第2話 Doubtless
第2話 Doubtless(1)
「お疲れのようだ」
勧められるまま、紅茶に口をつける。カップも茶葉も銘柄の見当さえつかないが、最高級のものだとはわかる。そうでないものは供されないし、彼のお眼鏡にかなうこともない。
背の高い本棚が窓と扉以外の壁を埋め尽くしており、窓は深い緑色のカーテンに隠されていた。高い場所の本を取るための踏み台がいくつか置かれているが、どれにも本が積み上がっていて、本来の役目を忘れて久しいようだ。黄色い灯りのせいか、それとも適度な弾力を保つ来客用ソファのせいか、大量の本に囲まれていても圧迫感はない。
手前の応接スペースこそ小綺麗だが、奥のデスクには本の山がいくつもそびえているありさまで、教授の書斎はまったく居心地の良い穴蔵だった。仕事も家事も気にせず、この部屋に籠もって本を読み耽ることができたなら、どんなにか幸せだろう。
教授が実際にこれらの書物に目を通したのかは知らないし、どっちだっていい。重要なのは、彼がこの書斎の主に相応しい貫禄と落ち着きを備えた姿でいることと、「教授」の名が示すとおりの包容力と知性でもってもつれを解いてくれることなのだから。
広い屋敷にはいくつものプレイルームがあるから、書斎(に見える部屋)もここだけではなかろうし、他の部屋を使う客は彼を教授とは呼ばないかもしれない。客人たちはそれぞれに好みの部屋で教授と語らい、叱られ、諭され、導かれ、お仕置きされ、睦み合って過ごす。
ユディテは彼に教授たることを求め、彼は是と言った。それだけの関係だ。
「ずいぶんもつれてしまっている。仕事が忙しいのかな」
「はい……あ、いいえ、そういうわけでは」
教授は眼鏡の奥で微笑し、隣に腰を下ろした。教師と教え子、との
本当はもう、教え導かれる立場ではないのに。いつまでわたしは手を変え品を変え、誰かに甘え続けるのだろう。
「遠慮しなくていい。ふたりきりだよ、ユディテ。……もちろん、話せないことは話さなくたっていい」
それとも、と教授の艶めいた声が耳を舐めてゆく。
「もっと別のやり方がいいかね。……ほら、こんなにもつれさせて。きみはもつれやすい体質のようだから、できれば頻繁に解いたほうが良いのだけれど」
肩に回された腕に抱き寄せられる。骨張った長い指が頬を、耳を、顎を撫で、髪先に絡むたび、ひりつくような甘い痺れとともにつかえていたものが解けてゆくのがわかる。大きなため息がこぼれた。
整流師は免許制の医療者であるから、ミスティックにとってはまさに医療行為なのだ。
「また頑張りすぎているんだろう。背負い込むのはやめなさいとあれほど言っているのに、僕の言うことが聞けないのかな」
「ご、ごめんなさい、せんせ……っ」
「悪い子にはお仕置きをしなくてはね」
教授の舌が首筋を這う。許しを乞う声は愉悦とさらなる官能の期待に濡れ、掠れた。
「それとも、お仕置きされたかったのかな」
膝丈のプリーツスカートは灰色のブロックチェック柄。清楚な襞の内側に華やかなレースが秘められていることを、彼は知り尽くしている。
少女の頃の恥じらいなどとうに捨てた。教授の書斎という書き割りで、淫らな生徒役を与えられたユディテはどこまでも忠実にそれを演じ、教授は全てを包み込んで、赦す。
シャワーを浴びて書斎に戻ると、レモンの輪切りが浮かんだジンジャーエールが用意されていた。辛めの、すっきりした味わいが気に入っている。舌に感じるかすかなスパイスからして、恐らく自家製だ。
タブレット端末に目を落とす教授は、最初にこの部屋を訪れたときと変わらぬぱりっとした様子で、痴態の名残はどこにもない。
再び、勧められてソファに落ち着く。プレイルームを非日常と位置づけたい利用者もいるだろうが、時間に追われて退出するのが嫌で、ユディテは最後の三十分で世間話をすると決めていた。教授は魔力の状態から健康状態を見るプロでもあるし、時間内は「教授」の態度を崩さない彼の隣にいるのは落ち着く。つくづく甘いと思うが、それさえも彼は許してくれるのだった。ここにいる間は、と。
「今日も特に異常はないようだ。採取量は五単位」
「多いですね。夏だからでしょうか」
「それもあるだろう。皆、持て余しているようだよ」
解され、流れの良くなった魔力は余剰分を採取される。魔力切れで倒れたミスティックへ提供されるためだ。魔力バンクへ送られラベリングされたのち、病院や救急隊、公共施設の救護室などで備蓄される。一方、提供者は採取量に応じてプレイルーム利用料の割り引きがある。教授曰く、ユディテの魔力は「レモネードのように軽やかで爽やか。くせがなくて上質」だそうだ。
「夏の間はみな浮ついているし、十分に気をつけたまえ」
「毎年言われてる気がします」
「それが僕の役目だからね。きみの魔力には抗いがたい魅力があるんだ。甘露、と言うのかな。……心配しているんだよ、本当に。まめに来てくれると安心する」
眼鏡の奥、金色の眼が笑みを刻む。リップサービスではないよ、と彼は決済画面を示した。署名して、時間を告げに来たお仕着せ姿の自動人形に見送られ、館を後にする。西日がアスファルトを容赦なく灼きつける中を、日陰を選びながら駐車場まで走った。
トマトの赤、なすの紫、実る緑の野菜。菜園では夏野菜が色鮮やかに収穫を待っている。食べる口がないので、できあがったものはご近所や職場にお裾分けするほか、加工して長く保存しておくのが常だった。
ジャム、ピクルス、マリネ、スープ、ソース、炒めて塩胡椒したものをオープンオムレツやキッシュの具に。ご近所の奥様だけでなく、教授やマギー、ライアンもできあがりを心待ちにしてくれている。
マギーには保存の利くものや調理済みのおかずの形で届けた。市街地の単身者用アパートに住まう彼女は交友関係が華やかで、勤務が安定しないことから自炊の機会がほとんどない。
額や顎ににきびを作っては暴飲暴食を悔やんで涙ながらに嗜好品を断ち、治ったと見るや期間限定のピザをデリバリーし、新発売のチョコバーにかぶりつく煩悩のループから抜け出せない彼女は、ユディテの手料理をいつも喜んでくれる。
部屋はたくさん空いてるし、うちで一緒に住む? 冗談交じりに提案したこともあるが、マギーは煩悶と逡巡ののち「署のそばに住むのが楽だから」と、苦渋の決断ですと顔に大書きして答えたものだ。
夏になってミスティック絡みの事件が増え、マギーは忙しくしている。卿は涼しげな態度を崩さないが、強い陽射しと事件の増加にうんざりしているのはユディテにも感じられた。
ミスティックの魂とも言うべき
太陽活動は科学的に観測・記録されているが魔力を測定する機器は存在せず、社会問題であり続けた。科学と理論で説明し得ぬものがミスティックゆえに、現代においても議論は決着を見ないままである。
睨んだ睨まれたの喧嘩から強盗殺人まで、ミスティックの荒ぶる夏は暴力と犯罪に支配される。現場に駆り出される捜査員たちがとばっちりを受けることも多く、救急も病院もフル回転なのだと伝え聞いた。確かに、緊急車両のサイレンの頻度がずいぶん増えたし、ユディテ自身、魔力もつれ由来の疲労が重い。
センダード市死霊術師組合、つまりユディテの住まいに居着いている強力な死霊、悪霊、毒霧、不定形の悪意ことミカエルも当然ながら、太陽の影響を受けて勢力を拡大している。菜園に施された結界が保っているのは先人たちの技術の粋か、それともかれの遠慮か。
朝、電気ポットのスイッチを入れてから庭に出ると、骸骨執事のセバスチャンが優雅な仕草で水遣りをしていた。おはようと声をかけ、菜園に回る。
ミスティックの荒ぶる魔力とは何の関係もなく、夏野菜たちは毎日たわわに実る。野菜をもいでいる間、ミカエルは黙っていた。珍しいことだ。たいていは挨拶と、空が澄んでいるとか、雲がくじらに見えるとか、他愛もないお喋りをするのだが。初めて姿を見たあの春の日から二ヶ月半、親密になってはいないが、かれの存在には慣れた。
致死性の毒霧、己の力が通用しない死霊に慣れるだなんて、つくづく恐ろしい。
「おはよう、ミカエル」
「……おはよう」
声は不機嫌だ。姿は見えないままで、どこか具合が悪いのかと喉元まで出た言葉を飲み下す。死霊に対し、具合が悪いも何もあったものではなかろう。
「淫魔の臭いがする」
「整流師さんにかかったからじゃない?」
「セーリューシ」
整流師を知らないのが驚きだった。魔力もつれを治してくれるのだと説明しても、まだ不満げである。
「へえ、今はそれが商売になるのか。しかも淫魔が? だいたい、魔力をいじるってことは、その……まあ、確かにきみはもつれがちではあるけど……。ストレスをためるのがよくないんじゃないか」
「庭に死霊がいるっていうのが大きくて」
「違いない」
夏だから、の一言が下敷きになっているのは言わずもがなである。
「だからさ、進んできみを傷つける意図がないのは本当だし、この暮らしにそれなりの愛着もある。一応は味方だって言っただろ、ユディ。守秘義務に触れない程度に話ができるとぼくも暇潰しになるし、きみのストレスもいくらかは軽減するんじゃないかと思うな」
死霊に嘘の概念はない。嘘をつくのは生者だけだ。「一応は」と宣言しているのもかれなりの誠意だろう。けれどもミカエルとの会話は、かれに情報を与えることと同じだ。何を好むか、何を疎んじるか、何を重んじるか、そういった価値観を知られるのは恐ろしい。
嘘などつかずとも、この場から動けずとも、嗜好や考え方の癖、偏見を巧みに組み合わせ、話術で織り上げればユディテが自ら毒霧に飛び込んでゆくよう仕向けることだって可能だろう。死霊からの魔法的、物理的接触は防げても、心理操作を防ぐ手立てはない。そのためにはコミュニケーションを断つのがいちばんだ。
ユディテは死霊術師として、死霊を、死体を、信じている。正しい術式によって彼らを招き、使役する限り――己の術が及ぶ限り、死者は良きパートナーだ。生前の知識をもたらし、秘められた言葉を告げ、過去の記憶を再現する、唯一無二の存在。それは自身の技量への信頼でもある。
しかし目前の死霊の集合体は、到底力の及ばぬ存在で、目的も存在意義も不明ときている。確かに紳士的で、話は通じている。けれども通じたと思えるのはユディテの感覚だ。人は見たいようにしか見ないものだから。
この毒霧は駆け出しの死霊術師に捉えきれる存在ではない。その前提を失念しては、たちどころにして死の接吻を受けることだろう。
「警戒したくなる気持ちもわかるし、どれだけ害意はないと言っても、ぼくには証明する手段がないからねえ。でもさ、きみが何も知らずにせっせと畑の手入れをできてたことが何よりの証拠じゃないかな」
かれが理知的で、温和な性格であることは十分に承知している。小鳥や昆虫に至るまで、無益な殺傷をしているところを見たことがない。そして、霧を構成する多数の死霊のうちでも「ミカエル」がひときわ強く、その他の死霊、悪霊の集合体を束ねており、かれがひどく人間くさく――恐らく元は人間だったことも、知っている。
だからこそわからないのだ。かれの目的が。
「ミカエルはどうしてここに縛られたままでいるの。もしかして、結界を破るだけの力を備えてるんじゃない? 何か理由があるんでしょ。目的を教えて」
目的、と死霊は呟いた。声は若い。自分とそう変わらないのではないか。若作りしているのか、それとも若くして亡くなったのか。
尋ねはしない。興味を持ってはいけない。踏み込まれないために。
「ぼくの目的は、ここの死霊たちもろとも消滅することだ。調伏されたい」
「何、それ……穏やかじゃないな。だいたい、遅すぎるよ。向こうへの道は塞がってるし、こじ開けようにもミカエルは大きすぎる」
「だね。これだけ
うっかり? 何も言えないでいるうちに、ミカエルが背後を指した。
「ボスのお出ましだぞ」
「うえっ」
またノーメイクかつ適当な格好だ。事前に電話の一本でも寄越してくれればいいものを。じゃあ、と身を翻す。
「夏の間、気をつけた方がいいよ。今年は何だか変な感じがする」
「けっこうヤバめのが自宅におりますんで、お気遣いなく」
「それを言われるとつらいな」
背中越しにやりとりを終えてポーチまで走ってゆくと、いつも通り、自動人形のアンナが差し掛ける日傘の下で、アルブレヒト・ワイゼルマイヤーは物憂げに瞼を伏せていた。
「お、お待たせしました。こんな格好ですけども、あの、よろしければ中へ……」
「いいや、こんな早朝に押しかけた非礼を詫びるべきはこちらだ。それに、長くはかからない。菜園のあれはどんな様子かね」
心配して様子を見に来たのではなさそうだ。喩えるならば、ドラマや映画で新兵器の開発の進捗を尋ねる悪の総帥。
「大人しくしてくれています。夏は気をつけろと助言をくれました」
「なるほど。こちらに……きみに危害を加えるつもりはなさそうかな」
「とりあえずは」
「確かに、今年の夏は変だ。嫌な予感がする。きみにも警護をつけたいくらいなのだが、人手がぎりぎりでね」
警護とは穏やかではない。卿までもが懸念する異変とは何だろう。ミスティックが活性化するいつもの夏ではないのか。
ミカエルが完全な消滅を願ったことを卿に言うべきだろうと思ったが、どうしてか抵抗があった。ならば消そう、と卿がたちまちのうちに成し遂げるのを恐れたのかもしれない。悠久を生きる不死者にも死霊は調伏できないのに、馬鹿げている!
「あれはきみの死霊術の強い味方になるだろう。どうにかして有効に利用できないものかと考えているんだ。自動人形に宿らせる方向でね。最近、霊体に人形を貸し出す事業を始めた友人も興味を示している。『魂の器』に納められるなら、実体を持てるのではとね」
ちらりと目を遣ったアンナの美貌に、表情はなかった。いつものことだ。
卿の秘書を務める彼女もまた、謎に包まれている。彼女がアンドロイドなのか、セバスチャンのように擬似的な第二の心臓を有して魔術的に駆動しているのか、それともミスティックの一種なのか、誰も知らない。
いつも卿の傍らに影のように寄り添い、日傘を差し掛け、来客を捌き、スケジュールを管理する。銃器を持たせるとすごいとか、いや素手でカワラを割るとか様々に噂されているが、果たしてボディガードが不死者に必要なのだろうか。
くれぐれも身辺には気をつけて、と言い残して車に乗り込んだワイゼルマイヤーに、収穫したての野菜を籠ごと押しつけてしまったのは、ユディテもまた熱気以外の何かに当てられていたからかもしれない。
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