幕間
幕間1
閑静な人里に、小さな、古びた礼拝堂がある。
早朝には敬虔な信徒が集う、田舎にはありふれた場所だ。
けれど、特に「何か」に聡い者は、この場所を嫌って近寄らない。
曰く、恐ろしい気配が塊のように存在すると。
特徴的な赤い髪を、ローブのフードで隠したまま、彼女は年季の入ったその扉を開けた。
構造はよくある礼拝堂のそれ。
並んだ長椅子の先には祭壇が。そしてその上には十字架と、きらきらと煌めく聖母のステンドグラス。
他に人がいないことを確認してから、ロアはフードをとった。
「あらっ! 領主様じゃない!」
どこから見ていたのやら、宙から兎のように跳ねて軽やかに舞い降りてきたのは、黒い尾を持ち、藍色の長い髪を自慢げに揺らす女。
肌寒い季節に移り変わっても衣服の布地の面積が少ないのは相変わらずの悪魔、サキュバスのリィだった。
「久しぶりだねサキュバスのお嬢さん。最近は屋敷に来ないからどうしているのかと思っていたよ」
「留守が多いのはそっちじゃない。それより領主様がここまで来てくれるなんてちょっと感激しちゃった。ひとりで来たの? マリアは一緒じゃないのね?」
くんくんと辺りの匂いを嗅ぎだすリィ。
「マリアは別のところに出掛けていてね。マグナス神父はいるかな。事前に手紙は出してあったのだけど」
「なんだ、クレスに会いに来たの。私の相手しに来てくれたんじゃないんだ」
「その言い方だと私が常々君の相手をしているように聞こえるからやめてね」
「ぶう」
面白くなさげにリィは椅子に寝転がった。
「私はここにいるよ、領主様」
奥の扉から、黒のカソックを纏う男が現れる。
丸眼鏡の、飄々とした、それでいて隙を感じさせない立ち居振る舞い。
マリアの悪魔祓いの師であり、義父でもあり、数多の悪魔を使役する奇人、クレセント・J・マグナス神父だ。
ロアは敬意を込めて一礼する。
「ご無沙汰しています、マグナス神父。お忙しいのにお時間をいただいてしまって申し訳ない」
「それはこちらの台詞だよ領主様。新しい形で農林業と酒造業に力を入れ始めたボルドウの良い噂は村人から聞いている。それに近頃は随分、教会の依頼もこなされているとか」
忙殺されて少しやつれられたのでは、と神父は言う。
ロアとマグナス神父が会うのはこれが初めてではないが、最後に会ったのはもう随分前になる。
ロアが悪魔化してからは初めてだ。
「請け負う仕事の数もレベルも、貴方ほどではありませんよマグナス神父。Bランクの仕事にも手こずってしまう私なので、Aランクの依頼を幾つも並行してこなせる貴方には本当に感服の次第です」
「それはね、私の力というより数の力だよ領主様。ああ、立ち話ではいけないね、小さいけれど、ここには客間もあるんだ。どうぞ通って。お茶も準備させよう」
神父は自らが出てきた扉へと、今度はロアを誘う。
小さな客間の応接テーブルをはさんで、ロアとマグナス神父は向かい合った。リィはふたりがどんな話をするのかと、興味本位で部屋の外から耳をそばだてる。彼女の眼は扉の先をも透視できた。
「さて。私に相談ごとがおありとのことだけど、一体どのような? 弟子が何か粗相をしでかしたとか。マリアはあれで割と色々せっかちだからね」
神父の言葉にロアは思わず口の端を上げる。
「とんでもない。マリアにはよくしてもらっていますよ。こちらこそ大切なご息女をずっと預かりっぱなしで申し訳ない。あんなに愛らしいご息女が手元を離れて神父もさぞや寂しい思いをされているのではと、常々心を痛めているところです」
「ははは。帰らないと言ったのはあの子なので、領主様が気に病むことはないよ。それよりマリアが私のことをいまだに「お父さん」と呼んでくれない話でもしようか?」
「私で良ければ喜んでお呼びしますよ、『お
「ははは、また御冗談を、領主様」
「ふふ、私は冗談は得意ではないのですが、神父にはそう聞こえましたか」
ははは、ふふふと不気味に微笑み合うふたりを見て、リィは部屋を覗き見るのをやめた。
「戯れはさておき、マリアのことでないとなると、やはりご自身のことで?」
マグナス神父の言葉に、ロアは頷く。
「先日、悪魔憑きの人間が悪魔と化した事案に遭遇しました。悪魔化してまだ間もなかったはずのその悪魔は、完全なスピリチュアリテで、炎を操ることも出来たのです。そして特段悪魔らしいことは何も出来ない私のことを、半端者と嗤いました」
悪魔は基本、霊体だ。壁をすり抜けることや、姿を隠すことも出来る。しかしロアにはそれが出来ない。
「自身の力不足を痛感しました。私は悪魔になっても、依然とそう、変わらない。私があの鬼のような能力を身につけることは難しいのでしょうか?」
ロアが単身ここに来たのは、この相談事をマリアに秘するためだ。
正直なところ、ロアはマグナス神父のことがあまり得意ではない。
彼が男性で、尚且つマリアの保護者であるからという理由もあるが、彼が放つ人間らしからぬ独特の空気、匂いが生理的に苦手だった。
けれどこの国で、悪魔を最もよく知る人間はこの神父以外に考えられない。
ロアとマリアに一筋の希望を見せた張本人のライア・ロビンソンに相談をしてもよかったのだろうが、彼女は妙にマリアの肩を持ちたがる――というより誰に対しても平等なのだ――ので、真面目な相談ごとすらマリアに筒抜けになってしまう可能性が大いにあった。
ロアが抱えるこの煩悶は、彼女にはどうしても後ろめたいものだった。
神父はロアの改まった態度からそれらをすべて理解して、しかしいつものように掴みどころのない微笑で軽く受け流す。
「君は悪魔になっても自我を失ったわけではないからね、良くも悪くも人間であったときの意識が身体を引っ張ってしまっているんだろうね」
「マリアは『魔に近づいてどうするんだ』と私を諫めますが、このままでは目的に達するまでの道程で、自身の未熟さを呪うことになる――そんな気がするのです」
神父は小さく鼻を鳴らし、首を軽く傾けた。
「そんなに完璧な悪魔になってあの子に首輪で繋がれたいのかい? 急かずとも、いずれ悪魔らしくなってくると思うけど」
神父のその物言いは、ロアの胸の内とは裏腹に随分な軽薄さを含んでいた。それに自身でも気づいたのか、「こんなことを君に言ったらマリアに殺されてしまうね」と神父はとってつけたように微笑んだ。
ロアも目を閉じて静かに自嘲する。
「いえ、仰る通りです。思う節はありますので」
最近は傷の治りが異様に早い。少しの痛みならむしろ感じないほどだ。
神父の言う通り、急がずともロアの身体は徐々に変化してきている。人間に戻ることを目的としながら、悪化を急く愚かさ、矛盾を自身でも理解している。
それでも、この感情を吐露せずにはいられなかったのだ。
その相手がたとえ、この神父でも。
「……とはいえ、領主様にせっかく来ていただいたのに的確な助言ができなくて心苦しいのは確かだよ。君たちが追い求める、悪魔が人間になる方法というのを私は知らないからね。それに引き換え『逆』ならとても簡単だよ。あの子には十分素質がある。そのほうが圧倒的に君も楽だ。何なら方法を教えようか?」
瞼を開けたロアの紅い眼が、静かに、初めて神父を睨む。
しかし神父は、それを待っていたかのように愉しげに口の端を上げた。
「君を悪魔らしくするのはその『負の感情』だ。前に会った時より随分怖い眼をするようになった君の様子を見るに、このまま教会の仕事をこなしていれば自然と強くなるよ。
――それはそうと、高位の悪魔と低位の悪魔の違いを領主様は知っているかな」
ほんの少しだけ色を正して、神父はロアに問う。
「理性の有無では?」
「ある意味そうだね。しかし低位の悪魔でも人語は喋るし各々の意思を持って行動している。要するに、自身の欲求を場に応じて抑制できるかできないか、だ」
神父はテーブルの上の小皿に置かれたチョコチップクッキーを手にとる。
「君達のような吸血種の主食は血液だけど、一般的な悪魔が食するのはこの人間界に満ち溢れている瘴気で、本来ならこんな食べ物は口に入れる必要がない。生まれたての悪魔が栄養を欲して生き物の心臓を食らうのは自らの成長をより早く促進したいからであって、必ずしも必要なものではない。食べ物の味を知っている悪魔が、欲求として空腹を覚えることはあるだろう。しかしそれを制御できるのが高位の悪魔だ。教会では悪魔の欲求を人間の性欲に例える人が多いけど、それは人間に対して失礼だと思うんだよね。種を残すことを願うことは決して悪いことではないのだから」
サキュバスの性欲はまた別物だけどと神父は小さく付け加えた。
「つまり何が言いたいかっていうとね、君の身体も精神も、恐らく過渡期で、とても不安定なんだよ。けれど真に強くなりたいと願うのなら、同時に沸き起こる黒い感情をきちんと制御なさい。でなければいつか君はクロワ家の悪魔に飲まれてしまう」
彼にしてはまともな助言に、ロアは無意識に目を丸くしていたのだろう。神父は可笑しげに笑って眼鏡を直した。
「……まあ、君を煽るくせにあの子はそれを望まないし、それを分かっているからこそ君がここまで訪ねてきたんだろうけど。弟子が未熟で君にはいつも迷惑をかけるね」
神父の苦笑に、ロアも微笑で返す。
「私は彼女のそういうところがとても愛おしいですよ。ええ、以前からずっと」
ロアはそう言って、席を立った。
「ありがとう、マグナス神父。マリアにはもう少し頻繁に顔を出すよう言っておきます」
ロアが部屋を出ていこうとすると、ちょうどお茶を出しに来たらしい、大きな角の生えた男の悪魔とすれ違う。
「おや、もうお帰りですか。せめてお茶でも」
「せっかく淹れてくれたのに申し訳ない」
ロアはにこりと人形のように微笑んで、そのまま去っていった。
「マリアもそうだけど、領主様もやたら性急に帰るねえ。お陰でお茶請けが腐っていく一方だよ」
神父は溜め息をつき、お盆から直接ティーカップをとってそれを啜った。揺れる紅茶の面に映る自らの平凡な顔を眺めながら彼はぽつりとこぼす。
「それにしても、『愛おしい』なんて言葉、あんなにさらりと言えるものなんだね。少し驚いてしまったよ」
「領主様はいつもあんな感じよ。クレスは野暮天だからそんな感情知らないでしょ」
いつの間にか部屋に現れたリィが、もうひとつのティーカップをかすめとった。
双角の悪魔シヴァは、テーブルの上にお盆を置き、改まった顔で神父に上申した。
「それより主殿。教会本部でも囁かれている件ですが、どうやら真のようですよ」
神父は表情を変えず、ただ小さく返す。
「そうか」
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