第5話 想い。時を越えて

 日曜の昼下がり。特に予定もない俺は、テレビを見ている祖父ちゃんの部屋にやって来ていた。

 使い込まれたテーブルは、炬燵布団を外したもので、上には籠に茶菓子の煎餅と、さっき俺が淹れてきた緑茶が湯飲みに入り、二人の目の前で湯気を上げている。

 テレビでは相撲中継が流れていて、地味に盛り上がっていた。

「なぁ、祖父ちゃん。祖父ちゃんは、祖母ちゃんと結婚するまでに、何人の女と付き合った?」

 籠の煎餅に手を伸ばし、のんびりと茶をすする祖父ちゃんに訊ねると、何を急に、とでもいうように少し驚いた顔をしている。その後、ふっと表情を緩めた。

「ふっ。何人もおらんよ」

 大好きな相撲を見ている祖父ちゃんは、目の前の湯飲み茶碗に手を伸ばし、俺のした質問に小さな笑みを漏らした。テレビの横には仏壇があって、祖母ちゃんはいつもそこから祖父ちゃんに笑いかけている。

「純太たちの居る今の時代と、わしらが生きた時代は、違いすぎるからなぁ」

 湯飲み茶碗を見つめながら、祖父ちゃんはゆっくりと話す。

「あの時代は、戦争もあった。食うことにも大変で、惚れた腫れたなど、言ってることさえ恐れ多い時代だったよ」

 祖父ちゃんの目は相撲中継の先を通り越し、遠い過去を思い出しているみたいだ。

 祖父ちゃんは、父親を戦争でなくしていた。母親は、まだ小さかった祖父ちゃんになかなか出ないミルクを飲ませながら、四つ上のお兄さんに白い米を食べさせたくて、持っている着物をすべて食べ物に変えていった。そのうち、母親も病気にかかり、祖父ちゃんとお兄さんは兄弟だけになった。祖父ちゃんとお兄さんは生きていくために引き離され、遠い親戚を頼りになんとかその時代を生き抜いてきた。

 今のように軽い出逢いなんかない時代で、祖父ちゃんがどんな風に恋をしてきたのか。どういう恋愛をしてきたのか、不意に訊きたくなったんだ。

 相撲中継は、淡々と進み。時折上がる歓声をぼんやりと聞きながら、祖父ちゃんが話し出すのを静かに待っていた。

「図書館でな、働いておったんだ」

「え?」

 緑茶に口をつけようかとしていた俺は、さっきまでテレビ画面を通り越し、遠い目をしていた祖父ちゃんを見た。手に持った湯飲み茶わんからは、微かに白い湯気が上がっている。

「好きだった女の話を聞きたいのだろ?」

「あ、ああ。うん」

 気を取り直したように話しだした祖父ちゃんを、湯飲み茶わんの代わりに手にした煎餅を持ったまま見ていた。

「わしが祖母さんと結婚したのは、見合いだった。それもあの時代には珍しく、随分と年をとってからの結婚だ」

「どうして?」

「わしに好きな人が、おったからだよ」

 祖父ちゃんは、懐かしむように目じりを下げ、そのあとすぐに寂しそうな顔をした。

 戦後の復興も進み、みんな日本を盛り上げ駆り立てるように働いていた時代。祖父ちゃんは、戦争から免れた本を一生懸命に集めて周り、小さな小さな古本屋を始めた。

 街にはささやかながら図書館もでき、本の好きな祖父ちゃんは、暇さえあればその図書館へと通っていたらしい。

「そこで出逢ったのが、五十嵐 佳代子さんという女性だった」

「その人と付き合ってたの?」

 まぁ、焦らしなさんな。と祖父ちゃんは、一息つきお茶をすする。俺は、祖父ちゃんの話が早く聞きたくて、気ばかりが急っていく。

「指先がしなやかで、黒髪の綺麗な人だった。図書館なんて場所で女性が働けるということは、多分どこか金持ちの娘だったのか、権力のある親類がいたんだろうな。祖父ちゃんなんて、恐れ多くて話しかけられんかったよ」

「でも、よく通ってたんだろ? 本借りるときに話したりしなかったの?」

「そんなことはできんよ。ただ、本を机に置くと、にこりとして貸し出しカードを差し出され記入する。返却の時も同じだ。借りた本を机に置くと、同じようににこりと微笑む。ただ、それだけだ」

「え? そんなんじゃあ、いつまでたっても付き合えないじゃん」

「付き合っては、おらんよ」

「え? 付き合ってないの?」

 祖父ちゃんは、可笑しそうに一度頷き、ほんの少しの間祖母ちゃんの写真を見た。祖母ちゃんの前で別の女性の話をすることに、躊躇いがあるのかもしれない。

「ただ、顔が見たい。それだけだった」

「それだけでよかったの?」

「それだけがよかったんだ。好きな人が笑っているのを見ることが、なにより幸せだった」

 遠い目をして祖父ちゃんが笑う。

 そんな純粋な感情を、俺は心のどこかにでも持っているだろうか。真央のことを好きで、いつもいじめてしまって、喧嘩ばかりしてしまうし。真央の、笑顔を見るだけで幸せだなんて思ったことない。笑顔を見ていたいとは思うけど、それだけじゃ満足できなくて。いつだって、自分だけのものにしたいって思ってる。他の奴になんて、渡したくないって思ってる。真央が他の男子生徒に目を奪われでもしたら、俺はきっとイラつくだろうし、居ても立っても居られないだろう。真央の全てを、全部俺の方に向けたくて仕方ないんだ。誰のこともその視界に入れて欲しくない。そんな風に考える俺は、欲張りなのかな。

「一年が過ぎ、二年が過ぎ。彼女も流石にわしの顔を覚えたんだろう。それに、貸し出しカードに名前も書いておるしな。それで、ある時、名前を呼ばれたんだ。速水さん、と」

「へぇー」

 俺は、ゆっくりと進む恋の行方に夢中になった。

「いつもたくさんの本を読まれていて、勉強家でいらっしゃいますね。と、彼女はとても清楚にそう話しかけてきたんだよ」

「それから、それから」

 急かすように身を乗り出すと、祖父ちゃんが笑う。

「わしは、まさか話しかけてもらえるなどと少しも思ってはいなかったから、たいそう驚いてな。言葉が出んかった」

「えぇっ、もったいない」

「そうだな、もったいなかったな。ただ、ええ、まぁと。しどろもどろになり、頭をかいてそそくさと図書館を出てしまったんだ」

「あーあ。彼女、変に思ったんじゃないの?」

 俺は、やっちゃったね、祖父ちゃん。とわざと呆れて見せる。祖父ちゃんも笑っている。

「その晩、あんな対応をしてしまった自分が情けなくてな、何度後悔したことか。それから数日して、本を返すためにわしはまた図書館へと出向いた。彼女は、相変わらずそこにいて、相変わらず清楚に微笑をくれた。本を返却してから、いつものように本棚をめぐり、興味の惹きそうな物を選んで回っていると、彼女が傍に来たんだよ」

「うおおっ! チャンスじゃん」

 俺の反応が可笑しかったのか、祖父ちゃんが声を上げて笑った。

「チャンスか。そうだな、確かにチャンスだったのかもしれないな」

 祖父ちゃんは、声を上げて笑った後、そう呟き皴皴の自分の手をさする。

「彼女は、返却された本を棚へ戻しているところだった。わしが彼女に気づくと、にこりと微笑み、この本も面白いですよ。と背表紙が白い本を薦めてくれた。しかし、わしは恥ずかしくてなぁ。すぐにその本に手を伸ばすことができなかったんだ。そして、その日は、別の本を借りていったんだよ」

「せっかく勧めてくれたのに、何やってんだよ祖父ちゃん」

 俺は、祖父ちゃんの肩に手を置き項垂れる。祖父ちゃんは、相変わらず笑っていて、そのまま続きを話してくれた。

「数日後、もう何十回目になるだろうな。また、本を借りに行ったんだ。いつものように図書館に入ったけれど、そこには彼女の姿がなかった。いつも座っている席には、見知らぬ男性が腰掛けていたんだ。しばし悩んだ末、今日は、五十嵐さんはお休みか? と訊ねると、その男性は、彼女は結婚するためにこの土地を出て行ったという。わしは、たいそう驚いた。驚きすぎて声もでんかった」

「五十嵐さん、結婚しちゃったの?」

 俺の質問に、祖父ちゃんがゆっくりと頷いた。

「のちに、風の便りで聞いた話しでは、どうやら親の仕事がうまくいっておらず、政略結婚だったらしい」

「政略結婚? うっへー。俺だったらそんなのぜってー無理」

 イヤだイヤだと首を振っていると、仕方のないことなんだよ。と祖父ちゃんが寂しそうに呟く。

「それから、わしが図書館へ行くことはなくなった。結局、本が好きであの図書館へ通っていたわけじゃなく。わしは、彼女に逢いたくて図書館に通っていたに過ぎんかったんだよ。わしは、彼女がいなくなって初めてそれに気がついたんだ」

 本当に、情けないことだよ。祖父ちゃんはそう漏らすと、空になった湯飲みの底を見つめている。寂しそうなその顔を見ていると、こっちまでひどく切ない気持ちになり、心臓辺りがシクシクしてきた。

「でも、祖母ちゃんと結婚できて、祖父ちゃんは幸せだったんだろ?」

 気分を変えるように、俺は明るく話す。

「そうだなー。祖母さんは、わしに忘れられん人がおることも承知で一緒になってくれた。そんな祖母さんがいてくれて、わしは本当に幸せな毎日を暮らすことができていたよ」

 祖母ちゃんて、心が広いなぁ。俺は、仏壇で笑う祖母ちゃんを見る。今の祖父ちゃんよりもほんの少しだけ若い頃の写真は、とても穏やかな笑みを浮かべている。

「わしも、近いうちに祖母さんが待つ、あっちの世界へ行くことになろう」

 祖父ちゃんは、祖母ちゃんの写真に向かってそう零す。その寂しげな声に、切なくなっていく。

「そんな寂しいこというなよっ。まだ、八十歳になったばっかじゃん。まだまだこれからだよ」

 いきなりそんなことを言い出す祖父ちゃんに驚いて、俺は釘を刺す。もっともっと一緒に居て、もっともっといろんな話しを聞かせてもらいたい。

「寂しいかも知んないけど、祖母ちゃんには、もう少し待っててもらおうよ。杖がなくちゃ歩けなくなったとしても、俺が祖父ちゃんを支えてやっから。だから、そんな縁起でもないこと言うなよ、祖父ちゃん」

 力強く言って俺がテーブルに手をつくと、その手に皺皺の手を重ね、ゆっくりとさする。

「ありがとな、純太」

 皺皺の手があったかくて、目頭が熱くなっていく。

 祖母ちゃん、そっちは寂しいだろうけど、祖父ちゃんをもうしばらくこっちに居させてやってくれよな。

 俺は涙を堪えながら、心の中で祖母ちゃんに語り掛けた。


「へぇ、素敵な話しだねー」

 真央は、両手を胸の前で組んでうっとりとしている。

「うん。いい話だね」

 悠介も、笑顔でそう言ってくれた。

 俺たちは今日、テスト前の勉強をするために街の静かな図書館に来ていた。

 初めは真面目に勉強していたんだけど、そのうち俺が飽きてきて、祖父ちゃんから聞いた話しを二人に聞かせていたんだ。

「その五十嵐佳代子さんて、実は純太のおじいちゃんのことが好きだったのかもしれないよ」

「どうして、そう思うの?」

 悠介が訊く。

「だって、男女が気安く話すこともはばかられるような時代でしょ? なのに、話しかけたってことは――――」

 真央も女の子だからか、恋愛話となると目を輝かせ興味津々な顔をする。

「なるほど。確かにそうかもしんねぇな。祖父ちゃんと、その五十嵐佳代子さんは、実は両想いだった。か」

「そうなると、本当に素敵だよねぇ」

 真央は、益々うっとり顔だ。するとすぐに閃いたって顔をして、テンションが上がる。

「ねぇねぇ。佳代子さんがおじいちゃんに勧めたっていう、白い背表紙の本を探してみない?」

 静かな図書館で、真央がはしゃぎ大きな声をだした。

「まーお。しーーっ」

 突然騒ぎ出すもんだから、俺は慌ててしまったのだけれど、悠介のやつは冷静に真央を窘めている。

 悠介に叱られたことで肩を竦めてごめん、ごめん。と謝ってはいるものの、興味津々な顔つきは相変わらずだ。俺に本のタイトルを訊きだした真央は、意気揚々と探しに行くから、仕方なく俺たちもついて行った。

 数十分後。

「昔の本だし、もうないのかもしれないよ」

 悠介が言っても、未だ見つけられない本を、真央は意地になって探している。

「きっと、あるよー。だって、おじいちゃんが通ってた図書館て、ここなんでしょ?」

「うん。ここだって言ってた」

「じゃあ、絶対あるー」

 そう言って、真央は順番に白い背表紙の本を見て行く。

 すると――――。

「ねっ、ねぇっ!」

 またも静かな図書館に、真央の声が響いた。

「まーお。だから静かに」

 悠介が傍に言って注意するけど、あまりの衝撃に真央の目はクリクリッと大きくなっている。

「だって、これ」

 真央が書棚に収まっている一冊の本を指さした。それは、とても古く黄ばんではいたが、確かに背表紙が白い本だった。タイトルも祖父ちゃんから聞いたものと同じことを確認すると、真央がその本を手に取る。

「五十嵐さんは、おじいちゃんにこの本を読んで欲しかったのね」

 真央は、宝物でも扱うみたいに表紙を優しくなでると、ゆっくりとページを捲っていく。すると、最後の方のページに手紙が一通はさまっていた。宛名には、速水純之助様と丁寧な字で書かれていた。

「これって……、純太のおじいちゃんの名前でしょ?」

 真央は、ドキドキを抑えきれないといった顔で俺に訊く。

 確かに、それは祖父ちゃんの名前だった。しかも、裏を返すと、五十嵐佳代子と右隅に書かれていた。

「うそ、うそっ。すごい、すごいっ」

 真央は、一人興奮がやまないようで、目をキラキラさせている。

「ねねっ。開けてみようよ」

 ワクワクしながら開封を提案する真央を、悠介が止めた。

「これは、僕たちが勝手に見ていいものじゃないと思うな。純太のおじいちゃんに渡すべきだよ」

「そうだよね」

 少しがっかりしながらも、悠介の言うことはもっともだと真央が諦めた。


「祖父ちゃん、これ」

 俺はその手紙を預かり、その日祖父ちゃんに手渡した。

 手紙を渡された祖父ちゃんは、裏を返して見て初め凄く驚いたけど、しばらくその手紙を眺めてから、ゆっくりと封を切った。

 中には、便箋がたった一枚入っていた。一枚の手紙に書かれていた文字は、少し色褪せている。けれど、中に込めた想いは今も色褪せず、時を越えて祖父ちゃんの心へと届いた。

 祖父ちゃんは、ゆっくり。本当にゆっくり、その文字一つ一つから思いを感じ取るように読み進めていった。

 五十嵐佳代子さんからの手紙にどんなことが書かれていたのか、俺は訊かなかった。それは、祖父ちゃんと五十嵐さん、二人だけのものだからだ。

 けど、目を潤ませている祖父ちゃんを見れば、二人の想いが時を越えて今繋がったことがわかる。

 二人の交わした会話ははほんの少しだし、手を握ったわけでも、ましてデートをしたわけでもない。けれどその想いは、どんな恋愛にも勝るほどの重みを持っていたのだろう。

 俺は、そう思っている―――――。

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