悪魔祓いと女学院7

 ** *

 夜が明けた頃、ふたりは学院を出立することにした。


「シスター・マリア。この度は本当にお世話になりました。まさか教員に悪魔が憑いていたなんて……それも二人も……」


 その事実がショックだったのか、いまだ体調が優れないマクレガン学院長は、それでも秘書に車椅子を押してもらいながら、門前までマリアとロアを見送りに出てきた。


「学院長、今は養生なさってください。魔除けの札を教会から送らせますし、また何かあれば仰ってください」

「ありがとう。……気を悪くしないでほしいのだけど、教会に依頼してやって来たシスターが生徒と同じ年齢ほどの貴女だったときは驚きました。もし学び舎で学びたいと思うときが来たら、いつでもこのロマンデルク学院の門を叩いてください」


 学院長の言葉に、マリアは光栄ですと頷き、踵を返した。

 そうして、門から十分に距離が離れてから、マリアはまるで独り言のように傍らのロアに言った。


「……ロアには申し訳ないのですけど、私は少し楽しかったんですよ、学院の生活」


 知らないことを教えてもらえる授業。集団で歌う楽しさ。同級生ととる食事、語らう時間。


『マリっちもこれから仲良くなるんだよ?』

『そうよ、そんな他人行儀にしないで』


 同い歳の少女たちが当たり前のように得ている友人という存在。


「……夢でも見ていた気分です。まあ本当に、夢みたいなものでしたけど」


 そう呟いたマリアの左手を、不意にロアが握る。


「人前では恥ずかしいですよ」


 マリアがそう言っても、ロアは手を離さなかった。


「こんな早朝だし、誰も見てないよ。だから」

 ――泣いていいよ。


 と、ロアは言った。

 マリアははっとして傍らのロアを見る。


「私、泣いたりなんてしませんよ?」

「そう? 泣きそうな顔してたから」


 それでもロアは、優しい目をしてマリアを見ていた。

 マリアは思わず顔を背け、俯く。


 これまでのマリアの人生には、もっと辛いことが沢山あった。

 幼い頃の記憶過ぎて随分風化もしているが、優しかった両親が早くに事故で亡くなったこと、引き取り先だった親戚がとても冷たかったこと、挙句には夜中にひとり放り出されたこと。


『泣かないで』


 優しい声と、差し出されたチョコチップクッキー。

 あれは一体誰の声だったのだろう。どうしてマリアの好物を差し出してくれたのだろう。あの後どうやって、ひとりで孤児院までたどり着いたのだろう。

 あの時の記憶が、とても曖昧だった。


「……泣いてないですよ」

「そうだね」


 ふたりは手を繋いだまま、アマゾネス市の中心部へと歩いていった。




 ** *

「――見学出来てよかったね、訓練場」

「はい」

「撮ってもらった写真、届くの楽しみだね」

「はい」


 ボルドウへ続く、帰りの汽車の中。

 早朝からほぼ半日、全力で臨んだアマゾネスでの観光を終えて疲れ切ったマリアは、ロアの言葉に満足そうにうなずきながらも、うつらうつらと頭を揺らしていた。

 昨夜はほぼ徹夜だったのだ、疲れるのも無理はない。


「マリア、寝ていいよ。荷物は見ておいてあげるし、マルーンに着いたら起こしてあげる」


 ロアのそんな言葉を聞いたか聞かなかったかしている間に、マリアは車窓に肩を預ける形でこてん、と寝入ってしまった。ロアは苦笑しながら、手荷物の中にあったブランケットを取り出し、マリアの膝にかけようと広げる。


 そこでふと、ロアは気が付いた。

 膝の上に置かれているマリアの右手、その手首。

 少し上がった服の袖から、赤い痕が覗いている。

 誰かに強く握られたような指の痕だった。


 ロアはひとりでに、顔をしかめる。

 そして、それから目を背けるようにブランケットを大きく開いてマリアの身体に覆いかぶせた。




 結局その日、ふたりはボルドウの隣町マルーンで宿をとることになった。

 夜も遅く、馬車が手配できなかったためだ。


「……想像以上に狭いね」


 宿の部屋を見た途端、ロアは自然とそう呟いた。

 ベッドは辛うじて2つに分かれているが、ぴったりとくっついていて境界はほぼなし。部屋にあるのは本当にそれのみで、歩くスペースすら厳しい。

 どうせ明日の朝馬車でボルドウに帰るから、と部屋代を節約したらこうなった。

 あのロマンデルク学院の用務員室が広く感じるほどだ。


「でも、本当に眠るだけですし、いいんじゃないでしょうか」


 汽車で眠っていたものの、マリアはいまだ眠そうな顔つきと声でベッドを眺めている。

 ロアが入り口に近いほうのベッドに腰かけると、マリアはそのまま奥のほうのベッドに歩いていき、靴を脱いですぐ、そのまま仰向けにぱたんと倒れた。

 学院でうつぶせに倒れていた時よりかはお行儀よく倒れてはいるが、ロアは思わず苦笑する。


「アマゾネスではしゃぎすぎた? 随分疲れてるね」

「……すみません」

「謝らなくていいよ。なんなら半日とは言わずもっとアマゾネスに滞在してもよかったんだよ? 博物館も本当は見たかったんでしょ?」

「……いえ、遊びに行ったわけではないですし、観光地の宿泊代は馬鹿にできません。訓練場を見学できただけでも十分楽しかったです」


 ならよかった。また行こうね、とロアは会話を切り上げようとした。それが今夜のあるべき、自然な流れだとも。

 けれどロアにはそれが出来なかった。


「……あのね、マリア。さっき汽車で気づいたんだけど」


 言ってしまっては後には引けないことを分かっていながら、ロアはそれをあえて口にした。


「右手首、赤くなってるのはアンナって子のせい?」


 マリアの眠そうだった瞼が少し持ち上がる。マリアはゆっくりと身体を起こした。


「……よく見てますね。そうです、少し油断をしてしまって」


 人間相手は難しいですね、と言いながら、マリアは右手首を軽くさする。


「他に何かされなかった?」


 ロアの問いの意味を、マリアは回り切らない頭で考える。

 入浴中に襲われて、魔石を埋められそうになった――と。

 ロアにそう正直に告げるのはなんとなく気が引けた。

 先日の、アンジェラの件もある。

 他人のメイド業を引き受けただけでも怒るのだから、今回の失態などはもってのほかだろう。


「貴女が心配するようなことは何も。別に怪我をしたわけではないですし……」


 そうは言いながらも、自然と自らの手が太腿の上――アンナに舌で触れられた場所にいったことに気付いて、マリアは内心自省した。

 するとロアがマリアのベッドの上に移動して、マリアと膝を突き合わせるような形で座りこむ。


「ねえマリア、血を頂戴」

「え?」


 余りに唐突な申し出に、マリアは間の抜けた声を上げてしまった。そして二度、瞬きをする。


「今、ですか?」

「うん」


 冗談では決してなさそうな神妙な面持ちで、ロアはしっかりと頷いた。


「あの、明日お屋敷に帰ってからでは駄目ですか? 確かにここは個室ですけど、お屋敷じゃないと落ち着かないというか」

「……今じゃないと駄目」


 ロアはそう呟いて、マリアの右手に手を伸ばす。

 そして自らのほうへと引き寄せると、赤い痕が残る箇所に唇を寄せた。


「あの、ちょ……」


 手首を噛まれるのは流石にまずいと声を上げかけて、マリアは口をつぐむ。

 ロアのそれが、牙を立てるための行為ではないことにすぐに気づいたからだ。

 せめてもの気遣いなのか、それは愛撫と言うには優しすぎる、まるで児戯のような触れ方だった。


 しばらく唇で優しく触れたあと、軽く音を立ててロアは唇を離す。

 伏し目がちの紅い眼とその微かなリップ音に、マリアの鼓動はどきりと跳ねた。


「他にどこ、触られたの?」


 一方でロアの声は、やるせなさすら感じる、囁くような声だった。

 先日の、拗ねて怒っていたときとはまた違う声色だ。


「……、あの、本当に、」


 一度隠したからには、正直に言えない後ろめたさがマリアの視線を泳がせる。

 いつもなら、それすら「かわいい」と笑うはずのロアは、今日に限っては無表情だった。


「マリア、嘘つくの下手だよ。目が泳ぐから」


 聞いているマリアのほうが切なくなるほど、泣きそうな声でロアはそう呟いた。

 嘘こそはついていないものの、罪悪感に苛まれたマリアは、数秒ほど逡巡して、口を開く。


「……脚、だけ。脚だけですから」


 マリアがそう吐露すると、ロアはマリアの肩を押して、ベッドに押し倒した。

 そして、足首に手を這わせる。


「、ロア、」

「脚の、どこ?」


 探るようにゆっくりと、ロアの手がマリアの素足を上っていく。

 同時に、自らのスカートの裾が上がっていくのが見えてマリアの羞恥心に火が付いた。


「ロア、やめ」


 反射的に逃げるように膝を立て、マリアが制止の声を上げても、ロアは離れない。むしろ逃げようとするマリアの脚をぐっと掴んで離さなかった。そして


「……ここ?」


 ロアの手が、先刻、マリアが無意識に手をやった大腿部で止まる。

 そこで間違いはなかったし、これ以上裾を捲られるのはまずいという危機感から、マリアはこくこくと頷いた。

 しかし、ロアの行為はこれだけでは終わらなかった。


「……!?」


 ロアの熱い舌が、マリアの太腿に触れる。

 マリアは驚きのあまり一瞬言葉を失い、そしてすぐに我に返った。


「ロア!」


 先刻よりも鋭い語気で叱咤しても、ロアはやめなかった。

 それどころか、より丹念に、マリアの肌を唾液で濡らしていく。

 そして


「っ」


 ロアの牙が、マリアの腿の柔い皮膚を裂く。

 噛まれた、という事実にマリアは呆然としてしまった。


 熱い。

 血を舐めとるロアの舌も、肌を食む唇も、それらに触れられる自身の身体も、血が昇る頬も、すべてが熱かった。

 痛みは牙を立てられた一瞬だけで、それよりあとは火傷のような熱だけしか感じない。

 同じ場所に触れた、アンナの戯れの舌の感触など吹き飛ぶくらい、ロアのそれはあまりに情熱的な行為だった。

 それはまるで嵐のような口づけで。

 吸血行為であることすら曖昧になるほどに、気を抜けば、その熱に溺れてしまいそうな勢いがあった。


「ロア、駄目。やめてください」


 自身が発した声のあまりのか細さに、マリア自身が驚いた。

 それを無視して――或いは、それを分かっていて、ロアはマリアの脚を掴んでいる手をさらに内側へと滑らせた。


 快楽に近い熱に飲まれかけている意識と、このままではいけないという理性の狭間で、マリアは自身を奮い立たせる。


「駄目だと、言ったでしょう……!」


 マリアがロアの肩を掴んで、彼女を引きはがす。


「!」


 瞬間、ロアの動きが不自然に一瞬、硬直した。


「……ぁ」


 マリアははっとして、眼を隠すように手で自らの額を押さえる。

 ロアは、自らの身に何が起こったのかこの時はっきりと理解した。


 マリアの誘引力が発動したのだ。


「ごめ……なさい、私、」


 マリアはこの力を好んでは使わない。

 最近は実戦の中でこそ使いはしていたが、仮に、試用でもロアに使うことは絶対になかった。


 それはマリアが、ロアのことを悪魔として見るのではなく、ロア・ロジェ・クロワという個人として大切に想っているからで。

 魔を魅了し、その自由を奪う『誘引力』を向けるのは、大切な人への冒涜だと思っていたからだ。


 咄嗟の事故とは言え、自らその信条を破ってしまったことに愕然とするマリアに、ロアは手を伸ばそうとして、やめた。

 マリアの瞳に涙が溜まっていることに気付いたからだ。


 自らの浅はかな行動をロアは呪った。

 自身を律していれば、彼女をこんな風に泣かせることはなかったのだ。


「……こっちこそ、ごめん。マリアのせいじゃないよ。さっきのは、私が悪い」


 ロアはそのままベッドを降りて立ち上り、ドアのほうへと向かう。


「……ロア?」

「別の部屋、とってくる。一晩で頭冷やすから。ごめんね」


 マリアのほうには一瞥もくれず、ロアはそのまますぐに部屋を出て行った。

 ひとり取り残されたマリアは、微かにじんと痛む太腿をぎゅっと押さえて、そのまま暫し、泣きぬれた。

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