第4話 Breathless(2)

 ユディテが上の空だと気づいただろうに、教授は普段通りの微笑を浮かべ、ホットレモネードと決済用のタブレット端末を机に置いて、隣に腰を下ろした。

 ミゲルには留守番を頼んでいる。怒っているだろうか。お土産に本でも買って帰ろうか。


「今日は二単位。さすがにこの季節は落ち着いているようだ」


 いつもならシャワーを浴びている間に魔力ファンタズマ採取用のバッグはバックヤードに下げられているのだが、手違いがあったのか、自動人形が回収にやって来た。


「あれ、そのバッグ、いつもと違いますね」

「ああ、これ。バンク側の都合で、別のメーカーのものに変わったんだ」


 そうなんですか、と曖昧に頷く。教授のもとに通うようになってもうすぐ十年、カップやソーサー類も適宜入れ替えが行われているのだろうし、壁の書棚に収まったたくさんの書物も、ユディテの知らぬうちに移り変わっているはずだ。いついかなる時でも「教授」らしく見えるように。だが、備品の変化に気づいたのは初めてだった。

 教授は珍しく逡巡を浮かべていて、それでもユディテの視線に気づくと淡く笑んだ。


「実は、少し引っかかりもあってね」

「聞かせてください」


 身を乗り出し気味にしてしまったのは、予感があったためか。何の、と訊かれても言葉にはならないけれども。


「これまでのバッグに欠陥があったとか、素材の供給不足とか、そういう理由での変更ではない。治癒術師組合のプッシュがあって、製薬会社のリブラファーマが開発した製品に切り替えたというんだ」

「どうしてここで治癒術師組合の名前が出るんです? そういうのって、入札で決まるものだと思ってました。前のメーカーさんはそれじゃ納得できないでしょう」

「そうだろうな。だが実際のところ、メーカーは沈黙しているし、魔力バッグだけじゃなく、治癒術師組合はリブラファーマ製品を推しているらしい。もちろん医薬品も。リブラは先発品を多く販売している大手だが、価格では当然ジェネリックにかなわない。治癒術師組合と協力することで院内処方のシェアを狙っていくようだ」


 治癒術との相性が良いと売り出したなら、通りそうな話ではある。だが、敵は増える。これまで製薬会社と医師との話だったところへ治癒術師がしゃしゃり出るのだから、いい顔をしない者も多いに違いない。


「製薬会社と手を組んで、治癒術師組合には何の得があるんですか。お金?」

「問題はそこだ。何の利益にもならないことを組合が推し進めるはずがない。新しい魔術師長グランドマスターは原理派の過激な方だから、力ずくで改革を進めてゆくのかもしれない。ここもまったくの無関係ではないから、できれば穏便にお願いしたいが」


 頭の中で警報が鳴り響いた。新しい魔術師長。原理派の過激な方。


「あのう、もしかしてそれって、ここの……」

「そう。中央病院のサクヤ・ニノエ」


 やっぱり。やっぱりだ。やっぱりそうだ。言いようのない焦りと後悔と無力感に頭を抱える。魔術師長が変わったのなら本部から連絡の一つくらいあってもおかしくないが、また下らない口先だけのお知らせと激励だろうとここ最近、メールを読まずに捨てていた。見逃していたのであれば泣くしかない。


「サクヤは悪さをするタイプではないんだが、思い込みの激しいところはなかなか変わらないね。変に熱くなっていないといいが」

「サクヤ先生のこと、ご存じなんですか?」


 懐かしむ口調に思わず尋ねる。教授が誰かについて語るのはおよそ初めてのことだった。


「僕も長くこの街にいるからね。整流師の職を広めたのは治癒術師だし、さっきも言ったとおりまったくの無関係ではないんだ。……そうだな、もともと優等生気質だったけれど、テロでハナを亡くしてから、人が変わったように厳格に、いっそ過激になってしまった。ああ、ハナというのは」

「妹さんですよね、双子の。母がハナさんと同期で……」


 彼は目を細め、ユディテの唇に人差し指を押し当てた。


「どうやら、事態はずいぶんややこしいようだ。根が深いかもしれないし、治癒術師組合の出方によってはここに立ち入るのも危険になる。そんな顔をしないでくれ、きみの魔力もつれは放っておけない。困ったときは電話を。できる限り力になるから」


 プライベートの電話番号が記された名刺を押しつけられては頷くしかない。金色の眼は冗談で済ませられないほどの険しさを帯びていた。


「どうしてそんなに良くしてくださるんですか。わたしはただの客で」

「僕の生徒だからに決まっている。僕の役目はここにやって来る生徒たちを迎えることだからね。……またいつでもおいで」


 ユディテは教授の本名を初めて知った。ルーカス・コールハース。派手な名前でないところが彼らしい。



 天気が良かったので、庭で遅い昼食を広げた。セバスチャンがクレープを焼いてくれたのだ。

 コンビーフとグリーンリーフ、スモークサーモンとクリームチーズとアボカドの二種類と、それから香ばしくて甘いオニオンスープ。お腹を満たす間、ミゲルは膝を抱えて恨めしげにこちらを窺っていた。


「そのセーリューシってどんなやつなの。淫魔って以外で」

「教授? ナイスミドルのすてきなおじさま」

「そっち系かー」

「マギーが言うには、パパコンなんだって」


 ああ、と歯切れの悪い同意を漏らして、ふいと視線を逸らしてしまう。


「ミゲルはお父さんのこと、知ってるんだ」


 頷いた彼にさらなる質問を重ねるのは酷だろう。好きな人と他の男性が結ばれて、その娘の成長を見守るのはどんな気分かと想像するが、ぴんと来なかった。

 教授のおかげで体は楽だが、どうにも気が晴れない。魔力バッグのことを話すべきだろうか。治癒術師組合が、サクヤが製薬会社を抱き込んで何か企んでいると。いやな予感がすると。

 製薬会社なら化学にも強かろう。死霊を消すガスを作れるだろうか。サクヤの言う「管理」を可能にするだろうか。彼女の意図はどこに焦点を結んでいるのだろう。ガスはミゲルを消し去るだろうか、死霊術師が担ってきた役目とともに。

 判断がつかずに、ユディテは髪をぐしゃぐしゃかき回した。まだるっこしいのは嫌いだ。みんな仲良くしましょう、が最善だとも、それが可能だとも思わないが、こんな形で首を絞められてゆくのは我慢ならない。


「出かける」

「えっ、どこへ」

「そこまで」


 車のキーと財布を掴んで、アクセルを踏んだ。ぎりぎりのタイミングで助手席に滑り込んできたミゲルがシートベルトを締めるのを確認せぬままに大通りへ出て、十分ほどの距離にあるマーケットへ駆け込む。

 鶏挽き肉、キャベツ、トマト、マッシュルーム。玉葱とオレガノ、ローリエは家にある。


「待ってよ、ユディ!」


 待たない。ずしりと重い買い物袋を後部座席に放り投げて、ユディテは再びアクセルを踏み、家に戻るなりキッチンへ向かった。手を洗って袖を捲って、深呼吸を一つ。

 ペティナイフでキャベツの芯を抉り、大きなボウルに水を張って葉をはがした。寸胴鍋に湯を沸かし、芯が透き通るまで茹でてざるに上げ、冷ます間に玉葱を刻む。丁寧に、細かく、均一に、執拗に。

 もうひとつの玉葱は粗みじんに切って厚手の鍋で炒める。油が回ったら三ミリ厚にスライスしたマッシュルームを加えて炒め、湯剥きしたトマトをざっくり切って加え、トマトジュースと塩を足してソースの下地をつくった。野菜類の用意ができてから、挽き肉に取りかかる。

 塩胡椒、オレガノ、ナツメグ、卵、パン粉、牛乳。みじん切りの炒め玉葱とともに力を込めて練った。

 恨みも、怒りも、冷たい肉が吸い込んで、頭がクリアになってゆく。これまでに何度、挽き肉や玉葱、キャベツ、小麦粉、卵や生クリームに助けられただろうか。

 料理を教えてくれたのはセバスチャンだ。引っ越してきたばかりの頃、手持ち無沙汰にキッチンを覗き込んだ小さなユディテは、骸骨執事の無駄のない所作に見入った。背後から見つめるばかりだったのが、いつしか包丁や泡立て器を握っており、生地を捏ね、立ち回るうちに気持ちが穏やかになることを知った。

 セバスチャンが預かっていた台所仕事を手伝うようになり、食べることと同じくらいに作ることにも熱中した。調理中のフラットな心持ちが好きだったし、試行錯誤のうちに上達が目に見えるのも楽しかった。手をかければ応えてくれる喜びを知り、畑の世話も怠らなかった。

 パンを捏ね、野菜を刻み、芋を潰し、カボチャを裏漉しした。食べたいものは一通り作れるようになって、母にも、母の弟子たちにも喜んでもらえて、マギーやライアンと集まって飲み食いするのが楽しみになった。

 手垢のついた言い方だが、ユディテにとって調理すること、食べることは、すなわち生きることだったのだ。文字通り以上の意味で。

 あのときキッチンを覗かなければ、セバスチャンに怖じ気づいていれば、遠慮して包丁を取らなければ、何もかもが違っていただろう。作らなければ食べることに興味を持たなかっただろうし、マギーやライアンとも親しくつきあうことはなかっただろう。

 菜園にも興味を抱かず、すべての野菜を買っていれば――ミゲルはどうなっていただろうか。あの場所にひっそりと留まっていたのか、それとも何かの理由をつけて声をかけてきただろうか。

 ひとが生きるには、他の命を、死を食べねばならない。素朴にして絶対の真理は、ユディテにはごく自然なことに思えたから、「食べる」と「生きる」を近しい場所に置くことに抵抗はなかった。作る楽しみと食べる喜びを散りばめた人生を歩むと決めた。

 とっちらかった思考に振り回されても、手はきちんと手順通りに動いていた。気づけば肉だねはキャベツに包まれ、ル・クルーゼの中に整列してソースが煮立つのに合わせてゆらゆら揺れており、調理台はすっきり片づいて、びしょ濡れの手でタオルを握りしめていた。


「ユディ、ちょっと座れ」


 ミゲルに手を引かれ、スツールに座らされる。腰を下ろすと、何かがどっと下半身に落ちてゆくのがわかった。疲れていたのだと今さらながらの理解が後を追いかけてゆくのを、目を閉じ、背を丸めて待った。

 滑らかな指先が板チョコをひとかけ、口に押し込む。舐め溶かすうちに、ざわめいていた頭の中がようやっと鎮まった。

 膝の上で震える手を、人形の手のひらが包んでいる。ミゲルの腕が首に回り、肩口に額が押しつけられて心臓が跳ねた。


「ごめんね。ぼくのことで何か困ってるんだろ」

「別に、そういうのじゃないけど」

「ハーレも嘘つくときはそんなだった。イライラしたり、混乱したり、困ってたりするとともかく手を動かしてさ。あいつはきみと違って不器用だったから、ひたすら庭の雑草をむしってたよ」


 少年人形は婉然と笑んだ。あのさ、と続ける。呼吸など必要ないくせに、声とともにかすかな吐息を感じるのはどういうわけだ。そんなリアリティはいらない。もっと愛想のない、まったき入れ物――マネキンのようであればよかった。

 喋らず笑わず、ユディ、などとやさしく親しげに呼ぶのでなければ、遠慮も同情もなくサクヤのもとへ引きずっていって、ご立派な毒ガスとやらで存在を消し去れただろうに。何の躊躇も逡巡もなく、一秒でも早い消滅を願っただろうに。


「泣かないで。大丈夫だよ、ユディが負担に思うことはない。面倒なのは本当に申し訳ないんだけどさ……ね、サクヤの連絡先、わかる?」

「サクヤ先生の? どうして」

「旧交を温めようかなって」


 うそつきはどっちだ。教えない、と口をつぐんでも彼はにやにや笑うばかり。何を企んでいるのか、と問い詰めたいのに嗚咽がそれを許さない。

 ロールキャベツがくつくつと煮える音と換気ファンの低音だけが存在感を主張するキッチンで、ユディテとミゲルは呼び鈴が鳴るまで黙って身を寄せ合っていた。

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