女領主とその女中~Femme fatale~
あべかわきなこ
悪魔祓いと魔女
プロローグ~悪魔祓いと魔女~
小さな三日月が昇る夜。
秋の虫の音、フクロウの声が響く森を、私は少女を連れて歩く。
歳のせいか、折れた枝や小石を踏むたびに膝が軋んで痛むが、約束の時間まで残り僅かなので歩みを止めるわけにもいかない。
少女は無言のまま、ただ静かに私の後をついてくる。夜風を避けるためのフードつきのローブを纏っていて、彼女の表情は伺えない。が、その足取りはとてもしっかりとしていた。
これまで、『鬼の生贄』にされる娘は大抵すすり泣くか、途中でうずくまるかしていたが、この少女は妙に気丈だ。
私は思わず少女に尋ねた。
「怖くはないんですか?」
言ってすぐ、愚問だったと私は自身を省みた。
今から贄にされようという少女が、怖れを抱かないはずがないのに。
しかし
「……私が犠牲になることで村の平穏が保てるのなら。父は泣いていましたが、きっと主はお喜びになることでしょう」
少女は静かに、贄の模範のような言葉を返した。
この村にまだこのように敬虔な少女が残っていたのかと私は震え、節くれだった手で胸の十字架を握った。
「ああ、カトリーヌ。貴女のその気高い魂は、私がしかと主の元に届けましょう」
しばらくして、目的の場所に辿りつく。森の奥にある、石造りの小さな堂だ。
アーチをくぐれば、そこには見慣れた、簡素な祭壇がある。
そしてその奥には、異形の影があった。
天窓からこぼれる星の明かりが、その異形の姿を照らす。
おおよその姿こそ人間の青年そのものだが、額から一本、角のようなものが突出している。それこそが、彼が『鬼』と呼ばれるゆえんだ。
「……遅い」
いかにも不機嫌そうな、低い男の声が堂に響く。
傍らの少女の肩が、微かに震えたのを私は見た。
「多少の遅刻はご容赦くださいませ鬼様。こうして我が村は貴方様がご所望の若い娘を月に一度差し出しておるのです」
私が頭を下げて言うと、鬼はふんと鼻を鳴らした。
「我は『若い心臓』であればなんでも構わん。さっさと儀とやらを済ませろ、人間」
相変わらずの頑愚さを見せる鬼を尻目に、私は少女のほうへと向き直った。
「さあカトリーヌ、衣服を脱いで、祭壇に横たわるのです。これから貴女が天に至る道を迷わぬよう、穢れを祓う儀を行います」
「……服を、脱ぐのですか?」
私は聖職者のごとき善人の笑みを貼り付けたまま頷く。
「この儀は心臓を抜く際の痛みを和らげるためにも必要なことなのですよ。慈悲で鬼様にも待っていただいているのです。貴女も痛いのは嫌でしょう?」
「……嫌です」
少女の返答に、内心胸をなでおろす。
ここで駄々をこねられたことは未だかつてない。
これまで贄となった少女たちの精神は、この堂に至るまでに皆が皆既に崩壊していた。彼女らの衣服を剥がすことも、その先の行為に至ることも、とても容易だった。
本物の鬼が目の前にいるのだ。
正気を保っていられるほうが、『おかしい』。
「……?」
――いや待て。
では、今目の前にいる少女は?
衣服を脱ぐのを躊躇えるほど、正気なのは何故だ?
私がそれに気づいたとき、少女はようやくフードを脱いだ。
その顔を見た瞬間、私は目を疑った。
「貴方のような下種に肌を晒すなど。死んでも、いえ、生まれ変わっても嫌だと言ったのです」
――村の娘ではない。
「悪魔祓いか!?」
私は驚きのあまり一歩後ずさった。
祭壇の奥で様子を覗っていた鬼が声を荒げる。
「おい人間、我は空腹なのだ! 貴様の戯事にはもう付き合わん!その女の心臓、先に頂くぞ!」
私が制止する間もなく、性急な鬼は祭壇を乗り越えて彼女に鋭い爪を振りかざす。
鬼と少女の距離はほぼ零、どう考えてもあの爪を避けることは不可能。
が、腕を伸ばした鬼の動きが不自然にぴたりと止まる。
「……ッ、!?」
鬼は混乱しているように見えた。
意思に反して、身体が動かないとでもいったように。
けれど少女は何もしていない。鬼をただねめつけているだけだ。
「なん、だ、その眼は」
鬼がそうこぼした次の瞬間。
「!?」
ガラスの割れるけたたましい音とともに、赤い何かが降って来た。
長く、赤い髪の、女だ。
女は着地するや否や、少女に向けられていた鬼の腕を乱暴に掴み、暴風のごとく鬼を投げ飛ばす。
「ちいッ!?」
ようやく硬直から立ち直った鬼は猫のように空中で受け身をとり、地面に降り立つ。屈辱と怒りで顔を真っ赤にして、鬼は女に再度飛びかかった。
「我の食事の邪魔をするなぁあぐッ!?」
女は容赦なくその鬼の顔を片手で掴み、今度は地面に叩きつけた。
鬼はそのまま沈黙する。
すると途端に、青年の姿だったその鬼は、幼児程度の身体に縮み、そして霧散した。
その様子を見て、少女が呟く。
「青年の姿に擬態していたようですが、随分未成熟な悪魔だったようです。
「道理で短絡的な動きだった」
赤毛の女は、黒い手袋をはめた手を両手ではらいながら、こちらを見た。
紅く鋭い冷徹な眼光が、私を射る。
今にも息の根を止められそうなその殺伐とした眼差しに、私は何を考えるまでもなくその場に両膝をついて命乞いをしていた。
「お、おお許しを! 私は、あの鬼に脅されてっ、仕方なくここに少女たちを連れてきただけでぇッ!?」
――キン、と。
私が置いた膝のすぐ横、指と腿を掠めるギリギリのところに、杭のような形状のナイフが突き刺さる。
それが投擲された方角を見ると、少女もまた冷ややかな眼で私を見下ろしていた。
「赤子も同然の短絡的な悪魔が、仮にも村から信頼のおかれる牧師で、人生経験豊かな老齢の貴方をどうやって利用したというのです? あれを利用して私欲を満たしたのは貴方のほうでしょう」
私は唇を噛んだ。
儀式と称してここで贄の少女たちを辱めた私の罪は、すべて見透かされている。
「ねえマリア、こいつ殺していい?」
女が少女に問う。命令権、私の生死を決める権利は、この少女にあるとでもいうように。
問われた少女は、しかし首を振った。
「この男を裁くべきは私たちではありません。信頼を裏切られた村の人々か、少女たちを亡くした親たちか。あるいは」
少女は物憂げに目を伏せてから、私の横を素通りし、堂から出ていった。
女も倣って彼女についていく。
拍子抜けだ。
教会の悪魔祓いは、悪魔は殺しても人間は殺さないらしい。
私は、命拾いをした。
「……はは」
村から追手が来る前に、森を抜けて逃げおおせよう。
こんな老人が罪人だなんて、近隣の純朴な村人は思うまい。
立ち上がろうと、私は足に力を入れた。
しかしどうにも、足に力がこもらない。
足首に、冷たい感触が絡みついている。
「……ひ!?」
見れば、青白く細い腕が私の足首を掴んでいた。
冷たい床に這うように、ここで死んだはずの贄の少女が私の脚を掴んでいる。
同時に、急に呼吸が苦しくなった。
目の前に、また別の贄の少女が現れて、私の首を絞めている。
そしてまた別の少女が私の両腕に、呪いをかけるようにきつくきつく絡みつく。
「はがッ」
気管がしまって息ができない。
四肢が引きちぎられるような痛みが襲う。
私の首を絞める少女が、にたりと笑った。
「あぁあっァ、やめ、あああああああああ」
■ ■ ■
罪深き男の断末魔が夜空に響く。
それを背中で聞きながら、赤毛の悪魔は瞳を閉じ、悪魔祓いの少女は静かに祈りの言葉を口にした。
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