第3話 Sleepless(2)

 メイユイの研修が終わった次の日は、一日寝て過ごすつもりで予定を入れずにいた。

 特別なことをしたわけではないが、気を張っていたのも確かだ。昼まで寝てやると決意したのもむなしく、いつも通り、五時前に目が覚めてしまったのには泣けてくる。

 十一月の早朝五時といえば、もう冬だ。洗濯を重ねてくたくたになったスウェットを引っかけてベッドから脱出する。セバスチャンももう起きているようで、キッチンと勝手口に灯りが点いていた。

 有り難いことに、電気ポットが保温状態になっている。インスタントコーヒーの牛乳割り(それはカフェオレではない、とマギーは譲らない)を流し込んで体を温める。

 研修生の受け入れ期間を、気乗りしないと言いつつ普段通りに過ごしたユディテとは違い、セバスチャンはいやに張り切って、家じゅうをぴかぴかに磨き上げ、蝶番ちょうつがいに油を差し、畑も完璧に整えてくれた。お嬢様はのんびりしすぎです、と珍しくぷりぷりしながら。

 菜園と言えば、ミカエルである。

 少しでも魔力を有しているなら、あの禍々しい存在を感知しないはずがなく、なぜ死霊術師が死霊を放置しているのだと問われて返す言葉を持たないユディテは社会的に死ぬ。なので、研修を引き受けてすぐに、菜園へ飛んでいって懇願したのだ。


「研修中は、ううん、研修生がこの近所にいるうちは、声を出さないで姿を見せないで気配も消して」

「えー、どうしよっかなー」

「お願いだから!」


 ユディテがひれ伏さんばかりなのが面白いのだろう、ミカエルは気のない返事をしていたが、存在が外部に漏れて立場が危うくなるのはかれとて同じだ。すぐに、ま、いいよ、と引き受けてくれ、その言葉を違えることもなかった。

 冷えきったクロックスをつっかけて菜園に向かう。畑にはグランドリーフと小カブ、コマツナ、人参、サツマイモが植わっている。背の高いトマトやなすと違って、秋冬の菜園は地味だ。そろそろ、春に向けて植え付けをせねばなるまい。


「お疲れ」


 声にはいつもよりずっといたわりを感じた。尻をつけず、膝を抱いて腰を下ろす。


「おはよう、ミカエル」

「昨日で終わったんだっけ、研修」

「うん。何もしてないけど、やっぱりちょっと疲れたかな。あの子、すごく細かくメモを取るし、質問も鋭いし」

「スパイじゃないのか。ぼくのこと、まさかバレてないよね?」

「スパイって、治癒術師組合からの? そんなことされる憶えがないし、きっとバレてないよ。完璧だったもん、ありがと。……あ、ミカエルっぽい人が写ってる写真を見つけたんだ。後で見せてあげる」


 ミカエルは明らかにたじろいだ。広がったり縮んだり、ひっきりなしに形が変わる。


「いつのだよ。だいたい、ぼくの顔も背格好も……死霊術師だってことくらいしか知らないくせに、なんでわかるんだ」

「なんでって、勘だけど。試験に受かった時みたいで、庭でパーティーしてた。母さんもいたし。同期なんじゃないかなって、何となく思ったんだけど」

「それだけでぼくだと判断するきみが怖い」


 当たってるけど、と早口で付け加える。今さら恥じらうこともなかろうに。


「ずいぶん若く見えたけど、いくつだったの」

「二十二」

「三年飛び級した人、ほんとにいるんだ……亡くなったのは?」

「二年後。二十四」

「わたしより若いのかー。そりゃきつい。ん、じゃあ母さんより二つ年下……えっ、五十五歳? うっわ……」

「勝手におっさんにするなよ! 今でも二十四! 永遠の二十四!」


 かれはあのさ、と強引に話を打ち切った。触れられたくない話題らしい。


「ぼく、言われたとおりに大人しくしてただろ」

「だから、ありがとうって」

「ご褒美をくれる気、ある?」


 黒い霧がぞわりと嵩を増す。命をくれとか、体を寄越せとか言われるのかと三歩下がって身構えたが、違った。


「町に行きたい。いつかの約束、覚えてる? つきあってくれるよね」




 ワイゼルマイヤーに外出の許可をもらい、自動人形を貸してもらった。人形に憑いたミカエルを世に放つのは彼の野望であるが、前のめりでOKがもらえたのには驚いた。

 借りたのは夏と同じく、聖歌隊の喩えがしっくりくる清楚な美少年で、説明によるとこれが今のところいちばん相性のよい個体なのだそうだ。続けて十二時間憑依しても、漏れたり破損したりしないらしい。

 人形に納まったミカエルは、白いブラウスにファッションタイ、カシミヤのベストにツイードのパンツ、まさにご子息といったいでたちが気に入ったらしく、上機嫌だ。確かにとても似合っている。恐らくはアンナのチョイスだろう。侮れない。


「いい? これはデートだよ、ちゃんとおめかしして! お洒落して!」

「デートって、ステラモールだよ? 地元じゃない、おめかしなんて必要ない」

「いや、あのさ、この人形がどれだけ美少年なのかわかってる? 普段着でこれを連れ回せるならそれでも構わないけど」

「あ、だいじょぶ、そゆの気にしないから」

「しろよー!」


 というやりとりを経て助手席でむくれているミカエルを見ていると、駅前のショッピングモールに出かけるだけなのに妙にそわそわする。おめかし? 何のために。恋人ごっこのつもりか。


「で、ステラで何するの。映画?」

「うーん、二時間座りっぱなしなのは時間がもったいないよ。本屋に行きたい。あと、観覧車ってまだある? あれに乗って、パフェ……ううん、クレープがいいな、クレープ食べてさ、服を買って」

「服? 卿の人形に見合う服なんてあそこにあるかな」


 ミカエルは軽蔑の視線を投げて寄越した。美少年にそれをされると、刺さる。


「何を言ってるんだ、きみの服だよ。冬物を買え、よれてないやつを。大人っぽいコートとか、線のきれいなワンピースとか」

「教授が好きなやつだ」

「淫魔の趣味なんて知るか」


 嫌な思い出でもあるのか、彼はいまだに整流師や淫魔に打ち解けない。


「えー、他にいい服なんて着ていくとこないし……。動物園とか水族館のが良かったかな」

「次があればね」


 次があれば。次はあるのだろうか。何でもない距離、何でもない買い物。それがミカエルにとっては無限遠に等しい。彼が望んだ初めての外出がただの興味本位であるはずがなく、買い物だけで済むとは思えなかった。今、このタイミングだから。そのことに意味があるのだ、きっと。

 車を駐車場に入れ、モールへ移動する。まず本屋へ行きたいと言うので、先導した。


「へえ、今はこんななんだ」


 こんなに明るく綺麗になっているとは思わなかった、とミカエルはあちこち見回してはいちいち感嘆のため息を漏らした。昔は、前はこうだった、と少年のなりでしきりに口にするものだから、すれ違う人みなが怪訝な顔で振り返る。

 書籍と文房具のフロアでは、一時間後に合流する約束を取りつけ、別行動することにした。何となく気になって小さな背中を追いかけると、彼は新刊コーナーから雑誌、ベストセラー、旅行本、一般文芸から専門書、魔術書、写真集と一通り見て回ったのち、魔術書の一角で足を止めた。平積みのタイトルを一瞥し、棚差しの本を抜いて読みふける。

 厳めしい魔術書と、絵画から抜け出してきたかのような美少年の組み合わせはひどくアンバランスで、それゆえに抗いがたい魅力があった。端整な横顔から視線を引き剥がし、ユディテは文芸コーナーに向かった。

 本を買うのもネット注文ばかりだ。思いついたときに買える手軽さに慣れ、忙しさを言い訳に久しく実店舗を訪ねていなかった。本屋に立ち寄る余裕や読書のための時間を、いつの間になくしてしまったのだろう。

 文房具や雑貨売り場でも、機能的なファイルボックス、レターセットや一筆箋など、使うあてのない細々したものが物欲をくすぐる。給料日前であることが財布の守りになった。

 一時間は飛ぶように過ぎた。待ち合わせ場所に現れたミカエルの頬は、気のせいなどではなくつやつやしている。


「欲しい本は見つかった?」

「欲しいんじゃなくてさ、読みたかっただけ。うん、面白かったよ。何せ三十一年ぶりの読書だし。新しい知識も入れておかなきゃねえ。たまに、セバスチャンにラジオを聴かせてもらうんだけど、やっぱね、違うよ」


 三十一年ぶり。やはりあのテロが死因なのだろうか。本のかたちをしていても、電子書籍であっても、彼が読めないことに変わりはない。何かに憑けばその限りではなかろうが、本を読むために彼が菜園の結界を出るとは思えなかった。

 だから、本当に特別なのだ、今日は。

 こんなささやかな希望なら、すべて叶えてあげたかった。


「ね、観覧車乗ろう」

「え? あ、うん」


 手を掬われ、エスカレーターに並ぶ。素材はいったい何なのか、少年の手は驚くほど滑らかで、けれどもきちんとひとのはだの手触りがした。やがて体温が移って、ほんのりと温度が宿る。

 ためらいがちに指が絡んだ。不思議と嫌悪感はなく、繋いだ手はほどけない。繋いだままでいる理由もなく、かといってふりほどく理由もなく、ほのかな困惑と高揚がミカエルの表情を確かめたい好奇心とせめぎあう。

 ユディテとミカエルは少しも似ていないし、せいぜいが歳の離れた姉弟、あるいは親戚の子どもを案内している、そんなふうにしか見えないはず。誰にどう思われようと後ろめたい気持ちはないが、この美少年人形の中身が二十四歳で死亡した男性で、とんでもなく強力で厄介な死霊だと考えると、素直に喜べないし、もどかしい。どうにかしたい、何とかしたいと思う。彼のために。

 すっかりほだされてるなあ、と自嘲する笑みも遠い。

 観覧車乗り場には列ができていた。カップル、ファミリー、グループ。自分たちはどんなふうに見えるのだろうと答えの出ない問いを転がしながら、ゴンドラに乗り込む。

 ごく自然に向かい合わせに座ったことに、わけもなく安堵した。膝が触れそうで触れない。


「すごい、空調がついてる」

「わたしが子どもの時にリニューアルして、たしかその時に整備されたんじゃなかったかな。透明ゴンドラもあるよ」

「変わるなあ、何もかも」


 ひとしきり周囲を見やったミカエルはふと真面目な表情でこちらを見上げた。前のめりになって、あのね、と呟く。


「お願いがあるんだ、ユディテ」

「どうしたの、そんなに改まって」

「きみにしか頼めない。卿でも、アンナでもだめなんだ」


 ならば、死霊術関連だろうか。死霊術に関することで、ミカエルがこの駆け出しの自分に頼みたいこと。かつ、母や先々代を含め、組合にいたベテランたちには頼めなかったこと。嫌な予感がむくむくと頭をもたげる。


「きみは筋がいい。どんどん成長するだろう。もっと経験を積んで、センダードのユディテって名前が世界じゅうに知られるくらいになったら……ぼくを調伏してほしい。それまで待つから」

「世界になんて……」

「きっとなる。信じてる。ユディテ、きみは伸びる。ハーレよりもね」


 麻痺の魔法をかけられたかのように、指先さえ動かせなかった。真摯な少年のまなざしが第二の心臓を抉る。人形の手のひらが頬を包み、吐息が前髪を揺らした。


「だから、いつか、きみに調伏されたい」


 たったの十分が永遠の長さになりうることを、ユディテははじめてった。

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