第1話 Nameless(3)

 一日働いて騒げば、さすがに疲れる。マギーとライアンを見送ったあと、シャワーを浴びてからの記憶がない。時計を見ればいつも通り五時、体が動くのに任せて起き上がり、畑の水遣りに行ったらやつがいた。死霊である。


「やあ、おはよう」


 やけに馴れ馴れしいのが不愉快だ。

 一昨日、H.Hの杖の持ち主、ヘクトル・ホーキンス氏の降霊により、氏が彼の妻キャサリンに撲殺されたと確定した。彼女は、夫を西の山に埋め、カムフラージュのために失踪届を出した、杖は街中で適当に捨てたと自供し、降って湧いた事件にしてはスムーズに終息したが、発見された遺体に死霊封じを施して、三時間の残業を含めた勤務を終えたときには真夜中だった。

 行き過ぎた完璧主義からの家庭内暴力、他の家族へも同様の行為がある、とヘクトルの訴えを文字に起こすだけで気が滅入る事件だったので、急遽マギーとライアンに来てもらってどうにか持ち直したのだが、このとんでもない存在のことを完全に失念していたおのれの無能さを恨むしかない。


「早いね。昨日はずいぶん頑張ってたみたいだけど、大丈夫? 仕事も忙しいんだろ、疲れてるんじゃない? ため込みすぎないうちに吐き出しなよ。ぼくで良ければ、話を聞くよ? なんなら、きみの先生を降ろしたらどう」


 と、ゆらゆら蠢きながら禍々しさ全開で言うものだから、背筋が粟立つ。空っぽの胃が裏返って出てきそうだ。だいたい、魔術ストレスのガス抜きのために死霊(しかも師匠の!)を降ろすなんて罰当たりなこと、考えたこともなかった。


「使わなきゃ。便利に愉快に生きるための死霊術じゃないか」


 死霊の言葉には笑みが浮いている。自分だって死霊のくせに、死者の尊厳を重んじることには考えが至らないらしい。自分が使役されるとは露ほども思っていないのだろう、絶対強者の傲慢に罵詈雑言が百ほども浮かぶが、相手にしてはいけないと、理性のオブラートに包んで飲み下した。


「何が望みなの。ここからの解放? 自由に動くための入れ物?」

「そりゃあそうだけど。でも、叶いっこない。ちょっとだけ、先っちょだけだからってお願いしたら、きみ、囓らせてくれる? そんなわけないだろ」

「そんなわけないね」


 死霊は嘘をつかない。つけないのかつかないのかは定かではないが、死霊の言葉は常に真実だ。だからこそ司法の証拠としても通用する。

 目前の死霊の集合体がどうして明瞭な意識を、自我を持つようになったのか、こんなに高度な会話が可能であるのか、わからないことは山ほどある。そもそも、代々の死霊術師たちが調伏しようと試みなかったはずがない。死霊術師の菜園に死霊が憑くなんて、冗談にもならないではないか。それでもなお存在している、それが答えだった。

 何らかの器に憑依すれば移動も可能になるのかもしれないが、そこいらの死霊がヒトや動物に憑くのとは事情が異なる。肉体の方がこの悪意、毒の強さに耐えかねて損壊するのは目に見えていた。

 そして霧は壊した肉体の分だけ強さを増す。そんな見境のない粉砕機に指を突っ込むほど愚かではない。この死霊は単なる霧ではない、極めてたちの悪い、致死性の毒霧なのだ。


「信じられないかもしれないけど」


 と黒い霧は言った。

 ミスティックを理解しようとしない人間もいるにはいて、発声器官がないのに霊体が喋るなんて馬鹿げているとか、トリックだとか様々に言い立てているが、ミスティックが人間の常識に縛られるはずがない。そもそも自分たちの理解の外にあるものを総称してミスティックと呼ばわっているのに、ナンセンスすぎる。


「ぼくはきみの敵じゃないよ、ユディテ。危害を加えるつもりはない」


 名前まで知られているのかと目眩がした。いいや、長く居着いているのならそんなこともあるだろう、ふらつく脚を叱咤する。


「きみはひとりぼっちだ。死霊術師がひとりきりで生活することは推奨されていない」

「知ってる」


 死霊術の教本にも「死霊術師を長く続けるために」として実例を挙げて切々と書かれているし、研修中にも、組合の魔術師たちにも何度となく諭されたことだ。マギーもワイゼルマイヤーも心配してくれている。セバスチャンでは話し相手にならないから、と。


「じゃあ、きみの師匠がぼくに『王様の耳はロバの耳』してたのは知ってる? 誰にも言えないことを打ち明けてたんだよ。ゴミに過ぎなかったものが意識を……」


 得意げに話していた死霊がふと言葉を切った。静謐にして豪奢な気配に振り返れば、秘書の自動人形アンナが差しかける日傘の下に、ワイゼルマイヤーの長身があった。仕事帰りだとすれば早い時間だ。慌てて一礼する。


「それかね、死霊とやらは」

「……はい、そうです」


 卿は十分な距離をおいて黒い霧を眺めた。サングラスの下、血濡れの眼に浮かんだ警戒の色がやがて薄まり、消える。死霊は風に揺らぎながらも卿の視線を受け止めていた。

 存在そのものが放つ不吉さ、忌避感、肌を刺す危機感や恐怖は変わらないが、不死者に対して積極的な害意を見せるほど考えなしではないらしい。

 ワイゼルマイヤーの圧倒的な存在感と有無を言わせぬ王者のたたずまいは、白んだ空の下、朝陽の中であっても何ら綻びることはなかった。


「かなりこんがらがった存在のようだ。言葉を選ばずに言うなら『やばい』な。ユディテ、きみは手を出してはならない、絶対に。当然だが、器となりうる血肉を与えることも厳禁だ。だが、それ以外……たとえば穏便にお喋りするくらいならば構わないのではないかな。どうやら彼はずいぶん紳士的なようだから。……おっと、挨拶が遅れたね。私はアルブレヒト・ワイゼルマイヤー。市警のミスティック統括官だ。先代にはお世話になった」

「どうも。あなたのことはハーレから聞いてます。凄腕だって」


 不意打ちで転がり出た師匠の名に、心臓が跳ねた。「王様の耳は」といい、親しげに名を呼んだことといい、遠慮のない間柄だったのかもしれない。それなのに、師からは何も聞かされていなかったのが改めてショックだった。


「主任が私をそんなふうに? 光栄だな。要領が良いふうに装えるのは、年の功だがね」


 ぞんざいな死霊の口ぶりといい、卿の返答といい、社交辞令の最たるものであったが、驚いたことに死霊はその一部を伸ばして握手を求める仕草をした。卿も菜園に歩み寄り、手袋に包まれた手を伸べる。霧に触れるか触れないかのところで動きが止まった。

 もしも霧が卿の手袋に触れれば、手袋は傷み破れただろう。夜も明けたこの時間に、不死者のはだを露出させるのは紛れもない敵対行為だ。それを、かれは避けた。

 ユディテは奇妙な光景にしばし見入り、卿が言った「紳士的」とはどういう意味かと考えを巡らせるうち、自分がくたびれたパジャマにパーカーを引っかけただけの格好であることに気づいて気絶したくなった。

 おまけに、紛うことなきすっぴんだ。雇用主の前でこれは大問題だ、社会的信用問題だ。基礎的な幻覚魔術の心得はあるから、眉毛の一本や二本を整えるのは容易い。気づくのが遅すぎただけで。


「何か異変があればすぐに連絡を。いいね、ユディテ。これはアルブレヒト個人としてのお願いだ。……きみにも言っておく。ユディテは友人の大切な弟子だ。私には、きみを調伏する以外のあらゆることが可能だと覚えておいてくれたまえ」

「もちろん、存じてますよ。不死者に喧嘩を売るほど馬鹿じゃありません。死ぬよりも酷い目に遭うに決まってる」


 体があれば肩をすくめたことだろう。そんな調子で死霊は伸ばした手を引っ込めた。


「死ぬよりも酷い目、ね。私には想像がつかないな。……では、おやすみ、ユディテ。よい一日を」

「……ありがとうございます。おやすみなさい」


 ワイゼルマイヤーは悠然と死霊に背を向け、一連のやり取りにも無表情を崩さぬ自動人形を従えて去った。最新型のFCV燃料電池車のエンジンは朝の静けさを乱さない。アンナの運転は完璧だった。


「なんであんな規格外の不死者が警察にいるんだよ。道楽か」

「知るわけないでしょ。でも、三十一年前の死霊化テロで当時のミスティック統括官が殉職なさって、その空いたポストに警察とは無関係だった卿が収まったって。だから、相当なんじゃない? 卿がいるからこの町ではミスティック絡みの事件が少ないって言われてるし、検挙率も高いし」

「あれか……。ミスティック絡みの事件は少ないかもしれないけど、死霊化テロは狙ったみたいに起きてるだろ。三十一年前もだけど、二年前も」


 死霊は忌ま忌ましげに吐き捨てた。まったくその通りなのだが、卿を侮辱されたように思えて腹が立つ。おまえが関わっているのではと罵りかけて、その時ようやく、卿が紳士的だと言った意味が理解できた。

 呼吸に支障がない。衣服も皮膚も無事だ。菜園の野菜の生育に問題がない。これまでもなかった。

 つまり、この毒霧は無害であるよう自身をコントロールしている。手段も理由も不明ながら、無差別に害をなさぬよういるのだ。

 死霊を恐ろしく、忌避すべきものと感じるのは生物としての本能だ。屍に由来する思念が絡み合った霊体が死霊で、生とは真逆のベクトルだからだ。それを定義する言葉が「死」で、不可避的に「負」「悪」「害」が付随する。しかし、不可分ではない。

 だとすればそれを成し遂げるのはかれの意思以外になかった。極めて強固、盤石にして揺るぎない透徹した自我だ。

 なるほど、紳士とはうまく言う。さすが卿だ。


「さっきあなたは敵ではないと言ったけど、じゃあ何?」

「さあ。でもさ、仲良くやってきたいとは思ってるんだよ。互恵関係っていうの? きみは死霊術師だし、うまく使ってくれればいい。話し相手になってくれるならぼくの退屈も紛れるし。そもそも、きみはここの野菜を……ぼくを食べて生きてるんだしさ、何かするつもりがあるならとっくにしてる」


 死霊混じりの野菜を食べるだなんて、想像するだけで胃が縮みそうだが、事実として師たちがここに捨ててきたものを養分に野菜と死霊が育ち、日々それを口にしているのだから、何ひとつ否定はできない。

 ワイゼルマイヤーに釘を刺されるまでもなく、駆け出しのユディテがかれほどの強大な死霊を効果的に、効率的に使役することはできない。けれども、菜園から動けないかれを「敵ではない」ポジションに置いておくのはとても重要である気がした。セバスチャンも警戒していないようだし、敵対しない、干渉しないと厳密な一線を引けるのであれば。

 弱気と臆病、打算と呑気が計算機を叩く。結果は「あとひと押し」。


「名前はあるの」


 行儀良く結論を待っていた死霊に尋ねる。かれはするりと細まり複雑に絡まって、そのさまはまるで腕と脚を組んでいるかのようだった。そう見せているのが自分自身の脳天気な想像力だとしても、かれの歩み寄りを信じるべきではないかと思い始めていた。あのワイゼルマイヤーのお墨付きもある。

 何より、死霊は嘘がつけない。敵ではないと言った以上、それは本当のことなのだ。敵ではないが味方でもない、ということは十分に考えられるけれども。


「好きに呼んでくれていい」


 はいともいいえとも答えなかったのは、嘘につながる回答を避けたかったからに違いない。この物騒な同居人に名前を与えることに否やはなかった。呼び名がないのは不便だ。


「じゃあ、ミカエル」

「……最低のセンスだ」


 かれは傍目にも動揺していて、いくぶんか薄らいでいるふうにも見える。伏せた本名(本名?)に掠っているのかもしれない。ようやく、一矢報いたか。

 晴れやかな気分で菜園を見渡す。きゅうり、トマト、ピーマンにオクラ。夏野菜の植え付けはまだ間に合うだろうか。朝ごはんを食べたら、苗を買いに行こう。

 死霊は菜園に縛られて現世をたゆたい、ユディテは菜園の野菜を食べて生きている。

 世界はなんと大きくて、小さいものだろうか。

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