第4話 Breathless(4)

 そりゃあそうだ。ぼんやりする頭を叱咤しているうちに、真っ白な小部屋に置かれた椅子に座らされて手足を拘束された。爆音で音楽を流すヘッドホンを被せられても、不思議とサクヤの声は届く。


「じゃあ私の番。今、ミゲルはどこでどうしているの。あなたの家にいるんでしょ? 誰があいつを降ろしたの。どうしてあいつを調伏しないの?」


 矢継ぎ早の質問を、メロディもリズムもない、ただの轟音がぐちゃぐちゃにかき回してゆく。雑踏の喧噪とライブハウスの熱狂、サッカースタジアムの昂揚、事故現場の混沌、道路工事の騒音がてんでばらばらに頭蓋骨の中で暴れまわり、けれどもどうやっても逃れられなかった。

 喉の痛みに、わずかに理性が戻った。どうやら知らぬ間に絶叫し続けていたらしく、口の中がからからで、喉の奥で血の味がする。全身が軋む。頭が熱くて重く、インフルエンザで四十度の熱を出した時のことを思い出した。すかさず、コンクリートを破砕する音が過去を彩る。

 ――父さんが学会で家を空けていて、一人きりで心細かった。申し訳なく思いながらも電話をかけると、母さんは血相を変えてやってきて、病院まで車を飛ばしてくれた。セバスチャンが毎日、喉越しの良い冷たいお菓子と、おいしいスープを届けてくれたっけ。

 母はそんな人だった。助けてと言えば必ず助けてくれた。

 スープの材料は、ミゲルの小指の骨が埋まった菜園の野菜だ。天候に左右されることはあれど、新鮮な野菜は食卓に欠かせぬ存在だった。いつだって。

 ミゲルはどんな気持ちで、手入れと収穫のために毎日畑を訪れるわたしを見ていたんだろう。母さんの棺が送り出されるのを見ていたんだろう。

 ミゲルは母さんのことが好きだった。そのミゲルがハナの……サクヤの、仇? 魔術師長はハナなのか、サクヤなのか。

 サクヤは治癒術師で、死に挑む彼の指を切った。生の証しがハーレに託されたことを知っていた。そして、ハナは形見の骨の在り処を知っていた。

 試したんだ、とユディテは直感した。死霊の調伏のために破壊されたミゲルを、死霊術で降ろしたのではないか。

 強大な死霊の器となり、未練なく生を終わらせるべく、彼の自我は破壊された。降ろした死霊に意思はあっただろうか。彼の残骸、荒ぶる死霊をハナは御しきれただろうか。何もかもを背負って死んだ青年と、その屍に依って在る現実を、ふたりは目の当たりにしたのではないか。

 唐突に轟音が止んで、天井から水がぶちまけられた。滝業は始まりと同じく前触れなく終わり、床の傾斜に沿って水が筋になって流れてゆくのを目だけで追った。知らないうちに吐いていたらしく、口の中が酸っぱかった。

 これはいわゆる、ドラマや映画で飽きるほど見た拷問というやつでは。自白剤とか打たれちゃうのか。でもあれって使いどころが難しいってウィキペディアに書いてあったけど。いや、人相の悪いのにレイプなぞされてしまうのか。それは願い下げだ。

 このままではやばい、と青ざめる自分よりも、呑気に状況を俯瞰している自分の声の方が大きい。さっきの音責めでどこか壊れてしまったのではないかと三人目の自分が不安を呈するも、また無秩序な爆音がすべてを押し流していった。


「いい音楽でしょう」


 音責めと滝業を三度繰り返したのち、サクヤの声が朦朧とした頭に楔を穿つ。


「答えなさい。ミゲル・ヒメネス・アルヴァレスの死霊はあなたの家にいる。そうね?」


 わかってるならこんな回りくどいことをしなくても、と思うが、沈黙を保った。正確には、答えられなかった。耳がまだ正常に機能しているのが不思議なほどだ。頭痛は肉叩きでぼこぼこにされているかのよう、目眩が治まらず、口の中はひどい味で、滝業で流しきれなかった衣服の汚れが二日酔いでお馴染みの臭いを漂わせている。


「あいつを降ろしたのは誰。ハーレに呼ばれてのうのうとこっちに戻ってきたのかしら。あいつは何なの? ミゲルは本当に死霊なの?」


 死霊じゃないなら何だと思っているんだろう。センダード市民の命と生活を一身に負って、短い人生を終えたミゲル。テロの尻拭いをさせられた可哀想な死霊術師。

 名もなきヒーローになんかなりたくなかっただろう。好いた子の隣にいたかっただろう。他愛もない話をして短い夜を過ごし、誠実に愛を唱えたかっただろう。そして、幸福のリボンで結ばれて、永遠に祝福されたかっただろう。ハーレと。母さんと。彼の想いを知った母さんは、できる限りのことをしたに違いない。忘れない、ただそれだけであっても。


「……ハハ」


 乾いた笑い声がこぼれた。腹の底が痙攣したような笑みが爆発して、ユディテは涙を流して哄笑した。拘束されていなければ、床を転がっていただろう。

 鎮静ガスでも流されるかと思ったが、部屋もスピーカーも沈黙していた。声帯が捻じ切れるほど笑って、頬を濡らす涙を拭くこともできぬまま、白いのっぺりとした壁を睨んで叫んだ。


「ねえ母さん! まったくお笑いぐさだよ、三十一年も経ってまだこんなにこじれてる!」

「止めさせて!」


 スピーカーから制止の声が上がったのと、壁の一部がスライドして獣人の秘書が飛び込んできたのと、床に黒い染みが浮き上がり、ごぼ、と水音をたてて川向こうと道が繋がったのが同時だった。

 床から黒い霧が噴き出す。ごろごろと蠢き、死霊は懐かしい声を発した。


「ずいぶん遅かったわね。もっと早くに降ろされるかと思ってた。……なあに、その格好」

「ちょっと取り込み中で」

「杖も陣もなしでお呼び出しだものね、なるほど。それにしちゃあいい出来よ。さすが眠れる獅子。死霊術師界の暴投必至の隠し球」

「やめてよ」


 誰だ、そんなふうに呼ぶのは。

 部屋に走り込んで来たものの、秘書は死霊を前に手を出しあぐねている。その背後でサクヤが唾を飛ばしながら叫んだ。


「あんた! 何てことしてくれたの、準備なしにハーレを降ろすなんて!」

「当事者で話し合ってもらうのがいちばんだと思ったもので。へへ」

「ハナ、久しぶりねえ。ここにあの子ミゲルがいれば、愉快な同窓会なのに」

「もうすぐ来るんじゃないかな。招待状は送ってあるの。卿に」

「アルブレヒトに? そりゃあいいわ」

「ちょ、あんたたち、」


 秘書がスーツのポケットからスマートフォンを取り出す。渋い顔で短く応答したのち、困惑と不満と苛立ちを隠そうともせずに告げた。


「センダード市警のミスティック統括官がお見えだそうです」


 ぎゃはは、とコメディ映画を見ている調子でユディテとハーレの笑いが弾けた。




「ごめんなさいもうしません二度としません」

「当然だ」


 ワイゼルマイヤーの声音はブリザードもかくやと思わせる冷たさだった。

 今朝、卿の勤務が明ける直前にメールが送信されるよう設定しておいたのだ。「どうやら三十一年前の死霊化テロには、いまだ解きほぐされていないもつれがあるようです。治癒術師組合本部へ行って母を降ろし、当事者で話をつけてもらおうと思います。どうか心配しないでください」と。

 最後の一文は蛇足だったかもしれないが、メールを読んだ卿が即座にミゲルを人形に放り込み、飛行機を押さえてすっ飛んできてくれたのだからぎりぎりのタイミングで間に合ったのであり、終わりよければすべてよし、と締めくくりたいところだ。


「うちの死霊術師が無断欠勤のうえ、こちらにお邪魔していると連絡がありまして、ご迷惑をおかけしているのではないかと伺った次第です」


 白皙の超美貌に営業用の笑顔を張りつけた不死者と殺意に満ちた少年、無表情に近い秘書スマイルを浮かべる自動人形に否を突きつけられる頑健なきもを有した者が、果たして存在するものだろうか。

 治癒術師組合本部ビルの受付フロアにいたミスティックたちは、職務放棄もやむなしと判断した。賢明なことだ。そして秘書に連絡が入り、ユディテはシャワーと着替えと最高の治療を与えられ、少年人形のミゲル、死霊のハーレ、治癒術師長ハナは奇妙な同窓会を開くに至ったのである。

 機転を利かせたミゲルが象牙の杖を持ってきてくれており、元死霊術師三人と現役の主任死霊術師が支えているために、場は安定していた。死霊術師の無駄遣いでは、とユディテは車椅子の上で唇を曲げる。


「で、入れ替わってたって? いつから」


 ミゲルは不機嫌を隠そうともしない。車椅子の右側にぴたりと寄り添い、ハナを睨んだ。


「あんたが死んですぐ。ねえさんはね、あんたのことを好いてたのよ。それに気づきもしないどこかのうすらバカが、指を切れだなんて言ってきたわけ」

「鈍感は罪ねー」

「ハーレは黙ってて。そもそもどうして死霊のままでふらついていられるの。意識があるの。あんたの死霊はグッチャグチャだったのに」


 アルバムの写真を見る限り、ハナは気弱げな印象だったが、と首を傾げる。サクヤの死と入れ替わりの決意、そして三十一年もの時間が重なった結果だろうか。


「ねえさんにミゲルの降霊を頼まれたとき、止めておけって言ったのよ。降ろしたとして、まともな意識が残ってるとは限らないって」


 突然の告白に、ミゲルは動揺していた。彼の好意を知らなかったはずがない母はどこ吹く風である。


「……残ってなかったんだな。そんなの、覚えてないもの」


 苦い声に、ハナが頷いた。


「もうまるっきり、ドラマに出てくるやられ役そのものだった。暴れるあんたを封じることはできたけど、ねえさんはものすごくショックを受けたみたい。治癒術を反転させて、自分の心臓を止めたわ」


 姉の遺体を見つけたハナは死霊を、死霊術を憎悪する。そして、決意する。


「姉と服を取り替えてから、道端で適当な死霊に喰わせた。死霊にやられたように見えれば検死なんてしないし、そもそもそんなの、とっくにパンクしてたしね。入れ替わるのは思ったほど難しい話じゃなかった。不自然なことがあっても、片割れを亡くしたショックだって、みんな勝手に解釈してくれたし。それでようやく落ち着いたと思ったのに……あの日、警察で場違いな人形を見たとき、私がどれだけ驚いたかわかる? ミカエルなんて呼ばれてる坊やの中身が瞬時にわかった自分を呪ったわ」


 まったく、と続けた声は地を這う低さ、膝の上で握りしめた拳はぶるぶると震えている。


「愚かだわ。人は死を弄び、死霊を安上がりな兵器として扱った。死霊術を治癒術に統合して、教育段階で目を光らせたところで、もぐりを減らす役には立たない。もちろん厳罰化も。そんなの承知の上よ。だから考え方を変えたの」

「死霊術に頼らずに絶対優位を確保する、とか?」


 死霊を消滅させるガスの存在など知らないはずなのに、母は驚いた素振りも見せない。


「そう。既存の方法で無理なら、枠組みを破るしかない」

「枠組みを破る? そうかな、あたしには野蛮だとしか思えないんだけど。殴れないほど敵が強くなってしまったから、飛び道具を使いましょう、それが効かないなら焼きましょう、埋めましょう、毒を使いましょう、ってね。それは知性じゃなくて殴り合いでしょ」

「あんたには口出しされたくないわ、ハーレ。野蛮かどうか、確かめてみましょうか」

「死霊術と治癒術を両方学んで、それでもひとの生き死にを、いのちを管理できると思ってるなんて、愚かなのは誰よ、笑わせる。……ユディ、送って。もう帰るわ」

「あ……うん」


 眉をつり上げるハナ、憂いのままに沈黙するミゲル。噛み合わない同窓会は、母がテーブルをひっくり返して幕が引かれた。帰ると言うハーレをだれも止めない。ユディテは杖を取って、降霊の陣が描かれたテーブルに向き合った。


「突然死んじゃってごめんね。何の準備もしてなかったし、苦労ばっかりかけて」

「今さらそんなこと言わないで」


 笑って流すつもりだったのに失敗して、やけに尖った声になった。


「だよね、うん。あたしはあんたのこと、信じてるからね。……信じてもらえないかもしれないけど」

「だから、今さら」

「生きてるうちに言えなかったんだもの、しょうがないでしょ。そのための死霊術でしょうに。卿、アンナ、この子のこと、引き続きよろしく頼みます」

「承知した。……世話になったな、主任。どうか安らかに」


 母であるところの黒い霧はゆらゆらと揺れた。笑ったのだ。


「あたしのことも、早くいい昔話になるといいわねえ。アンナ、しっかりやるのよ」

「承りました」


 ハナにもミゲルにも、母は何も言わなかった。彼女にとって、ふたりはもう失われた人物だったからだとユディテにはわかる。


「ぶちまけるなら今のうちよ」

「じゃあ、意見を聞かせて。……ミゲルはなんだと思う? 死霊?」

「死霊混じりではあるけど、本質は違うと思う。あんたも薄々気がついてるんでしょ」


 ミゲルがたじろぐのがわかった。一緒に調伏してくれと喚くのかと思ったが、意外にも冷静だ。


「だから、本人を前にして正体が云々って言うの、やめろって」

「もう少し腹割って話しておけば良かったかな? あたし、いいママじゃなかったよね。でも、自分の生き方に後悔はないのね。悔いがあるとするなら、もっとユディのこと、よくできましたって誉めてあげたかったな。のんびりしたところはあるけど、打たれ強くて死霊術師に向いてるし、第二の心臓も大きいし、ああそうだ、あたし、あんたの作ってくれるロールキャベツが好」

「知ってる。知ってるから、もう……いい。ありがと。おやすみ」


 早口で言い切って、帰路を開く。母の死霊はスムーズに現世を離れた。


「おやすみ、ユディテ」


 喉を滑り落ちるワインのように、一瞬で母は、死霊術師ハーレは川向こうの世界へ帰って行った。あるべき場所へと。

 杖を手放したその瞬間、ハナが動いた。手にしているのは小型の拳銃、銃口は少年人形を指していた。

 一歩踏み出したアンナを秘書が威嚇する。卿はユディテのさらに後ろだ。間に合わない。

 ぱん、と乾いた音がして、ミゲルの体が仰向けに倒れた。胸に大穴が開き、滲み出た死霊が苦しげにのたうち、かき消える。川向こうに還るのではなく、デリートキーを押したように跡形もなく消滅したのだ。


「ミゲル!」


 悲鳴をあげたのが自分だと意識せぬままに、車椅子を跳ね飛ばしてミゲルに駆け寄った。膝が折れて這っていく格好だったが、それがどうしたという気分だった。


「ユディ……ぼく、死ぬの?」

「もう死んでる。だから死なない。消えもしない」

「なんだよ、なんでそんなに自信満々に……」


 人形の肩は震えていた。怖いのか、痛いのか。くたりと力の抜けた細い体を胸に抱え込んだ。その間にも死霊たちが次々に蒸発してゆく。


「大丈夫。ミゲルは死霊じゃない。消えない」

「だから、どうして」


 青灰の眼から大粒の涙がこぼれ、白い頬をつたう。そんな顔しないで、と涙を啜った。


「今のミゲルは、記憶なの。みんなの。だから大丈夫、たぶん」

「たぶんって、」


 泣き言ばかりがこぼれる唇を塞いだ。やめろ、と抵抗するのを力任せに押さえつけ、深く口づける。

 やがてゆっくりと少年人形から力が抜け、ユディテは抜け殻を床に横たえる。死霊がのたうち、傷口が見る間に黒く爛れていった。

 アンナは獣人の秘書を、卿はハナを制圧していて、それぞれにこちらを眺めるものだから、ようやく自分がどこで何をしたのか理解が及んだ。頬が火を噴く。


『……意外と大胆だな、きみ』


 心の奥でミゲルがつぶやく。


「なんで! 死霊のくせに! なんで消えないの!」


 ハナの絶叫がむなしく響いた。

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