第3話 Sleepless(4)
「帰りに卿が寄ってくれるって。それまではここにいるよ」
「ありがと。こんなに長い時間、外に出られるようになったんだね」
卿と人形師ポーラの情熱も無駄ではなかったということか。ミゲルはくちびるを歪めた。
「卿もぼくを器に移して、調伏を企んでるんだよ。そうでなきゃ、こんなに熱心になるもんか。利用価値がなくなればすぐ消されるさ」
「ああ、そっか……卿ももしかしてテロの被害者だったりするのかな」
「ありえるね」
シャワーを浴びて二階へ上がる。人の目に晒すことを考えていなかった部屋は雑然としており、たいそう恥ずかしかったのだが、ミゲルはくすくす笑うだけだった。
「らしいや。気にしないで」
朝が早いユディテは夜も早い。いいよ、と彼が勧めるのに従って、横になった。
「卿が来るまで一緒に寝る?」
「きみさ、ぼくのことただの人形だって思ってるだろ」
「死霊入りの人形だって思ってる」
そうじゃなくて、と美少年はそぐわぬ仕草で髪をかき回した。乱れた金糸はさらさらと滑り落ちて彼の頬を彩る。シャンプーのCMのようだ。
「だって、ミゲルが好きなのは母さんでしょう」
ひえっ、と奇妙な声を漏らしてミゲルが飛び退く。血の巡りなどないはずなのに、どうして顔があんなに赤いのだろう。そう驚くことでもなかろうに。
「恋愛感情ではないだろうけど、母さんもミゲルを好きだったと思う。そうでなきゃ形見の骨を受け取らないし、菜園に埋めたりしないよ。それこそ、菜園の野菜を食べられるほどには近しく思ってたんじゃない。好きだったし、信頼してたし、ミゲルが死んでしまったことにも死霊になっちゃったことにも責任感じてたんじゃないかな。わたしに教えてくれなかったのも、もしかしたら言いあぐねてただけかもしれない」
横になって毛布を引き上げると、膝立ちになったミゲルが様子を窺うように顔を寄せてきた。畳んだ腕に顎を預け、目が合うとはにかむ。
「あんなちっちゃかった子が、こんなに大きくなるんだもんなあ。ぼくは何もできないでいたのにさ。ちょっと才能あるからっていい気になってたけど、馬鹿みたいだ。こうなって初めて、無力さに気づくなんて」
「……器ごと破壊するほかに方法はないの」
「ない。ぼくは本来ここにいるべき存在じゃない。いつか『ぼく』が失われれば、制御をなくした死霊が全世界に死をもたらすだろう。ぼくが甘かった。願ってしまった。こんないやなこと頼んでごめんね。ユディは何も関係ないのに」
髪を撫でる小さな手は優しい。同じように撫でてくれた父を思い出す。
「願って良かったんだよ、ミゲル。今だって同じ。願って、望んで、欲しいって思って。魔術ってそういうものでしょ。思うことを力に変えてきたんでしょ」
「ぼくはきちんと死にたい」
「うそつき」
「うそじゃない。死霊は嘘をつけない、知ってるだろ。きみに力が備わるまできっと待つから、取り返しのつかないことになる前にぼくを調伏して」
いつもの自信はどこへいったのか。ユディテは枕元で必死になっている少年人形の手を取って、頬に添わせた。
「わたしは死霊を信じてる。技術と知識と経験が及ぶ限りね。わたしの知ってる死霊はそんなこと言わない。たぶん、ミゲルは死霊じゃない」
「は? 何言ってるんだ、そんなはずないだろ。死霊じゃなきゃ何なんだ」
「わからない。調べる」
ミゲルは二、三度口をぱくぱくさせ、やがて首を振った。
「根拠は? 証拠は? もし、もしもだよ、万が一ぼくが死霊じゃないとして、誰も気づかないのはおかしいし、人形があんなにあっさり腐るはずがないだろ。きみだって最初、めちゃくちゃ警戒してたじゃないか。思いつきで振り回すのはやめてくれ。残酷だよ」
残酷。ユディテは口の中で呟く。そう言うからには、まだ望みはある。すっかり物わかりの良いふりをして、心の底では諦めきれていない。
死霊じゃない、とは確かに思いつきにすぎないが、矛盾はない気がする。あの経緯からどうやってミゲルの自我が再生されたのか不明だし、死霊としての性質があることも否定できないが、もともと理詰めの存在ではない。死霊でない部分があったとしてもおかしくはないのだ。時間をかけて変質したとも考えられる。
「ミゲル、わたしのこと、好き?」
「うえっ? な、なんてこと訊くんだ、もうちょっとオブラートとかそういうのにだな」
「わたしはねえ、けっこう好き。最初はやばすぎると思ってたけど。あと五十五歳って感じしないし」
「話を聞け! 五十五歳でもないから!」
やっと元気になってくれたようだ。わざとらしい咳払いをひとつ、ミゲルは右手の指を折る。
「お父さん似の眠そうな目と、ストロベリーブロンドが可愛いと思う。いっつもヨレヨレの服だけど、ちゃんとハイブランドのも似合うし、呑気で空気読まないところとか、魔術に関しては手抜きしないとか、そゆとこ好きだよ」
「うふふ、うれしい。そんなにべた褒めして、恥ずかしくない?」
「言えって言うからだろ!」
からかい甲斐がある。距離が縮まったからか。それとも、恐れるのを止めたからか。ミゲルは膝を抱えてしまった。
「ココアで酔っ払うのかよ」
「ラムじゃぶじゃぶ入れた。ねえ、隣で寝ていいよ」
「やだよ、娘みたいなもんだよ、きみは」
「チューしようとしたくせに」
「あれは……まあ、その、なりゆきで。隣で寝てくれるひとはいないの」
恋人と呼べるような存在は身近にいなかった。死霊術師を恋人にしたいという怖い物知らずと付き合ったこともあるが、彼らは好奇心が満たされると去って行ったし、ユディテも追わなかった。二年前の激務のあいだに自然消滅したのが最後だ。
「いないかなあ。教授は出張料を払えばきっと寝てくれるし、頼めばマギーとライアンは来てくれるかもしれないけど」
「またライアンか」
「いい人なんだもん」
いい人ね。唇を曲げて嘆息し、彼は再びベッドに寄りかかった。手を握ってくれる。
「ミゲルもいい人だよ。……ミゲルの心ってどこにあるんだろ?」
「きみは、はっきり場所を示せるのか?」
「どうだろ。心なんて元々ないのかも」
「ぼくだって同じだよ。あるのかないのかわからない。衝動と知恵が心なんだって錯覚してるだけかもしれない」
けれども、ミゲルは好きだと言ってくれた。生きていてほしいと。それが心でなくてなんだ。他人の生を願う死霊がいるものか。
相応しい呼び名がないなら新しく作れば良い。ミゲルを表すなにかを。そして、死霊を調伏し、彼に安らかな眠りをもたらす手段を考えるのだ。このわたしが。
「おやすみ」
枕元のリモコンで灯りを消すと、呼吸音のないミゲルは沈黙と同化する。身を離して毛布の中で丸くなっていると、気配さえも感じられない。
このままユディテが眠ってしまったら、彼はきっと静かに立ち上がって、外で卿を待つのだろう。死霊は眠らない。ひとりきりで過ごす長い夜、星の数でも数えるのだろうか。月の模様を眺めるのだろうか。何を慰めとして?
――違う、それは違う。唐突にユディテは理解した。
夜の長さを、ひとりきりで過ごす薄ら寒さを、ロマンチックな状況や科学の力が及ばぬ孤独を痛切に思っているのは、ミゲルではない。
毛布をはねのけて起き上がる。暗闇の中で目を丸くする少年の肩に顔を埋めた。
「寂しい」
ミゲルがはっと身を強張らせる。すぐに腕が伸びてきて、背をさすってくれた。
「父さんも、母さんも、ミゲルも、みんないなくなっちゃう」
「ユディ」
寂しい。言葉に応じて、ミゲルの腕に力が籠もる。
「そうだよ、順番だ。生まれたからには死ぬし、それまでは生きてる。紙一枚分の差しかないことだけど、寂しく思えるうちは生きてるんだよ、ユディ」
「ミゲルは寂しくないの」
人形の唇がうっすらと笑みを刻んだ。
「寂しいふりなら死霊にもできる」
寂しいと言えても、死を願わないでとは言えない頑なさを呪い、欲しいと言えない愚かさを悔やんだ。
大丈夫、などと気休めを口にしない彼の誠実さに心臓が軋む。
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