第4話 Breathless(3)

 ミゲルはサクヤの連絡先を知って何をするつもりなのか。人形を返却して、ユディテはひとりで自室に転がっていた。見慣れた天井はどこかよそよそしく、落ち着かない。

 何をする、なんて決まっている。会いに行くのだ。そして、精算するのだろう、何もかもを。

 精算。

 思い浮かんだ言葉に寒気がする。どこが始まりで何が終わりなのか、ユディテにはよくわからない。三十一年前にハナを亡くしたことをきっかけにサクヤは死霊術を憎むようになったのか、いや、そもそも憎んでいるのかどうかさえ明らかではない。死霊化テロ、死霊術師、原因はどちらとも考えられる。

 漠然と肌に触れるいやな感じや相容れなさを突き詰めるのは精神衛生上良くないが、卿からの情報だけではサクヤの意図がわからない。どんな事情があろうと斟酌するつもりはないが、治癒術師のうちでも原理的な考え方をする、と弟子に言わしめながら、死霊術との統合をはかり、死霊を調伏ではなく抹消せんとするのはアンバランスだ。

 体は自動的に動いた。

 キッチンでロールキャベツの味をみる。マギーに「ロールキャベツができたよ」と写真つきのメッセージを送り、オーリーに欠勤願いをメールしかけて、止める。だがフリックの指は止まらない。北への飛行機の最終便まであと三時間半、急げば間に合う。空席を押さえてクレジットカード決済を終えるまで五分とかからなかった。

 着替えと化粧品、財布と充電器だけを詰め込んだボストンバッグを助手席に放り込んで、ユディテはまたもアクセルを踏んだ。



「まさか、こんなところまで来るなんて」

「来ちゃいました」


 高層ビルが立ち並ぶ一角に、治癒術師組合本部はあった。死霊術師組合の本部も同じ市内だが、もっと下町のみすぼらしい建物である。エレベーターはなく、足音が不気味に反響する階段室を上ってゆかねばならない。

 抱える魔術師の数からして本部の規模が同じであるはずがないのだが、まさかこんな市内の一等地、国の中枢とも言える区画に本拠を構えているとは思わなかった。

 歴代大統領の名を冠した空港に降り立つや、隣接する航空会社のホテルに転がり込み、大枚をはたいて良質なベッドと朝食を得、乗り慣れぬタクシーで本部ビル前に到着したのが午前九時十五分。

 アポなしの突撃が受付係の心証を悪くしたのは当然だが、二度と関わらぬ相手に何を思われようとも平気だった。サクヤに会えるまでごねるつもりでいたが、ビルに足を踏み入れてから三分と経たずに、当の魔術師長が現れたのだから幸運だった。

 シックな色合いのキモノ姿で出勤したサクヤは、前のめりになっているユディテと目が合うと一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに中央病院で見た平坦な笑みを刻んで奥を指した。


「構わないわ。いらっしゃいな」


 シースルーエレベーターに運ばれた先はビルの三十七階。一見してVIPのためのフロアだとわかる内装であった。

 エレベーターホールからすぐの扉を潜る。師長室、とプレートが掲示されていたから、まさしくサクヤの懐だろう。

 入り口近くのデスクの主は獣人の男性で、はちきれんばかりのスーツから覗く浅黒い肌、虎の耳と尾が凛々しくも逞しかった。秘書と、どうやらボディガードも兼任しているらしい。彼は起立して深々と腰を折る。マギーに比べて密度を感じさせる体つきは、部外者への威圧として十分な役割を果たしていた。

 奥にはガラス張りのスペースがあり、そちらが彼女のデスクのようだった。パソコンモニタが三面置かれ、壁際にはキャビネットと本棚が整然と並ぶ。ここだけでユディテの家の魔法部屋よりはるかに広いのに、部屋のどんつきにはまだ扉がある。無造作に開かれたその奥は照明がなく、暗い。

 近づいてみると、木製の段差が二段、その先にはスライド式の戸があった。段差の前で靴を脱ぐように言われる。歩きやすさだけを考えて履いてきたスニーカーは爪先が黒ずみ、ソックスは薄くなって破れかけという代物で(敵地で靴を脱ぐことなど誰が想像しえただろう)、つやつやしたサクヤの履き物とはまさに雲泥の差だった。

 三秒考えて、靴下ごと脱ぐ。引き開けた戸の向こうは一面のタタミ、さらに奥には庭が広がっていた。映画や旅行のパンフレットで見るような日本庭園である。背の低い木々と石灯籠が配され、川のせせらぎまで聞こえてきて絶句する。

 部屋の中に庭? これは彼女が造らせたのだろうか、それとも、もともと師長室はこの造り?

 説明など期待できるはずもなく、黙って真っ直ぐ伸びた背を追う。素足に感じる木とタタミはひやりと冷たく、不思議な粘りけで体重を支えた。部屋は広くも狭くもない中途半端な板張りの廊下を経て、庭に続く。

 降り注ぐ光は太陽光と見分けがつかない。そこに青空でなく、白い天井が広がっているのが不思議なほどだ。

 庭の植物は東洋のものだろう、馴染みのないものばかりで落ち着かない。小川には小さな橋が架かり、庭の中央、屋根のついた休憩スペースまで平たい石の足場が点々と誘う。

 サクヤは板敷きの部分を目前にした、タタミ部屋の端で足を止めた。平たいクッションが魔法のように現れて、その上に座って、と命じられる。


「楽にして。畳や板間は不慣れでしょう」

「そうさせてもらいます……。あの、立派なお部屋ですね……?」

「前の師長が日本かぶれでね。私はこんなだからキモノが似合うとよく招待されたわ。日本には小さい頃に住んでたきりだけど、こんな部屋見たことないわね。どうせどこかの観光地のコピーよ。こうしてはったりを噛ませるようになったのは良かったけれど」


 はあ、と曖昧な声は静寂に吸われて消えた。ほどなく、秘書がやってきて、茶器一式を置いてゆく。茶菓子は半透明の茶色の塊で、これが噂に聞くヨウカンか、とまじまじ眺めてしまう。秘書のあのごつい手がこんなに小さく切り分けたのかと思うとおかしかった。それとも個包装か。


「どうぞ。作法なんて気にしないで。私もわからないから」

「いただきます。……なんか、その、大変ですね」


 サクヤの眉がぴくりと跳ねた。ふんわりしたことしか言えなくてすみません、と心で詫びて(口に出すと余計に怒られる気がした)茶を啜る。思ったよりも熱くて、舌を火傷した。日本の茶は低温で淹れるのではなかったか。


「……それで、用件は? 何が聞きたいの。それとも言いたい?」

「いくつかあります。統合のことと、リブラファーマのことと、それから……ミゲル・ヒメネス・アルヴァレスのことを」


 両親の姓を連ねた長い名前は呪文のようで、そのまじないが身の護りになってくれることをユディテは願った。何も言わず飛び出して勝手に頼って、彼にとっては迷惑かもしれないけれど、お守りにするくらいは許してほしい。

 なるほど、と赤い唇を歪めたサクヤは不思議と人相が変わって見えた。


「統合の件は、前々からの動きでした。無駄を省くためのね。魔術師が『無駄を省』かなくちゃならない時代なんてどうかと思うけど。べつに、死霊術師組合を潰そうとか、都合良く下に置こうとか、そういう話ではないの。学校でのカリキュラムも変わりません。学部名が変わるだけ」

「でも、統合されたら死霊術の名前が消えるんですよね?」


 庭に向かって座りながらも、整えられた美を鑑賞する余裕はなかった。流れる水も、恐らくは何らかの意味のある木々の配置も、ちっとも良さがわからない。むしろ、治癒術師の長たる者が金銭にものをいわせ、手近な場所に異国の自然を再現して悦に入る悪趣味が相容れない。

 あるべき場所であるべき姿で、すこやかに生きる。よく生き、惜しまれつつ別れ、死後の旅路の安からんことを祈り、進むべき道を見失ったときにその知恵を頼る。治癒術と死霊術ははかなき人生に寄り添い、逸脱せぬよう見守り助ける役目を担っていた。万能ではないからこそ人々に必要とされ、呼び名を変え、役割を変え、連綿と続いてきたいとなみなのだ。

 生き、そして死ぬ、そのシンプルな移ろいを、ひとときの生きざまを尊重することが第一歩ではないのか。


「それを問題視する死霊術師が多いとは聞いています。名称の変更を諮りましょう」


 そういうことではない、と言いかけたが、虚しさが勢いを圧倒した。この完璧に管理された空間で、原始的な生死について語る言葉をユディテは持たない。

 変わりゆくこともまた、必定なのかもしれない。文明が発展し、科学の灯りが闇や神秘までをもあまねく照らす今、人々の暮らしも激変した。ならば死霊術師、治癒術師のありようも変わる。自分に言い聞かせて、手のひらの汗をデニムで拭った。


「それから、ミゲルね。あいつは、ねえさんの仇なの」


 サクヤの声が掠れるとともに、違和感が横っ面をひっぱたいた。ねえさん? 死んだのは妹のハナだ。


「知らなかった? 三十一年前、死霊化テロで死んだのがどっちか。いいえ、どっちだっていいの。私たちはふたりでひとりだった。……ちょうどいい、あの愚かな死霊術師の指の骨がどうなったか、教えて頂戴。面白いことになってるのよね? 知らないなんて言わないでね、研修生からちゃあんと報告をもらってます。不自然に菜園を避けていたとね。それから、メリッサ・ハンバードの杖のこともあるし」


 夏の事件にも治癒術師組合が関わっていたのか。疑問が顔に出たのだろう、サクヤが上品に肩をすくめた。


「リブラファーマが死霊を消滅させるガスの試験をね、しましょうと言い出して。舞台を整えてくれたはいいのだけど、現場に同行したら顔を見られちゃったのよ、あのベテランに。焦らないで人を遣るべきだった。しくったわ」


 そんなことでメリッサを? 立ち上がろうとしたが叶わなかった。膝に力が入らない。


「警戒もせずに出されたものを食べちゃう、その図太さと呑気さ、あの女にそっくり」

「ち、違、わたしは」

「大丈夫、ここには医療施設もあるから。死んだりしない、安心して。帰してあげないと、これまでの無鉄砲な痕跡はどうしたって消せないでしょう」


 サクヤの手がユディテの鞄をまさぐり、スマートフォンを池に投げ捨てた。買い換えたばっかりなのに! 悲鳴は言葉にならない。

 秘書の獣人が再びやってきて、丸太を運ぶかのように無造作にユディテを担ぎ上げる。


「話したいことも、聞きたいこともたくさんあるの。それはお互い様だと思うけど」

「なら、薬を盛るなんてしなきゃいい。こっちの心証は最悪ですよ」


 細い眉の下、黒い眼が細まる。


「誰が、いつ、対等にお話ししましょうなんて言ったかしら?」

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