第十八章

 夕陽が差しこむ図書室は、アカツキの中とは違う赤い色に染まっていた。

「亜華音、来たのね」

 図書室の大きな窓に寄りかかるように、夕陽の赤色を背中に受けて立っていた時雨が図書室に入ってきた亜華音の姿を認めてふっと微笑んだ。黒く長い髪を揺らしながら、時雨は亜華音の方に向いた。

「こ、こんにちは、時雨さん!」

 時雨の一つ一つの動作が美しく見えて、亜華音の胸はどきどきと音を立てていた。挨拶をする声もやけに力が入って誰もいない図書室に大きく響いた。

「そんなに緊張しなくてもいいのに。それで、どうしたの?」

 露骨に緊張する様子を見せる亜華音を見てくすりと笑った時雨に問われて、亜華音はぎこちなく言葉を出す。

「その、どうしたって言われると……特に何もないのですが……」

「そうなの?」

「ただ、時雨さんに会いたいな、って思って……」

 絞り出した亜華音の言葉に時雨は驚きを隠せずにぱち、と小さく瞬きをした。

「私に、会いに?」

「私、『図書室の亡霊』に会いたくてこの学校に来たんです。それで、また会えるなら嬉しいって思っていたし、それに……」

 見つめ返す時雨の視線を感じて、自分の心臓が早く鼓動を打っていることも自覚しながら、亜華音は言葉を続けた。

「時雨さんに出会えたことが、本当に特別で、嬉しくて」

「それは、どうして?」

「私、今とは違う自分になりたいなって思っていたんです」

 時雨の髪がさらりと揺れる。少しだけ細められた黒い瞳の中に自分が映っていることも、亜華音にとっては特別なこと――その意味を、時雨に伝えたいと思った。

「ずっと、探していたんです……私にとって、何か特別なこと。普通に生きてたらきっと平凡にしかならないから、だから、『脱、平凡』って思ってここに来たんです。『図書室の亡霊』なんて普通じゃ出会えないし、もしも出会えたらもしかしたら自分が特別な人間になれるんじゃないかなって思って!」

 目をキラキラと輝かせながら語る亜華音に、時雨は目を丸くさせて、ぱちぱちと瞬きをした。

「つまり、その……。貴女は、『脱、平凡』というもののために、『図書室の亡霊』である私に、会いたかったの?」

 少しだけ苦い笑みを浮かべながら、時雨は首を傾げて亜華音に問う。亜華音はこくこくと強く頷いて、時雨を見つめ返した。

「そうです! だって、時雨さんと出会えた私は、今までの自分と違う私ですから!」

「今までの自分、と……」

 亜華音の言葉を繰り返す時雨の声はどこか弱々しく悲しげなもの。しかし、亜華音はそんな時雨の様子に気付かないまま話を続けていた。

「だって、あの時、時雨さんが……」

 言いかけて、亜華音は自分の心臓の音がさらに強くなったのを自覚した。中途半端に話が止まった亜華音に時雨が声をかける。

「どうしたの、亜華音?」

「あの時、時雨さんが私の名前を素敵って言ってくれた時。あの瞬間、私は変わったんだと思います」

「……え?」

 真っ直ぐに見つめる亜華音に時雨は戸惑いの声を漏らす。

「それはどういう……」

「私、あんな風に言われたの初めてだったんです。時雨さんみたいな綺麗な人に、自分の名前を素敵だなんて言われるなんて。だから、あの時から私にとって時雨さんは特別な人なんです」

 心臓の音にかき消されないように、亜華音ははっきりと時雨に言った。

「そう……」

 頷く時雨だったが、その表情は浮かない。口元に浮かぶ笑みにも喜びの感情は映し出されていなかった。そんな時雨の顔を見て亜華音ははっと目を大きく開けた。

「ご、ごめんなさい! 一人で変なこと言って! えーっと、私が言いたいのは、その……」

「構わないわ、亜華音。それで、貴女が言いたいことというのは?」

 先ほどまでの表情を消して時雨は目を細めて穏やかに微笑みながら尋ねる。亜華音は、頬を真っ赤に染めたまま、時雨の問いに答えた。

「特別な人を、守りたいって思ったんです」

「……特別な人?」

「最初は、私を助けてくれたり、真木田先輩と対等に戦ったり、強い人なんだなって思っていました。でも、時雨さんだけ戦っているのは見たくなくて……、傷つくのは見たくなくて、守りたいって、思って」

 前の戦いの時、透や沙弥にがむしゃらに挑んだのはただ、その思いがあったから。――時雨を、守りたいと思ったから。

 亜華音は言い終えた後、大きく息を吐き出した。少しだけ、頬の赤い色が落ち着いたようだった。

「ごめんなさい、一方的に話しちゃって」

「気にしなくていいわ。むしろ、……聞かせてくれてありがとう。貴女の思いがわかったわ」

 申し訳なさそうにする亜華音に時雨はにこりと微笑んだまま返す。そんな穏やかな表情の時雨を見て、亜華音は口を開く。

「時雨さん。あの、私も色々聞きたいことが……」

 亜華音の言葉を遮るようにチャイムが鳴り響く。続けて、図書室に設置されているスピーカーから放送が流れる。

『下校時刻になりました。校舎にいる生徒は窓とドアの施錠を行い、速やかに寮に帰ってください。繰り返します――』

「あっ……」

「亜華音、早く戻った方がいいんじゃないかしら?」

 時雨が天井を指差しながら、亜華音に言った。時計を確認すれば、いつの間にか六時三十分を示していた。

「えっと、それじゃあ……また、来ます」

「いつでもいいわよ。私はずっと、ここにいるから」

 微笑む時雨に一礼をして亜華音は図書室を出る。その胸の奥で再び鼓動が高鳴り始めていた。

「時雨さん……」

 微笑む姿も優しくかけられる声も、亜華音にとってはすべて特別なもの。それを改めて感じて、亜華音はきゅっと目を閉じて口角を上げながら寮へと向かった。

 一方、夕陽が傾いて影を落とし始めた図書室の中。

「……特別な、人」

 暗闇の中で時雨がぽつりと言葉を零す。目を閉じれば先ほどまでそこにいた亜華音の姿が思い浮かぶ。夕陽の光を帯びた瞳は強い輝きを灯して、その光を時雨に向けていた。

「亜華音、貴女はまだ何もわかっていない……。私は、貴女にとっての特別には成り得ないのよ」

 窓の外の陽が沈む。図書室は闇に包まれ、時雨の姿は黒く染まって消えた。


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