最終回 父の刀

 その夜は無二斎の小屋に泊まり、翌朝に発つこととなった。小屋は狭く、三人でいると窮屈だったが、横になって休めるのはありがたかった。


 辨助との立会いで体中擦り傷だらけとなったが「本物の猟師から分けてもらった物だ」という強い匂いのする塗り薬を身体中に擦り込んでもらうと、あっと言う間に眠りに落ちた。


 夢の中に亡き父と母が現れた。


 片桐の庄を見下ろす丘――母を葬ったあの丘だ――に二人並んで立っている夢だった。びょうびょうと強い風が草を薙ぎ、父母を吹き飛ばさんばかりに吹いていた。二人は庄を見下ろすように立っていて、その表情はうかがえないが楽しそうに笑っているようにも見える。


 ――ああ、父と母が笑っている。


 朝、目が覚めたときには、目尻に涙が残っていた。





「これからどこへ?」


 身支度を整え、別れのあいさつを済ませた隼人に無二斎が聞いた。


「故郷へ帰ってみようと思います」

「故郷というと、叔父御が継いだという……」

「はい。子供の頃離れて以来帰ったことがありません。片桐の庄へ戻り、父母の墓参りなどしたいと思います」


 昨日までは夢にも思わなかった父母の墓参。叔父は喜ぶまい。しかし、これはけじめだ。この先、隼人が何をしようとするにしても。


 それはよいことだと無二斎はうなずき、鉄二は相変わらずであると父御には伝えてほしいと言って笑った。蓬髪の武芸者は、笑った顔が意外に子供っぽい。


「それでは」

「達者で」


 互いに軽く会釈して別れのあいさつは終わった。辨助の姿はない。


 無二斎の小屋を後にする前に、妻山を見上げると赤く燃え上がるようだった森の木々が、その葉を落として山全体が黒っぽくくすんでいた。


 ――木枯らしか。


 昨夜、びょうびょうと鳴る風の音を聞いたのは夢の中の話ではなく、この秋最初の木枯らしが妻山に吹いたのだろう。


 尾根への道に差し掛かったところで、小屋には見当たらなかった辨助が隼人を待っていた。昨日の粘りつくような気迫を身にまとった遣い手とは打って変わり、今日の辨助は所在なく心細げな少年にしか見えなかった。


「行くのか」

「ああ、辨助も達者でな」


 肩にぽんと手を置いて、別れを告げた。まだ子供の華奢な肩だ。


「おれも行きたいんだ」


 辨助を置いて尾根への道をいこうと踏み出した足が止まった。背中越しに辨助が問いかける。


「父のほかにおれを負かす者がいるとは思えなかった。世の武芸者は皆隼人のように強いのか?」


 子供の世間は狭い。そのとおりだ。隼人のような武芸者など世の中には数え切れぬほどいるだろう。


「おれは自分がどれほどのものか知りたい。自分の『強さ』がどれほどのものかを」


 そうか。お前もそうなのか辨助。お前も強いとは何かを問う者となるのか。


「おれと一緒に行くというのか?」


 振り返ると、辨助はこくりと頷きながらも顔が上げられないでいる。心のうちに迷うものがあるのだろう。


「だめだ」


 年齢の問題ではない。心の問題だ。まだ迷いがあるうちはその時ではない。十年前、隼人が片桐の庄を出るときには、何の迷いもなかった。


「まだここで教わらなければならないことがあるはずだ」

「でも……」


 迷いながらも食い下がる辨助に、腰から野太刀を引き抜いて差し出した。目を丸くしてそれを見る辨助に隼人は諭すように言った。


「これをお前に預ける」


 ただひとつ隼人の手元に残った父の形見だ。


「父、刀柳斎の刀だ。お前が持っている方が父も喜ぶだろう。ここを離れるときがくれば、その刀を携えておれを訪ねてくるといい」


 そうだ、待っていればいい。この子が大人となりひとかどの武芸者となって自分を訪ねてくるのを。


 そのときには無二斎のいう『強さ』を体現した者として、辨助は隼人の前に現れるに違いない。


 刀を辨助の手に押しつけるように渡すと、じゃあなと言い置いて背を向けた。


 なんだか、身も心も軽くなったようだ。あれは必要のないものだ。少なくとも隼人が刀を振るうことで『強さ』を求めることはもうないだろう。


 ――いい天気だ。


 けもの道の両脇に続く森は、昨夜の大風であらかた葉を落とし、見通しがいい。木々の枝を透かして見える青い空が鮮やかだ。踏みしめる落ち葉は、まだ赤や黄色が真新しい。一刻ほど上り坂をたどって尾根に出、妻山を振り返ると昨日とは景色が一変していた。


 山腹を彩る紅葉が、まるで錦を纏ったように鮮やかだった国境の山々は、木枯らしに吹かれてくすんだ木の幹や岩肌を大きく晒している。山の秋が過ぎゆくのを目の当たりにするのは寂しいが、美しいものの大仰な装束を脱ぎ捨ててその身が軽やかになったようにもみえる。雲ひとつなくどこまでも青い空が、山々の上に広がっていることが、尚更そう感じさせるのかもしれない。


 コン――。


 はるか遠くの谷間から木を割る乾いた音が聞こえてきた。あの子が今日も鉈を振るっているのだ。


 口々にさえずり渡る小鳥の群れが、尾根筋を街道へと向かっている。隼人より一足早く、人里へと下りるのだろう。


 なんだか愉快だ。


 隼人は、足取りも軽く尾根筋を街道へと続くけもの道を歩き始めた。

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紅蜻蛉(あかとんぼ) 藤光 @gigan_280614

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