死霊術師の菜園
凪野基
第1話 Nameless
第1話 Nameless(1)
長い夢から覚めると、春が終わりかけていた。冬眠していたのだっけ? まさか、そんなはずがない。
おぼろげな記憶はある。師の葬儀と遺品整理をどうにか済ませ、社交辞令のラリーで消耗する日々が続いていた。お辞儀と愛想笑いは筋トレめいて、けれども鍛えられるのは面の皮ばかり。
雑然とした書斎のあるじは不在のままで、我こそ新たなあるじなり、と踏み込んでゆくにはまだ思い切りが足りない。「安らかに、よき旅路を」とお決まりの文句を締めたのは確かに自分なのに、ドラマを見ているかのように遠く、現実味が薄かった。
視線を窓に逃がすと、中天にぼうと霞む太陽も、庭を抜ける風も、軽やかで眩しい。薄曇りの空から遅い雪を降らせたあの寒い朝は幻だったのか。世間の装いにすっかり取り残されていたユディテは大慌てでクローゼットの前後を入れ替え、裏ボアのルームウェアを脱ぎ捨てた。
花壇と薬草園、それから菜園の様子を見に行って、セバスチャンにお礼と、もう大丈夫だからと伝えねばなるまい。
セバスチャンは百年ばかりこの家を支えている使用人だ。病に伏してなお、死後もここで働きたいと望み、当代はそれを
炊事から洗車、庭木の剪定まで何でもござれ、土いじりにしてもユディテよりよほど早く的確に作業するセバスチャンは欠かせぬ人材だ。新しい植え付けは命じていなかったが、それどころではないと察して、そっとしておいてくれたのだろう。花や収穫が終わっても、畑はそのままになっているはずだった。
彼の一日は、ささやかな門扉には不釣り合いな「Magicians Guild Master of Necromancy」の石碑を磨きあげることから始まる。死霊術師組合の石碑を磨く骸骨、という絵図はここが何であるかを端的に示しており、ちょっとした名物だった。物好きな旅行者に写真を乞われることもあるらしい。
キッチンを覗くが、セバスチャンの姿はなかった。骨の擦過音もなく、電気ポットの保温ランプだけがひっそりと灯っている。
そういえば、昨日の夜も朝も、それどころか今朝も、何を食べたのか覚えていない。セバスチャンが用意してくれたに違いないが、すっぽり記憶が抜け落ちている。相続や名義変更など、銀行と役所に通い詰めて手続きに忙殺されていたとはいえ、さぞや心配をかけたことだろう。
保温調理器が出ているから、昼食はポトフ、と予想をたてる。だとするとパンを買いに出ているのかも、と焼きたてパンの香りを思ってほくそ笑んだ。つられて、胃がくうと鳴く。体が空腹を訴える、つまり生きている。
師との永訣は、感情の嵐にもみくちゃにされながらも、混乱を突き抜けて空っぽになってしまうような日々の発端で、空っぽでいる間は空腹も満腹も感じなかったし、もちろん食欲など二の次、三の次であった。
ようやく食べることに意識が向いたのは、悲しみに暮れる間もなく多忙を極めた日々の終焉を意味するのだろう。死者の弔いはそれとして、ユディテはまだ生きてゆかねばならない。
廊下に出ると、がらんとした静けさが耳を覆った。天窓から陽の射す廊下は十分に明るいのに、こんなにも広い家だっただろうかと寂寞が肩を震わせる。
住み込みの弟子だけでなく通いの弟子もいた頃には、セバスチャンは毎日大わらわだったそうだが、ユディテがここに移り住んだときには先代、つまり師匠のハーレとその弟子が三名いるきりだった。そして今、家主たる主任魔術師の書斎と寝室のほか、五人分の居室を備えた大きな家屋で暮らしているのは、ユディテとセバスチャンだけだ。
年々、死霊術師のなり手が減っている。兄弟子、姉弟子がみな独立してからも、師は新たな弟子を取らず、見込みのありそうな者をスカウトに行くでもなく、セバスチャンとユディテだけをそばに置いていた。先細りで良いと思っていたわけではなかろうが、本心を
師はあちこちで「ろくな死に方はしない」「ベッドで死ねるはずがない」と噂されていたにもかかわらずぴんぴんころり、睡眠中に亡くなった。朝食の時間に起きてこず、様子を見に行ったら冷たくなっていたのだから、驚いたなんてものではない。仮にも死霊術師として名を連ねるユディテが、死体を見て飛び上がったのはこれが初めてだ。
「冥府の女王」などと大仰な見出しとともにネットニュースや週刊誌にもたびたび取り上げられた師も、定命者のさだめから逃れることはできなかった。五十七歳、早すぎる死だ。川向こうに愛されすぎたのだ、と葬儀に集まった人々が遠慮がちに囁くのを、肯定も否定もできずに聞くしかなかった。
冷戦終結後、世界は小さくなった。それまで隔たって暮らしてきた、人類とそれ以外の、神秘に属するものが顔を突き合わせ、混じり合ってゆくのは必然で、科学の光明が照らし得ぬ部分の解釈として、人間たちは自分たちの物差しが及ばぬ存在を受け入れた。
ユディテは、ミスティックの一員である事実にまだ慣れないでいる。人々が一方的に括って略称で呼ぶ隣人たちのうちでも、魔術師は
文明が、科学が進歩し、命あるものの権利が広がり概念がフラットになって、この自由の国では国籍を有するミスティックには人間と同等の権利が保障されている。ミスティックは太古の昔から存在していたのに、その定義は、存在はとかしましいのは人間だけだ。意識のアップデートはかくも難しいということだろう。
ユディテが人間からミスティックになって、六年半しか経っていない。死霊術師、魔術師と呼ばれるのはともかく、人間でないと言われるのはどうにも複雑な気分だ。
詮ないことを考えつつ、菜園に向かった。車なりバスなりで市街地に出ればショッピングモールがあるし、ネット通販で何でも揃うこのご時世、手間をかけて花壇や菜園を維持せねばならない理由はないが、ここで暮らした代々の死霊術師たちが丹精したものを、理由はないといった曖昧な理由では放り出せなかった。
合理的でないのは承知している。だが、合理を突き詰めるのは魔術師の仕事ではない。魔術は合理と非合理、論理と非論理のあわいにあるものだから。
通りから見える花壇と薬草園には、ポピュラーな花と食用にもなるハーブ類が並んでいる。チューリップ、デイジー、ラナンキュラス、カモミール、ローズマリー。いかにも「魔術師っぽい」ものを選んでいるつもりだが、成功している自信はない。気取る必要はないんですよとセバスチャンにいつも笑われている。一方で、毒性を有しているものや、扱いが難しいイヌホオズキ、イヌサフラン、エニシダ、ジギタリスなどは人よけの結界を張った薬草園に揃っている。
家庭菜園は来客用駐車スペースの奥、家屋の東側で、さて今年は何を植えるか、まだ実野菜の植え付けは間に合うだろうかととりとめなく考えていたが、黒いものが見えた気がして足を止めた。ちょうど菜園のあたりだ。
羽虫がたかっているのかと思ったが、違う。
違うと気づいた瞬間に喉が詰まり、息がうまく吸えなくなって、心臓の音が耳の中でうるさく鳴った。膝が震え、つっかけたクロックスが地面から離れず、進むことはもちろん、退くこともできない。
だめだ。
逃げろ、と本能が全力で警鐘を鳴らす。あれはやばい。だめなやつだ。関わるな。すぐに逃げて、組合に助けを求めろ。
――死にたくなければ。
死霊、死体、怨念、悪意、怨嗟、憎悪。一部ではいまだに穢れと忌避されるものと隣り合って暮らし、行使する死霊術師であるからこそ、触れてはならないものだとわかる。これまでに見たどんな強大な死霊よりも、どんなおぞましい屍体人形よりも、よくないものだ。
脇を、背中を、冷たい汗が伝った。逃げなければならないのに、動いたと同時にあの黒いものに胸か頭を貫かれそうで、その想像が全身を縛り、凍りつかせる。
おぞましい黒い霧の触手が蠢き、この身を取り込んでいたぶり咀嚼する。膿み爛れる肉の臭い、沸騰する血の粘つきがありありと想像できて、酸っぱい唾がせり上がってきた。見開いた目がひりついて、それなのに瞬きさえできない。
あれは死霊のたぐいだが、ユディテの技術で制御できるものではない。もっと邪悪で、純粋で、それゆえに恐ろしいものだ。
いくら駆け出しとはいえ、これほど巨大で危険な死霊の気配を感じぬはずがない。いったいいつからここにいたのだろう。どこかから移動してきたにせよ、組合本部が把握していないはずがないのだが、何の注意喚起もなかった。庭に出たはずのセバスチャンだって気づいていないのだ、よほど気配の隠蔽が巧いのか。それはつまり、狡猾で、強力であることを示している。
死にたくない。逃げろ。助けを呼べ。
体はぴくりとも動かないのに、思考だけが猛スピードで展開して不安と焦りを増幅させる。凍りついた脚を動かそうとわずかばかりの勇気を叱咤激励しているうち、黒いものはぞろりと形を変え――手招いた。
続いてハンズアップのかたちで両手の指を開く。そして再び、不定形に戻った。先ほどまでの威圧感と害意はいくらか和らいでおり、心臓を潰さんとする圧も弱まっているが、相手が触れるだけでこちらを絶命させうることにも、逃げられないことにも変わりはない。
何だこれは。どうしてわたしが。泣きたいのに目が乾いて涙さえ出ず、喉がからからでセバスチャンを呼ぶこともできない。
退路を断たれ、震える脚を引きずって黒い霧へと近づいた。目に見える死が迫っている。
支配を受け入れずとも、霧に触れれば終わりだ。皮膚が爛れ、体内に入れれば臓腑が腐る。喉と肺を焼かれて死ぬか、胃が穿孔して自らの酸に冒されるか。どちらも愉快な想像ではない。けれども、やつは何の苦もなくやってのけるだろう。あるいは体を乗っ取られ、命尽きるまで死を振りまく存在となるか。
何にせよ、死霊術師としては願い下げの死にざまだ。安らかに逝った師に倣うまではいかずとも、せめて組合に警告くらいは。
助けて、先生――母さん。
「害意はない」
ぼやけた視界のなか、死霊は明瞭に人語を話した。もぞもぞと蠢き、人のかたちをとる。ご丁寧に目と口の部分は霧の密度を下げていて、背後が透けて見えるが、無表情に見つめられるのではかえって落ち着かない。
「お、お気遣いなく、人のかたちはやめて」
「……この方が話しやすいかと思ったんだけど」
声は意外そうに跳ねる。感情らしきものが表れたことにユディテは驚いた。いや、そんなはずはない。そう思わせているだけだ。
「人のかたちだと、言葉が通じると錯覚する。その思い込みがどれだけ危険かは知ってるつもり」
「なるほどね、一理ある」
自らの危険性を否定せぬまま、黒い霧状に戻った死霊と一メートルほどの距離をおいて対峙する。清冽な太陽の下であっても、あまりの不吉さ、禍々しさに総毛立った。無理です、と言い残してベッドにダイブして、夢だったことにしたい。
「別に、取って食おうってわけじゃない。ひとりきりになって寂しいだろうから、久しぶりに出てきたんだ」
いくぶんか砕けた口調になったが、出なくていいですとはとても言えない。だいたい、ユディテが「ひとりきりに」なったと知って「久しぶりに出て」きたとはどういうことだ。なぜそれを知っている? こいつは以前から、もしかすると自分よりも長くここにいるのか。
だとすれば、代々の師が押さえつけていたに違いなく、つまりは若輩だと舐められているわけだ。自覚しているつもりだったが、つとめて考えないようにしていた部分がささくれ立つ。歯を食いしばって平静を装った。
「ぼくのこと、聞いてないのか。みんなが諸々のごみをここに埋めてたことは? シティの回収に出せないような種類のやつをさ、肥料代わりにしてたんだよ。セバスチャンだって知ってるはずだけど」
「危険なものは術式による封印なしに捨てては……」
「そんなのみんな知ってるし、建前としては守ってた。この菜園にも規則通りに魔除けの術式が施されてる。けど、誰かさんがヤバイものを雑に埋めちまった。単体ではそれほど危ないわけじゃないけど、埋められたのがここで、しかも大量だったから、複雑で急激に成長したってだけでね。で、できあがったのがぼくってわけ。ああ、大丈夫、本当に危ないのはちゃんと押さえつけてるから。そう簡単には暴走させないよ」
何も知らぬまま、野菜の種を蒔いて苗を植えて成長に一喜一憂し、収穫した野菜を食べていたが、知ってしまうと途端に胃が重く感じられた。この身、髪の一筋、爪の先まで、死霊入りの野菜に由来するなんて、想像するだけで体重が減りそうだ。ヘルシー! などと手放しで喜べるほど図太くはない。
死霊が憑いた土壌で育った作物がよく無事でいられたものだが、きっと菜園の環境を整える術式のお陰だろう。ここにはいろいろなごみを埋めるため、万一にも外部に影響が出ないように高度な術式が編み込まれた、特別な「場」なのだ。
そこでふと、違和感が落ちてきた。これほど強大な死霊がひとところに留まってお喋りに興じているのはおかしい。どうして市街地や近隣の都市に出向いて、無差別の死を振りまかないのだろう。ぞっとしない想像だが、術の誘導もないのに、死霊が良い子ちゃんであるはずがない。
とすると、こいつは結界に縛られて、
「つまり、すこぶる面倒くさい地縛霊、ってこと、かな?」
「否定はしないけど、急に強気になったね?」
「そんなことないでーす。あ、電話が鳴ってるんで、じゃ!」
スマートフォンが震えているのは本当だ。ユディテは全力で前庭を駆け、死霊術を行使するための部屋に飛び込んだ。
錠を下ろしてほっと息をついてから、もしもこれがホラー映画なら真っ先に殺されるパターンでは、とげんなりした。
霧の気配がどこにもないことを確かめ、羽織ったパーカーのポケットからスマホを取り出す。着信はとうに切れていたが、かけ直すとすぐに応答があった。
『はい、センダード市警ミスティック管理課です』
声は友人のマギーのものだ。彼女が電話をかけ、そのまま悠長に折り返しを待っていたのだとすれば、それほど重要な用件ではない。肩の力を抜く。
「出られなくてごめんなさい、ユディテです」
ああ、とよそゆき声のトーンが下がった。悪い話でもないらしい。
『今日、契約の更新と写真撮影があるって、知らせておこうと思ってさ』
「もうそんな時期? ありがと、準備してくね」
それどころじゃなくて、という言葉は辛うじて飲み込んだ。
師が亡くなり、心の準備も知識もないままに山のような書類を処理しながら、なんて非効率的で前時代的なのかと腐していたが、日常との接点を保ってくれたことだけは感謝せねばなるまい。
『今日は遅出だっけ? 可愛くしておいで。あと、卿がよろしくって』
卿とはアルブレヒト・ワイゼルマイヤー、センダード市警ミスティック統括官を指す。ユディテとマギーの上司であり、雇用主であり、生粋の
備品のデスクと釣り合わない、冴え冴えとした美貌を思い浮かべて頷く。完璧であることが欠点、とわけのわからない評価がなされる凄腕の統括官は、広大かつ深遠な度量を有する。駆け出しの死霊術師を雇用したり、柔軟な勤務態勢を導入したりと、彼の力は広範囲に影響を及ぼした。
契約更新は決定事項で、写真や書類の用意は警察組織の運営の都合でしかないとはいえ、この先一年、つまらぬ顔のIDカードを提げるのもいただけない。
パン屋から戻ってきたセバスチャンが昼食を用意している間に、電子レンジで蒸しタオルを作り、丁寧に洗顔してから、普段の倍ほど時間をかけて念入りにメイクを施した。久しぶりに着る一張羅のパンツスーツは、ややウエストが緩い。
食卓につくと、骨の指が電子パッドに「よくお似合いです」とタイプして寄越した。セバスチャンはお世辞を言うタイプではないし、選び抜かれた食器や家電を見るに審美眼は信用できる。褒められて嫌な気分になろうはずがない。
ポトフも良い味だった。お代わりをよそうユディテに骨を鳴らしながら頷いていることからして、やはり心配させていたらしい。
セバスチャンは死霊術で第二の心臓と二度目の生を得たが、声だけは戻らなかった。生前、咽頭癌で声帯を切除していたことが関係しているのか、代々の死霊術師も結論を出せていない。本人は手話を学び、電子パッドや筆談を駆使して、さほどの苦労はないと語る。
声帯の有無ではない、と思う。現にほかの骸骨たちや死霊悪霊、霊のたぐいも声帯を持たないのに喋るのだから。
――死霊。嫌なことを思い出してしまった。
「ねえセバスチャン、菜園のあれはなんなの? 何か知ってる?」
骸骨執事はしばし動きを止め、ゆっくりと電子パッドに指を滑らせた。
「決して悪いものではありません」
車を出すときに横目で睨んだが、菜園には何の気配もなかった。
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