第13話 ないない いらない 不必要

 別に、こんな気持ちなんか要らなかった。自分がどうであれ、あの二人が笑っていられるのなら、こんな感情、要らなかったんだ。

 なのに。なんで……。

 これだから、人間てやつは面倒なんだ。

 鳥や猫や犬が、いちいちそんな事を考えてるのかって。

 草や木や花が、そんな事思ってるのかって。

 大体、なんだ、この器。

 色んなものが、詰め込まれすぎている。

 怒り、憎しみ、悲しみ、妬み、そして……愛情。

 そんなもの、要らなかったのに――――。


「ゆーすけっ」

 今朝も真央は、とても元気で明るい。教室に入るなり、席に着いていた僕の方へ元気な笑顔で駆け寄ってきた。

「おはよっ」

 満面の笑顔は眩しすぎて、朝からクラクラしそうだ。

 真央は、いつだってそんな風に笑うんだ。

 目の中なんか少女マンガ並みにキラキラしているし、足取りはスキップでもしているウサギみたいだ。ちゃんと見てなきゃどっかで転んでるんじゃないかって心配になって、見ていたら見ていたでちゃんとできるか心配になる。

 二人からしたら平然としているように見える僕だろうけれど、心ん中はいつだってあたふたしていて、すぐに手を差し伸べられるように臨戦態勢を整えている。

 争いごとは苦手だけれど、戦わなきゃいけない時だってあると思っている。

 目の前にいる、とても大切な護りたい人のためなら――――。


「悠介?」

 気が付けば、真央が僕の目の前で手をひらひらさせていた。

 昼休み。いつものように三人で集まり、机をくっつけ弁当を食べ終えたところだった。

 あれ以来、僕はぼんやりすることが多くなっていた。体調が悪いとか、勉強のことで悩んでいるわけじゃない。

 理由は、解っていた。それは、たった一つのことだった。

 原因が解っているなら、どうすればいいのか考えればいい。勉強に関係することなら、すぐにそうしていただろう。傾向と対策を考え、どう対処すべきか頭の中で優先順位を決めて進めて行けばいい。

 けれど、今回ばかりは勉強のようにはいかない。今の僕が抱える問題の原因は、論理的なことで解決できなくて。こんなに難しいことが世の中にあるなんて、僕は初めて知った。

 目の前にいる真央も純太も、あと数日でやってくる長期休暇に心を躍らせている。二人の心とは遥かに遠い場所に僕の心は存在していて、会話の中にうまく入り込めずにいた。

「いつまで、寝ぼけてんだよ」

 純太が、呆れている。

「悠介、大丈夫?」

 真央が心配そうな顔を向けてくる。

「あ、ごめん。なんだっけ?」

 慌てて取り繕った平気な顔は、少しだけ引き攣っている気がした。

「夏休みの計画」

「そっか。夏休みだよな」

 復唱するみたいに話す僕の顔を、純太が目を逸らすことなく見てくる。その目を見続けられない僕は、この気持ちを疚しいと感じているからだ。

「まずはー、海に行くでしょー。あと、夏祭りにぃ、花火もしようよ」

「キャンプもよくねー?」

 真央がはしゃいで話し始めてくれたおかげで、純太の射るような視線が僕から逸れた。その事にほっとしている自分は、益々疚しさに苛まれていく。

「いいねー、キャンプ。あ、でも、保護者同伴じゃないと、うちのママ「うん」て言わないかも」

「そっかー。真央、一応女だもんな」

「一応って何よ」

 純太の小さなイジワルに、真央が頬を膨らませる。そんな表情さえ愛しく感じてしまう僕は重症だ。

 湧き出る感情を抑え込み、懸命に夏休みの話に集中する。

「それより、まずは。宿題を片づけしなくちゃいけないだろ?」

「えぇーっ」

 二人は、ハモルようにブーイング。こういう時だけは、意気投合だ。気持ちは解るが、宿題は、絶対だからね。

「厭な事はさっさと済ませて、あとは気にせずのびのび遊んだ方がいいだろ?」

「そうかもだけどぉー」

 真央が、さっきとは違う表情で頬を膨らませる。

 やっぱり可愛い。

 そんな風に真央を見ていると、すぐ傍から鋭い視線を感じた。その視線が誰からかなんて、確認しなくても判る。

 だから、僕はまた感情を抑え込む。壜の中へギュウギュウに詰め込んで、ギュッとガッチリ蓋をする。

 大丈夫。いつもの顔でいいんだ。

 刺さるような鋭い視線の先を見て、いつもの自分になりすまし、話の続きをした。

「純太も、宿題は先に済ませたほうがいいだろ?」

 冷静な表情でそう訊くと、射る様な視線はいつも通りに戻り、おおぅ、と返事が返ってくる。

 ほら。ちゃんと普通に、上手くできるじゃないか。

 もう一人の自分が、俯瞰して僕を見ている。大丈夫だと、気休めを言う。

「んじゃあ。初日から、宿題持って図書館集合ってことで」

「うぅ~」

 真央がしょげている。やらなきゃいけないとわかっていても、厭なものは厭なのだろう。

 そんな姿が微笑ましくて、笑みが漏れそうになった。けれど、それはさっき壜に詰めたから、容易には顔を出さない。

 気持ちを詰め込んだ壜が、カタカタと鳴っている。俯瞰した僕が、その壜の蓋を必死に押さえつけていた。


 真央がずっと待ちわびていた、夏休みが始まった。日差しはギラギラと暑く、図書館までの間に汗は否応なく吹き出てくる。

「あっちぃ」

 宿題や教科書の収まるリュックを背負っている背中との間が、汗でぐっしょりしている気がする。

「気持ち悪い」

 照り返しの強いアスファルトに向かって零していると、少し先に真央の姿を見つけた。

 涼しげな、生成りのワンピースにシンプルなサンダルを履いた足は、白く細い。柔らかな色合いのバッグを肩にかけ、ワンピースと同じような生成りの日傘を差し、空いた手にはハンカチを握っている。

 まるでこれから避暑地にでも赴くような雰囲気だ。真央のいる所だけをシャッターで切り取ったなら、綺麗なポストカードが出来上がりそうな気がした。さっきまで暑さにうだっていたというのに、声をかけるのがもったいなくて、ずっと真央を見つめていたい気持ちになる。

 カタカタッ。

 壜が音を鳴らす。

 カタカタッ。

 気持ちを抑え込めと警告する。

 わかってる。わかっているんだ。

 一度深く息を吸い吐き出してから、気持ちを切り替え声をかけた。

「真央」

 少し小走りに駆け寄る僕に気づいた真央が、気持ちをくすぐるほどの可愛らしい笑顔をくれる。

「悠介」

「暑いな」

 ふぅーっと笑いながら洩らすと、握っていたハンカチで僕の額に浮いた汗を拭ってくれた。

 壜に詰めた感情が、コトリと音を立てる。

「ありがと」

 高鳴る胸の音を抑えきれず、真央の瞳を見続けられない。

「純太、ちゃんと来るかなぁ?」

 図書館でやる宿題を、純太はかなり嫌がっていた。僕の家に集まりやる方がいいと、最後まで言い張っていたのは、ベッドもありダラダラできるし、母さんが出すお菓子にも心を惹かれているからなのだろう。

「そんなんじゃ、いつまでたっても終わらないでしょ」

 珍しくそう言って純太のことを戒めた真央の目的は、早く宿題を済ませて遊び倒したいというところかな。動機は不純でも、やる気があるのはいいことだ。

 それにしても、現地集合にしたのはいいが、純太がちゃんと来るかは確かに心配だ。真央と迎えに行った方がいいだろうか。

 けれど、ここから純太の家に行くには一度Uターンしなくてはいけない。この暑さの中、来た道を戻るのは正直しんどい。それに……、真央と二人きりで歩く図書館までの道のりに、僕の心は誘惑され勝てずにいる。純太へ迎えに行くよりも、真央と二人でいられる時間を優先したかった。

 結局、純太を迎えに行った方がいいだろうか、などと考えたのも束の間で、僕は真央と二人で図書館を目指した。

「暑いね」

 そう言いながら、何度も僕の顔を見る真央が愛しい。

 汗を浮かべて図書館に辿り着き、予め決めておいた奥の窓際へと足を進める。涼しい館内は、午前中だというのに、既に六割がたの席が埋まっていた。

 窓際の一角に空いていたテーブル席に荷物を置き腰掛けると、真央がキョロキョロと辺りを見回す。

「純太、まだみたいだね」

 先に来ていたりしないか、と一縷の望みで周囲を窺ってみても、純太の姿は見当たらない。

 まさか、僕の家に向かっている、なんてことはないよな?

 あれだけ食い下がっていた純太だから、勘違いをして集合場所を間違えていても不思議はない。

「LINEしてみよっか?」

「うん」

 真央が純太へメッセージを送っている間に、僕は宿題をテーブルに広げていった。それから、純太や真央に説明するために、解り易いテキストがないか席を立ち探しにいく。

 規則的に並んだ棚に、びっしりと収められた書物たち。そこから目的の物を探し出すのは至難の業だ。

 受付の傍にあるシステムで探すのが手っ取り早いんだけど、二台しかない機械は先約あり。これだけたくさんの本があるんだから、もう数台増やすべきなんじゃないだろうか、と少しの不満を抱く。

 それでも、なんとか探し出した本を抱え席に戻った。

「純太は?」

「今、起きたって」

「え? 今?」

「うん」

 真央は、困ったように眉を下げる。約束の時間に起きるなんて、純太らしいといえばらしいな、と苦笑いが浮かぶ。

 それと同時に、真央と二人だけの時間をもう少し過せる現実に、心の片隅が浮き足立つのがわかった。


 真央が教室の掃除当番だったあの日、一人で待つ玄関先にじっとしていられなかったのは、何故だか心がざわついたからだった。

 純太が探しに行くと言って、玄関を離れてから十分。そのザワザワが、少しずつ体に纏わりついていった。煩い羽虫を追い払うように、何度も頭を振っては時計の針を睨んでいた。

 そうしているうちに、我慢できずに両足が動き出していた。

 何かに追い立てられるみたいに歩を進め、教室へ飛び込み真央の事を訊ねると、さっき速水にも同じ事を訊かれた、とクラスメイトからうんざりした答が返ってきた。

 教えてくれたクラスメイトに謝り、急く心を抑えつつゴミ集積所へ向かう。そこで目にした光景に、僕の足が一瞬竦んだ。

 向かい合う二人、真央の肩に添えられた純太の両手と真剣な眼差し。

 邪魔をするつもりなんて、ないはずだった。

 純太の気持ちを知っている僕は、邪魔をしちゃいけないんだって、解っているはずだった。

 だけど、ザワザワが一層煩くて、心を落ち着かなくさせていく。頭では理解していたはずの事を、いざ目の前に突きつけられたら、心がミシミシと音を立て砕けそうになってしまった。

 心がカチカチに冷たく凍っていく。きっと、次の衝撃が来たら、簡単に粉々になるだろう。

 この気持ちは、いつからだろう。少しも気付かなかった自分は、本当にバカだ。ここまで来て初めてその想いに気付くなんて鈍感すぎる。

 どんなに勉強ができたって、こんな大切な事に気づけないんじゃどうしようもないじゃないか。

 気が付けば、声をかけていた。

 まるで、たった今駆けつけたような顔をして。

 まるで、そんな二人の状況に少しも気付いていない素振で。

 僕って、こんなに狡い奴だったんだ、とそのことにも初めて気が付いた。

 純太の刺すような視線も、真央のぼんやりとした顔も、全部全部気付かないふり……。

 そんな僕に向けられた純太の視線は、痛いほどに鋭利だった。その目が、どうして邪魔をしたんだ、と睨みつけてきた。

 そんな純太を前にしても、僕は何も解らないような顔をした。本性は、どこまでも狡く小賢しい。


 その日の帰り道は、本当に気まずかった。いつも通りに澄ましていても、心の中はない混ぜになった感情で、どうしていいのか少しも判らず、必死にいつもの自分を取り繕うばかり。

 バイバイと手を振る真央に、同じように手を振り返した僕に、純太が怖い顔を向けてきた。

「さっきの……、わざとだろ」

 真央が離れていくと、純太からの睨みつけるような目に心が痛み出す。

「なにが?」

 とぼけた答を返しても、総て見透かしたような純太の目が、僕をジワジワと追い詰めていく。

「とぼけるんだな……」

 怒ったような顔を俯かせ、純太は背を向けスタスタと僕から遠ざかっていった。

 今更気付いた自分の感情に、僕はどうしていいのか少しもわからなかった。

 純太に、どんな顔をすればいいのか、これっぽっちもわからなかったんだ。


「ゆーすけ?」

「あ……うん?」

「もう、ぼうっとしちゃって。さっきから話しかけてるのにぃ」

「ごめん、ごめん」

 図書館という静かにしなくちゃいけない場所で、大きい声も出せなかったんだから、と真央が膨れている。

「純太が寝ぼけるのはわかるけど、悠介まで。最近、なんか変だよ。何かあった?」

 真央は、少しだけ首を傾げて訊ねる。

「ごめん……。なんでもないんだ」

 苦笑いで教科書を開き、たくさんの活字を見る。けれど、そこに書かれている事なんて、どうでもよくて。それよりも、大切な事があって。その大切な事は、真央で。そんな真央を目の前にしたら、壜に詰め込んだ感情が暴れて仕方がないんだ。

 僕、どうして気付いちゃったんだろ……。

 真央の事が好きだって、どうして気付いちゃったんだろう……。


 しばらくして現れた純太は、真央の隣に腰掛け、向かい側に座る僕から素直に勉強を教わっていた。

 純太はあれ以来、時々僕のことをジッと観察するような、心を読み取るような、そんな目を向てくる。けれど、ほとんどの場合、何事もなかったように三人のバランスを保っていた。

 それは、あの時僕がとぼけたからだろうか。僕の感情を疑いつつも、確信を得られないからだろうか。

 目の前では、時々肩を寄せ合い話す二人を見て僕の心は痛み、ペンを握る手に力が入った。想いを詰め込んだ壜は小さ過ぎたのか、カタカタと何度も音を出し、心を激しく揺さぶった。

 こんな気持ちのまま、この先も二人の事を見守っていく事なんてできるのだろうか。

 窮屈な壜の蓋は今にも弾けて開き、想いが零れ出そうになっていた――――。

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