第2話 Doubtless(5)

 退院から五日後、結界部屋にワイゼルマイヤーとアンナを招いた。不在の期間を支えてくれたオーリーとザヤには休んでもらっている。


「へー、ユディの仕事場って、こんななんだ」


 興味深げに室内を見回しているのは、十五にはならないだろう少年――の人形に納まったミカエルだ。

 卿が作らせた人形のおもてはやはりと言うべきか、人並み外れた美少年で、肩にかかる蜜色の髪と利発そうな青灰色の眼がひときわ印象的だった。清楚なブラウス、膝丈のパンツとサスペンダー。すらりと伸びた脚を覆うソックスに革靴といういでたちで、場違いなこと甚だしい。

 少女にも見える面差しながら硬質な線が少年の儚さを訴える、美術品と呼んで差し支えないもので、聖歌隊で神の名を朗々と歌いあげるのが似合いそうだった。中身が致死性の毒霧だなんて、とんでもなく背徳的に思える。

 一昨日、卿がこの人形とともにやってきた時からミカエルは上機嫌だった。


「制限つき自由との引き替えに捜査に協力を、って、こっちに有利すぎないかな? ワイゼルマイヤーさん、ぼくが約束だとか契約だとかに縛られる存在じゃないってことは承知してるだろ。あなたは不死者としては最強クラスの力を持ってるけど、死霊を従えることはできない。もちろんユディにも。死霊を解き放つのがどんなにリスキーかわかっていてこの話を持ってきたんですよね?」

「きみの誠意を信じているからね」

「根拠は?」

「三十一年前、何があったか承知しているからだ」


 ミカエルは黙った。まただ。三十一年前の事件、センダード死霊化テロ。

 世界中を恐怖に陥れた最悪の事件として名高く、死霊術師の教科書テキストにも登場し、実際に現場に立ち合った師から凄惨かつ陰惨な話を聞きもした。忠告と、戒めと、再発防止の誓いとして。

 そのテロとミカエルが関わっている? テロに巻き込まれたのだろうか。


「何にせよ、こちらにはきみの独走を止める力はない。信じるほかはないのだ」


 ワイゼルマイヤーの説得か、あるいはかつての死霊化テロに関わることか、ミカエルは自動人形に憑依し、助手を務めると宣誓した。アンナが半日かけて複雑な円陣を描いて準備し、さらに半日かけて卿が結界術を解くのを、ユディテはすっきりしない気分を持て余しつつ見守るしかなかった。

 結界が消えると、ミカエルはゆらりと伸びをして、少年人形の半開きの唇から内部に侵入していった。天使と見紛うばかりの少年の口腔が毒霧に冒されるさまは悪夢のようにグロテスクで美しい。ぼうっと見入っていることに気づき、慌てて背筋を伸ばす。

 やがて、瞼が開いて青灰の眼に意志の火が灯る。ミカエルは立ち上がり、手を握ったり開いたり、歩いたりジャンプしたりと人形を操った。


「へえ、憑依ってこんな感じなんだ。第二の心臓って……ああ、『魂の器』っていうんだっけ、ちょっと窮屈だけど、悪くない」

「何よりだ。長くは保たないだろうから、出勤前までは出ていてくれ」

「どれぐらい保つかな」

「長くて十時間といったところだろう」

「微妙だな……ぼくも気をつけておく。やばそうなら早めに知らせるよ」


 遠慮のないミカエルにひやひやするが、卿が気分を害した様子はなかった。


「いつもみたいに、無害化すれば人形が傷まないんじゃないの?」

「菜園で自分を無害化できるのは、ここの結界の力を借りてるからだ。防御のない自動人形なんて、ざるを被せてるのと同じだよ。……ユディ、念のためもう一度言っておく。ぼくは積極的にきみたちを害するつもりはない。余程のことがない限り、死霊たちがぼくのコントロールから外れることはないだろう。信用してほしい」


 超絶美貌の少年が切々と訴えるのに、否を返せるはずもなかった。ユディテは気圧けおされて頷き、そして同伴出勤と相成ったわけだ。

 卿とミカエルが着席するのを待って(アンナは「わたくしはここで」といつものように戸口で直立を保っている)、メリッサの遺品の杖を魔方陣の中央に置く。黒檀の杖は無残に折れているが、彼女が大切にしていたことが伝わってきた。イヌサフランと蝙蝠の灰、珊瑚と水晶。いつも通りの手順で準備を進める。こんなに人目のあるところで降霊する機会はなかなかない。緊張していないと言えば嘘になる。


「ユディ」


 呼ばれて振り返る。ミカエルはそれ、と顎をしゃくって見せた。


「もし、その人が狙われて殺されたんだとしたら、ぼくなら杖にも仕掛けをする」

「……わかってる」


 卿は無言だった。始めます、とだけ宣言してメリッサの杖の周囲を指の関節で叩いた。ノックの要領だ。続いて、反魂香を焚いた。

 遺品に残る力の残滓を纏い、川向こうを臨む。死霊術をもってしても、死者の世界に深入りするのは危険を伴う。呼びかけに応じなければ踏み込んで行かざるを得ないが、メリッサほどの術者ならばすぐに見つかるだろう。遺品に残る力が強いほど、死者を招く力も大きい。

 杖に残る魔力をほんの少しだけ揺らした。呼び鈴程度に。


『ああ……ユディテ。呼ばれると思っていたわ』


 メリッサの死霊はすぐさま魔術に応えた。まだ生前の記憶を明瞭に留めているのだろう。それはつまり、死の瞬間の記憶も鮮やかだということだ。これによって死霊の性格が生前とは激変していることもあるが、そのような兆候は見当たらなかった。

 死後、川を渡って死者の国へ辿り着いてからは、時間が経つほどに個人の記憶も存在も淡くなり、最後は「死」として均一化するのが常だ。例えばナポレオン・ボナパルトの降霊を試みたとして、成功する見込みはない。


『全部罠だったんだわ……現場に死霊術師が呼ばれるのは必定で……悪霊は真っ直ぐにこちらを狙って……ああ、ユディ、テ、見たの、私……あれは、』


 メリッサの声が途切れがちになり、突然、黒檀の杖が爆ぜた。破片が悪意を持って全方向に弾け、杖と向かい合っていたユディテは全身でそれを受け止めることになった。痛みで術がぶれ、メリッサが悲鳴をあげて川向こうへと逃げてゆくのに引きずられる。


「ユディ!」


 ミカエルが悲痛な声をあげてパイプ椅子を蹴る。背後を確認する余裕のないまま、大丈夫、とだけ答えた。あちこち痛むが、彼女を還すまでは術を解除するわけにはいかない。開いた通路をきちんと閉じておかねば、他の死霊まで招きかねないからだ。

 傷がずきずき痛み、気が散ってメリッサを見失ってしまいそうだ。まさか爆発するとは思わなかった。こんなことならボスに鑑定を頼んでおくのだった。

 と、杖を持つ左手に小さな手が重なった。いつの間にか隣にミカエルの姿がある。


「ぼくが支える。心配しないで、ゆっくり戻っておいで」


 言葉通り、あの世とこの世を繋ぐ道の強度が格段に増した。かといって死霊が逆流することもない――圧倒的な魔力が死の接近を防いでいる。

 普段の倍ほどの時間をかけ、どうにかこうにかメリッサを送り、意識を切り離した。


「よし、道を塞ぐ。座ってろ」


 先程までミカエルが座っていたパイプ椅子に腰を下ろす。彼は驚くほど鮮やかに術を畳み終えたが、宝石の眼は険しいままだ。作業台に手をついて俯いている。

 卿が内線電話を取り、アンナが駆け寄ってきて傷を検分する。杖の残骸が体じゅうに刺さっている様子は安っぽいホラー映画のようで、顔が歪んだ。

 杖も台無しだ。メリッサの遺族に申し訳ないことをしてしまったが、これで彼女が「狙われた」ことが明らかになった。あとはボスに任せよう。


「深手ではありません。毒の心配も恐らくないでしょう。破片さえ除けば、痕も残らないはずです。立てますか?」

「ちょうど中央病院の治癒術師ヒーラーが来ている。看てもらえるそうだ」


 受話器を首に、卿が行けと指差す。中央病院の治癒術師、に不穏なものを感じつつ、アンナに付き添われて医務室に向かった。結界部屋の扉が閉まる直前、作業台に寄りかかった少年人形の皮膚が黒い染みに覆われていたように見えたのはきっと、気のせいではない。




「ちっとも身の程をわきまえてらっしゃらないのね」


 治癒術師サクヤは軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。刺さった杖の破片を容赦なく抜き取り、オキシドールを含ませた脱脂綿を傷口にぐりぐり押しつける。痛い、沁みるなどと言おうものならまたどやされそうで、ひたすら我慢した。


「はあ、あの……お手を煩わせまして……」


 妙に風当たりが強いのはどうしてだろう。マギーにも強く当たっていたようだが、元々の性格なのか、それとも何か気に障ることをしたのか。警察組織を毛嫌いしている人は一定数いるし、死霊化テロが急増している昨今、不気味だ、不吉だと死霊術師を敬遠するのは人間ばかりではない。

 死霊術と治癒術は対極にあるものではない。むしろ、性質としては近しい。死霊化テロで負傷者の受け入れをする彼女の心証が良くないのは理解できるし、万人に好かれることなどないにせよ、さほど接点があるわけでもなし、ビジネスライクに、本音と建前を使い分けてはくれないものか。心が弱る。


「くれぐれも気をつけておくことね。死霊術師というだけで叩かれる日はもう来ているのだから。……お大事に」

「……どうも」


 抗生物質、消炎剤、鎮痛剤などの名称が並ぶ処方箋を手渡され、恫喝に追い出される。スマートフォンには、人形が破損したため先に戻ると、アンナからの音声メッセージが残されていた。折り返すと、卿が菜園に再封印を試みているところだという。

 ライアンの運転技術を羨ましく思いつつ、夜道をひた走った。郊外に位置する自宅までは空いていれば四十分ほど。一時間かからずに帰り着いたのだからまあ上々だろう。車庫入れももどかしく、運転席からまろび出る。痛み止めの効きが悪く、どこもかしこも脈動にあわせて痛みを訴えていた。

 暗がりの中、畑に屈むワイゼルマイヤーの背と、直立するアンナの姿があった。不吉な死霊の気配も。傍らに倒れ伏す少年人形の皮膚は腐り落ち、熟れた果実のように赤黒く爛れていた。衣服もぼろきれ同然で、足がすくんだ。


「ミカエル、大丈夫?」

「ぼくなら平気。相変わらず、不思議なことを訊くね」


 卿は立ち上がり、一歩下がって術の具合を確かめたようだった。専門ではないユディテには元通りに見える。結界術師が特別に施したものを解いて元通りにするなんて、やはりただ者ではない。


「思っていたよりも厄介だな。十時間どころか、五時間強で自動人形がぼろぼろだ。改善すべき点は多いな。……ユディテ、室長に探査を引き継いでもらって、報告書は明日中に頼む」

「わかりました」

「順番が逆になったが、大事ないか」

「大丈夫です。その……人形は」


 自動人形はマネキンではない。フルオーダーのそれは完全に趣味の範疇で、一体の製作費がいくらなのか想像もつかなかった。アンナが人形を抱えあげる。それはもはや残骸としか言えない有様で、人の名残があるからこそひどく胸が痛んだ。

 ミカエルには何のダメージもないとわかっていても、もうあの人形と彼を切り離して考えることができない。自分はこんなにウェットな考え方をしていただろうか。あれは単なるモノだとどうして思えないのだろう。


「これは私の興味本位の実験でもあるから、金銭的なことを気にしているなら心配には及ばない。それよりも、彼が……ミカエルが私たちについてくれるならずいぶん有利になるのだから、明日にでも次を試したいところだ。結界を解くのは面倒だが、まあ仕方がなかろう。リードを緩めるわけにはいかん」


 卿の声音はどこまでも穏やかで、弁償だとか代償だとか、自動人形を巡ってややこしいことになるのは避けられそうだったが、靄は晴れない。

 卿とミカエルは、何らかの秘密を共有しているのではないか。三十一年前、史上最悪の死霊化テロ事件に関して。


「楽観的だね。ぼくが協力を拒むことだってあるだろうに」

「拒めないさ。必ず我々に協力してくれると信じている」


 あまりの自信に、ユディテもミカエルも二の句を継げず、沈黙する。その隙に卿はアンナを伴って、去っていった。


「変なやつ。ま、不死者なんてあんなものか。ユディ、怪我はどうだい。痛む? それより、お腹が空いてるんじゃないか。セバスチャンにただいまって言ってやりなよ」

「痛み止めが非力だけど、なんとかね。でさ、ミカエルって死霊術師だったんだね」

「死霊術師だから死霊を押さえつけて、こうしてきみとお喋りできてるんだよ。そんなに驚くこと? まさか気づいてなかったとか?」


 ぐうの音も出ない。言われてみればまったくもってその通りだ。死霊を相手にできるのは死霊術師だけ。それ以外にないのだが、死霊の集合体が庭にいた、という非日常にばかり目がいって、ちっとも論理的に考えられなかった。


「やっぱり体があるっていいものだよ、卿の頑張りに期待しようかな」

「解放されたいって思わないの。人形に憑いてた時だって、逃げようと思えば逃げられたでしょうに」

ワイゼルマイヤーあいつに何をされるかわかったものじゃないだろ。調伏こそできないけど、ぎたぎたにはできる。そんなの、ぞっとしない。見ただろ、結界術をそれなりに使うんだぞ? 他の魔術だって使えるに決まってる。それにさ、逃げ出せばぼくの望みは叶わないから」


 庭は暗く、夜に紛れた黒い霧を視認することはできない。魔力の流れからこのあたりにいるのだろうと想像するだけで。


「……助けてくれてありがとう」

「助けたなんて。ぼくは気をつけろって注意して、ちょっとぐらぐらしてるところを支えただけ。ユディが一人でやり遂げたことだ。よく頑張ったよ、いいセンスしてる。ハーレもずいぶん褒めてたんだよ、きみは第二の心臓が大きいから強力な術をばんばん使えるし、勘所もいいって」

「それ初耳だわ……」


 母に正面から褒められた記憶はあまりない。叱られた記憶もないが。人づてとはいえ、賞賛の言葉を聞くのは面映ゆかった。

 あのとき、杖を持つ手に重ねられた手の質感も、温度も、何も覚えていなかった。柔らかかったのか、冷たかったのか、それとも。

 彼は無差別の破壊など望んでいない。テロで死んだ彼がそんなふうに考えるものだろうか。むしろ、死霊の性質を抑えるためにここにいるのではないか。荒唐無稽にすぎる思いは口にせず、胸の奥深くに沈めて蓋をした。


「優しいんだ」

「そう? でもさ、ぼくはここを動けないし、きみに触ることもできなくて、究極的には関われないからこその、外野の優しさだろ。無責任だから耳ざわりのいいことが言える」

「ミカエルにとってのわたしもそう? それでいいの?」

「なにわけのわかんないこと言ってるんだよ。喰っちまうぞ」


 おざなりな返事をして踵を返すや、ねえ、と呼びかけられた。


「もっとマシな入れ物ができたら、どっか遊びに連れてってよ」

「どっかって?」

「どこでも。海でも山でも都会でもいいや」


 外の世界を見てしまったから、好奇心と欲が疼くのだろう。


「卿がいいって言えば。遠くならライアンに車出してもらうね」

「誰だよ」

「人間の刑事。魔力が一切ない特異体質で、車の運転がすっごく上手で、たまに畑仕事を」

「それは知ってるけど、違うだろ! もういい!」


 連れて行けと言ったのはそっちではないかと思ったが、もういいと言うならいいのだろう。おやすみ、と声をかけて、セバスチャンの待つキッチンに直行する。




 駐車場の床に残されていた死霊化、悪霊化の陣の痕跡を発見し、陣に残った魔力を辿って術式を施した死霊術師を特定したのが事件発生から三週間後。現場作業員に混じって悪霊や死霊の生育を制御していた者たちが逮捕されたのがさらに二日後。

 魔術師ら全員が取り調べ前に自死、と不穏に過ぎる幕切れを迎えた事件から、人々の関心は急速に薄れた。闇に葬られた動機を掘り起こすべく捜査員らが街に散り、崩落した駐車場の解体が進められる中、鑑定待ちのコンテナが棚から消えると、ザヤは疲れた顔でユディテを抱擁し、バス乗り場に消えた。

 静寂の戻った魔術鑑識課では、通常業務と鑑定結果のデータ整理を並行して進めている。コーヒーマシンは毎日大盛況だ。

 肘の裏に貼られた絆創膏が痒い。卿から月一回の通院と血液検査を命じられ、何故か今日もサクヤに毒づかれながら採血されたのだ。そんなに嫌なら別の人を寄越してくださいと、何度言いかけたことか。

 卿とアンナはせっせと自動人形を運んできてはミカエルに憑依させ、実験に励んでいる。三度めからは人形師の女性同伴で、ふたりとも眼を輝かせているのだから反応に困る。

 茶化せる雰囲気ではないと悟ったらしいミカエルも言われるままになっていて、しかし「どっか連れて行く」のはもっと先になりそうだ。

 いつの間にか陽射しも和らいで、奇妙な夏が終わろうとしていた。

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