第十九章
冷たい風が吹いている。
学園の屋上、そこに一人の少女がいた。
風が吹くたびに彼女の黒い髪が空に流線を描く。頬にさらさらとした髪の感触を受けても彼女は表情一つ変えない。
空を見上げる彼女の瞳は、黒色。そこに映るのはただ遠い空だけだった。
少しずつ太陽が橙に染まり、空が青から白い色に変わる時間。学園の喧騒は遠い向こう側に響いていて、彼女がここにいることは誰も知らない。
屋上のフェンスを越えた先に、彼女は立っていた。フェンスと向き合っていた彼女は身体の重心を支えのない背中側に向ける。
[貴女は孤独なの?]
どこからか、そんな声が聞こえた。その声を聞いた彼女の手が、小さく震えた。
[貴女は寂しいの?]
[貴女は苦しいの?]
[貴女は泣きたいの?]
[貴女は叫びたいの?]
[貴女は笑いたいの?]
[貴女はひとりなの?]
すぐそばから聞こえるような、しかし遠くから響くような。一人のものなのか、何人かのものなのか、それすらわからないような誰かの声。その声に問われても、少女は何も答えない。
もう、どうだっていいのだ。
少女は顔を俯ける。自分のつま先が視界に入る。一歩下がれば、その先には何もない。風だけが、背中を撫でていた。
もう、どうでもいい。
[貴女は変わりたいの?]
その声に、少女ははっと目を見開く。フェンスを握っていた手に力が入り、金属が震える音が何もない屋上に響き渡る。
「私は……ッ、」
――私は、貴女たちが思うような人間じゃない。
――私は、貴女たちが望むような人間じゃない。
乾いた喉からは声は出なかった――否、声を出すことを諦めていたのだ。
過去は変えられない。未来に行きつく先もわからない。
今は、ただ、苦しいだけだ。
彼女は目を閉じて、フェンスから手を放した。
風が強く、吹いた。
***
風が一つ吹く。
時雨が風で揺れた黒く長い髪を耳にかける。それから空を見上げて、そこに浮かぶ赤い月を見上げた。
アカツキに浮かぶ赤い月は、いつだって満月だった。月に照らされているだけのアカツキはいつも赤く照らされていて、今が何時なのかも忘れさせる。
「また、か」
時雨は自嘲するように小さく笑う。自分はまた月を見上げていたのか、と思って視線を落とす。赤い大地、赤い影、赤い空、そして赤い月。ここに来てから、ずっと変わらない光景。
「何も変わっていないわね……ここも、私も」
目を閉じて、時雨は自分の頬に触れる。手も、頬も温もりを灯してはいない。いつかの時から変わらない――亡霊なのだから。
「貴女は何も変わらなくていい」
その時聞こえてきた声に時雨はゆっくりと目を開ける。聞き慣れた声に、時雨は驚きの表情も浮かべずに振り返った。
「来たのね、沙弥」
穏やかに微笑む時雨の先にいたのは、沙弥だった。感情を映さない黒い瞳は、時雨だけを見つめていた。
「……休戦、じゃなかったのかしら。てっきり、誰も来ないと思っていたのだけれど」
「戦うつもりは無い。ただ」
沙弥は時雨のそばに駆け寄り、そのまま時雨を抱きしめた。抱きしめられた時雨は驚きの表情を浮かべることもなかった。一瞬、沙弥の背中を撫でようと伸ばした手をぐっと握りしめて静かに下ろした。
「貴女の、そばにいたい」
「……沙弥」
時雨の声を聞いた沙弥の腕に入る力が強くなる。その力の加わり方を感じながらも、時雨は沙弥の言葉を聞くだけだった。
「私は貴女が好き。だからそばにいたい。貴女に、そばにいてほしい」
静かな口調に対して、時雨を抱きしめる沙弥の手は震えている。横目で震える手を見た時雨は目を閉じて沙弥に問いかける。
「それが、貴女の望みなの?」
「……貴女は、知っているはずだ」
沙弥の腕の力が弱まる。時雨が一歩引けば、沙弥はまた時雨に視線を向けていた。その瞳は、震えていた。
「私は、貴女がいてくれればそれでいい。何だって、いい」
「……沙弥」
「時雨、私は貴女が好きだ」
震える瞳から、一筋の涙が落ちる。時雨はただ、何も言わずに沙弥を見つめるだけだった。
「平穏な日々というものも、想像したよりもつまらないものだね」
やれやれ、と小さく交えながらナナコは誰もいない図書室にやって来ていた。静けさに包まれる図書室の一席に座り、ナナコは窓の外に視線を向ける。
芳夜と共に休戦を宣言してから一週間。誰もアカツキで戦うことはなく、あの空気の震えがこの短い時間で恋しいと思ってしまうほどにナナコは退屈だった。透が時雨に奇襲をかけて休戦が終わるかと思っていたナナコだったが、結局その予想は外れてしまった。
「透くんが我慢強い子だったとは少し意外だったね。もっと短気で可愛い子だと思ってたんだけど」
小さく息を吐いて、ナナコは視線を窓の外から図書室の薄暗い一角に向ける。陽の当たらないそこは、まるで深い闇に包まれているような錯覚すら与えた。
「……ねえ、時雨。キミも退屈だとは思わないかい?」
くすり、と笑ったナナコがゆっくりと立ち上がる。瞬間、その姿が図書室から消えた。
「幟先生、意地悪すぎじゃない……? この課題の量多すぎだよ……」
放課後の自習室。亜華音はそこで一人、晶子から与えられた数学の課題と格闘していた。元々数学が得意ではない上に集中力も長く持たない亜華音にとってその課題の量は許容範囲を超えていて、集中力も完全に途切れてしまった今では頭を抱えて突っ伏しているところだった。亜華音が手を止めている部分は授業でも理解できていなかったところで、数字の羅列を見ても全く意味がわからなかった。
「もう無理……。先生に聞こうかな……」
頭の中で大きく白旗を振った亜華音は職員室に向かおうと課題のプリントを持って立ち上がった。
瞬間。
「……ッ!」
肌で感じる、異様な空気の震え。――アカツキに、誰かが侵入した気配。
亜華音ははっと目を見開き、辺りを見る。窓の外は、夕焼けで赤く染まっている。それはアカツキのあの空を彷彿とさせた。
「誰かが、アカツキに……?!」
亜華音はプリントを手放し、教室を飛び出た。走る身体の奥から、異様な鼓動を感じながら、図書室に向かって足を進めた。
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