死神と運命の女24
到達したのは、教会本部、城の頂上。
ガラスも何もはめ込まれていない窓の外には、冬の空が広がっている。
飾り気のない円形の広間の真ん中に、死神は佇んでいた。
「君なら必ず来てくれると信じていたよ」
彼はそう言って、天井を指さした。
マリアが見上げると、そこにはステンドグラスがはまっている。聖母の顔が描かれたステンドグラスだ。
「これが冥界への扉だ。君がこれを開放すれば、地上の怨念は冥界で眠りにつくことができる。地上で悲しい命が生まれずに済む」
「……ミスター。冥界に向かう前に尋ねたいことがあるのです。貴方の望みは?」
「私の望みは自らの死だよ。ただそれだけだ」
彼は淡々と語る。
かつて三世界への扉がすべて閉ざされたとき、神々は彼だけを、観測者としてこの世界に残した。
ただ観測する機械だったはずの彼は人間を観察していくうちに、それ以外の機能を取得してしまった。
――長い孤独だったと彼は言う。
終わりのない命ほどつまらないものはないと。
「だから君を待っていた。君は私と同類だ。神々はいずれこの世界が死者の怨念で満ちることを予知していた。君はそれを打開するためだけに、この時代に産み落とされたひとつの駒なんだよ」
マリアは問う。
「冥界の扉を開けることでこの世界に影響はないのですか」
もっともな心配だと、彼は頷く。
「この城にいた悪魔祓い達は冥界の扉を開けることをずっと怖れていたようだけど、それは自分たちの罪を認めることになるからに他ならない。彼らも心の奥底で薄々気づいていたようだが、『世界のために冥界に供物を送る』というのはただの数減らしのシステムだ。自由を得て傲慢になった人間が増えすぎないようにするための、古の神が考えた人類への呪いだったんだよ」
そうですか、とマリアは目を伏せる。
「ではもうひとつだけ。どうして貴女はマダム・クロワに呪いを与えたのですか。共に長い時を過ごす相手が欲しかっただけなら、末裔にまで及ぼす死の呪いは必要なかったでしょう」
死神は困ったように微笑した。
「複雑なところを突いてくるねファム・ファタール。それは私自身にもよく分からないんだよ」
マリアは不可解だと眉間に皺を寄せた。
「ママンと出会ったのは、私が人間の姿をとって間の無い頃だった。彼女は、道端で過ごしていた私を戦争遺児だと勘違いして、引き取って養ってくれた。あの時私は確かに、彼女の息子だったんだ。私はママンを心から慕っていた」
「だったら何故」
死神はマリアに一歩近づいた。
「私からも問うよ、ファム・ファタール。君はこの世界で、心から誰かを愛したことはあるかい?」
強い眼差しで彼はマリアに問う。
死神の手がマリアの頬に触れる。
彼の手は異様に冷たかった。
「その人を強く愛すれば愛するほど、その思いは激情と化す。愛するということは束縛するということ、支配するということ。君はそんな思いに駆られたことは一度もない? 他の誰よりも自分が一番愛されたいと、嫉妬したことは?」
マリアは答えられなかった。
死神はその様子を見て薄く微笑んだ。
「愛とはあまりに醜い感情だ。私はもう、この苦しみから解放されたい。君もすべてから解放される。さあ、冥界の扉を開けてくれ。共に行こう」
マリアは少し当惑する。その明確な方法が分からないのだ。
死神はそれを悟り、「その記憶まで封じているのか」と浅い溜息をついた。
「ファントム」
死神がその名を呼ぶと、その人はその場にすぐに姿を現した。
「なぜ彼女に最後まで記憶を返さなかった」
「お許しを。ここに至るまでの道中、何が起こるか分からなかったので念のためと」
ファントムはそう言って首を垂れた。
「まあいい。君ももう私に還りたまえ。かれこれ二百年近く私の分身として活動し疲れただろう」
御意、とファントムは顔を上げた。
マリアは思わず「待って」と声を上げる。
一瞬、ファントムとマリアの視線が合う。
あの日の夜と変わらぬ、優しい視線。
否、マリアはその眼をずっと、もっと長い間知っている。
飄々として掴みどころのないくせに、目を合わせると、やたらと甘い親のまなざしをくれる人。
それは。
「お師、」
呼びかける間もなく、彼の姿は消え去った。
「…………お師匠様」
マリアは喪失感から肩を落とした。
「最後くらい彼のことを『お父さん』と呼んであげればよかったのに」
死神はそう皮肉ったが、怒る気力すらマリアには沸かなかった。
「さあファム・ファタール、扉を」
結局、振り出しに戻っただけだ。何も持たないマリアに戻っただけだ。
けれどあの日、ファントムが――父が与えてくれた時間は決して無駄ではない。
今、コートのポケットに入っている写真のように、これまで積み重ねた日々の思い出は決してなくなったりしない。
このあと、どれほど永い時を暗闇で過ごそうとも。
あの人が光の下で生きてくれるならそれでいい。
マリアは顔を上げ、開錠の言葉を紡ぐ。
それに呼応するように、音を立てて、ステンドグラスが粉砕した。
きらきらと、光を反射しながら破片が降ってくる。
嗚呼、と死神は空を仰ぎ見た。
途端、上空の厚い雲が割れ、大きな風が吹き荒れる。
まるで嵐だ。
周囲に溢れていた憎悪の念は、竜巻のように渦を巻いて上昇し、死神は目を閉じてそれに身を任せた。
身体が宙に浮く感覚を覚えたマリアもまた同様に目を閉じる。
その時だ。
「マリアッ」
片腕を強く掴まれて、マリアは驚いて目を開けた。
腕の先には、ロアがいた。マリアを行かせまいと必死に踏ん張っている。
「ロア、」
マリアは唇を噛んで、人生で初めて発するような、強い怒声を放った。
「どうして登って来たんですか! 離しなさい!」
見れば、ロアの足元も上へ向かう引力に引っ張られて崩れかけている。
それでもロアは首を振った。
マリアはもう一方の手を使って必死にロアの手を離そうとするが、ロアはいくら手を引っ搔かれても掴んだ手を離さない。
「離して!」
「絶対離さない!」
「駄目です離して! 貴女はもういらないと言ったでしょう!」
暴れているうちにマリアの手がロアの頬をはたいた。
ロアは涙目で叫ぶ。
「マリアの馬鹿! いっつも何か言いたげにして何も言わないくせにこういうときだけなんではっきり言うの!? 滅茶苦茶傷ついた!!」
「知りませんよそんなの!」
「知りませんとかいつもそう言う! 自分のことなのに分からないわけないでしょ!」
ロアの言葉にマリアはかっとなった。
「今言うことですかそれ!? どうせ私は可愛げのある言葉のひとつやふたつも言えないような女ですよ! 早く手を離せばいいじゃないですか!」
「死んでも嫌!」
とうとう足場が崩壊し、ロアの身体も宙に浮いた。
渦巻く黒い憎悪の念たちが、稲妻のように弾け、生者であるロアを攻撃し始めた。
「……ッ」
「ロア、離して! 離してください!」
マリアはいよいよ焦燥し、叫ぶ。
「貴女を死なせたくない、どうしてわかってくれないんですか!」
痛みに耐えながら、しかしロアはマリアの手を決して離さなかった。
「わかんないよ! だってマリアは答えてくれなかったじゃないか! 私は自分の言葉で言ったのに! 私はまだ君の本当の言葉を聞いてないっ!!」
ロアの叫びにマリアは息を詰まらせる。
言葉が出ない代わりに、目から溢れた大粒の涙が風に舞って散った。
涙と共にファム・ファタールの仮面は消える。
いつものマリアの顔に戻った彼女を見て、ロアは少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「今度は私が君を救う番だ」
ロアはもう片方の腕をマリアの背中に回し、ぐっと抱き込む。
マリアも彼女の身体にしがみついた。
嵐は徐々に収束し、冥界へと続く道は閉ざされる。
足場は完全に崩壊し、ふたりの身体は本来の重力に従い、真っ逆さまに落ちていった。
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