【 第一章 ⑤ 】
ルガール国王の居室は、メルヴェイユ宮殿西翼棟の一階に設けられていた。
火急の用件で昼夜を問わず謁見を申し出る廷臣たちが、速やかに王と会うことができるようにとの心遣いだが、王の居室が一階になったのはフィリップの代からだ。
「まあ、あれだよね。浴室が近くなったっていうのが、一番の利点じゃない?」
天蓋付きベッドの上に、真珠のイヤリングがぽいっと投げられ、白手袋、髪飾り、青薔薇のチョーカーと続き、海色のローブがばさりと放られ、とどめとばかりにリラ色のジュップ三枚が豪快に重なる。
我が物顔で着替えるベルローズを黙って見守っていたフィリップだが、自身の寝台が荷物置きと化していく様子に、さすがに声を上げた。
「こら。そんな乱暴に着替えるものではないよ」
「早く脱ぎたいの!」
小犬が吠えるような言い方にフィリップは苦笑する。
「色気の欠片もないな」
「――――それを俺に求めるなよ」
据わった目と、迫力の効いた低い声音。
ゆらゆらと揺らめく不安定な蝋燭の明かりが、着替え途中のベルローズの肢体を浮かび上がらせた。
薄く、筋張っている体つきだ。女性特有の丸みや柔らかさは、どこにも見受けられない。
ベルローズの全身をさらりと眺めたフィリップは、ふむ、と首を縦に振った。
「それもそうだな」
ジュップで隠されていたが、ベルローズはすでに黒絹のキュロットを穿いていて、靴は女性用のハイヒールではなくロングブーツだった。
骨張った手が迷いのない動きで頭頂部に伸び、髪をわしづかみにする。
ズルリ、と。
漆黒の巻き毛が床に滑り落ちた。
鬘だった。その下から現れたのは、太陽のように輝く金髪。
コルセットを着けていない上半身に、手近な椅子の背もたれに掛けてあった白のシャツを素早く着込み、ベルローズはドサリと寝椅子に倒れ込んだ。
「あー……、つっかれたぁ……」
踊っている途中で勢いに乗ってしまい、不用意に裾が跳ねると、男物のブーツを履いていることが見えてしまう。
必要以上に、上品に、しとやかに振る舞うことが求められるので、舞踏会は大嫌いなのだ。
「だが本当に、よく化けるな。麗しの貴婦人が男だとは、宮廷の誰も思うまい」
くすくすと笑いながら、フィリップがワイングラスを片手に寝椅子へと歩み寄ってくる。
ちらりと薄目を開けて彼の姿を確認し、しかし、ベルローズは起きなかった。
「場所を空けてくれないのか?」
「そちらにどうぞ~」
一人掛けの椅子を顎でしゃくって、そのまま目を閉じる。
女装のあとは何をするのも億劫だ。本当は風呂に入って汗を流したいが、この部屋を出ることすら面倒になってくる。
おまけに、国王の居室では暖炉の火を絶やすことがないので、真夜中の今でも暖かい。シャツ一枚という薄着でも寒さを感じることはなく、だんだんと瞼が落っこちてくるほど。
寝心地抜群の、ふかふかの寝椅子に寝転がったまま、夢の世界に沈んでいきたいものだが――。
「さて。ここなら誰も入ってこない。話の続きを、ジュスト」
赤ワインを飲みながらうきうきと急かしてくるフィリップに、ベルローズ公爵夫人だった〈ジュスト〉は、うんざりと溜息を落とした。
「少しは休ませてくれないかな」
「寝転がったまま話をして構わないぞ。私は寛容な国王だからな」
「それはどうも」
返事とは裏腹にジュストは起き上がった。横になったままでは本当に眠ってしまいそうだ。
テーブルのグラスに手を伸ばし、フィリップが注いでくれていたワインで喉を潤す。
赤ワイン特有の渋みが、くすぶっていた眠気をさっと払ってくれた。
「いるか?」
飲みっぷりがよかったからだろう。デカンタを掲げてお代わりを勧めるフィリップに、ジュストは無言で空のグラスを突き出した。
深紅の液体が、グラスにたぷたぷと注がれていく様子を眺めながら、ジュストは静かな声で言う。
「別人なんだよ、あれは」
「それは聞いた。なぜ、そう思った」
「態度」
「……ジュスト。いつも言っているだろう。報告は簡潔も重要だが、何より具体的にと」
フィリップの小言を聞き流しながら、くぴり、くぴりとワインを傾ける。胃の腑にアルコールが染み渡った。
グラスの中身をくるんと回し、ジュストは呟く。
「腹が空いた」
舞踏会場の横には控え室が設けられており、そこにはビュッフェ形式で様々な料理が用意されている。
温かい飲み物、冷たい飲み物、生の果物や、砂糖煮、燻製肉の盛り合わせ、などなど。
踊りに疲れたら休憩をかねてそちらで軽食が食べられるのだが、意味深長な物言いが悪かったのか、フィリップにさっさと連れてこられてしまい、食べるどころではなかったのだ。
「フィルも腹、減っただろ? なんか食おう」
しょうがないなと肩を竦めたフィリップは、天蓋のカーテンを閉めて散乱している女性用の衣装を隠してから、卓上のベルを鳴らした。
慌てて入室してきた従僕は、床に落ちている黒髪の鬘と、いつの間にか国王寝室に入り込んでいる〈ジュスト〉を見て、ぎょっとした表情を浮かべたものの、無言で下がっていった。
貴人に仕える従僕は無口であるのが採用基準だ。
「まったく、脱ぎ散らかして」
フィリップが鬘を拾い、別の椅子に丁寧に置いた。巻き毛の具合も確かめて、手櫛で整えている。やけに愛着のある態度。
横目で眺めながら、ジュストはグラスを傾ける。
「フィルは黒髪が好み?」
「金髪も好みだぞ」
フィリップの視線は、ジュストの髪にばっちりと固定されていた。ジュストは顔をしかめる。
「俺の髪は鬘にしないからな」
ジュストが二杯目のワインを飲み干すより早く、再び扉が開く。
先ほどの従僕ではなく、上下赤揃いのお仕着せを纏った侍従が、ワゴンを押して入ってきた。この素早さを見るに、夜食の所望を見越して、使用人控え室にあらかじめ用意していたのだろう。
「テーブルはこちらでよろしいですか」
「ああ、ご苦労」
フィリップに一礼して、侍従はデカンタやグラスを片付けながら料理を並べていく。
運ばれてきたのは、パンとフロマージュ、数種類のコンフィチュール、そして宮殿の敷地内にある温室で育てられた葡萄だ。季節を問わずに新鮮な果物が食べられるのはありがたい。
葡萄が盛られた銀皿をジュストの前に置きながら侍従が言う。
「閣下、お着替えをお持ちしますか?」
「ん? んー……」
ジュストが公式に賜っている部屋は国王居室のひとつ隣だ。
シャツとキュロットという寛いだ格好が許されるのは王の居室の中にいるからで、廊下に出て私室に戻る際には、宮廷服の盛装をしている必要があった。つまり、上着と胴着が要る。
あるいは、フィリップの寝台に脱ぎ捨てたベルローズのローブをもう一度着るかだが……。
どっちも面倒だよな――と、好物の葡萄を口に詰め込みながら逡巡していたら、侍従が笑顔を浮かべる。
「それとも、薔薇になるお手伝いを?」
「こらこらピエール。それは内緒だよ。言わないの」
めっ、と怒った素振りを見せるフィリップに、侍従ピエールは声を上げて軽やかに笑った。
「本当に、毎回驚かされます。あの〈薔薇〉が、まさかアルティノワ公爵閣下とは」
からかいを多分に含んだピエールの言葉に、ジュストは、ケッとやさぐれて肩を竦める。
「俺も驚かされましたよ。まさか国王陛下が女装をお命じになるとはね」
「命じたおぼえはないぞ? 似合っているから、また見せておくれと頼んだだけで」
「それは立派な命令だろ」
女装を何度も繰り返すとなれば、相応の工夫が必要となってくる。
ベルローズがデコルテの狭いローブを着ているのは、胸の膨らみがないことを隠すための苦肉の策だった。
詰め物をすればシルエットを補正することはできるが、昨今流行の大胆なデザインを着ることは不可能。よって、ベルローズのローブは時代遅れの意匠になったのだ。
ベルローズの雰囲気には清楚なほうが似合うため、宮廷で好意的に受け入れられたのは幸いだった。
手際よく料理を並べ終えたピエールは、改まってジュストに向き直った。
「失礼を、閣下。ムーシュが落ちておりません」
「おお、メルシー」
手鏡が手元にないので自分では剥がせない。ジュストはピエールに左頬を向けた。
ルガールの〈
フィリップの乳兄弟として幼少期から仕えていたロッシュ伯ピエールだ。
くすんだ金髪と薄青の瞳を持つピエールは、フィリップの遊び相手兼学友として、特別に、子供の頃から宮廷に出入りしていた。宮廷育ちのジュストとも幼馴染みの間柄。
「それと、香水を替えられたほうがよろしいですよ。薫りで疑われては危険です」
「ベルローズは薔薇が必須だからね。ジュストに戻って残り香があるのはしょうがないんだよ」
「せっかく浴室が近いんだ。早く湯に浸かって薫りを落としてはどうだ?」
二人の会話を聞いていたフィリップが、ワインとフロマージュを交互に口へ運びながら割り込んでくる。やはり、フィリップも空腹だったんじゃないか。
「……んな暇もなく部屋に連れ込んだのはどこの王様でしょうねぇ」
「早く部屋に行きたいと「ベルローズ」がねだったからだろう?」
「気色悪い言い方をするなよ」
フィリップの揶揄をばっさり切り捨て、ジュストは腹を満たすべくテーブルに手を伸ばした。まずは食事だ。
爽やかな香りが食欲をそそるシトロンのコンフィチュールをのっけたパンを、ジュストはぱくりと一口で頬張る。
「着替えはいいよ、朝、ベルローズで部屋に帰る」
「おや。麗しの貴婦人は朝帰りか?」
「わざわざ廊下を通るより、そっちの隠し扉から部屋に戻ったほうが早いからね」
ジュストは、ワイングラスを持った手で奥の壁を指した。
フィリップの居室がこれまでの二階から一階に移動したときに、ジュストの居室も隣室に移動した。
その際、煩雑な宮廷儀礼をすっ飛ばして自由に面会ができるよう、壁を改造して扉を付けていたのだ。
メルヴェイユ宮殿における、国王と宮廷公認愛妾との居室を繋ぐ〈秘密通路〉の伝統に倣ったのだが、まさか、本当に自分が〈エセ愛妾〉になってしまうとは想像しなかった。
現在では、ジュストの部屋を二分割してベルローズの居室に改造し、周囲の目を誤魔化している。
ジュストの部屋、ベルローズの部屋、国王の部屋、という並び順だ。
しかし、それらの部屋が内部ですべて一直線に移動できると、宮廷人たちは想像さえしていない。
「――待て。朝、部屋に戻る? 私の寝台を使うつもりか……?」
「当然」
「私はどこで寝るんだ!」
「え。その辺の寝椅子で寝れば? 寝心地いいよ?」
「部屋に帰れ!」
隠し扉を指で示したフィリップが、額に青筋を立てて怒鳴る。
ブーツを脱ぎ、寝椅子の上で立て膝をしたジュストは、膝頭に頬を押しつけながら、間延びした口調で言った。
「えー、いいの。話、聞きたいんじゃないの?」
「話は聞く。ここで寝るな。帰れ」
「簡単に終わる話じゃないっての。……あ、そうだ。ピエールもここに、ね?」
ぽんぽんと隣のスペースを手で叩くと、ピエールは少し困惑した表情でこちらを見つめ返してくる。
「滅相もありません」
戸惑った感情に揺れる薄青の瞳をしっかり見据えて、ジュストは強く言葉を重ねた。
「国王付侍従なんだから、ピエールも知っといたほうがいい」
「何か重要なお話なのですね。しかし、閣下。わたくしは立っておりますから」
ルガール宮廷で序列は非常に重要だ。国王がいる場で、臣下である貴族が椅子に座ることは許されない。着席の栄誉が与えられるのは公爵以上の大貴族と、王族だけだ。
生真面目なピエールの困惑は理解するが、ジュストはあえて気安い口調で続ける。
「長い話になると思うよ。座っといたほうがいいって」
「ですが……」
不毛な言い合いに終止符を打ったのはフィリップだった。
「同席を許可するよ」
「陛下!」
「この場で、きみは余の侍従ではなく、私の乳兄弟。兄も同然だよ。やんちゃな〈弟〉の話を聞いてやってくれ」
「光栄に存じます」
感激した様子でピエールがフィリップに礼をする。その間、ジュストはせっせと手を動かしていた。
もぐもぐ、もぐもぐ。ひたすら食べ物を口に運び、ワインを飲み、ようやく人心地ついたところで、ジュストは座り直した。
「謁見したときの王弟妃、フィルは覚えてる?」
「ぎこちない所作が初々しい姫だとは思ったが、宮廷に初めて伺候する者はたいていが緊張しているしな。さして記憶には残っていない」
そうだろうねと頷いて、ジュストはもうひとりに視線をやる。
「ピエールは?」
「妃殿下のお姿よりも、片時も目を離さず見つめ続けておられたベリエ公のご様子に驚いて、そちらの記憶しかございません」
「ああ、あれには私も驚いたぞ。あのルイが、ああまで妻にメロメロになるとはな!」
「祝賀舞踏会でも、一度たりともダンスの相手を他の男に譲りませんでしたね」
「国王とダンスをするのが最大の披露目になるというのにな」
「よほど奥方が大切なのでしょう。宮廷行事への不参加を叱ることもないと聞きますし……そういえば、閣下、今宵の舞踏会には妃殿下がご参加と……」
うん、と、ジュストは頷いた。
「来た。でも、あれは違う」
「だから、その理由と証拠を述べよと、さっきから言っているだろう。いい加減、もったいぶるのはやめたまえ」
「態度だって言ってるだろ。少しは相手を観察することを覚えないと、国王としてやっていけないよ」
「閣下、不敬ですよ」
ピエールがやんわりとたしなめる。この三人の仲で不敬も何もあったものではないが、ピエールは名の通りの石頭なのだ。
ジュストは種明かしを始めることにした。
「国王と正式に謁見したのは一度きり。そのときはぎこちなかったのに、公式の場に出るのが二回目である今日は、堂々と振る舞っていた――ね、変でしょ。別人だよ」
「そんなことが理由なのか? 引きこもっている間に、礼儀作法の特訓をしたのかもしれないだろう」
「教育係から逃げ出してばかりだって評判の王弟妃が? わざわざ特訓? すると思うの?」
「……ふむ。それもそうか」
腕を組んで虚空を仰ぐフィリップとは対照的に、腰を浮かせて慌てたのはピエールだ。
「ちょ、ちょっとお待ちください、閣下。話が見えません。妃殿下が、妃殿下ではないと、それはいったい、どういうことでしょう」
「入れ替わってるって言ってる」
「顔も隠さずに入れ替わるなど、できるわけがありません!」
ついに立ち上がってしまったピエールを落ち着かせるべく、フィリップが静かに言う。
「王弟妃には、双子の姉がいる」
「………………双子の、姉」
「双子って、あそこまで似るんだね。びっくりだよ」
軽い口調でジュストが言い添えれば、冷静さを取り戻したのか、ピエールはすとんと腰を下ろした。
「ジュストは、王弟妃が別人に成り代わっており、それはおそらく双子の姉だろうと主張しているんだ。私はまだ納得できていないが」
ピエールは息を呑んだまま、口を閉ざした。
荒唐無稽な話だ、とまではジュストを非難できないが、信じるには至れないのだろう。
「だが、おまえも自分で「妙だ」と言っていたな。理由は?」
「入れ替わるだけなら、っていうか、フィルが考えたように夫を妹から取り戻したいだけなら、宮廷行事に顔を出す必要はないと思う。もともと、王弟妃は行事をすっぽかしてるんだし」
「まあそうだな」
「でも、あの〈王弟妃〉はフロランタン侯爵夫人まで騙してる」
「……だから?」
「目的は、別にあると俺は思う」
「その目的とは?」
「そこまですぐに分かるか!」
「なんだ。使えないな」
ひくっと口の端をひきつらせたジュストがフィリップに罵声を浴びせるより先に、ピエールが口を開いた。
「ですが閣下、なぜ、よく似た他人ではなく妃殿下の双子の姉君だと、判断なさったのですか。瓜二つという可能性も捨てきれないでしょうに」
「確かに、それもそうだな」
同意するフィリップに、ジュストはきっぱりと言い放つ。
「それはない」
「ジュスト、そこも丁寧に詳しく説明」
さくっと切り返されて、ジュストは口をつぐむ。頭の中のことを言葉にするのは苦手なのだが仕方ない。
「あー、どこから説明するかな……」
がしがしっと乱暴に金髪を掻きむしったジュストは、ワインで喉を潤してからフィリップに視線を投げる。
この際、初歩から説明することにした。
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