第3話 Sleepless(3)
フードコートでクレープを買って、屋上庭園に出た。外はもうすっかり夜の色で、花壇や植え込みのイルミネーションはクリスマスのモチーフをかたどって煌めく。
テーブルセットに落ち着いて周囲を見回せば、明らかにカップルとおぼしき密着した二人組や、お喋りに夢中のグループがあちこちに散らばっている。
ミカエルのリクエストで選んだクレープはチョコストロベリー、純白のホイップとチョコレートソースのコントラストに、苺の赤がみずみずしく彩りを添えていた。
食べたいと言ったくせに、「物理的に食べられるかどうか自信がない」などとわけのわからない気後れを見せる少年のためにアンナにお伺いをたててやる。
胃袋の容量までならば問題ない、ただし味覚は付随しないと取扱説明書もかくやという返信を二分後に受け取って、なおももじもじする彼のために、ユディテは大きく口を開けてクレープにかぶりついた。いびつな食べさしを突き出す。
「ん」
「……いただきます……」
ミカエルは消え入りそうな声を落として、それが毒ででもあるかのように決死の表情でほんの少し、かじった。薄く色づいた頬がかすかに動き、細い喉が上下するや、見る間に大粒の涙が膝に落ちる。驚いたなんてものではない。
「ちょっ、どうしたの。味がないの、つらい?」
「ちがう……久しぶりに食べたから……食べるってこういうことだったなって思って」
ぽろぽろとこぼれる涙は強いライトに照らされて輝き、まるで漫画みたいだった。味覚はないのに感極まって泣けるのかと思うと不思議だが、美少年をかたどった人形に涙腺を備えるのは必然である気もする。
渡したハンカチの色が変わるまでひとしきり泣いたミカエルは、ごめん、と殊勝に頭を下げた。
「自分でもびっくりした。味覚、ついてたら最高なんだけどなあ。たぶんきっとおいしいよね、これ」
「え? ふつう。セバスチャンが作ってくれたやつのが百倍おいしい」
「きみはもう少し雰囲気を大事にすべきだと思う。死霊になって味覚がなくなる前に、味わっておくといいよ」
死霊を栄養にしてる野菜は食べてるけど、とは言わないでおく。同時に、生きている間しか食べられないのだ、と遅すぎる感慨が胸を満たし、改めてミカエルの長い長い死後の時間を思った。
「うん、あのさ、さっきの話なんだけど」
「本気だよ」
「じゃあ、ミカエルは誰かに調伏されるために、死霊で居続けてるってこと?」
「そう。ちゃんと死ぬためにね。色々絡んじゃってるから、そこいらの死霊術師じゃ歯が立たない。ぼくにだって無理だ。でも協力すれば何とかなるかもしれない。本当は、ハーレと三人で、って話をしてたんだけど」
三十一年前。大人数での自爆からの死霊化テロ。知識が脳裏で瞬く。
「死霊化テロの犠牲者、なの?」
「大きな意味ではね。
自分ならどうするか、よりも、その結果ミカエルが死んだのなら答えはひとつだった。
「何かに憑依させて、器ごと壊す」
正解。ミカエルはとろけるような微笑みを浮かべ、テーブルの上に放り出したままだったユディテの手に、つくりものの手のひらを重ねた。
「だけど、器もなかなか難しくてさ。一時的にとはいえ、強い死霊を封じ込めておけるだけの大きさの
「な、なんで……?」
「そうするのが最適だと思ったから。器として強靱だし、死霊と渡り合うためのノウハウも持ってる。将来有望かもしれないけど、独身だし、親兄弟ももう亡くなってたから、ぼくが死んで悲しむひともいない。師匠や先輩たちがバックアップしてくれるなら取り逃がしはしないだろうって思ったんだ。もちろん怖かったよ。器ごと壊すってことは、何も残らないってことだからさ。遺灰も、遺骨も、好きな人を想う気持ちも。未練たらたらだった」
死霊の憑いた肉体を破壊しても、宿主が心安らかに死を迎えねば骨のひとかけら、髪のひとすじを辿り、死霊は容易に再生する。宿主と混じり合いより強力になって。
であるからして、ミカエルが未練を残すことは絶対に、何としてでも避けなければならなかった。死霊術師として有望な彼を取り込ませるわけにはいかない。未練なく死ぬことの難しさに、誰もが頭を抱えたそうだ。
今は自動人形に魂の器、擬似的な第二の心臓を備える技術が進んだから、同じことが起きても生贄を差し出すような真似はしなくて済む。
テロ発生からの三十一年、ユディテの人生より長い時間をうまく想像できない。ミカエルが何を思って人形に憑依しているかも。
「組合本部からはさ、薬物で人格を破壊したらどうか、なんて、下品な提案もあった。嫌だったけど、ぎりぎりで気持ちが変わらない保証もなかったからね。同意書にサインして、それからは気持ちをオープンにしても大丈夫なんだって、いっそ楽になったよ。怖いって大っぴらに言えたから。それでも、何も残らないし、残せないことに変わりはない。考えた末、処置を受ける前に、同期の治癒術師に頼んで指を切ってもらった。これなんだけど」
と、左手を掲げてみせる。人形の小指が第二関節の下部で断ち切られていた。
「死霊が憑く前なら問題はない。ぼくは指を焼いて、骨をハーレに託した。どこでもいいから、埋めてって。それで彼女が選んだのが」
「……菜園」
ミカエルは母を、ハーレを死なせたくなかったのだ。明瞭な理解が灯り、若く有望なミカエルの「好きな人を想う気持ち」が形を変えて骨になったのかと思うと、悔しいやら腹が立つやらで、クレープの味がなくなってゆく。
「そういうこと。人形も左の小指を切ったら、不思議と親和性が高くなった」
「ちょっと待って、同期の治癒術師? まさか」
とてつもなく嫌な予感がした。線が繋がる、パズルが完成する、のか。世界は思っているよりも狭いものだ。
「二戸咲夜。知ってるの」
「やっぱりきたかー。知ってるって言うか、嫌われてる。たぶん。
血の通わない人形の頬が青ざめる。机に突っ伏して頭を抱えてしまった。
「そりゃやばい。ぼくのこと、きっとばれてる。研修生もスパイだよ」
「でも、わたしもミカエルもじゅうぶん気をつけてたじゃない。メイがいる間は菜園には近づかなかったし。困ることなんてないよ」
「花壇や薬草園は案内してたじゃないか。菜園だけ避けただろ。バレバレだよ。サクヤ、そういうとこ鋭いからさ」
二人してうんうん唸る。まったくもって非生産的だった。
「待って待って、うちに死霊がいることがばれたらまずいのは当然よね? それとも、その死霊がミカエルだって知られるとだめなの? いやどっちもだめだ、社会的に死ぬ」
「落ち着け。まずいのはまずい。どっちもまずいけど、サクヤも三十一年前の事件の関係者なんだ。ぼくの指を切っただけじゃない、ハナ……双子の妹を亡くしてる。ハナはぼくとハーレと一緒に写真に写ってた同期の死霊術師だ」
ぎええ、と本心をジューサーにかけたような呻き声がこぼれた。
「……最低最悪なんじゃ」
小指の骨を友に託し、ミカエルは眠った。その後のことは教科書通りだろう。死霊術師たちは抜け殻となった彼を破壊し、死霊封じに成功する。栄光と日常の狭間に、勇敢で心優しい死霊術師の名は葬られた。
「未練はなかったのに、どうしてミカエルは死霊になったの」
「言っただろ、菜園には皆がずぼらに処理したごみを埋めてたんだ。極めつけが先々代、つまりはぼくの師匠の杖を焼いて、その灰を撒いたことだ。先生は晩年もずっと事件のことを気にしてたみたいでさ……
通常、魔術師は引退する際に愛弟子に杖を贈る。ユディテの象牙の杖も母の形見だ。しかし先々代は杖を焼くことで、自らの罪を次の世代に引き継がせまいとしたのだろう。
「ん? それ、知ってるかも……」
先々代の引退に伴い、主任魔術師となった母が多忙を理由に組合に移り住み、父と二人暮らしが始まったからよく覚えている。まだユディテは学校に通っていなかった。とすると、事件の十年後くらいか。
「杖には過去に死霊とやり合った時の記憶や、先生の未練がたっぷり詰まってた。それが、静かに眠ってたぼくを叩き起こしたってわけ。自我まで復元されたのにはびっくりしたけど、まあ結果的には、そのお陰で死霊を暴走させずに済んだんだから良かったんだろうね。それからは、ハーレにだけ存在を明かして、話し相手になってもらった。どうすればぼくを調伏できるかってことや、お父さんを亡くして移り住んできた女の子の教育方針とか、夕飯の献立とか、いろいろ話したな。まあ、セバスチャンにはすぐバレちゃったけど」
ユディテが十二歳のとき、アクセルとブレーキを踏み間違えたトラックに轢かれて父が亡くなった。それを機にアパートを引き払って母のもとに、今の家に引っ越したのだ。
母は主任の仕事に忙殺されていたが、住み込みの弟子たちが代わる代わる世話を焼いてくれた。セバスチャンの食事は美味しかったし、化粧のしかた、青くさい悩みの相談、運転や魔術の練習など、つねに誰かが相手になってくれた。世間一般で言う母子とは少々イメージの異なる関係かもしれないが、寂しくはなかったし、恨んでもいない。
「そんなに昔から、わたしのこと知ってたの?」
ミカエルは微笑むだけだった。その華奢な肩に、腕に縋りつきたいのをこらえる。
「じゃあ、じゃあ、本当に、わたしがひとりきりになったから、出てきてくれた……?」
「ハーレにいつも言われてたから。きみのことをよろしくって。もちろん、それだけじゃない。春先のきみは今にも死んじゃいそうだったから、声をかけずにはいられなかった」
「わたしが死ねばあなたを調伏できる死霊術師がいなくなるから?」
「……そう思いたいなら、それでもいい」
音をたてずに彼は立ち上がり、ユディテの椅子の背もたれに手をかけた。美の粋を極めたおもてが影の中で笑む。天使がいるならば、きっとこんなふうに笑うのだろう。花開くように。月光が撫でるように。雪のひとひらのように。
「ぼくは、きみに生きていてほしいんだ」
囁く声は天上のしらべ、それとも劫火の呪い。
「ずっとこうしたかった。きみが我慢してるのを見るたびに、体が……入れ物が欲しいって思った。話を聞いて、手を握って……ぼくが昔、ハーレにしてもらったみたいに、隣にいたかったんだ」
「ミ、」
ミゲル。言の
「死霊を吸い込むといけないから」
唇を掠めた指が右手に絡んで、第二の心臓がびりびりと震える。触れ合わせた額は滑らかで、間近で見るガラス細工の眼の繊細さは、どう考えても人形が愛されるための媚びであり、生存戦略であり、人形師のプライドと粋だった。
だから、何かが揺らいで、その振動があちこちに伝わって、まるでドミノ倒しのように反応が連鎖してしまったのは、ミカエルの――ミゲルのせいだ。
「どうして泣くの」
少年のおもてに困惑が浮かぶ。そこに親愛の片鱗を見たのは、人形師がそのように造ったからだ。そう考えなければどうにかなってしまいそうだった。いや、もう、とっくにおかしくなっていたのかもしれない。
「……冷えてきたし、帰ろうか。セバスチャンにココア作ってもらおう」
手を引かれると体は勝手に動いた。魔術か、死霊の支配か。いいや、違いなんてない。
フロアが雲みたくふわふわと弾んで、目が回る。繋いだ手だけを頼りにぼんやりしているユディテとは違い、ミゲルは来た道をちゃんと覚えていて、気づいたら車の横にいた。
助手席に背を預ける少年人形は、フロントガラス越しに夜の街を見つめている。彼の知る三十一年前と、何がどのくらい変わってしまったのだろう。
長い夜に話すべきことはたくさんある気がした。
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