第4話 Breathless
第4話 Breathless(1)
センダードの冬は、骨まで凍てつく冷気、そして容赦ない乾燥が支配する厳しい季節だ。ウェストウッド地区のさらに西、山岳地帯から吹き下ろす風が街全体を冷やし続ける。内陸で湿度がないため雪は降らないが、晴れた日はまだしも、曇ろうものなら一日中氷点下の寒風を浴び続けることになる。
世間は平和で、警察の仕事が落ち着いているのが幸いだった。
「おはよう。毎日精が出るね」
冬の間、畑仕事はほぼ休業である。収穫はないし、芋やエンドウの植え付けを終えて、寒さ除けの覆いをかけてからは春を待つばかりだ。グランドリーフでも撒こうかと思うものの、土をいじる暇があれば資料を読みたかった。
それでも、庭に出ればミゲルとは一言二言、他愛もない言葉を交わす。寒いねとか、具合はどうかとか。
「こんなに本を読むの、マスター試験のとき以来かも」
肩がやばい、と腕を回すと道路工事めいた音がした。さしもの教授も、
「あのさぁ、そんなに根詰めて空振りだったらどうすんの。また顔色悪いし。ちゃんと寝てるんだろうね? ごはんは? 食べてる?」
「ママが出たぞー」
「野太い声出すなって。心配してるんだよ、これでも」
呆れたような、拗ねたような、こんなにも感情豊かな死霊をユディテは知らない。経験が浅いからだろうか。母が扱う死霊の中にもいなかったと思う。
ミゲルの正体を調べるべく、ユディテは書庫の記録のほか、図書館で新聞を参照し、学校図書館にも出向いて教科書をさらい、系統別魔術の大全にも目を通した。貸し出し可能なものは持ち帰ってコピーを取り、メモを残し、付箋を貼った。
目指す答えにはなかなか辿り着けないが、死霊とは何か、という根本的な項目を復習するのは無意味ではなかった。死霊の発生と肥大、調伏。過去の事例の収集。調べたいことが次々に浮かび、ひたすら試験勉強に打ち込んでいた二年前の冬を思い出す。夜食にとスープやポタージュを作ってくれたセバスチャン、調伏や屍体人形の制御、あらゆる死霊術の練習に遅くまでつきあってくれた師――母ハーレ。
母は父を降ろしただろうか。急な死別を悲しみ嘆いて、別れの時間を求めただろうか。けじめとなる言葉を欲しただろうか。ミゲルは母に、便利に死霊を使えと笑っただろうか。
どれも否だと思う。母は死霊術を用いて心の安寧を求めるひとではなかった。後悔の穴埋めをしているところは見た覚えがない。
三十一年前の死霊化テロについての情報は玉石混淆だった。通り一遍のことしか書いていない新聞、憶測と伝聞から被害者の人となりを並べ、死霊術師たちの個人情報を暴いた写真週刊誌、絞り出すような言葉で当時の状況を綴る業務日報。
可能性を探ることは、別の可能性の芽を摘むことでもある。十分に注意せねば、正解に至る芽を摘み取ってしまいかねない。
捜査資料を見せてもらえないだろうか、とふと思う。ライアンかマギーを通して……いや、卿に直談判した方が早い。ミゲルの調伏を企図しているらしい卿には事情を話しておかないと厄介なことになりそうだし、人形を借りた以上、彼を遠ざけるのはまずかろう。
「卿に協力を頼もうと思うんだけど」
「好きにすればいいよ。怒ってるわけじゃなくて、きみがどんな結論を出すのか見てみたい。生ぬるい容赦はしないでほしいけどさ」
「うん。ありがと」
今のところ、長く地上に留め置かれた死霊がそれ以外のものに変質した記録は見つかっていない。降ろした死霊は、どんな聖人君子の霊であっても生者とは相容れぬ存在で、生気を奪い、
現世に長く留まって強大になれば制御も困難だし、お帰りはあちらと案内したところで、素直に従ってくれようはずもない。たいていは、招いた死霊術師が被害者第一号となる。
死霊を招く「通路」は、いわばこの世とあの世を繋ぐトンネルだ。降霊の場合、生から死へと一方通行のところを無理矢理逆流させるわけだから、エスカレーターを逆走するのと同じく、大きなエネルギーを必要とする。調伏の場合、死霊の大きさに応じた通路を繋ぐのが困難になる。
メイユイが心配していた死霊化テロは、根本的な部分で矛盾を孕んでいる。誰かが死の連鎖を止めねば、自分たちまでもが危険にさらされるのだから。死霊への対応で消耗させたところへ
つまり、まともな思考回路を持ち合わせていれば、死霊化テロなど起こり得ないのだ。調伏以外の方法で死霊を還す手段を有しているなら話は別だが、専門家である死霊術師がそれを知らぬはずがない。
サクヤが言ったという「死を管理する」とはどういう意味かも気になる。
「どしたのさ、難しい顔して」
「ううん……あのさ、この前の研修生に聞いたんだけど、サクヤ先生が『死は私たちが管理する』って言ったらしいのね。どういう意味だと思う?」
「どうって……文脈によるだろ。治癒術を適切に使って患者を死なせないとかさ」
ううん、とミゲルも唸った。
「それなら『救う』、って言うよな、ふつう……」
「でしょー。もしかしたらこういうこと言うの、あんまりよくないのかもしれないけど、先生、死霊術師を嫌ってるぽくて……それってやっぱり死霊化テロのせい? あ、ちょっとごめん」
ポケットに放り込んだスマホが震えた。アンナからだ。
『早朝から恐れ入ります。アルブレヒトさまが、早急にお伝えしたいことがあるのでおいで頂けないかと。お迎えに上がりますが、ご都合はいかがでしょうか。ミカエルさまもぜひともご一緒に』
「はい、それはもちろん……。え、ミカエルもですか?」
つまり、かれに関わる話だ。目を遣ったところで、黒い霧の感情の起伏など読めようはずがない。
「朝早くからすまないね」
「いえ……今日はお休みですし」
アンナにピックアップされ、初めて足を踏み入れたアルブレヒト・ワイゼルマイヤーの私邸は、城でも豪邸でもタワーマンションでもなく、広さだけを見ればユディテの自宅と変わらぬ一軒家だった。案外ふつうだな、と拍子抜けしつつも、それが合理的だろうと納得する気持ちもある。
「城みたいなところに住んでると思ってたのに」
しゃあしゃあと言ってのけるミゲルを殴りそうになったが、卿は少しも気にしていないようだった。
「よく言われるが、私ひとりが生活するのに広さは必要ないだろう。掃除に手間がかかるばかりじゃないか。ロボット掃除機を養うために広い家に住むのでは本末転倒だよ」
「そんなものですか」
「そんなものだよ」
朝を迎え、窓はぴったりと遮光カーテンに覆われている。温かい紅茶とたまごサンドの皿をユディテの前に置いたアンナが定位置に控えるのを待った。
ミゲルも卿もアンナも食事をしない。できないわけではないようだが、サンドイッチと紅茶をおいしく食べられるのは、この中では自分だけなのだと思うと、「食べる」と密接に繋がっているはずの「生きる」が幻のように思えてくる。
不死者の生、人形の生。死霊のミゲルに対し「生」とはなんとも奇妙だが、人形に憑いてしまうと、アンナとの差はどこにあるのだろうと疑問も出てくる。
きっと、これと決まった線など引きようがないのだろう。この世のどこにだって。
「死霊術師組合が治癒術師組合に吸収合併される。統合、ということだ」
前置きなく差し出された本題に、ユディテもミゲルもすぐには反応できなかった。吸収合併。そういえば夏にザヤとメリッサがそんな話をしていたが、まさか実現するとは思わなかった。
いくら死霊術と治癒術が近しいといえども、どちらにも歴史があり、伝統があり、それぞれを極めたいと志す者が専門の道を進む。組合が独立を捨てることなどあるのだろうか。
「吸収合併って……そんな、企業みたいな」
「もちろん今すぐではないが、死霊術師の増加が見込めないのだそうだ。このままでは死霊がらみの事件に対応できなくなる。それを防ぐために、大きなくくりで系統を見直し、治癒術の一部門として死霊術を置く。死霊術師組合は業務の一部を治癒術師組合に委任する。以上が魔術局に提出された新編成案の骨子だ」
「魔術局」
国の機関ではないか。話が大きすぎる。ということは、組合の上層部ではすり合わせが終わっているのだろう。とてもではないが個人が対応できる話ではなかった。他国でも死霊術師は減少傾向にある。追随する地域もあろう。
不穏なのは、二つが同じ系統の魔術として括られるのであれば、サクヤの言った「死を管理する」が急激に重みを増してくることだ。
「ここまでが表向きの話だ」
「じゃ、裏の話もあるわけだ」
ミゲルのざっくりした言葉に、卿は曖昧に頷いた。
不死者たちのネットワークは世界中をカバーしていると聞く。政府に知った顔があっても不思議ではないし、色々なところから様々な話が舞い込んでくるのも当然なのかもしれなかった。
「死霊を消す方法が見つかったそうだ。調伏ではなく、抹消するという意味らしい。詳細はまだ不明だが、魔術ではなく化学兵器……毒ガスを散布するようなものなのだそうだ」
「そんなことが……だから死霊術は不要だと言うんですか」
動揺してサンドイッチに手を伸ばしてしまったユディテの隣で、ミゲルはソファに深く腰かけ、すらりとした脚をぶらぶらさせている。
「ってことはさ、だいぶ前からそれを研究してたんだよね。誰が……どこが主体?」
ワイゼルマイヤーは眉間の皺を深めて首を振った。銀色の髪が重たげに額にかかる。
「まだ確たる情報ではない。もう少し待ってくれ」
「そこまで言っておいてなんだよ、治癒術師組合だろ」
「待ってくれと言っている」
「死霊に効果があると認められたんなら、死霊術師だって関係してるはずだ。きっかけは三十一年前か」
「ミゲル・ヒメネス・アルヴァレス」
静かな、けれども有無を言わせぬ声音だった。少年人形の動きが止まる。
「……なんで知ってる。あんたは三十一年前とどう関わってる?」
「直接の関わりはない。だが、市警のミスティック統括官の椅子が空いて、ミスティックへの風当たりが強まった。状況を立て直すために、金も権力も人脈も……その他いろいろな力が必要とされていたから、私が名乗りを上げた」
「見返りは?」
「退屈せずに済むだろう」
退屈。ミゲルは呟き、諦めのため息をついた。退屈しのぎが見返りになるのか。なるのだろう、不死者にとっては。
「不死者を殺せるものをいくつか知っているが、その筆頭が飽きる、倦むことだ。存在意義を見いだせず、生きる目的を定められず、命を絶った同胞を何人も知っている。……そうだな、不死者を殺す方法があるのだから、死霊を消滅させることができても不思議ではないと思ったのだ。だが、死霊に対抗する手段ができたとしても死霊術が不要だとは言えまい。古くから人々のいとなみの一部だったのだし、死と向き合う者に寄り添うのが本質だったのだから」
卿はミゲルをひたと見つめる。
「詳細がわかるまでもう少し時間をくれ」
「わかったよ。流れとして、改案は歓迎されてるのか」
「乗り気なのは治癒術師組合、追従の死霊術師組合、他の魔術組合は戸惑っているようだ。非ミスティックにとっては、死霊の対処法さえ確立していれば関わりのないことだと」
サンドイッチを平らげ、すっかり冷めた紅茶を飲み干して、ユディテはまだ不満げな白い太腿をつねった。
「いてっ」
「拗ねても仕方ないでしょ。いつからそんなに偉くなったの、わたしたちには届かないレベルの話なんだから、黙ってなさいよ」
ミゲルは口を尖らせ、卿は噴き出した。珍しいこともあるものだ。
「いや、すまない。きみの口調があまりにも主任に似ていたから」
「え、そうですか。わたし、あまり似てないと言われてきたんですけど」
「そっくりだった」
とふくれっ面のままミゲルも言うものだから赤面する。母に似ていると言われるのは、父に似ていると言われるよりずっと面映ゆく、抵抗や反感もあった。
母は臆さず意見を口にして、対立する者にも怯まずに信じる道を歩いた。死霊相手に怖じ気づくこともなかったし、のんびり屋で面倒はできるだけ避けて通りたいユディテとは全然違う。
一番近くで見ていたからこそ、正反対の存在を受け入れられたとばかり思っていたのに、母をよく知るふたりに似ていると言われては、認めないわけにはいかなかった。
母にして師。師にして母。母の急死からもうすぐ一年が経つ。ストレスや過労が積み重なっての突然死なのだとすれば、よりよい付き合い方があったのでは、娘として弟子として支えになれていたか、甘えるばかりではなかったかと、遅まきながらの後悔が目と鼻をつんと刺した。咳払いをしてごまかす。
「あのですね、死霊が何か別のものに変質するといった事例をご存じないでしょうか」
「突然だな。どうしてまた」
「ミゲルは死霊ではないような気がするんです。こんな死霊、他に知りません」
「専門家のきみがそう言うなら、そうかもしれない。確かに穏やかだし、話が通じるし、変わり種であるのは間違いないな」
卿はソファに深く腰かけ、腕を組んで目を閉じた。しばしの黙考ののち、いや、と低く答える。
「私の知る限り、死霊は死霊だ。アンナ?」
問われたアンナも首を振る。
「わたくしの
「……そうですか」
「だが、私が知らないから前例がないとも、今後あり得ないとも言えないだろう。観測されていないだけかもしれない。興味深い話ではあるから、こちらでも調べておこう」
「それに関して、三十一年前の捜査資料を拝見したいんですが」
「構わんが、あれは滅入るぞ。ケアを怠らないように」
お願いします、と頭を下げて横目でミゲルを窺うと、渋い表情でそわそわと姿勢を変え、髪に触れ、服を弄り、落ち着かなげにしている。
「ミゲルを調伏すべきでしょうか」
「死霊である限りはね」
「本人の前でそういう話するのやめてくれる? ぼくは調伏されたいんだよ、一応ちゃんと身の程は
「だそうです」
卿は優雅な仕草で肩をすくめた。動画ならスクリーンショット待ったなしだなあ、と感心する。
遠くで九時を報せる時計が鳴った。不死者でも時間を気にするのかとおかしかったが、仕事をしているのだから奇妙でも何でもなく、自分の感覚の芯がぐらついているのを感じる。疲れか、緊張か。
「では、送ろう。ミゲル、躰はどうするね。また出勤前に寄っても構わないが」
「じゃ、借りておきます。ユディ、デートしよう。海にでも行って」
「やだ、寒いもん。風邪ひきたくないし、教授と約束があるし」
またもや卿が噴き出し、ミゲルは半目になってこちらを睨む。なぜだ。
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