紅蜻蛉(あかとんぼ)

藤光

第一回 風の墓標

 遠くで神鳴りがすると思ううちに虫の声が聞こえなくなった。雨が降り出したようだ。広い館にある小さな離れの座敷ざしきでは、潮が満ちてくるように雨音がそのかさを増してきた。


 薄い夜具の上の母が静かに息をひきとるのを隼人はなすすべもなく見守るしかなかった。

 三日前、十歳になる隼人の手を探るように取ってごめんね――と涙ながらに呟いたのが、母の最後の言葉となった。

 元々小柄な人であったが病を得るうちに、その手は薄く小さなものになってしまっていた。そして、この広い館に母とふたりきりであった隼人はひとりきりになった。


 神鳴りがだんだんと近くなってくる――。







 母の葬儀と野辺送りは、まだ少年の隼人とわずかの郎党で済ませた。


 父に代わって片桐家の当主に収まった叔父や隼人の従兄弟いとこたちは、母の葬儀に一切顔を見せなかった。

 父が存命のうちは、館の離れに当主である父の顔色を伺いながら厄介になっていた人々がである。それどころか、叔父は母が死んだと知るとさっそく母屋に隼人を呼びつけ、館を出ていくよう通告した。


 戦国の世である。


 戦さは方々で絶えず行われていた。諸侯の同盟に応じ、隼人の父も片桐家の当主として一族郎党を引き連れて出陣し、各地に奮戦したが敵方の奇襲に不覚を取って討ち死にした。


 事後の始末と一族郎党を束ね領地と領民を守っていく難事業を、十にも足らぬ隼人に託すことはとてもできないと考えたのであろう。一族の宿老が頭を突き合わせて協議した結果、片桐の家は当主の弟である隼人の叔父が継いだ。


 だが、大人の都合はまだ子供である隼人のあずかり知らぬところである。


 隼人にとっては――。ついこの間まで離れに住んでいた叔父家族に母屋を取られ、逆に母と共に離れに移ったこと。

 言葉にはしないが心の中では見下してきた従兄弟たちから、逆にさげすまれ馬鹿にされるようになったこと。

 館に住まう郎党たちが気の毒そうに視線を寄こすものの決して話しかけてこようとはしないこと。

 母が病を得、寝込んでしまったこと。父が亡くなって起こった様々な事ごとが悔しくて、理不尽でならなかった。


 そこに、母の死である。


 己の運命が目まぐるしく転変し、心の置きどころがなかった少年の胸にはじめて訪れた区切りが、最愛の人の死であった。


 片桐の庄を見下ろすことのできる小さな丘の上に母は葬られることとなった。


 その日の空はどこまでも広く青色で、刷毛はけで掃いたような白い雲がいくつか飛んでいるきりだった。冷たく強い風に草木がざわめいている。今年最初の木枯らしだ。


 郎党たちによって草が刈られ墓穴が穿うがたれた。そこへ静かに下ろされた棺に湿った土塊つちくれを被せてゆく。右のほほを涙が伝う。優しかった母の棺に黒く重い土塊を被せる。左のほほにも涙が伝う。


 ――強くあらねば。


 父は弱かったために戦さで討ち死にした。母は弱かったため病に死した。隼人は弱い子供であるためにいま館を追われようとしている。


 守りたいものがあるなら、手に入れたいものがあるなら――。


「強くならねばならぬ」


 隼人はかれたように繰り返し口に唱えながら土を投げ続け、ほほを伝う涙を拭うことなく真新しい土塊の小山に墓標を立てた。

 びょうびょうと吹き付ける風に飛ばされぬよう深く、強く、まっすぐに。

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