第十六章
「真木田さん、本当にありがとう。それじゃあ、よろしくお願いします」
深く礼をして自治会室を去ってゆく生徒の背中を見送った透は小さく息を吐き出した。
「よかったね、透」
くす、と笑い声を交えながら言う芳夜の方に透が顔を向ける。相変わらずの無表情だったが、その顔を見た芳夜はさらに笑みを深めた。
「なんだか嬉しそうに見えるのは、気のせいかな?」
「何故私が嬉しそうにする必要がある」
にやついている芳夜に対して透がわずかに眉の形を歪めて問うが、芳夜はにっこりと微笑んでみせた。
「好きだったんじゃないのかな、弓道」
芳夜の言葉に、透は何も答えない。透の沈黙が答えであると察した芳夜が小さな笑い声を漏らした。
「好きなことが出来るというのは、とても幸せなことだと思うけれど?」
透はぎろりと芳夜を睨んだ後、視線を逸らした。そんな透の背中に向かって芳夜は話を続ける。
「いいじゃないか透。学園自治組織の一員ならば、学園のために、生徒のために活動すべきだ。そうだろう?」
事の発端は、先ほどやってきた生徒だった。
先ほどまで自治会室にいたのは弓道部の部長。来週末に行われる地区大会で出場する予定の生徒がけがをしてしまい、残る部員が今回の大会に参加できない一年生しかいないため補欠選手を誰かに頼めないか、と自治会室に相談に来たのだ。その話を聞いた芳夜がその部員に提案をした。
「透が出場したらいいと思うんだけど?」
「……は?」
その提案にはいきなり話を振られた透だけではなく依頼してきた弓道部の部長も面食らったような顔をしていた。それから、部長は思い出したように「そういえば」と透の顔を見た。
「真木田さん、中学時代弓道部だったよね?」
「……そう、です」
いつもならはっきりと答えるはずの透が、ぎこちなく答える。そんな透の反応を芳夜は横目で見ていた。
「それなら、ぜひお願いしたいな。どうかな、真木田さん」
「……とはいえ、すでに一年以上は弓道に触れていません。私がお役に立てるかどうか」
「大丈夫、ちゃんと練習する時間や場所は準備するから。それに気負いしなくていいよ、うちの部員は優秀だからね」
にこりと微笑む部長に対し、透は眉の形を歪めて何かを言いたげな表情をしていた。芳夜はふっと微笑んで立ち上がり、透の隣に立った。
「生徒のために活動するのが学園自治組織ですから」
芳夜が透の肩をぽんと叩けば、透が一瞬はっと目を見開く。そのまま透が芳夜を睨みつけるが、部長もにっこりと笑って透に頭を下げてしまって――冒頭に至るのだった。
「透、君もきちんと学生生活を謳歌しないといけないよ。これは学生の間にしかできない特権だ」
「……本当に、休戦するつもりか?」
昨日のアカツキでの一件の後、誰かがアカツキの中で戦闘をしている様子はなかった。何を思ってそんな提案をナナコがして、そして何故ナナコの提案を芳夜が飲んだのか、透は理解できなかった。そもそも、宇津美ナナコという人間の思考を理解しようとも思ってはいなかったが。
そんな意図も含みながら透が芳夜に問えば、芳夜は肩を竦めながら答えた。
「その方がお互いに都合がいいだろう。反乱組織に入った佐木美鳥くんのことも気になるし、何より、亜華音くんの判断に少しばかり動揺したからね」
動揺、という言葉が似合わないような笑いを浮かべて芳夜は言う。
「ナナコも私も、亜華音くんを手元に置きたいと思っていた。というか、どちらかにつくだろうと思っていたというのが正解かな。まさか、あんな判断をするとは思わなかったけれど」
「あの目は、決意した人間の目だ。千条亜華音は、恐らく時雨を守るために剣を取るだろう」
言いながら、透はあの時の亜華音の表情を思い出していた。
――私は、時雨さんを守ります
透や芳夜、ナナコや沙弥の視線を受けても真っ直ぐに見つめ返すその瞳に迷いは感じられなかった。
「だが、いずれ気づく。時雨が、どのような存在であるか」
「かつての自分が、そうだったように?」
透の横顔を見ていた芳夜がぽつりと零した。
――透、貴女の、力を……
透の頭の中に、かつて自分に向けられた声が響く。その声を頭から取り除こうと思考を変えるために目を閉じる。それから開かれた目を、芳夜に向けた。
「そうだ。私は、千条亜華音にかつての自分を重ねている。だから、」
自分と同じ結末を辿る、亜華音の姿。自分と同じ結末を見せる、時雨の姿。
「けれど透、君はまだ……、時雨を信じているんじゃないのか?」
「……何?」
芳夜の言葉に透の眉間に皺が刻まれる。その表情は怒りではなく、戸惑いが含まれているもの。
「自分を重ねていると言うのなら、何故すぐに自治組織に引き寄せなかった? 確かに、私たちだけで彼女に力をつけさせることは難しいが、結末が同じというのなら止めることもできたはずだ」
芳夜の問いに、透は目を閉じた。記憶の中に現れるのは、優しい笑みを浮かべる――時雨。
「……私にも、わからない」
透の口から漏れたのは、いつもとは全く違う、弱々しい声。
「だけれど、私は……許さない。時雨の、ことを……」
放課後の美術準備室、美鳥は軽やかな足取りで教室の中に入った。
「失礼しま……って、誰もいないじゃん」
てっきりナナコ先輩がいると思ってたのに、と言いかけた口を閉じて、代わりに息を吐きだす。それから薄暗い教室の中を見渡すと、ひとつの席に目がとまった。
「ナナコ先輩の、席」
美鳥はゆっくりと席に近づく。背もたれをそっと撫でた後、静かに座った。誰もいない教室に、椅子が軋む小さな音が響く。
「ナナコ先輩……」
美鳥は静かに目を閉じた。その瞼の内側に映るのは、長い髪をおさげにして妖艶な笑みを浮かべる憧れの人――ナナコの姿だった。
「あたしも、いつかあんな風になれたなら……」
陽が傾いて、教室の中に赤い光が差し込む。そんな美術準備室の片隅で美鳥はいつの間にか眠りの中に落ちてしまっていた。
「……可愛い寝顔だね、美鳥」
静かに美術準備室に入ったナナコが美鳥のそばに近づいて、美鳥の頬を指先でなぞる。眠ったままの美鳥の口から小さな声が漏れる。
「ナナコ、せんぱい……」
「美鳥、君は本当に可愛い子だよ」
ナナコは美鳥の額に唇を落とした後、教室を去った。
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