第11話 君たちは、未完成
「おばさん、こんにちは。お邪魔します」
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
金曜の学校帰り。真央と純太が、いつもの如く僕の家に寄り道だ。二人は、玄関先で丁度夕飯の買い物に出かけるところだった母さんに挨拶をした。
「悠介のお母さんて、綺麗だよね」
出て行く母さんの後姿を、真央が目で追っている。純太は、早く悠介の部屋へ行こうぜと忙しない。
「そうかな。毎日見てるから、そういうのあんま考えたことないや」
そう返事をする僕に、絶対に綺麗だよ。と真央は一人納得するように頷いていた。
実際、真央にああは言ったものの、
母さんに若い頃の詳しい話を聞いた事はないけれど、父さんは口説き落とすのが大変だったんだ。といつだったか笑って話していたのを思い出す。
部屋に入ると、二人は決まった位置に腰を下ろした。
純太は、ベッドに寄りかかるようにして座り、真央はテーブルを挟んだ純太の丁度向かい側に座る。
僕は、戸に背を向けるようにして二人を左右に座る。
重い授業道具が詰まった鞄を床に置くと、純太が僕を見て催促の一言。
「喉、渇いた」
ベッドの上に鞄を放り投げた純太は、既に自分の家のようにして寛いでいる。真央は、少しくらい遠慮しなさいよ。と純太に渋い顔を向けている。僕は飲み物を取りにいこうと、座ったばかりの体を持ち上げる。
「あれ? 悠介、これどうしたの?」
そんな僕の背中に真央が問いかけた。
振り返ると、棚に飾ってあった石膏の置物を手にしていた。
それは、両手の上に乗るほどのサイズで、緑色したふわふわの真綿にくるまれた真っ白な卵だった。表面は加工されてつるりとしているけれど、薄っすら色づけされ、見た目には本物の卵のようにも見える。サイズを見る限り、鶏でもダチョウでもない中途半端な大きさで、なんの卵をイメージして作られたのかは判らない。
「ああ、それ。春休みに母さんの実家へ行ったときに見つけてきたんだ」
卵の石膏は、母さんが昔使っていた部屋の棚にポツリと置かれていた。祖母ちゃんに訊いたら、高校の頃に、母さんが作ったものらしい。
「これ、なんかいいね。巧く言葉にできないけど、心が落ち着くっていうか。親近感が湧いてくるっていうか」
巧い表現が見つからない真央は、その卵を包み込むようにそっと持ち、優しい表情で眺めている。
「俺も見たい」
純太も立ち上がり、真央の手に乗っている卵をまじまじと眺めた。
「中に、なんか入ってそうだな」
「何かって?」
「何かは、何かだよ」
純太と真央のやり取りを横目に、僕は飲物を取りに部屋を出た。
グラスを食器棚から三つ出し、冷蔵庫のドアへ手をかける。中に入っていたペットボトルのジュースを手に取り、春休みの事を思い出していた。
あの卵には、なんだか不思議と吸い寄せられた。以前から同じ場所にあったはずなのに、その時まで僕は気にも止めなかった。どうして今になって目が行ったのかわからないけれど、吸い寄せられるように傍へ行き手にしていたんだ。
卵を手にすると重みがあり、優しい雰囲気に包まれたように、あったかい気持ちが湧き上がってきた。さっき純太も言っていたけれど、手にした卵の中には、何か特別に大切なものが詰まっている気がしてならなかった。
「これ、貰ってもいいかな?」
訊ねる僕に、母さんが微笑みだけで肯定する。
「ありがとっ」
僕は、まるで小さな子供が新しいおもちゃを与えられた時のように嬉しくなり、その日何度も卵を手にしては眺めていた。特に何か面白い仕掛けがあるわけでもない、石膏で作られ色を塗られただけの卵だというのに、とても心を惹かれていた
「ねぇ。この中身って、全部石膏?」
茶の間で祖父母とのんびりと寛ぐ母さんに訊ねた。もしかしたら、本当に何かが詰まっているかもしれないと想像したからだ。
例えば、母さんが小さな頃とても大切にしていた小物かもしれない。綺麗な色をしたおはじきや、玩具の指環やネックレス。
それか、小さな頃に将来の夢を純粋に語った作文かもしれない。大好きな人に書いたけれど出せなかったラヴレターや、逆に大切な人から貰った手紙かもしれない。
色々と中身を想像すると、まるでお菓子の缶詰を手にした時みたいにワクワクしてきた。
「中身は、そうねぇ」
母さんは、少し遠い目をして考えている。いつの時代にその思考が戻っているのか、母さんの表情は少しくすぐったいような、それでいて清々しい表情になっていた。
僕が眺めている石膏に、母さんはもったいぶったように手を伸ばし、懐かしいな。なんて小さく洩らした。
「なんだよ。教えてよ」
焦らされて、ウズウズしてしまう姿は、まるで純太のようだ。そんな僕を、母さんが可笑しそうに見つめている。その目は、小さな子供を見守るみたいに優しい。
母さんの表情を見て、純太にも僕はこんな風に映っているのかな。なんて思う。
「それね、高校の美術の時間に作ったのよ」
「ふーん。卵を作るように言われたの?」
訊ねる僕に、小さく首を横に振る。
「テーマは、“自分”だった」
「自分?」
「そう」
それが、この卵?
僕は、首を傾げてしまう。
「悠介は、今丁度その時の私と同じ年齢になったけれど、毎日はどう? どんな事を感じて、どんな風に過しているの?」
「うーん。そんな風に訊かれても、考えたことなかったよ」
「じゃあ、ちょっと考えてみて」
いつもは、そんな話題について僕たちは話をしたことなどなかった。時折勉強の話をすることはあっても、母さんも父さんもあまり執拗に物事を訊ねたりしない方だからだ。親も子供も一個人として、尊重し合っているというか。放任主義というやつだろう。何か相当なことをやらかしたりしなければ、口うるさく小言を言われることもない。
そういえば、そんな話を純太としていた時。それは悠介がよくできてるからだと、どうしてか真央が横から自慢げに純太へ向かって話していたっけ。
その時の様子を思い出したら、少し可笑しくなって口角が上がった。
それにしても、母さんに普段のことを訊ねられるなんて、なんだか小学生の頃に戻ったみたいで懐かしいな。
僕が小学校から帰ると母さんはいつも、今日は学校楽しかった? そう訊いていたのを思い出した。僕は、その日あった出来事を母さんに聞いてもらいたくて、いつも息せき切って話していたように思う。
幼い頃の記憶が、胸の奥のほうをくすぐるようにし、自然と頬が緩んでいった。母さんは、そんな僕の顔を楽しそうに覗き込んでくる。
僕は、言われるままに今の自分の環境を思い出していった。
純太が居て真央が居て。高校生活は、思っていた以上に楽しいものだった。
中学の時に想像していた高校生活は、もっと現実社会に目を向けなきゃいけない気がしていた。高校に入った時点で、将来の事だけを考えなくちゃいけないと思い込んでいた。
実際そういう部分はもちろん存在するけれど、でも中学の時と同じように友達との時間を楽しく過す事もできている。そして、それは毎日の生活に潤いを与える水みたいに、今の自分にはなくてはならないものになっていた。
「大切な仲間ができた。できるなら、このままずっと一緒にいたいって思える仲間」
「それは、素敵な事ね」
母さんは、目じりに笑い皺を作る。
「でも、やっぱり勉強は難しくなっていっているし、学校の中での決まりみたいなのに縛られている事に、時々うんざりもする」
それは、教師が足早に進めていく授業だったり、校則に則った制服や持ち物への規制だったり。思いもしない、他人からの言動だ。
たくさんの生徒が詰まっている学校という小さな世界では、色んな考えが犇めき合っている。それぞれが自分中心に考えてしまえば、総てが崩壊していく中で、モラルやルールに従わざるを得ない。それは、学校という箱の外へ出たとしても、同じことなのだろうけれど。
「人と付き合っていくのって、難しいなって思う時がある」
「うん。そうね……」
母さんが、なんとなく茶の間のテレビを眺めている。その表情が、僅かに悲しげな影を帯びた。テレビでは、家族同士の揉め事から、重い事件に発展してしまったニュースが流れていた。
「全く同じ考えをしている人間なんて、きっとごく僅かだし。もしかしたら、存在さえしていないのかもしれない。血の繋がっている家族だって、ぶつかり合うっていうことは、考え方が違うからでしょ? どうして、傷つけあわなきゃいけないんだろ……」
そのテレビに向かって洩らした僕の言葉に、母さんが悲しそうに眉根を下げた。
「傷は、どうしてもできちゃうもの……。それは、心の傷だったり体の傷だったり。悲しい事に、人と関わりあっていく以上、逃れられないことよね。そして、時に残忍で、許しがたい時もある。けど、傷つけ合ったからこそ分かり合えるのも事実よ。ほら、よく喧嘩して仲良くなっちゃった。なんてことない?」
母さんが、あどけなさを覗かせる。
高校のときに、そんなような事があったのだろうか。
「言いたい事を言いあえるって、とても大事なことよね。反発しあうって事は、少なくとも諦めていないってことでしょ? どうでもいいのなら、素通りしてしまうはずだもの」
「そっか。そうだよね」
純太と真央が、いつもしている喧嘩を思い出す。小さな小競り合いは、本人たちにしてみればうんざりしているのかもしれないけれど、傍から見れば微笑ましい。ああやって二人は、自然と互いの事を少しずつ理解しあっているのかもしれない。
「なに、笑ってるの?」
「え? 僕、笑ってた?」
「うん」
母さんが、可笑しそうな顔をする。
自分でも気がつかないうちに、どうやら頬が緩んでいたらしい。あの二人の事を思い出すと、どうしても笑いが零れてしまう。見ていて飽きないんだよな。
純太は、表面的には破天荒にみえるけれど、実際は家族思いのいい奴だし。真央は、いつだって笑顔でいる元気な女の子だ。真央と一緒に居るだけで、こっちまで元気になってきて、悩みがあっても、まぁいいかな。なんて思えてしまう。
「さっき話した仲間」
「うん」
「本当にいい奴等でさ。一緒に居ると、落ち着くっていうか、安心するっていうか。三人で居るのが、自然なことみたいになってるんだ。純太とは、遊びの趣味も合うし、真央は天然だけど、人の気持ちに凄く敏感で……。ん、違うな、天然だから、鈍感なんだけど、敏感で、えっとぉ。あ、でも、優しいし、可愛いし。うん、その辺のアイドルよりイケてるっていうか」
母さんは、僕が話した真央の説明を聞いて、ふっと優しい笑いを洩らした。
「なに……?」
どうしてか、母さんが笑いを堪えるようにしている。訝しげに見ていると、卵を優しくひと撫でした。
「話し、戻そっか」
「あ、そうだった」
卵の話をしてたんだった。
僕も可笑しくなって、笑みを零した。
「テーマは、“自分”。自分を表現するって、どういうことだろう? 悩んだ末に、出した答えがこの卵」
懐かしい思い出に優しく触れる母さんの表情は、とても柔らかい。
「自分の息子ながら、悠介は、本当にいい子に育っているって思うの」
「なんだよ、急に」
僕は、照れくさくなり天井を仰いだ。
「学校で色んな事を学び、普段の生活からもたくさんの事を吸収して成長していってる。けどね、どこまで行っても、人って未完成なの。悠介も、私も。色んな知識を得て、色んな事を乗り越えていったとしても。人って、ずっと未完成だと思うんだ。完璧な人間なんて、この世には居ない。どんなに優秀なお医者さんや弁護士さんでも、必ずどこか足りないものがあるはずなのよ。それは、私生活の部分だったり、心に抱えるものだったり。だから、自分ていうテーマを出されたときにね、私たちはきっと、この卵のように、ずっと未完成で大人になりきれないまま、一生を終えるんだろうな。そう思ったの」
母さんの話に耳を傾け、卵に視線をやる。なかなか孵化できず、なんとか成長しようと現実世界でもがき続けていく未完成の僕たち。
きっと、母さんが言うように、どんなに知識を積み重ねたとしても、それだけじゃダメなんだ。
ずっと、生涯、僕たちは色んな事を勉強していかなきゃいけない。いつか、殻を破る日を心待ちにしながら。
ジュースを持って部屋に戻ると、真央はテーブルの上に卵を置いて、まだ眺めていた。
「おっせーよぉ」
純太が、待ちくたびれたという顔を向ける。
「ごめん、ごめん」
待ちわびている純太にジュースの入ったグラスを手渡すと、真央がポツリと言葉を零した。
「この卵って、なんか私たちみたいだね」
「え?」
真央にも、と思いグラスに手をかけた、その動きが止まる。
「なかなか孵りきらない、卵。未熟な私たちみたい」
母さんから聞いた話を何も知らないはずの真央は、天然だけどやっぱり敏感で、卵を眺めながら優しく撫でている。
「半熟卵か?」
純太が、それほど面白くもない返しをしてきた。苦笑いでそれを受け止めていると、人生ずっと修行よね。なんて、真央が言い出すから吹き出しそうになった。真央の発想は、いつも面白い。
「なんだよそれっ」
純太が、呆れたように言って、グラスに手を伸ばす。その言葉を笑いながら受け止めるようにし、僕は二人に言った。
「そうだね。僕たちは、未完成だから」
これから続く道程で、僕たちは自分に足りない物を補い、持っていないものを拾い続けていくのだろう。
いつか、孵る時のために――――。
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