第二章 【 真実 】
【 第二章 ① 】
起床から就寝まで、決められた時刻に決められた行為をする――という、分刻みの日課が守られていたのは、現王の祖父の代までのこと。
現在のメルヴェイユ宮殿の「時間割」は非常に緩やかだ。
国王としてのカリスマ性を見せつけなくとも、王は王として尊崇を集めているし、いちいち日常生活を儀式化せずとも、宮廷儀礼がきちんと定まってきたからだ。
――――が、何事にも例外は存在する。
フィリップ治世のメルヴェイユ宮殿において、誰よりも規則正しく日課を守っているのは、この人だろうとロジィは思う。
「貴族たちが賞賛しきりでしたよ、私の天使。昨夜の舞踏会での振る舞いは実に見事であったと」
飾り気のない木製扉の向こうから、ベリエ公の華やいだ声が漏れ聞こえてきた。
「そう?」
「さきほど引見したモルノーズ伯が舌を巻いていました。よもや妃殿下が〈青薔薇の騎士〉までご存知とは、と。読書は苦手と仰っていたのに、こっそりお読みとは驚きましたよ」
「え、や、やだ。本は嫌いよ?」
本当に読書嫌いのレティが引きつった声を上げたのが聞こえる。
彼女の胸中を察し、ロジィは内心で溜息を零した。
(悪いことをしたわ)
昨夜の舞踏会では少し浮かれてしまい、うっかり大好きな小説の一節を口走ってしまったが、レティに成り切るという当初の目的に照らすと失敗だった。
ベリエ公は疑わずにいてくれるようだが、不審に思った貴族のひとりやふたりは、いるのではないだろうか。
……心配だ。
「そのように謙遜されずとも。無学者のフィリップは気の利いた台詞ひとつ返せなかったそうですね。お気を悪くされたのではありませんか」
「いいえ?」
機嫌を伺うようなベリエ公の言葉に、けろりとした口調でレティは答えていた。
それはそうだろう。舞踏会に出席したのは〈ロジィ〉なのだから、フィリップの言葉を直に聞いていないレティが、気を悪くするはずがない。
しかし、そうした裏の事情を知るよしもないベリエ公は、さばさばとしたレティの返答にたいそう感銘を受けた様子だった。
「ああ! 私の天使はなんと心優しいのでしょう。愚かなフィリップにまで寛容でいらっしゃる。その御心をどうかフィリップにではなく、天使の愛に飢えている、この私にお与えください」
「わたしはいつでもルイ様が好きよ」
会話が途絶えた。
見つめ合っているか、甘い接吻のひとつでも交わしているのだろうな――と、冷静に推測する。
ロジィは今、部屋として与えられた宝飾品管理庫ではなく、ミミが使用する女官控え室で身を潜めていた。
ルガールの王弟殿下たるベリエ公の毎日は実に規則正しい。
朝、起床して身支度を調えると、ベリエ公はまず愛妻の
閨房とは、貴婦人の寝室と居間とを兼ねたような部屋を指しており、異性の立ち入りが厳禁とされている。ルガールでは基本的に夫しか立ち入る権利がなかった。
ベリエ公は、その権利を最大限に行使して、閨房の持ち主の許可を得ることもなくするりと入り込むのだ。妃の寝顔を堪能するのが趣味のひとつらしい。レティがすでに起床している場合には、ひそかにがっかりした表情を見せるとミミが言っていた。
現在の時刻は午前八時。レティの閨房で、パンとスープを基本にした、ごくごく軽い朝食を摂る時間だった。
宝飾品管理庫にロジィが隠れ住んでいることは当然ながらベリエ公にも秘密。
彼が気まぐれを起こして宝飾品管理庫に立ち入っても言い訳が成り立つよう、宝飾品管理庫に寝台は用意されていなかった。
ロジィはいつも休憩用の寝椅子で眠っているが、ベリエ公が突然に乗り込んできたら身の置き場がない。そこで毎朝、あらかじめミミの部屋に移動しておくのがロジィの日課だ。
前もって避難ができるので、時計のように規則正しいベリエ公の生活習慣は、ロジィにとってはありがたかった。
「多くの人とお会いになるのはお嫌いと仰っていましたから、あまり強く出席をお勧めできなかったのです」
再び、ベリエ公の声が聞こえ始めた。
彼の声は、溶けてどろどろになった砂糖菓子のように、甘い。
どれだけ深くレティを愛しているのか、その声音でロジィはいつも思い知らされるのだ。
「これからは、いろいろな人とお話をしたいと思うわ。ちゃんと王弟妃のお務めを果たそうと思うの」
「おお。我が天使は愛らしく、勤勉でいらっしゃる」
蜂蜜を降り注いでいるかのようなベリエ公の声を扉越しに聞き流しながら、ロジィはぐるりと室内を見回す。
王弟妃付き筆頭女官の地位にいるミミの部屋は、ラルデニアの城館でロジィとレティに与えられていた勉強部屋と同じくらいの広さがあった。
二脚の椅子を揃えたテーブルセットと、多目的用の肘掛け椅子が一脚。
壁をくぼませて作った空間には寝台が設置されている。衣装箪笥や書き物机も置かれ、使いやすそうな部屋だ。
ロジィは、レティの閨房とミミの部屋を隔てている扉の脇で、そっと会話に耳を澄ませていた。
盗み聞きをするような行動はしたくないのだが、話を聞いておくようにとレティに頼まれているのだ。
ベリエ公が何気なくレティに漏らした内容が、宮廷における重要な情報である可能性もある。
王弟妃として振る舞うロジィには必要だろうから、と。
「ですが、ベルローズなどにお声を掛けたそうではありませんか。母上から聞いて驚きました」
「え」
(――え)
動揺するレティの声。扉の陰で、ロジィも飛び上がった。
しまった。
まだ、舞踏会の詳細をレティに報告していないのだ。
ダンスを終えた国王と寵姫が早々に引き揚げてから、教育係の使命に燃えたフロランタン侯爵夫人に次々と貴族を紹介されてしまい、帰ってきたのは明け方近くだった。
今朝は、珍しくレティがベリエ公の到着を待たずに起き出していたが、説明する時間はなかった。
朝のレティには、ベリエ公を出迎えるための身支度があるからだ。はしゃぎながらローブを選んでいるレティに、細かい話ができるはずもない。
どうしよう、どうしよう。
もし、ベルローズを嫌っている王太后陛下のご不興を買ってしまったら――。
ロジィの心臓が早鐘を打つ。ベリエ公が続きの言葉を発するまで、生きた心地がしなかった。
「ああ、咎めているのではないのですよ。様子を伝え聞いた母上は、王弟妃として相応しい立派な振る舞いだと感心なさっていました。褒美に何か贈り物をと仰っていましたから」
どうやら最悪の事態は免れたようで、ロジィは扉の陰で胸をなで下ろす。
続くベリエ公の言葉は、少し意外だった。
「私が、勝手に嫉妬しているだけなのです。我が天使の麗しいお声は、私だけが独占しておきたかった、と」
レティと話しているときには珍しい、拗ねたようなベリエ公の声音。
びっくりしたロジィと同じことを思ったのか、レティも驚いたような、からかうような声で応じる。
「あら。嫉妬だなんて、ルイ様らしくなくてよ」
普段のレティの物言いとはかけ離れた、明らかに芝居しているとわかる大人びた口調。それにすがりつくように、ベリエ公は口早に言った。
「私は、いつでも嫉妬しておりますよ。我が天使の眼差しが向けられる、すべてのものに」
再び途切れる会話。
時計の秒針がきっちり三周して、ミミの大きな咳払いが沈黙を切り裂いた。
気恥ずかしくなったのか、我に返ったのか。不自然なほど上擦った声でレティが言う。
「あ、ほ、ほら、ルイ様。スープが冷めるわ。このあと午前の政務があるんでしょう?」
「なんと。我が天使はそのようなことにも気が回るのですね。これまでの貴婦人ならば、私の訪問を歓迎こそすれ、政務に戻るよう叱ることなどありませんでした。やはりあなたは、神が私に遣わしたもうた天使でいらっしゃる」
「うふふ? そんなこと、あるかもしれないわね」
まんざらでもない様子でレティが笑った。ベリエ公もつられて笑う気配がする。
「まったくフィリップは見る目がない。出自の知れない下賤な女を側近くに置くとは。我が天使のほうがよほど麗しく愛らしいというのに」
愛らしい、という点ではロジィも同意するが、麗しさに関してはベルローズが一枚上だろう。
たった一度、舞踏会で姿を見ただけなのに、ロジィは彼女の容姿をありありと思い返すことができる。
ルガールには珍しい、黒々とした艶めく髪は異国的で妖艶だった。
そしてあの、海のように深い蒼の双眸。
面差しに女性的な柔らかさはないのに、ぴんと張り詰めたような気配が、かえって目を惹いた。
綺麗な貴婦人だった。
「なにが〈
怒気を帯びて言い募るベリエ公とは対照的に、のんびりとした口調でレティが言う。
「宮廷一の貴婦人は、これから来る王妃様なんでしょう?」
「何を仰るのです!」
カチャン、と食器がぶつかる甲高い音が響いた。割れた音ではないので大丈夫だろう。ベリエ公がレティに向き直ったのか、あるいは食器を乱暴にどかしたのか。
「フィリップに王妃はいません。今までも、もちろんこれからも。母上が必ず阻止してくださるでしょう。ですから、このルガール宮廷で第一の貴婦人は、この私の妃でいらっしゃるあなたなのですよ」
――――王太后が、国王の結婚を阻止している?
信じられない言葉だった。
ロジィは、びっくりして扉を注視する。
閉ざされている扉を熱心に見つめたからといって、二人の姿が見えるようになるわけではないのに。
(……どういうこと……?)
狭い土地を治める領主であれ、一国を支配する王であれ、統治者にとって重要なのは世継ぎを確保することだ。
妃に先立たれれば、たとえ世継ぎがいても「控え」となる男児誕生に期待して、新たな王妃を迎え入れるのが国王の常識だった。
即位以降、ただのひとりも妃を娶っていないフィリップは異常だと囁かれていたが、それが王太后の画策だったとは。
(いくら、実子であるベリエ公を王位に据えたいからって、だからといって、国の母とも言える王太后陛下が、国王陛下の婚姻を阻止しているなんて、そんな――……)
扉の陰で呆然とするロジィの気持ちなど置き去りに、ベリエ公は真摯な声でレティを褒め称える。
「私がこれほど心惹かれた貴婦人は、あなたをおいて他にいません。その瞳はペリドットよりも透きとおり、見つめられると胸が高鳴ります。鈴のごとく麗しい声を紡ぐ唇は果実よりも紅く、何度味わっても飽きることがないほどに甘い――」
また、会話が途絶えた。
最初の頃は、熱烈な言葉と濃密な気配に戸惑ったが、これが毎日ともなれば、もはや諦めの境地だ。
ミミも同じなのか、時計の秒針が三周以上を回っていても、咳払いはしなかった。
「もう、……ルイ様! 政務、あるんでしょ」
「つれないことを仰らないで。政務より、あなたと過ごす時間のほうが尊いのですよ」
政務をしたくないと、切々と訴えるベリエ公を哀れに思ったのか、レティは「名案」とばかりに声を弾ませた。
「じゃあ、ルイ様のお仕事は全部、王様に押しつけちゃえばいいじゃない」
だが、ベリエ公は珍しく、レティの言葉を取り付く島もない様子で切り捨てる。
「無理ですよ。フィリップに統治能力などありません」
「そうなの?」
「ええ。愚かなフィリップは卑しい愛妾に骨抜きですからね。まったく、あの女のどこがよいのか。誰よりも賞賛され、その美貌を讃えられるのは、あなたお一人であるべきです」
それからひとしきり、ベルローズへの悪口雑言を並べ立てたベリエ公は気が済んだのか、レティに「こちらを」と言った。何かを手渡す気配がする。
「なあに?」
「ベルローズより、あなたへの招待状ですよ」
「招待状? なんで? なんの?」
「ベルローズのサロンにお運びいただけないかと、厚かましい申し出が書き連ねてあります」
サロンとは、本来、応接間を示す言葉だったが、やがてその部屋で行われる茶会や談話会も意味するようになった。現在では、貴婦人が居室で開く茶話会そのものを示す場合が多い。
暇をもてあます貴婦人たちが互いをサロンに招待し合って、お茶を楽しみながら雑談で時間を経過させていくのが、ルガール宮廷における〈嗜み〉だ。
宮廷内での派閥を作り上げる目的も裏に隠されているため、招待客は入念に選考される。
しかし一方で、招待客が「お友達」だけに偏って宮廷で飛び交う情報から取り残されることがないよう、ある程度は新鮮な客も招く必要がある。
それほど親しくなくとも招待する口実にできるように、ルガール宮廷では、正式に挨拶を交わすと互いのサロンに招待自由、という暗黙の決まりがあるのだという。
「へええ?」
感心しているレティの声が聞こえてくるが、ロジィは内心で冷や汗をかいていた。
そんなややこしい決まり事までは教えてもらわなかった!
婚約期間中、ロジィは煩雑なルガールの宮廷規範を朝から晩まで勉強した。丸暗記しなければ宮廷で生活できないからと。
だが、渡された「作法の手引き」には、公式な場面や、宮廷における一般的な作法、伝統的な慣習などしか掲載されていなかったのだ。近年になって新たに発生した「お約束」までは網羅されていない。
フロランタン侯爵夫人は、そうした初歩的なことはすでに説明したと思っていたのだろう。
その認識に間違いはない。説明された王弟妃と、出席する王弟妃が、異なっているのはこちらの事情だ。
(知っていたら、ベルローズ公爵夫人と関わらなかったのに)
挨拶を交わした貴婦人が互いをサロンに招待するというのは、おそらく儀礼的な意味合いが多分に含まれているだろう。つまりは腹の探り合い。
そうした面倒な事態を避けるため、極力、厄介そうな貴族とは言葉を交わさないようにしていたのに……。
「断ってもよいのですよ?」
――――いい、の?
ロジィは目を瞬いた。ベリエ公の言葉は意外だった。
相手が誰であれ招待されたらできるだけ出席をと、王太后やフロランタン侯爵夫人からは教えられていたが。
「たかが寵姫です。宮廷で正式な地位にあるわけではありません。フィリップの情けにすがって生きているような女のサロンに、高貴なあなたが足を運ぶのは業腹です」
素晴らしい欠席の言い訳だ。ロジィでは思いつきもしなかった。
ロジィは壁により掛かり、ベリエ公の「世界の中心はレティ」という発想に感心する。
「不躾な誘いなど無視して、あの女に身の程を知らしめておやりなさい。王弟妃を招くのは百年早いと」
ほっとして、もう盗み聞きを続けなくても大丈夫かなと、壁から背を離したとき――
「わたし、サロンに行くわ」
「え?」
(――え!?)
ロジィの心の声と、ベリエ公の現実の声が、見事に重なった。
離れた壁に再び身体を押しつけ、ロジィは、隣室の会話を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる。
「何を仰います、我が天使。あなたもベルローズなどは嫌いだと仰っていたではありませんか」
まったくだ。
せっかく断りの口実をベリエ公が考えてくれたのに、どうして出席するなどと。
「キライよ? キライだけど、だって、誘われたら出席するのがルガールの礼儀なんでしょう?」
「礼儀知らずに宮廷で振る舞っているのは、あの女です。こちらが礼儀を尽くしてやる必要などありません」
ばっさりとベリエ公が切り捨てる。いくら奔放なレティでも、夫の意見には素直に従うと思っていたのだが。
「ルガール宮廷のサロンって、ラルデニアでは噂でしか聞けなかったの。一度、出てみたいって思ってたから」
レティが、ルガールのサロンに興味を抱いていたとは初耳だった。
「ですが、嫌っている相手のサロンにご出席なさっても、楽しまれることは無理でしょう」
「一度くらいなら大丈夫よ。王弟妃が宮廷の作法を破ったら、いけないんでしょ?」
これまで「面倒」を理由に、さんざん宮廷行事をすっぽかしてきた不真面目な王弟妃とは思えない、ご立派な言葉だった。
「……ねぇ、ルイ様ぁ、だめ……?」
甘えるようなレティの声。しばらく沈黙が漂う。
無音の間に、何がどうなったのか。負けたのはベリエ公のようだった。
「あなたがお嫌でないのなら、私がお止めする理由はありませんね」
「きゃぁ! ルイ様大好き!」
そこから先を聞くのは野暮というものだろう。
ロジィは今度こそ壁から背を離し、部屋の奥へと移動した。ここまで来れば気恥ずかしい会話は漏れ聞こえてこない。
(それにしても――)
あれだけ嫌っていたベルローズのサロンに出席するのは、どういう心境の変化なのか。
レティの考えていることは相変わらずよく分からないけれど、まあ、王弟妃の役割を果たす気になったのなら、よいことだ。
(そろそろ、尼僧院に戻れるかもしれない)
今日あたりから荷造りを始めておこうか、と、ロジィが今後の活動計画を立てたとき、扉が開いてミミが顔を覗かせた。
「朝食を同じ卓で、との妃殿下のご厚情です。お急ぎください」
そう告げられたロジィは、慌てて裾を蹴るように走った。宮廷において、身分上位者を待たせるのは最大の非礼と見なされるのだ。相手が、たとえ双子の妹であっても。
向かった先では、パンや果物はもちろんのこと、焼き菓子、燻製肉などといった尼僧院では考えられないほど豪勢な、けれど宮殿では「簡素な」と形容される朝用の軽食がテーブルに並んでいた。
レティはミミの手を借りて、コルセットの紐を緩めさせている。
女性の身体を痛める、という理由でパニエ同様、旧型のコルセットもルガール宮廷ではあまり使用されない。
昔に比べれば締め付けも緩やかな「新コルセット」と呼ばれるようなものが編み出され、ルガールの貴婦人たちはそれを愛用していた。
それでも、やはり紐で胴を締め上げるという基本構造は変わらないので、そこそこは苦しい。
昨夜の舞踏会で盛装したロジィも、やはり、少し動きづらさは感じた。
「あー、苦しかったぁ。ルイ様がいる間は綺麗に絞っておかないとねー。……さ、食べるわ!」
レティは早速、焼き菓子を自分に取り分けた。思い切り頬張りながらロジィに椅子を勧める。
「お姉さまも好きなの食べて?」
「恐れ入ります」
とは言ったものの、本当に好き放題に手を出すわけにもいかない。
レティが好む料理は残しておかなければならないし、高級食材を使用している料理も、避けておくのが無難だろう。
ざっとテーブルの上を見回したロジィは、パンとサラダ、果物を選んだ。尼僧院暮らしの名残で、肉や魚はあまり口に合わなくなってしまったのだ。
「メラニエ男爵夫人、ミルクを頂戴しても?」
「お注ぎいたします」
カップに注がれるミルクは火にかけられているため、ほのかに温かい。
ルガールでは、ミルクはショコラと同じようにスパイスで調味して饗されるのが普通だ。ショコラは、バラやジャスミンで風味付けされるが、ミルクにはシナモンや蜂蜜を混ぜる。
今朝のミルクは蜂蜜入りだった。ふんわりとした優しい甘みが、昨夜の舞踏会の疲れを取り除いてくれる。
ほっと緩んだ気持ちのままに、ロジィはしみじみと呟いた。
「贅沢な朝食ともお別れかと思うと寂しいものがございますね」
「お別れ? 大丈夫、量が足りないなら厨房から追加させるわ。寂しくないわよ」
焼き菓子の砂糖と油で口の周りをべたつかせながらレティが言う。ミミがすかさずナプキンでレティの口元を拭った。
朝食を食べ終えてしまって「料理とお別れ」するのが寂しいと言ったのではなく、贅沢な朝食を食べなくなる――つまりは、この宮殿を「離れる」と言いたかったのだが、レティには伝わらなかった。
察しの悪いレティとは違い、婉曲な会話を常とする宮廷生活に馴染んでいるミミは、言葉の裏を正しく理解したらしい。
「ご実家に? それとも、尼僧院へ?」
「尼僧院よ。ベアトリス様お一人では行儀見習いの子たちの面倒も大変でしょうし、お手伝いをしたいと思っているわ」
「さようでございますか」
「ちょっと、なんの話をしてるの。二人だけ分かってずるいわ。わたしにも分かるように言って!」
だん、とレティがテーブルを叩く。さっと畏まった態度でミミが答えた。
「ローゼリア様は宮殿を去られると仰っているのです」
「なんで?」
「……妃殿下、そもそもローゼリア様はメルヴェイユ宮殿にご滞在なさるお方ではありませんし――」
ミミの言葉を遮って、レティが不機嫌な声でうなるように言った。
「誰が、帰れって言ったの?」
「……妃殿下?」
怪訝そうに問いかけるミミを無視して、レティはロジィに視線を向ける。
その表情は険しい。
「お姉さま、まさかバレたの?」
「え?」
言われている意味が分からず、思わず聞き返す。
ロジィの反応が鈍いことが気に入らなかったのか、レティの眉がぴくりと跳ね上がった。
「わたしじゃないってバレたのかって訊いてるの。だから、偽物のお姉さまは宮殿から出てけって、誰かにそう言われたの? だから帰るって決めたの?」
若葉色の瞳に、怒りの感情がゆらりと揺れている。
幼い頃からレティの理不尽な怒りと癇癪に慣れているロジィは、身体を縮ませているミミとは違って、堂々と彼女の眼差しを受け止めた。
「いいえ。誰にも見破られてはおりません」
「じゃあ! どうして帰るなんて言い出すのよ!」
先ほどミミがレティの口元を拭ったナプキン。それが蝶のようにひらひらと儚く宙を舞う。
レティが癇癪を起こすのはいつものことで、感情にまかせて物を投げつけるのも、いつものことだった。
皿やカップでなくてよかった。あれは割れると後始末が大変だ。
昔も、食事中にレティが急に怒り出して、テーブルにあった食器を全部、床にぶちまけたことがあったっけ……。
「お姉さま!?」
白いナプキンの行方をうっかり目で追いかけてしまったが、突き刺すように向けられる不機嫌な眼差しに、はっとして、ロジィは慌てて弁解する。
「わたくしは王太后陛下の茶話会に出席しました。昨夜の舞踏会にも。ですから、マダムのお務めをある程度は代行できたものと存じます。そろそろお暇申し上げるのが頃合いかと」
むなしく床に落下したナプキンを拾い上げながら、ミミが深く頷いている。全面的にロジィの意見に賛成、といった態度だ。
一方のレティは、ロジィの主張を鼻先で笑い飛ばす。
「何言ってるの。王弟妃の務めは、まだまだたくさんあるのよ。これからよ」
たくさん? これから?
思いもしなかったレティの言葉に面食らったが、ロジィはなんとか食い下がって翻意させようと試みる。
「ルガールのサロンに一度、出てみたいとお思いだったのでしょう? でしたら、わたくしの出る幕など――」
「出てみたいって思ったのは嘘じゃないわよ。でも、本当に出るのは面倒でしょう!? だから――」
だからお姉さまが出ればいい……そう続きそうなレティを遮るつもりで、素早く言葉を継ぐ。
「出たいと思われたのはマダムでいらっしゃいます。わたくしではございませんよ」
「わたしが出たいって思ったら、お姉さまも出たいって思ってるはずよ! 双子なんだから!」
「…………」
確かに、双子だ。
大枠では好みも似ている。昔は、興味を持つことも一緒だった。
でも、いつの頃からだろう。
ロジィは、レティとは違う感情を抱くようになっていたし、レティも、ロジィとは違う行動を取るようになっていた。
ロジィが変わったのかもしれない。
子どもの頃は、妹と同じように、こうした華やかな部屋が好きだったし、おとぎ話にも憧れた。
けれど、いくら領主一家でラルデニアは裕福だといっても、物品には限りがある。それが高級品ならなおのことだ。
ひとつしかないものを取り合って姉妹が争うことを両親は嫌がった。
次々と妹に譲るうち、ロジィは可愛くて綺麗なものから遠ざかり、結果として好みも変わった。
(でも、レティは昔のまま)
自分と同じものを姉も好きなのだと頑なに信じている。
違うと、そうではないのよと、はっきり言ってあげられない自分の心の弱さが、こうした事態を引き起こしてしまったのだろうか。
双子でも別個の人格なのだと、もっと早くにレティに伝えていたら――――。
「ルガール宮廷のサロンには出てみたいわよ。でも、わたし、ベルローズが本当にキライなの」
カップに注がれているミルクを、ティースプーンでぐるぐるぐるぐる行儀悪くかき混ぜながら、レティがブチブチと文句を言う。
「ご自身でご出席されませんと、サロンの雰囲気をお確かめになることは叶わないのですよ」
もっともな正論を振りかざしてみるものの、やはりレティには通じない。
「そこはお姉さまの出番でしょう? いつもみたいに詳しくお話ししてくれればいいのよ。お姉さま、話すの上手だから自分が行ったみたいな気持ちになれるの」
そういう問題ではないと思う。だが、このままでは平行線を辿るだけだ。
ロジィは、別口から切り崩そうとした。
「マダムはご存知ないのですか?」
「何を?」
ちら、と視線を投げてくる妹に、にっこりと微笑んだ。
すぐには答えないことでレティの興味を充分に引きつけてから、そっと囁くように言葉を落とす。
「ルガールにおけるサロンには誰もが参加できるわけではなく、サロンの女主人から招待を受けた、いわば選ばれた貴婦人だけが出席できるのです。そして、選ばれた貴婦人だけが集えるサロンには、守らねばならないしきたりがございます」
「どんな?」
ここで焦らすのもひとつの手だが、あまりもったいぶるとレティの機嫌を損ねてしまうので、さっさと答えを提示する。
「サロンで交わされた会話は、外に漏らしてはならないのですよ」
それを聞いたミミが、少し大げさな口調でレティに語りかけた。
「まあ、それでは、せっかくローゼリア様にご参加いただいても、ローゼリア様はサロンの様子を妃殿下にご報告申し上げることができません。ここは妃殿下が御自らご出席なさいませんと」
ミミは精一杯、レティを説得した。――しかし。
「何言ってるのよ」
その一言で、木っ端みじんに粉砕されてしまった。
「お姉さまとわたしは、双子なの。一心同体なの。お姉さまが見たことは、わたしが見るのと同じ。わたしに報告するのは独り言と一緒よ。サロンの作法を破ることにはならないわ」
――――ああ、なるほど。
むちゃくちゃな論法なのだが、ロジィは、ようやくそれでレティの思考回路を理解した。
レティは、自分と姉は本当に「同じ」だと思い込んでいるから、身代わりという発想ができたのだ。
(……双子って、厄介よね)
生まれた年も、月も、日にちも。
何もかもが同じなのだから、すべてが同等でなければならないし、同等であるべきだ。
レティの言うことは正しい。……ただ、感情までは同じではないと、そろそろ理解して欲しいのだけれど。
「ベルローズのサロンは木曜日よ」
レティからこちらへ、ぽいっと放られた招待状が、まるで地獄への切符に思えた。
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