守ることは、とかく大変なのだ。


「それだけではない。あっさり義姉上が名を呼んだら、おまえに手を握られているのが嫌だという意思表示に繋がる。その脅し方は不合格だ」

「じゃあ、なんて言えばいいんだよ」


 形のよい眉をひそめ、明らかに「不愉快です」と睨み付けるアルティノワ公に、ベリエ公は口角を吊り上げて笑みを見せた。


「こう言ってみろ。……愛しき我が妃、名を呼んでくださらないならば、この場で思いの丈を口づけで贈ります、と」


「なるほど」

 真顔で頷いたアルティノワ公が、真摯な瞳でロジィを見た。――まさか。

「おやめください、ジュスト様!」


「! ……おお」

「どうだ?」

 蒼い瞳をキラリと輝かせて感心するアルティノワ公と、得意満面のベリエ公。

「見事だね、妻にメロメロのベリエ公」

「義姉上は真面目だからな。こういう脅しのほうが効果覿面だ。たまには狡猾に相手を陥れる。鉄則だぞ」

「参考にする」


 物騒な会話を目の前で繰り広げないで欲しい。陥れる相手に策を披露してどうするつもりなのか。

 二人に誘導されて〈ジュスト〉と呼ぶしかなかったロジィが、呆れの溜め息を落としたら。


「言っただろう、義姉上。ジュストはずいぶんと婚約者を大事にしている、と。いい加減、こいつの恋心を信じてやれ」

「……おまえに擁護されると腹が立つ」

「そういう台詞は、口説き文句を一人で考えられるようになってから言え」


 まるで、仲のよい兄弟のように二人が軽口を言い合う。

 ベリエ公は、変わった。あの四阿で会話したときも感じたけれど、それはアルティノワ公――ジュストが、釘を刺してくれたからだと思っていた。


 でも、今は。ロジィにも、ジュストにも、一切の隔たりを抱いていないのがよくわかる。

 いったいベリエ公に何が起きたのだろう。それを尋ねてよいのか、触れずにいるべきなのか、二人の様子を見つめながら悩んでいたら。


 ラッパの音が高らかに鳴り響いた。国王はとっくに入場しているので、これは国王よりお言葉を賜るという合図。

 タブレから立ち上がろうとするロジィに、ジュストが当たり前のように手を差し出してくれた。


「この良き日に、我が弟にも等しいアルティノワ公は、類い希なる姫を伴侶に迎えた」

 一同の拍手が鎮まるのを待って、フィリップは言葉を継ぐ。

「公の婚礼を祝し、余から贈り物を」


 王族が結婚する際に、国王から祝いの品を賜るのは通常のこと。貴重な宝石だったり珍しい鳥だったり、国王の威厳を知らしめるようなものが選ばれる。領地を賜るという例もあった……と考えていたら。


「今日より、アルティノワ公をアルティノワ〈大公〉に叙す」


 言われた言葉が理解できなかった。ルガールに〈大公〉は事実上、存在しない地位なのだ。

 国王が代替わりして〈王弟〉の称号が次代へと引き継がれるとき。先代王弟、つまり現国王の叔父を特別に〈大公〉と呼ぶ場合はあるが、いわば名誉称号。しかも、ジュストは王の叔父ではない。大公に叙される理由がない。


 ちらりと横を見れば、ジュストも困惑した表情を浮かべてフィリップに視線を向けていた。

 一方、この場の戸惑いを察しているはずのフィリップは、にこやかな笑顔を浮かべたまま、さらに衝撃発言を投下する。


「我が世継ぎについても併せて明言しておこう」


 ――――世継ぎ。

 ざわめきは最高潮に達した。国王フィリップの隣には、これまで激しく反目していたベリエ公がいる。いよいよ、次期国王は王弟であると布告されるのだ。


 誰もが固唾を呑んでフィリップの言葉を待つ。衆目の視線を惹きつけるだけ惹きつけてから。


「ルガールの王冠は、アルティノワ大公の嫡子に譲るものと定める」


 ざわめきは、どよめきとなって広間を揺らした。

 誰も彼もがベリエ公へと好機の眼差しを注ぐ。あれだけ王位を欲していたベリエ公の目の前で、王冠が素通りしたのだ。怒りに顔を染めるか、はたまた絶望に瞳を揺らすか――と。


 どちらでもなかった。平然と佇んでいる。

 いかなることが起ころうとも動揺を顔に出してはならない、という、王族の模範のような態度だ。


 フィリップが楽団に合図して、緩やかな舞曲が再び奏でられる。広間は祝賀のざわめきに戻りつつあったが、ロジィは混乱の極地にいた。


 夫が大公に叙されることは晴れがましいことだ。だが、大公の嫡子が次代のルガール王とは、どういうことなのだろう。

 いかにフィリップとベリエ公が反目していても、フィリップ一世の次は〈ルイ二世〉と決まっていたのに。


「フィル。まさか、これが〈根回し〉とか言わないよな」

 ふらりと歩み寄ってきた国王にジュストが不遜な物言いをすると。

「根回しの半分だ」


「俺に継承権がないのに、俺の子をどうやってルガール王にするんだよ」

「聖王庁が承認すれば国王になれるだろう」

 答えたのはベリエ公だった。涼やかな表情を崩すことなく言葉を続ける。


「おまえは〈ロンティエ公シャルルの孫〉だ。おまえの子は〈ロンティエ公シャルルの曾孫〉になる。ルガール王家の傍流なんだから王位に即いて問題はない」

「その論法を出すと、リーブールの子にもルガールの継承権が発生するけど?」


 リーブールとはルガールにおける呼び方で、大陸共通語ではライヒブルクという。ダンベルク帝国側の侯国で、現在の領主はフリードリヒ五世。その妻はエリザベート・フォン・ルガール。アルティノワ公ジュスト・ユジェーヌの母、イザベル・ドゥ・ロンティエのライヒブルクでの呼び名である。


 ジュストをルガールに残して、イザベルは再婚していた。そして、再嫁先で男女七人の子宝に恵まれているのだ。ジュストの異父兄弟たちである。


「俺は、イザベル・ドゥ・ロンティエの子だからロンティエ公の孫として認められた。つまり、リーブール侯の子どもたちも同時に、ロンティエ公の孫になる。いずれ産まれる彼らの子どもはロンティエ公の曾孫だけど?」


 ルガール王位を巡って血の雨が降るよ――と、ジュストが肩を竦めると、フィリップが笑った。


「聖王庁が〈ロンティエ公シャルルの孫〉と認めたのは、おまえだけだよ、ジュスト。イザベル姫の子がロンティエ公の孫になるのではない。なぜなら、あちらの子はリーブール侯が嫡子と認めている。わざわざ我らルガールが、ロンティエ公家の血を引いた高貴なお子だと保証してやる必要はないだろう」


 フィリップの説明に頷いて、ベリエ公が補足する。


「今回、聖王庁は「ルガール王位を継承するのは〈聖王庁が承認したロンティエ公の孫〉の嫡流に限る」と宣言した。リーブール侯の血脈が入る余地はない」


「グロリアはどうするんだ」

 ジュストが低い声で呟いた。

「俺がルガールの継承権に関わると、グロリアが口を出してくるはずだ。将来のルガール王は〈グロリア王の孫だ〉と」


 都合がいいときだけ、ジュストをグロリア王の子として扱い、都合が悪くなると王の子だとは認めない。

 グロリアとはそういう国家であり、だからこそ、不要な軋轢を生まないためにジュストにはルガールの王位継承権が与えられなかった。


 それなのに、今になってジュストの嫡子に王位継承権を認めると宣言したら、翻ってジュスト自身にも継承権を認めるのかという論争を生む。

 だからこそ、と、ロジィの隣に立っているジュストが、皮肉な笑みを浮かべた。


「面倒なことを起こさないための〈アルティノワ公〉だったんじゃないの?」


 王族なのに王族ではない。曖昧で中途半端な逃げ道。ルガールはずっと、それに甘えていた。

「今さらグロリアと全面戦争でもするつもり?」


 挑発するようなジュストの言葉にベリエ公が応じた。

「私は、おまえと事を構えるつもりはない」


 奇妙な返答だった。同じことをジュストも思ったのだろう。露骨に顔を歪めてベリエ公を見つめ返す。


「あ?」


 やさぐれた物言いをするジュストの姿は新鮮で、ロジィは、まじまじと夫の横顔を見つめてしまった。貴公子然とした美しい言葉遣いばかり聞いていたけれど、身内を前にすると、こんなにも砕けた話し方をするのか。


「俺はグロリアの話をしてるの。王弟殿下ムッシューには関わりのないことでいらっしゃいますよ」

「なかったら口は挟まない」

「どこに関係が? おまえの母親はダンベルクの皇女、妻はラルデニアの姫。どこにもグロリアと関わりがないんだけどね」


 ばっさりと斬り捨てられたベリエ公は国王フィリップに視線を向ける。

 フィリップが無言で首肯するのを確認してから、ベリエ公はゆっくりと口を開いた。


「……私が、グロリア王になるからだ」

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