第四回 一刀のもとに
妻山の刀柳斎殿の住まいは
田に出て土を起こしている百姓に隼人が道を尋ねても、きまって応えは「さてなあ」と要領を得なかった。なかに知っている者があっても妻山という山を知っているだけで、「刀柳斎」という名を知っている者はひとりもいなかった。
仕方がないので隼人は妻山を目指して歩いている。
早朝に屋敷を出た時は、霧が濃く、凍てつくような寒さだったが、日が高くなるに従って霧は晴れ、日差しが届いて道は春のような陽気だった。青い空を泳ぐように飛ぶ赤とんぼを目で追いながら山への道をたどる。
あの後――。青白い顔に、思い詰めた表情で現れた隼人を見て、さすがの仁斎も気圧されたようだった。
「いかがした」
居室で門人のひとりと茶器を眺めていた仁斎は目を丸くして、養い子の顔と手に下げた木剣を交互に見比べている。理由はわからず、いまにも手の木剣で打ちかかられるのではないかと心配したのだろう、仁斎の顔からも血の気が引いていた。
先日の話のことで返答に参りましたと隼人が答えると、露骨に安心したため息を漏らし、慌てて取り繕うように座るよう勧めた。
仁斎の居室は、
仁斎に相伴して茶器を眺めさせられているのは、三十過ぎのやぶにらみの男、師範代の
鉤崎の存在が気になりはしたが、隼人は腰を下ろして早々、上杉家との縁組はお断りしたいと切り出した。どのみち知られることであるし、仁斎と鉤崎との関係を思えば、すでに知っていると考えた方が自然だったからだ。
「そうは言うが、隼人どの」
仁斎は青白い顔を渋い顔に変えて、翻意するよう促した。
相手は名家であり、求めてもなかなか得られぬ良縁であること。花嫁となるべき娘は十五歳と年齢の釣り合いも丁度良いこと。義父となる当主は人柄人望共に申し分なく、領民からも慕われる好人物であること。
「隼人どのが断るというなら、代わりに儂が婿入りしたいくらいのものだ」
そうまで仁斎は言ったが、隼人は固辞した。そして逆に――。
「大恩ある仁斎先生のお話をお断りするからには、このままのうのうと門下に靴を並べ続けることはできません。今日を限りにお暇をいただきたいと思います。ついては、最期に先生と一太刀交わしたいと思い、お願いにあがった次第」と一気に話し、木剣を下げて立ち上がったので、仁斎は再び顔を青くして目を剥いた。
「待て待て」
腰を浮かせて狼狽する様子は、一門を構える武芸者としては軽々しい。そんな師を横目に、それまで一言も口を挟まなかった鉤崎が、つと立ち上がった。
「外に出ろ」
「鉤崎」
驚いて仁斎が見上げるなか、隼人と鉤崎は居室に面する庭に降りた。
「ご心配なく。ひとつふたつ殴りつけて目を覚ましてやるだけです」
寡黙な師範代は、庭に続く稽古場から手頃な木剣をとると隼人の前に立った。鉤崎新吾は大男だ、近くに立たれると見上げる形になる。
「いいな、隼人」
隼人にとっては計算外だった。いくら隼人の腕が立つといっても、老境に差し掛かった仁斎と違い、まだ壮年の師範代が相手では分が悪い。三本立ち会えば二本は相手が取るであろうくらい力量に差があった。しかし、いまさら木剣を収められるわけもない。
「承知」
返事を聞くやいなや、鉤崎の木剣が隼人の頭をめがけて振り下ろされた。すんでのところでそれをかわすと、隼人は大きく飛びすさって鉤崎と距離を置いた。
間合いを詰めるのが尋常でなく速い。あっという間に鉤崎の距離に踏み込まれた。しかも太刀行きには一毫の迷いもない。
――受け損なえば、殺される。
気迫で相手に制せられれば、その先に待つのものは敗北の二文字以外にあり得ない。初太刀、鉤崎は確実に隼人を圧倒した。
隼人は逃げた。鉤崎の剣尖を避けて、庭から稽古場へ駆けた。後世の武士が嗜んだ剣術と戦国の武芸は似て非なるものだ。
戦国の世の武芸では、敵に背を向けること自体は恥ではない。肝心なことは最終的に勝利を収めることだ。その過程では敵に背を向けることもあり得る。勝利への過程に拘泥する後世の剣術とはそこが最も異なるといえるだろう。ともかく、隼人は逃げた。
相手が逃げ出すと、攻め手も浮き足立つものだ。逃げる姿を見て、勝気にはやるのである。
しかし、鉤崎はまったく動じない。隼人を追いながらも一定の間合いを保ち、徐々に、しかし確実にそれを詰めてくるのだ。
――さすが。
まるで猫に追い詰められる鼠だなと、隼人は自嘲の中にも感嘆せざるを得ない。さすが一門の師範代を務めるだけはある。理に則って隙がない。
再び、踏み込み早く鉤崎が間合いを詰めてきた。横薙ぎに胴を払い、続けざまに喉を突いてくる。これも常人離れの速さだった。かろうじてかわす、そして、また逃げる。
――逃げることしかできぬ。
稽古場から庭へ駆けながら周囲を見回す。生垣と建物に囲まれた邸内は狭い。いまは逃げて距離を取っているが、いずれそれも詰められるだろう。もっと広い場所であれば。
ふと見ると、庭から続く濡れ縁の端にいる仁斎が見えた。茶室造りの居室へと続く障子を閉めて、その前に胡座している。
――これだ。
隼人は、駆けていって庭から濡れ縁に飛び上がった。鉤崎が追う。
濡れ縁の奥は、障子を隔てて仁斎の茶室造りの居室だ。隼人は駆け上がった勢いのまま、その障子を踏み破った。真新しく白い障子紙が避け、木の枠がばりばりと乾いた音を立てて弾けた。
「あっ」
わざわざ京から職人を呼んで普請した自慢の居室である。仁斎が片膝立ちになって、隼人を制止しようとしたが、勢いは止まらずそのまま隼人は総畳敷の部屋に雪崩れ込んだ。
「――!」
鉤崎は一瞬、部屋に踏み込むのを躊躇した。師の意を汲んで踏み込まざるべきか刹那考えたのだろう。それは、隼人と鉤崎が木剣を抜き交わしてはじめて生まれた鉤崎の迷いであり隙だった。
この機を逃すわけにはいかない――。隼人は鉤崎の懐をめがけて低く、畳に伏せるように飛んだ。木剣をすくい上げるように遣って、鉤崎の胴に打ちかかる。反応して鉤崎は上段に構えた木剣で隼人の剣を打ちおとしにかかったが――わずかに遅れた。十分な手応えと共に隼人の剣尖が鉤崎の脾腹に深く食い込んだ。
「まて。それまで」
言葉もなく鉤崎がうずくまるのと、仁斎が勝負を止めたのは、ほぼ同時だった。
――勝った。
結果的に、隼人はたったの一撃で師範代を破ったことになる。立ち会っている間は気づかなかったが、極度の緊張のためか、雨に降られたように全身汗みずくになっていた。
腰を上げた仁斎が、自分の羽織をうずくまる鉤崎に頭からそっと掛ける様子が見えた。仁斎は、そうした敗者に対する心遣いが細かい男だった。
「隼人どの」
仁斎から声をかけられて、隼人は濡れ縁から飛び降りて、庭の地面に畏まった。土足のままであったのを思い出したのだ。
「よいよい。見事な勝負だった。師範代を一撃で破るとは、儂が見るよりさらに隼人どのの剣技は進んでいたようだ。もう儂が教えることはない」
表情豊かないつもの仁斎ではなかった。口元に微かな笑みをたたえるのみで、眼差しは穏やか、声音はむしろ冷徹なくらいだった。
「出て行くというのだな」
「はい」
まぶしいものを見るように仁斎は目を細めて隼人を見た。
「立派になられた。ここへ来たときはまだ子どもであったのに……」
養い親とはいえ、親子の情は欠片も感じたことはないと思ってきた。だのに隼人の身体が震えるのはなぜだろう。口先に唱えるだけで、本当の恩義は受けていないと思ってきた。だのにまともに顔を上げていられないのはなぜだろう。
「隼人どの」
「はい」
「妻山の刀柳斎を訪ねるのだ。そなたの求めるものは、その者が持っている」
隼人が伏せていた顔を上げると、驚いたことに仁斎は涙を流していた。呆然として自分を凝視する隼人に向けて仁斎は続けた。
「儂のようなこけおどしの強さではない。本当の『強さ』が何かを知っている刀柳斎に会いに行け。そうすれば隼人どのの前にいまとは別の道が開けるだろう」
行けと言い捨てて、仁斎は部屋の中に姿を消し、いつまで待っても出てくることはなかった。
それが昨日の出来事だった。今朝早く、隼人は十年近くを過ごした屋敷を出た。二度と戻ることがないかもしれぬと思えば、庭の小石すら何やら懐かしげに思える。
不思議なことだ。一刻も早く強くなり、この屋敷を出て行くことを念じつつ修行に励んできたのではなかったか。いま出て行こうとすると、そこかしこに思い出が散らばり懐かしさに足が止まりそうになる。
隼人は自らを励まして屋敷の門を出た。見送る者は誰もなかった。思えば、子どもの頃、片桐の家を出たときもそうだった。あのときも見送る者はなく仁斎の後をうつむきながら歩いてこの屋敷に向かったのだった。
――そのおれが、いままたこうして家を出てゆく。
門の向こうを見透かすが道はまだ暗く、白い霧の中へ溶けてゆくように消えている。
だが夜明けは近い。
隼人は菅笠の縁をぐっと目深に下げて、ずいと一歩を踏み出した。
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