第五章

 自治会室を出た亜華音は、腕時計を確認してため息を吐き出す。授業が始まって十分ほど経過しているが、今の状態で教室に戻って授業を聞いても内容が頭に入らない気がしていた。

「……どうしよう」

 とぼとぼと廊下を歩きながら、亜華音は先ほどの透と芳夜の言葉、そして昨日の赤い月の下の光景を思い出していた。

 ずっと捜し求めていた『図書室の亡霊』、時雨。昨日、亜華音は透が確かに時雨を「消す」と言ったのを聞いた。それを受けても怯む様子のなかった時雨や、透の隣に静かに立っている芳夜。三人の関係の事など一つもわからない亜華音は肩を落として大きく息を吐きだした。このまま何もわからないままなのだろうか、と思った亜華音だったが。

「……そうだ」

 亜華音は教室に進めていた足を止めて、くるりと振り返って方向転換した。


***


 図書室の前は静寂に包まれていた。図書室自体が静かな場所ではあるが、授業が行われている校舎から離れていることも相まって余計に静まりかえっていた。

「放課後よりもこっちのほうが雰囲気出てないかな……」

 亜華音はそんなことを呟きながら、図書室の扉に手をかけた。がちゃ、と金属が触れる音がいやに響いて聞こえる中、亜華音は図書室の中に入る。

「来たのね、亜華音」

 中から聞こえてきたその声に、亜華音ははっと目を見開いた。

 図書室の窓際に立ち、黒く長い髪を揺らして亜華音の方を見る女子生徒――紅い月の下で出会った人物、時雨だった。

「時雨、さん……」

「自己紹介をした覚えはないけれど、そうね。私は、時雨と呼ばれているわ」

 穏やかな笑みを浮かべる時雨を認識した途端、亜華音の胸が高鳴った。頬が赤くなった亜華音を見て、時雨は目を細めた。

「どうして、ここに来たの?」

「私……、知りたくて」

 時雨の問いに、亜華音は答える。普段の亜華音からは想像できないような少しだけ弱々しい、小さな声だった。

「昨日のこと、本当のことだったんですか? 私、夢だと思っていて……」

「そう、夢だと思っていたのね」

 時雨は窓から離れ、亜華音に近づく。時雨の黒い瞳の中に亜華音の驚いた顔が映り込む。

「けれど、夢じゃないの。あのことも、私のことも」

「夢じゃ、ない……」

「貴女は私を求めてここに来たのでしょう? 『図書室の亡霊』の私を」

 時雨はゆっくりと亜華音に向かって手を伸ばす。時雨の手がそっと亜華音の頬に触れる。瞬間、亜華音ははっと目を見開いた。

「っ?!」

「ほら、冷たいでしょう?」

 赤く染まっていた亜華音の頬が、時雨の手の温度で少しずつ色を落ち着かせる。驚きで震える亜華音の目は、それでも時雨の姿を捉えていた。

「すごく、冷たいです」

「どれくらい?」

「氷、みたいに……」

「亜華音は素直ね。私、そういう子は嫌いじゃないわ」

 楽しそうに言う時雨は、亜華音の頬から手を離した。離れていく時雨の手を見ながら、亜華音は慌てて口を開く。

「あの、時雨さん」

「わかっているわ。あの空間のことでしょう」

 時雨が言うと同時に、鐘の音が響く。その音は間違いなく、昨日聞いたものと同じ。

「この音……!」

 ふわり、と風が亜華音の頬に当たった。風は少しずつ強くなり、ついには目を開けられないほど強くなって吹き荒れた。

「うわっ!」

 壁が消え、天井が消え、空が広がる。空間の色が少しずつ消えて、残ったのは赤い色だけだった。

「亜華音、目を開けて」

 風が吹き止むころ、時雨が優しく亜華音に声をかける。風で目を閉じていた亜華音は、ゆっくり瞼を上げる。

「ここ、は……」

 亜華音の周囲は赤い砂漠のような空間が広がっていた。

「ここは、『アカツキ』。私たちはそう呼んでいるわ」

「アカツキ?」

「そう。ほら、見てみて」

 時雨は空を指差した。亜華音は時雨の指先に視線を上方にずらす。そこには真っ赤に染まった月が、真っ赤な空に浮かんでいた。

「赤い月が浮かんでいるから、アカツキ。単純でしょう?」

 ふふ、と笑いながら言う時雨に亜華音は戸惑いながら時雨の顔に視線を戻した。

「あの、ここは、一体何なんですか? 昨日の爆発も、何が起きたのか……」

「ここでは、『魔法』が使えるの」

 ぱちぱち、と亜華音は瞬きをする。言葉の意味がわからず、亜華音はしばらく無言で時雨を見つめていた。時雨はにこりと微笑んだままで、何も言わない。

「ええっと……、魔法、ですか」

「そう。不思議な力は一般的に『魔法』と呼ばれるでしょう? だから、私はこの空間で発動できる不思議な力を『魔法』と呼んでいるわ」

「不思議な力……。じゃあ、昨日の爆発も」

「ええ。あれは透の魔法よ」

 穏やかな声色で言う時雨に対して、亜華音は昨日の爆発音と透の険しい表情を思い出して表情を引きつらせる。その表情のまま、亜華音は時雨に問う。

「……真木田先輩と、時雨さんはお知り合い、ですか? というか、学園自治組織と……」

「そうね。無関係とは言えないわ」

 亜華音の問いに深く語るつもりはないようで、時雨はそれ以上語らなかった。その愁いを帯びたような瞳の時雨を見て、図書室に来るまで抱いていた僅かな高揚感がふっと消えてしまった。

 触れてはいけない領域がある。伸ばしかけた手を、あと少しというところで戻したような感覚を亜華音は抱いていた。

「亜華音。貴女は、これからどうする?」

「え?」

 時雨の唐突な問いに、亜華音は裏返った声を上げる。時雨は、じっと亜華音を見つめている。

「アカツキのことを知った以上、貴女も今までと同じようには過ごせなくなるわ」

「それは、どういう意味……、ですか?」

「ここに入った以上、貴女はもう……戻れない」

「戻れない、って……」

 亜華音の言葉の途中。亜華音と時雨の間に何かが撃ち込まれて、爆発音と同時に砂埃が強く上がった。

「きゃあっ!」

 亜華音は悲鳴を上げて、目の前に生じた衝撃のまま倒れ込みそうになった。

「亜華音!」

 時雨は亜華音の腕を掴み、自身の胸元に引き寄せた。倒れることを避けれた亜華音は、引き寄せられた勢いのまま時雨にしがみついていた。

「大丈夫、亜華音?」

「はっ、はい……」

 すぐ間近に迫った時雨の顔に動揺しながらも、亜華音は時雨の問いに答えた。それからあたりを見て、亜華音は困惑した表情を浮かべる。

「今の、って……」

「昨日と同じことだ」

 戸惑う亜華音の声に答えたのは時雨ではない、低い声だった。

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