【 第三章  ④ 】

 アルティノワ公のリードは巧みだった。

 ラルデニアではダンスを申し込まれることが少なかったので、多くの殿方と踊った経験があるわけではないが、アルティノワ公は足運びや手の位置が完璧なのだ。


 彼のリードに従って手足を動かしていれば、誰であっても〈ダンス上手の姫君〉と思ってもらえるだろう。

 何度目かのターンの途中、アルティノワ公は言いにくそうに口を開いた。


「王弟妃と何を語らっておいででしたか」

「!」


 思わず足が止まりそうになる。慌ててくるりと回ったので、どうにかステップを間違えずに済んだ。


 ベリエ公の乱入で棚上げになっていただけで、忘れてくれたわけではなかったのか。

 聞こえなかったふりをするには距離が近すぎる。返答に窮したロジィは、レティの言い訳を引用することにした。


「……マダムも仰っていましたが、姉妹の秘密です」

「薔薇の花園を踏みにじるつもりはありません。薫りを分けていただきたいのです」


 古代コランヌ帝国の時代より、薔薇は秘密の暗喩として使われる。ローゼリアが薔薇を冠した名であることにも因んでいるのだろう。上品なたとえを使いながら、口を割れと脅迫していた。


 国王フィリップと王弟ベリエ公は宮廷で対立構図にある。アルティノワ公が国王側なのは明白だ。婚約者が王弟妃と姉妹なのは警戒すべき事柄だろう。それも〈秘密〉などと意味深長な言葉を使われてしまったら。


「パリュールのことです」

「……パリュール?」


 互いの身体が近づくステップに合わせて、怪訝そうな表情をしたアルティノワ公に身を寄せる。大きな声では言いづらい内容なので好都合だ。


「公家伝来の品とはお思いでなかったようで、欲しいと仰せになったのです。それで驚いてしまって……」

「ベリエ公のほうが豪勢な宝飾品を蒐集していますよ」


 姉の宝石を欲しがるくらいなら夫に強請ればいい――と、アルティノワ公は容赦なく切り捨てる。

 それで続きは? と蒼い瞳が先を促してきたので、ロジィはにこやかな笑みを保ったまま口を開いた。


「お借りしている大切な品ですから、お断り申し上げたのですが、マダムのご機嫌を損ねてしまったようです。秘密などと、閣下には大変に失礼なことを」

「それだけですか?」


 理知的な蒼の双眸が、まっすぐにロジィを射貫いていた。ええ、と頷くと、淡泊な印象を与える唇が少しばかり尖る。


「おふたりで秘密になさるような話とは思えませんが」


 ……意外と疑り深いのね。


 煩わしい俗世から隔絶しているような、涼しげな美貌をしていながら、アルティノワ公はなかなかにしつこい。

 そして、鋭い。


 公が推測するとおり、レティが言ったのは「パリュールが欲しい」だけではなかった。――だが。


(言えるわけがないわ)


 アルティノワ公のリードで身体を回転させる。回る途中で、ベリエ公と楽しげに踊るレティの姿が目に入った。



           * * *



「そのパリュール素敵ね。ちょうだい?」


 民俗舞踊が終わり、その場を離れようとしたときだ。

 するりと近寄ってきたレティが、ロジィに腕を絡ませながら、仕草そのものの甘えた口調で言った。ロジィは困って眉を寄せる。


「申し訳ございません、マダム。こちらの宝飾品はアルティノワ公家伝来の宝物なのです」


 借り物を譲渡することはできない。アルティノワ公に確認するまでもないことだ。


 レティは、ふぅん、と小さく頷いて、それだけだった。だだをこねると思っていたので肩すかしを食らった気分だが、面倒事が起こらなかったことに、ほっと安堵の息を漏らしたら。


「じゃあ、宝石じゃなければいいのね。……ねぇ、アルティノワ公は美男ね。欲しいわ」


 いきなり何を言い出すのか。

 驚愕を隠せず、まじまじと妹の顔を見つめると、レティは悪びれた素振りもなく続きを口にする。


「ルガールでは愛人を持つのが常識だもの」


 ……それは、そうだが。あれだけ熱烈に愛を囁いてくれる夫がいて、まだ足りないのだろうか。

 ゆっくりと歩を進めながら、ロジィは、レティの一方的な主張に耳を傾けるよりない。


「それは公家のものって言うから諦めるけど。でも、アルティノワ公は、お姉さまの婚約者だから、お姉さまの〈もの〉でしょ。昔からお姉さまは、お姉さまのものならなんでも、宝石もローブも子猫も、わたしが欲しいってお願いすれば全部くれたじゃない」


 ロジィはアルティノワ公と婚約を交わしたが、彼を「自分のもの」だとは考えていない。

 そのことをレティにも理解してもらおうと、足を止めて向き直った。


「……アルティノワ公は、わたくしの〈もの〉ではありません。差し上げることはできません」

「お姉さまの〈もの〉じゃないなら、お姉さまの許可はいらないでしょ? どうして、あげられない、なんて、お姉さまが言い切るの?」

「そ、れは……」


 ロジィは言葉に詰まった。

 結婚していても互いの感情は〈自由〉なわけで、その考えに基づいて、ルガール宮廷では婚外恋愛が保証されている。


 けれど、リジオン教を厳格に守ろうとするラルデニアで育ったロジィにしてみれば、結婚相手に誠実な愛情を寄せるのは自然なこと。夫ではない殿方と親しく接するのは論外だ。逆もまたしかり。それが婚約段階であっても同じだと思っている。


「結婚は、神の御前で誓うものです。マダムはベリエ公と婚姻の誓いを立てられた御身です。それを破りたいというお申し出には頷けません」


 妹が、自分の婚約者と恋仲になりたいと、言う。

 神を裏切る行為に諸手を挙げて賛成できないのは、姉としても、リジオン教徒としても、当然だとロジィは思うのだが。


「アルティノワ公が同じ考えだとは限らないわ。ルガールの王族なんだし、結婚すれば堂々と愛人が囲えるって、喜んでるかもしれないじゃない?」


 思いもよらない方向から言葉を突き刺され、ロジィは顔が強張るのを自覚した。

 言い返そうと思うのに、真っ白になった頭はいっこうに働いてくれない。


 ……結婚すれば愛人を囲える――?


「この婚姻は王命でしょ。わたしのときみたいに相手から懇願されたものじゃないわ。きっと王様の命令で仕方なく、アルティノワ公はお姉さまと結婚するのよ。ルイ様がわたしを愛してくれる百万分の一も、お姉さまのことを好きじゃないわ。そんなことも理解できないなんて傲慢ね」


 あの日のように、若葉色の瞳にロジィへの敵意を乗せて。

 首筋にかかる栗色の巻き毛を指先で払いのけながら、レティは艶やかな笑みを浮かべた。



「ルイ様から選ばれなかったお姉さまが、婚約者から愛してもらえるなんて、どうして思えるの?」



            * * *



 探るように向けられるアルティノワ公の視線を受け流して、ロジィはダンスに集中する振りをした。


(レティの言ったことは正しいわ)


 この婚姻は政略の域を出ないものであり、ロジィが捧げる愛情と同じものをアルティノワ公が返してくれるとは限らない。


 そもそも、滅多に宮廷に伺候しないアルティノワ公の人柄や私生活は、厚いベールに覆われている。公と想いを交わす姫君が水面下で数多く存在したとしても、おかしくなかった。


 妃セレスティーヌを誠実に愛するベリエ公や、ベルローズ公爵夫人をひたむきに寵愛した国王フィリップ。……彼らの姿を見ていたから、うっかり忘れていた。


 支配階級では功利的な結婚を終えてからが、恋愛の本番。彼らにとっての配偶者とは、血統を絶やさないためだけの同盟者であり、愛と結婚はまったくの別物だ。


 結婚すれば自然と伴侶に愛情を抱く――というのは、田舎育ちのロジィの幻想だった。王侯貴族は仮面夫婦なのが常識だったのに。


(……ばか、みたい)


 夢見がちな自分が情けなくて、ロジィは俯いた。


 ダンスの最中に視線を外したことを咎めるように、ステップに乗じてアルティノワ公がロジィを抱き寄せる。

 距離が近くなって、アルティノワ公がまとう香水の薫りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。


「姫の妹君に失礼ですが、王弟妃は天真爛漫が過ぎる方です」


 爽やかな薫り。柑橘系だ。ここしばらく、ベルローズ公爵夫人の薔薇の薫りに包まれていたので、なんだか落ち着かない気持ちになる。


「あの方から、何か他に、お心を曇らせるようなことを言われたのではありませんか」


 だから秘密などと言って誤魔化しているのではないか――と、アルティノワ公の双眸が冷徹な色を孕む。


「教えていただけますね、姫」


 やや強い語調で言われて、ロジィは無視できないことを悟った。なんとか誤魔化して切り抜けるため、円舞曲に身を任せながら、するすると言い訳を考える。


「……閣下は、マダムを誤解しておいでです。マダムは綺麗な宝飾品に目がない方なのです」


 我ながら白々しい返答だと思った。あれだけ話し込んでおきながら、その内容が「パリュールちょうだい」だけの薄っぺらいものだとは、誰も信じてくれないだろう。


 だが、ロジィはこれで押し通すつもりだった。下手な嘘をつけば、それを誤魔化すために嘘を重ねることになる。どこかでボロが出たらおしまいだ。だったら、本当のことだけで切り抜けるしかない。


 隠し事をすることに罪悪感はあるが――アルティノワ公が国王側の王族だからこそ、「妹があなたとの恋愛遊戯アバンチュールを望んでいます」と馬鹿正直に報告することはできないのだ。


 ルガールには王妃がいない。目下、レティは王位継承者を出産できる唯一の女性だ。

 それはつまり、将来、彼女が産んだ子の出生に疑義を挟まれるようなことがあってはならない――ということ。


 相手がアルティノワ公であれ、別の男性貴族であれ。レティが、夫以外の男性と懇ろになるような妃だと見なされたら、王弟妃としての権威は失墜する。


 ルガール国王に敵対するつもりはないし、アルティノワ公と反目したいわけでもないけれど。

 ロジィはラルデニア伯家の人間であり、レティは血を分けた妹だ。

 彼女の立場を守り抜くことは、ラルデニア伯家の名誉と領土を守ることにも繋がる。


 ――――絶対に言うことはできない。


「審美眼に優れたマダムのお目に留まるほど見事なパリュールをご貸与くださいまして、ありがとうございました、閣下」


 ちょうど曲が終わりを告げる。まだ何か言いたげなアルティノワ公に会釈して、ロジィは背を向けた。






(……絶対、何か隠してるよな)


 アルティノワ公に宛がわれている居室。その窓辺に置かれた執務机に両肘をつき、組んだ指先に顎を乗せて、ジュストは床の一点を無言で見つめていた。


 机上を埋め尽くしている新居のデザイン画は、先ほどからまったくジュストの視線を奪えずにいる。

 脳裏に蘇るのは先日のローゼリアだ。婚約祝賀の舞踏会で王弟妃と言葉を交わしてからずっと、おかしい。


 この半月、話しかけても逃げようとするし、そもそも、彼女から会いに来てくれたためしがない。ジュストが足を向けなければ、起床から就寝まで、一度も顔を見ない日もあったほどだ。


(なんか、婚約前より会ってない気が……、……あ)


 ジュストは、しぱしぱと瞬いた。婚約する以前、ジュストは〈ベルローズ〉だったのだ。


 ――――女装してたときのほうが会話できたって、どんな悲劇!?


 哀しいどころか虚しい気持ちになった。

 ジュストはローゼリアのことを、未来の妻として大切に慈しむつもりだったのだ。


 ルガール宮廷は仮面夫婦の温床だし、ジュストには手本となる両親がいないので、これまでは参考にできる理想的な結婚生活が身近になかった。

 しかし、ルガール宮廷に〈新たな夫婦像〉を提供する夫が現れる。――ベリエ公だ。


 母親と妻以外の人間には思いやりの欠片も示さないあたり、なかなかに病的だと思っているが、ある一点についてだけジュストは感心していた。

 道徳観や倫理観が腐りきっているルガール宮廷で育っていながら、妻一筋を貫いているのだ。


 ――――ベリエ公の真似をすればいいんだ。


 フィリップに婚約を命じられてから、ジュストの心に浮かんだのはその考えだった。

 ベルローズの姿でローゼリアに会っていたときから、彼女の言動で好ましいと思う部分は、いくつかあった。


 だから、婚約期間で一つでも多く「好ましい部分」を見つけて正式に結婚すれば、伴侶へ愛情を抱く夫になれるだろう、と。

 それは、罪滅ぼしのためでもあった。この婚姻がフィリップの都合でまとめられたからだ。


 王侯貴族の結婚は、それすなわち政略であるとは言っても、ラルデニア伯家の都合や思惑は一切、考慮されていなかった。むろん、ローゼリアの感情も。


 ルガールから申し込まれた一度目の縁談が相手の強引なやり方によって破談となり、二度目の縁談を申し込んできたのもまた、ルガールである……。


 このことを、ローゼリアはどのように受け止めただろうか。

 喜びいっぱいで聞き入れたわけではない、ということだけは、確かだろう。


 ラルデニアは半独立領だが、ルガール王国傘下であることを表明しているので、申し込まれた縁談を断れば外交問題になる。ローゼリアには逃げ道がなかった。


 生け贄よろしく嫁いでくる姫を粗略に扱うなど論外だ。せめて、「夫としてまあまあ悪くなかったかもしれない」くらいの好印象を抱いてもらえるように、できる限り大事にしようと思っていた。


 ……でも!

 肝心のローゼリアと会えないことには、親睦を深めることも、慈しむことも、何もできないではないか!


 ジュストはがっくりと項垂れ、頭を掻きむしる。悩みは冒頭に戻った。

 会いに来てくれない、というのもそれなりに心理的打撃が大きいが、ジュストを悩ませるのは別のことだ。


 ――――王弟妃を庇っている。


 そのことが、深く、激しく、そして根深く、ジュストを苛んでいた。


 ローゼリアが王弟妃から何かを言われたことは明白だ。姉妹なのだから会話くらいするだろうし、その内容を教えてくれないことが苦悩の原因だと知れたら笑われるだろう。


 だが、ベルローズ姿でローゼリアと会ったジュストには、わかる。

 尋ねても口を割らなかったローゼリアの表情。あれは、かつてベルローズのサロンに招いたときと、同じ表情なのだ。


 あのときジュストは、古典を引用してローゼリアの心理に揺さぶりを掛け、彼女の〈本心〉を語らせようとした。

 それが失敗に終わったのは、王弟妃に成りすましていることを必死に隠しながら、その上で、妹を守る言葉を連ねたローゼリアに負けたからだ。


 ベリエ公の仕打ちを引き合いに出してローゼリアの妬心を煽ってみても、自分の立場を奪い取った妹へ憎しみの感情を向けることは最後までなかった。

 ローゼリアにとって、何があろうとも妹が一番。それは、あのときに痛感したはずだったのに。


 今こうして、婚約者になった自分よりも王弟妃を守ることを選択されると、なぜだろう。

 ……決闘で負けたような心境になるのだ。


(婚約したってことは結婚するってことで、一番身近な存在になるわけで、だったら俺のことを一番に考えてくれてもいいわけで……)


 ここまで考えたジュストは「ん?」と、脳内で首をひねった。


(――結婚すれば相手を愛する……。それはベリエ公が特殊だからか? ローゼリア姫は違うのか? 婚約したから大事にしようって考えてる俺はまさか……――)


 ジュストの思考回路に巨大な渦が発生しようとしているとき、扉をノックする音が響いた。

 貴婦人の居室と異なり、男性に宛がわれた部屋には来訪を合図する鈴が設置されていないため、直接に扉をノックする決まりだ。


 敲き金が何度も悲痛な叫びを上げるが、思考の海で溺れているジュストの耳には届かない。やがて、ガチャリと扉が開いた。


「鍵は……掛かっていませんね。おや、いらっしゃるではありませんか。失礼いたします、閣下。アルティノワ公妃の紋章についてですが……――聞いていらっしゃいますか?」


 いっこうに返事をせず無反応のジュストに、入室してきたロッシュ伯ピエールが怪訝そうな顔をする。

 一方、煩悶という名の迷宮から出られなくなっていたジュストは、脳内会議の結論を、うっかり口に出していた。


「俺は夢想家なのか!?」


「なんの話ですか」

 書類を片手に目を丸くするピエールが蒼い瞳に映り込み、ジュストは国王付侍従の来訪にようやく気づいた。

 なんでいるんだ。いつからいるんだ。ジュストは尖った視線を向ける。


「勝手に入らないでよ。ノックくらいして」

「しましたとも。お気がつかれなかったのは、閣下ですよ」


 ピエールは呆れたように肩を竦める。苦笑にもならないかすかな笑みを浮かべながら歩み寄ってくると、机上に散らばっているデザイン画を視線で撫でた。


「なるほど。愛の巣のことで頭がいっぱいだった、ということですか」

「……姫にとっては蜘蛛の巣かもね」


 投げやりな気分でジュストが吐き捨てたら、真面目なピエールが几帳面に返事をする。


「あの城館が古びているのは事実ですが、きちんと手を入れるようにとの陛下のご命令です。蜘蛛の巣だらけの邸宅をお与えになるようなことは……」

「そうじゃないよ」

 ひらひらと手を振って、ピエールの言葉を制した。


「姫にとっては望まない結婚だろ。愛の巣なんて思うわけがない。あくどい蜘蛛が張った罠に思ってると思うけど?」

「あくどい蜘蛛というのは……よもや陛下のことを仰っているのですか?」


 国王への不敬を見逃さないピエールが、ぎろりと眼光を鋭くさせる。ジュストは首を竦めた。

「俺のことかもね」


 ベルローズ公爵夫人を演じているとき、ジュストは大なり小なり嘘をついている。

 しかも、宮廷貴族が口にする言葉の九割は空言で、幼少の頃からそれらに首まで浸かっているジュストは、相手の嘘を嗅ぎ分けるのが得意だった。


 パリュールのこと――というローゼリアの言葉自体は、嘘ではない。

 王弟妃が突拍子もない我が儘を口にする人だということは、姉に身代わりをさせたことで立証されている。気に入ったパリュールを欲するくらいは、まあ、普通だろう。


 だが、会話内容はそれだけではないはずだ。

 どうにかして、それを聞き出せないだろうか。さながら蜘蛛のように糸を張り巡らせ、それと気づかせずに口を割らせる方法は……。


「蜘蛛の巣でも愛の巣でも構いませんが、そちらでご使用なさる公妃様の紋章をお決めいただきたいのですが」

「……? 公妃の紋章は決まってなかった?」


 アルティノワ公の紋章は一角獣リコルヌ。そして伴侶である公妃の紋章は雲雀アルエットだったはずだ。

 きょとんと瞬いて首を傾げたジュストに、ピエールは静かな口調で応じる。


雲雀の紋章アルエットを継承された最後の方は、アルティノワ女公アンヌ様でいらっしゃいます」

「……そうだった」


 時の当主アルティノワ公ギヨーム五世には嫡男が誕生しなかったため、一人娘のアンヌが領地と爵位を継承した。


 その際、女性公爵だと一目でわかるように、歴代のアルティノワ公が使用した一角獣ではなく、公妃が使用する雲雀を自身の紋章に定めた。


 だが、アルティノワ公妃の紋章から〈雲雀〉を廃した事実はない。女公と公妃の紋章が同一になったというだけだった。

 そのためローゼリアが使用する紋章は選択する余地もなく雲雀だと、ジュストは頭から抜いていたのだが……。


「雲雀は駄目だったね。……ラルデニア伯家の紋章は?」

 実家の紋章を使用することに問題はないし、ローゼリアはいずれラルデニア女伯となる。一石二鳥だ。


双頭の竜ドラゴンです」

「……え」

「ラルデニア伯家の祖は、ラルデニア地方では悪竜退治の英雄とされており、伯家の紋章はそちらから採用されたそうです」


 公妃の紋章に〈竜〉というのは、いささか勇猛すぎませんか――と、ピエールが言う。ジュストも同感だった。


 アンヌの先例に倣って伯夫人の紋章を使用するのは、ローゼリアの生母である当代の伯夫人が存命中なので無理。

 となると、新たに〈アルティノワ公妃の紋章〉を決定する必要がある。


「紋章官から候補がいくつか陛下に奏上されました」


 現在、使用されている紋章図案をあらかじめ除外し、古典や伝承などから使用できそうな動植物を図案化して、一覧にまとめてある。

 フィリップが下見をし、どれを選んでも問題ないと許可したのでピエールが届けに来たという。


「どれも、ぱっとしないね」

「では、ご当人にお決めいただいてはいかがですか」


 ジュストが視線を上げると、ピエールは「この場でお決めいただく必要はございませんから」と続けた。


「急ぎではないと陛下も仰せでした。姫の紋章なのですから、ご自身でお選びいただいて問題はないかと」



       ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



 失礼のないように衣装を整え、ロジィは部屋へ婚約者を通す。

 アルティノワ公が着用している宮廷服は、国王の御前に出ないためか、上着アビ脚衣キュロットのみで胴着ジレを着ない略式だった。

 上下の色は薄青で、中に着込んでいる白絹のシャツが目に眩しい。涼しげで爽やかな色調だ。


(趣味のよい方……)


 ルガール宮廷では男女問わず、ごてごてと着飾るのが通常だ。

 それらと比較すれば彼の服装は地味の一言に尽きるが、調和している色彩は上品で美しかった。


「朝露を含む白薔薇のように可憐な姫へ、こちらを」


 婚約者と会うとき、男性が女性へ贈り物をするのはルガール宮廷の慣わしだった。

 今まさに摘み取ってきたばかりなのだろう、瑞々しい薫りを放つ薔薇の花束だ。白を中心に淡紅色の薔薇も加えられ、愛らしく清楚に調えられている。


「素敵な花束をありがとうございます、閣下」

 丁寧に礼を述べ、花束はミミへ渡した。彼女は心得た様子で花瓶を用意し、コンソールに飾る。


 ――気を遣わなくてよいのです、と言えたらいいのに。

 アルティノワ公に椅子を勧めながら、ロジィは内心で嘆息した。


 王命で婚約しているため、婚約者を「大切に扱っているように振る舞う」ことは、アルティノワ公にとって義務だろう。それを固辞すればロジィ自身も、王命を蔑ろにしていると受け取られてしまう。


 だから、なるべくアルティノワ公がロジィの機嫌を取らなくていいように、ロジィからは近寄らないようにしていた。

 ……それに。ロジィが生まれ育ったラルデニアには、挙式当日まで花嫁と花婿が顔を合わせてはならない――という古い慣習があった。


 仮となる婚約式を終えているとはいえ、正式に夫婦となっているわけではないのだから、ラルデニアのしきたりに従えば、ロジィがアルティノワ公と顔を合わせることは好ましくない。


 会わなければ、アルティノワ公は義務で婚約した相手の顔色を窺わずに済む。いちいち贈り物で頭を悩ませる必要もなくなる。――――そしてロジィもラルデニアの慣習を守れる。


 そう思うのに、王命という巨大な壁の前では、会わないでいましょうと提案することもできないのだ。


「どうぞ、ローゼリア様」

 ミミが用意した茶器を受け取る。女主人が手ずから茶を淹れるのが、ルガールにおける最高級のもてなしだ。


「……これは薔薇茶ですか?」

 一口含んだアルティノワ公が、驚いたように目を瞠った。妖しいまでもの麗しさがなりを潜め、あどけない印象になる。

「ラルデニアの特産品です。……お口に合いませんでしたでしょうか」


 紅茶か珈琲を飲むのが男性貴族の嗜みで、貴婦人はショコラを愛飲する。香草茶に分類される薔薇茶はルガールでは好まれなかっただろうか。


「とんでもない。優雅な香りが格別です。貴婦人たちから人気になるでしょう」

 故郷ではいつも飲んでいたのか、と、アルティノワ公は好奇心で瞳を輝かせながら言った。


「初夏に初摘みの薔薇茶をいただくのが習慣でした。あとは、新年祭などの特別な日や、春が待ち遠しい寒風月ヴァントーズに」

「ラルデニアの冬薔薇は有名ですが、寒風月ヴァントーズにも咲くのですか?」

「咲きますが、夏の薔薇と違って冬薔薇は香りが弱いので、薔薇茶には向きません」


 アルティノワ公は、きょとんと目を丸くした。

「では、寒風月ヴァントーズに飲む薔薇茶とは……?」

「夏に摘んだ薔薇を乾燥させて瓶に入れ、保存しておくのです」


 卓上にある茶葉を入れた陶器の瓶をアルティノワ公に渡しながら、「こちらも去年のものです」と言い添える。


 興味深そうにそれを持ったアルティノワ公は、蓋を開けて中を嗅いだ。からからに乾いているので香りはないと思うが。


「お茶としていただく他にも、コンフィチュールにしたり、砂糖漬けコンポートにしたり……。新年祭の晩餐では肉料理のソースに使うのが伝統でした」


 それはレティの大好物でもあったから、料理長が毎年、張り切っていた。

 今年の新年祭は、どうしたのだろう。レティはルガールに嫁ぎ、ロジィは尼僧院にいた。両親だけの晩餐だ。寂しくなかっただろうか。


香水パルファンにはしないのですか」

「ラルデニアに自生する薔薇は食用が多いのです」


 香りに特化した薔薇はフィオーレ王国の名産だ。ラルデニアはもっぱら、舶来品の薔薇香水をルガール宮廷へ献上する役目を担う。

 ベルローズ公爵夫人が愛用していた薔薇の香水も、フィオーレからの舶来品だった。


(あの方は、どうされているのかしら)


 国王フィリップはベルローズについて貝のように口を閉ざしたので、宮廷貴族たちも一切、話題にしなかった。黒髪の貴公子が宮廷に伺候した、という噂も、まだない。


 二杯目の薔薇茶に口を付けたアルティノワ公は、上着のポケットから一枚の紙を取り出した。


「実は、ローゼリア姫にご相談が」


 ミミに合図して卓上を片付けさせる。茶器がなくなった場所に広げられた紙には、鳥や花が図案化されたものが描かれていた。


「アルティノワ公妃の紋章を決めることになったのです。紋章官が奏上した候補がこちらなのですが」

「以前の紋章を継ぐことは禁じられているのですか?」


 アルティノワ公家は一度断絶し、ジュストが領地と爵位を継承することで再興した。


 なので、現在のアルティノワ公家と、かつてのアルティノワ公家に血のつながりはない。ルガールでは、紋章は血脈によって継承されるという決まりがあるのだろうか。


 首を傾げたロジィに、アルティノワ公は少し迂遠なところから説明を始めた。


「フィル……フィリップ陛下の父君であられる先王クロヴィス二世陛下は、生涯で三度の婚姻をされました」


 最初の王妃はアンヌ・ダルティノワ。アルティノワ公家最後の当主だ。

 アンヌは〈アルティノワ女公〉の地位を保持したままルガール王妃となったので、王妃の紋章〈不死鳥フェニックス〉と同時にアルティノワ女公の紋章〈雲雀〉アルエットも使用した。


 結果、一介の貴族夫人が使用する紋章に過ぎなかった〈雲雀〉が、ルガール王妃の紋章として認識されるまでになってしまったのだ――と。


「アンヌ王妃亡き後、アルティノワ公領は王室領に没収され、継承者がいませんでした。公妃が存在しなかったので紋章問題は宙に浮いていたのですが、今回、私が爵位を継ぎ、ローゼリア姫と婚約いたしましたので……」


 王妃紋章を流用するわけにはいかず、紋章を新しく決定する必要が生じてしまった……ということらしい。事情はわかったが、なぜロジィの許へ相談が寄せられるのだろう。


「こうしたことは重要な案件です。陛下がお決めになるのではないのでしょうか」

「紋章は一貴族の問題ですから。他家の紋章や王家の個別紋章と重複しなければ、自由に決めてよいのですよ」


 広げられた紙には、白鷺と白薔薇の図案に、大きく丸印が付けられていた。お勧め、ということなのだろう。


「王族の妃は鳥を紋章にしていることが多いのです。王妃の不死鳥フェニックス、王弟妃の白鳥シーニュなど。そうした観点からは白鷺エグレットがよいでしょう」


 本来のアルティノワ公妃紋章である雲雀はアルエット。白鷺はエグレット。語尾の響きも似通っているので、納得されやすいだろうとアルティノワ公は言った。


「……白薔薇は、わたくしの名にちなんで、ということですか?」

「そのようです。植物を紋章に定めた王族妃はいないので、識別しやすいという利点もございますよ」


 だが、名前と同じ冬薔薇を紋章にしては、あまりに自己顕示が強すぎはしないだろうか。

 そうかといって、他の王族妃と同じ鳥を紋章に定めるというのも、生意気だと誹りを受けそうな気がするが……。


 ロジィは、ちらりとアルティノワ公に視線を向けた。彼は優雅な所作で薔薇茶を飲んでいる。

 公家当主としてアルティノワ公が勝手に決めてもよいものを、わざわざ足を運んだということは、ロジィに決めろと言いたいのだろう。


「……では、白鷺で」


 わかりやすくアルティノワ公が微笑んだ。どうやら彼の意に添う返答ができたらしい。ロジィは内心で、ほっと安堵の息を漏らした。


 婚約者だから――というだけで、こんな些細な用事のために足を運ばせてしまったのだ。せめて、アルティノワ公の機嫌を損ねないように振る舞いたかった。


「もうひとつ、ご相談があるのです」

「なんでしょうか」

「ローゼリア姫は、どのような部屋がお好きですか」

「……部屋……、ですか……?」


 ロジィは思わず室内を見回した。与えられた部屋は、メルヴェイユ宮殿らしい重厚かつ荘厳な室内装飾で調えられている。ロジィの好みというわけではないが、気に入らなくて耐えられない、というわけでもない。


 ……突然に何を訊きたいのだろう。

 ロジィが困惑を瞳に乗せると、アルティノワ公は再び話題を転じた。


「婚約を機に、陛下より珊瑚宮パレ・コライユを賜りました」


 メルヴェイユ宮殿を構成する広大な庭園の南東。自然の森によって取り囲まれ、宮廷の喧噪から隔絶された離宮がある。

 繊細で瀟洒な新コランヌ様式の外観で、ピンクの大理石を使用した外壁が、遠目からは珊瑚でできているように見えるため〈珊瑚宮〉と呼ばれるようになったという。


「陛下の祖母にあたられる先の王太后マルグリット様のために建てられた離宮です」


 現王太后マリーが例外的にメルヴェイユに住み続けているだけで、新王即位に伴い王太后となった前王妃は、王宮から退去するのがルガールの慣例だ。


 珊瑚宮はマリー王太后の〈王太后宮〉になるはずだったため、王家が所有する離宮群の中でも、とりわけ優美な外観を有しており、宮殿建築の傑作として名高いのだと、アルティノワ公は得意気に締めくくった。


 珊瑚宮の素晴らしさは理解したが、なぜ、その離宮をアルティノワ公が賜るのかがわからない。

 アルティノワ公の返答は簡潔だった。


「結婚した成年王族は小宮廷を構えることが許されていますから」


 妻を迎えた王弟ベリエ公がメルヴェイユ宮殿から退去していないのは、マリー王太后が頑なに引き留めたからだと、アルティノワ公は冷ややかな口調で言った。


「もっとも、王族が邸宅を構えると〈小宮廷〉と呼ばれるだけです。メルヴェイユ宮殿のように貴族が伺候することはありません」


 逆に言えば、メルヴェイユ宮殿を退去すると貴族たちとのつながりが断ち切られてしまう。政治や外交の情報をいち早く掴むためには、メルヴェイユに住み続ける必要があった。マリー王太后が離宮に遷らなかったのは、蚊帳の外に置かれるのを嫌ったためだ。


「ただ、珊瑚宮の外観は美しいのですが、マルグリット王太后が崩御されてから空き家になっていましたので、中をすべて改装しなければ住めないのです」


 そして、どうせ改装するならロジィの好みに合わせた部屋を……と、気を回してくれたのだという。


 ロジィは困った。部屋の改装を主導した経験などなかったし、室内意匠に特段のこだわりがあるわけでもない。好みをどのように伝えればいいのかわからなかった。


(……こんな時、ベルローズ公爵夫人がいてくれたら)


 彼のセンスは抜群だった。質素でいながら品がよく、優雅さを損なうことがない。


 ベルローズ公爵夫人の閨房ブドワールの雰囲気が好きです――と、アルティノワ公に言えないのがつらかった。


 いくら国王から「我が弟」と親しみを込めて呼ばれていても、寵姫の閨房に足を踏み入れたことはないだろう。そもそも、アルティノワ公はメルヴェイユに伺候しないことで有名な王族だったのだし。


 けれども、任せる――と告げることも躊躇われた。

 女性用の部屋の内装など、男性であるアルティノワ公にしてみれば面倒以外の何物でもないはず。はっきり好みを主張されたほうがわかりやすくて楽だろう。レティのように。


「ご実家のように調えますか?」

「いえ、それは……」


 ロジィとレティは、同じ部屋を共有していたが、十二、三歳の頃だっただろうか。古びたタピスリーや時代遅れの装飾で囲まれている部屋を嫌がったレティが、大々的に改装を取り仕切ったことがあった。


 実家の私室を説明することはできるが、あれはすべてレティ好みの設えなので、再現するというのは気が進まない。

 どうしようと本格的に悩んでいたら、アルティノワ公から意外な申し出があった。にわかには信じられなくて思わず聞き返す。


「……閣下が、室内意匠を設計なさるのですか?」


 このメルヴェイユ宮殿はリシャール二世の最晩年に建築が開始されたが、先王クロヴィス二世の治世後半に室内装飾家ジャン・ル・フォワが登場したことによって、いわば〈メルヴェイユ様式〉とも言うべき姿が完成した。


 リシャール二世様式の絢爛豪華な雰囲気を保ちながら、新コランヌ様式を取り入れ、繊細で優美。メルヴェイユ様式は各国の宮廷でも大人気の室内装飾だ。

 ル・フォワは宮廷画家としても著名で、アルティノワ公は幼少時、彼に絵を習ったのだという。


部屋アパルトマンの模様替えをするのは私の趣味です。陛下の居室も何度かお手伝いを。お任せいただけるのでしたら、喜んで尽力いたしますよ」


 アルティノワ公の纏う宮廷服を見る限り、服飾のセンスは悪くない。

 だが、衣服と室内意匠の好みは別物だ。アルティノワ公は宮廷育ちと聞くし、宮殿を模倣したような絢爛豪華な装飾にされてしまったらどうしよう。


 果てしなく不安だったが、断る選択肢が存在しない。ロジィはアルティノワ公に一任した。

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