第三回 天井の染みと
丸二日、剣を手にせず自分に与えられた小さな部屋で寝ていた。障子越しに庭の明かりが部屋に差し込むが、ずいぶん暗い。
暗がりの中で、ぼんやり見上げる天井板の染みが奇怪な化け物に見えたり、吠えつく獣に見えたり。
――障子も張り替えんとな。
隼人が二日間も
――ほうっておいてほしいのだが。
親しい人々の心遣いが
いまの隼人には、上杉家との縁組という仁斎の話だけで頭が いっぱいであった。
――仁斎も、仁斎だ。
いまだ修行中で二十歳にもならぬ隼人に縁組とは、若い養い子のことなど、己の人脈づくりの手駒程度に考えている証拠だろう。
後で、物知りで通っている同僚に聞いたところによると、話にあった上杉家は、鎌倉に幕府を開いた源頼朝公と祖を同じくする河内源氏の名流で、治める領地はわずかながらも武家の名門ということらしい。権勢家でなければ名家好きの仁斎らしいと思った。
――思い通りになってたまるか。
腹のなかから反発心がむくむくと
縁組ともなれば、家を継いだ叔父に伝えなければならない。片桐の家から隼人を追い出したいと考えているであろう叔父は、一も二もなく賛成するに違いない。田舎の小さな武家とはいえ、鎌倉将軍家に連なる名家を継ぐとなれば、真の嫡子を追い出したという後ろめたさも幾分か薄らぐだろう。
――忌々しい。
片桐の館を出てまもなく十年になろうというのに、剣の腕は師をしのごうとしているというのに、隼人は自分が小さな童のまま変わらないように思えた。現に周囲の大人たちの思惑が、いまも隼人の将来を左右しようとしている。
――いやだ。おれはあのころのような童子のままではないぞ。
子供の頃のことで思い出されるのは、門下では飛び抜けて若く、仁斎の屋敷にいることがそもそも場違いであったこと。兄弟子たちからの冷ややかな視線。強くなりたい一心で、剣を振るっている間だけは自分らしくいられると、ことさら稽古に打ち込んだこと。
薄暗い部屋で染みだらけの天井を見上げていると、奇妙に昔が思い出される。染みの化け物は意地の悪かった兄弟子にも、それを打ち負かそうと剣を振るい続ける自分自身にも見えてきて面白い。
やがて、染みの隼人は剣を片手に薄汚れた天井を縦横無尽に駆け回り始め、これまた染みで出来た化け物や兄弟子たちを次々と打ち払っていくのだ。
――あはは。
こんなにぼんやりしたのは、この屋敷にきて以来はじめてだ。
ここにきた当初は心細かった。
まだ子どもだったのだから当然だ。養い親とはいえ、仁斎が隼人を家族のように扱ってくれるわけではない。大勢の弟子たちや家人と同様に朝から屋敷の用事に使われ、身体が空くと武芸の稽古がはじまるという毎日だった。
修行に公私の別があるわけではなく、日々の勤めそのものが修行の一部、生活のすべてが修行そのものだった。
厳しい修行の毎日に、片桐の館が恋しくなかったと言えば、それは嘘になるだろう。何度も夢に見たし、もし父が死ななければどうだったかと何度考えたかしれない。
ただ、その度に母が亡くなったときの叔父や従兄弟の仕打ちを思い出して耐えたのだ。
あのときの冷え切った叔父の目、従兄弟たちの
思い出したくもない悲しい記憶が、隼人の弱気を
――忘れたか。あのときの思いを。
母が亡くなってからの数日のことを思えば、兄弟子たちの意地悪や家族のいない寂しさなど何ほどのこともなかった。
それに、ここには隼人の求めるものがあった。
仁斎は武芸者である。彼の下で修行を積めば、きっと「強さ」を手にすることができる。隼人のゆく道を切り開くための「強さ」を。
幸いにも剣の才に恵まれた。
隼人自身だれにも負けぬくらい稽古に打ち込んできたとは思うが、修行の質量で
隼人を
「強さ」を手に入れる資格は、限られた者にのみ与えられるのだと。そして、どうやらそれは自分であるらしいことを。
昔から、考えるのは苦手だ。
部屋で寝転がって三日目も昼を過ぎた頃になって、隼人は思い定めた。
――今より一層強くなればいい。
師である仁斎はもちろん、世の誰もがその強さを認める武芸者となることだ。何者にも何事も無理強いされない強さを手に入れることだ。
そのためには今、剣を置いて上杉家に婿入りするわけにはいかない。さらなる強さを求める、自分にはその資格があるはずだ。
薄暗い部屋のなかで、隼人は木剣を携え身を起こした。
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