第五回 燃える山
ついついっと、赤とんぼが青い空に舞い上がる様を眺めていると、子どもの頃に戻ったかのようだ。
もっとも、子どもの頃の隼人は、村の子たちが赤とんぼを追って駆け回る様子を横目に、稽古として木剣を振らされていたのだが。
仁斎の下では、同じ年頃の子どもたちに交じって遊ぶことは許されていなかったし、自身がそう望んだこともなかった。大人と一緒になって剣の修行に明け暮れ、一日も早く「強くなる」ことしか頭になかった。
そんな修行の日々を送ってきた隼人だが、とんぼが泳ぐように秋の空へ舞い上がるのをみると、一緒に吸い込まれていきそうに思ってしまう。子ども頃はもちろん、今でもどうにかするとそんな風に感じてしまう。
子どもの頃に、子どもらしく居れなかったから、今もそう感じるのだろうか――。
昨夜、仁斎のいう「妻山の刀柳斎」について、同輩の間を聞いて回った。
同業ともいえる近在隣国の武芸者については隼人にも一通りの知識はあったが、その中に刀柳斎という名はなかった。同輩にもその名の武芸者について知っている者はまったくいなかった。仁斎のいう刀柳斎とは何者なのか。
そもそも師である八田仁斎の経歴が謎めいている。自らの流儀を無尽流と唱え、この地に居を構えたのが二十年前。以来、着実に門弟を増やし、近隣はおろか遠国にまで門弟二百名と知られるほど武芸者として成功している。しかし、その仁斎の来歴について知っている者はだれもいない。仁斎自身が語りたがらないのだ。
どこのどういった家に生まれ育ったのか、だれについて武芸を修得したのか、なぜこの地にやってきたのか。すべて謎だ。
ただ、若い頃、剣術の師について武芸を修めたことと、その頃の仁斎には剣術の修行を共にした兄弟弟子があったらしい。その師や兄弟弟子と袂を分かつこととなった理由を仁斎が語ったことは一度もない。しかし、この二十年間、彼らとまったく行き来のなかったことは確かだ。
妻山の刀柳斎が、その仁斎の兄弟弟子なのかどうかは分からないが、そうであるならまったく世の中と交わることのない武芸者なのかもしれない。そうでなければ、なにがしかの噂が隼人たちの耳に入るはずだった。
道すがら聞いたところによると、妻山は国境の峠から、けもの道を入って半日ほど歩いた先にあるらしい。そこに人が住むとはだれも知らなかった。
――本当に、そんな山奥に住んでいるのなら、うわさの聞こえてこようはずもない。
隼人は、峠の手前にある集落の一軒に頼み込んで、一晩の宿を借り妻山を目指した。
まだ朝露の残るけもの道に分け入ってから半日、いくつかの谷を下りいくつかの尾根を越える。国境の山々は紅葉に色づき、さながら錦を纏ったかのようだ。やがて見えてきた妻山は、ひときわ真っ赤に燃え上がっているように見えた。
ここまでやってきたが、どうやって刀柳斎を訪ねたものだろう。ここまで集落はおろか、家一軒、畑一枚見ていない。もちろん、今朝から一人も人間は見ておらず、出会うのは兎や鹿ばかりである。
思案している隼人の耳に、コンと乾いた音が届いた。けものがたてる音とは異なって、この静かな山奥によく響く。時折響くその音に耳を澄ましながら、それを追う。四半刻ばかりそうしていただろうか、目の前のけもの道が途切れ小さな畑に出た。見ると幾筋か続く畝の向こうで子どもが一人、枯れ木に鉈を振るっている。先ほどまでの乾いた音は、薪を作るために枝を落とし、木を割る音だったのだ。
十一、二歳の男の子だ。
突然山から現れた不審な男に驚いたのだろう。子どもは凍りついたよう動きを止め、隼人から目を離せないでいる。しばらく隼人とその子どもとのにらみ合いが続いた。
「こちらは刀柳斎どのの住まいではないか」
なるべく優しい声音で尋ねたつもりだったが、子どもはぱっと駆け出して木立の向こうに消えた。男の子の駈け去った方向に住まいがあるのだろう。
小さな畑の畝には、わずかばかりの豆と芋が植わっている。男の子が消えた方に木立を回り込むと、粗末な小屋があって、今しも菰を上げて男がひとりが出てきたところだった。
――刀柳斎か。
しかし、麻の半着に鹿皮を羽織った山袴姿は、明らかに猟師の身なりである上、杖を片手にひどく片足を引きずっていた。
隼人は落胆したが、辞を低くしてその猟師に尋ねた。
「断りもなく入り込んで申し訳ない。人を探しているのだが、刀柳斎という武芸者をご存知ないだろうか。」
白髪交じりの蓬髪を無造作に束ねただけの赤ら顔の男は、黄色く濁った目をぎょろりと動かして隼人を睨め付けた。無言のまま、穴のあくほど隼人の顔を凝視している。
――こやつ阿呆か。
半日をかけて山を分け入り、目当ての場所に来てみれば、住んでいたのは呆けた猟師と子どもだけだったとは。それともまだほかに住人がいるのだろうか。
「とうりゅう……さい?」
男の口がきけぬわけではなかったようだ。髭に隠れた口をもごもごと動かした。
「左様。わたしは片桐隼人と申す。刀柳斎どのをご存知ないか」
「片桐――?」
隼人の名を聞いた途端、明らかに男の顔色が変わった。
「ご存知なのか? もしやあなたが刀柳斎どのでは」
「ちがう」
男は首を振った。やはり――刀柳斎ではなかった。隼人は気落ちしたが、男が継いだ言葉に瞠目することとなった。
「――が、知らぬわけでもない」
知っている?
俄然、勢い込んで尋ねることになった。
「訳あって刀柳斎どのを探している。ご存知のことがあれば、多少なりとも教示願いたい」
仁斎の元を飛び出した隼人には、今のところ刀柳斎の行方を探し出すほか目的がない。刀柳斎が行方知れずのままでは、隼人自身、糸の切れた凧のように、彷徨い堕ちていくだけの存在になってしまいそうだった。
猟師はあごを引くようにして頷き、隼人を自身の住まいであろう小さな小屋に促した。
「ちと狭いが、小屋へ行こう。辨助――」
入り口の菰をぱっと捲り上げて、先ほどの子どもが顔を見せた。くりくりっとした目が可愛いが、引き結ばれ口元に利かん気が溢れている。名を辨助と言うのだろう。
「客人に水を」
猟師がいい終わらぬうちに駆け出して、辨助は木立の中に消えていった。そういえば、半日近く歩きどおしてひどく喉が渇いていたことを思い出した。もう昼だろう。
小屋は狭かった。そして薄暗い。人がふたりようやく横になれる程度の板の間とその倍程度の土間、その土間の隅に炉が切ってある。壁には大小さまざまの罠が掛けられ、軒下には鹿の革がいくつも吊られていた。
その板の間の二枚きりしかない
「かたじけない」
口にすると染みるように冷たくてうまい。冷たいからには、汲み置きではないだろう。辨助は川まで走ったのだろうか、この子は息ひとつ乱していないが。
「さて」
猟師が改めて口を開いた。
「刀柳斎について知りたいということだが、その訳を聞かせていただこうか」
こうして向かい合って座ってみると、この男、ただの猟師とは思われない。不自由な左足を無造作に投げ出して座るさまはだらしないが、その所作や物言いの端々に隠し切れない知性を感じるのだ。
「左様。わたしは年来、無尽流・八田仁斎について武芸を学び――」
隼人は、剣術の道を更に深めるため、師である仁斎からの縁組を断わったこと。師範代との立会いの後、その門を出たこと。去り際に師が残した言葉に従い、ここに至ったことなどを包み隠さず語った。
「――いまは、刀柳斎どのの行方を探すことのみが、この先の道を求めるよすがなのです。どうか、あなたの知っていることを教えていただきたい」
両の拳を板の間につくと隼人はこうべを垂れた。話の間、目を閉じ、時折頷きながら聞いていた男は薄く目を開けた。そして、なんと切り出したものか、わずかに迷う様子もあったが、しゃがれた声で話しはじめた。
「――肝心なことから話そうか。刀柳斎はここにはおらぬ」
やはり。この小屋には、この男と辨助が生活していくだけの、それも最小限必要なもの以外何もない。刀柳斎はここにはいない。
「そればかりか、刀柳斎はすでにこの世にはない。死んだのだ」
「死んだ?」
「そうだ。刀柳斎は十年も前に死んでいる」
すでに死んでいる。頭のどこかでそうかもしれないとは思っていた。しかし、まさか本当に死んでいたとは。仁斎は「妻山の刀柳斎」と確かに言った、このことを知らなかったのだろうか。
「このことは、お主の師、仁斎から便りで知らされたことだ」
仁斎は知っていた? ならばなぜ、刀柳斎を訪ねろなどと、できもしないことを隼人に語ったのか。
そして、なぜ仁斎はこの男に刀柳斎の死を語って聞かせることになったのか。この男は――何者か。
「我と仁斎、そして刀柳斎は、同じ武芸の師についた兄弟弟子だった」
男のしゃがれた声に隼人は、あっと思った。刀柳斎が仁斎の兄弟弟子ではないかという当て推量は、あながちでたらめでもなかったのだ。そうであるなら、この男も根っからの猟師などではなく、かつては武芸者だったはずだ。
「師の名は、葉賀彦右衛門幻軒。戦さ働きの妙技を極め、剣術と小具足術に一流を立てた人だ。名付けて無尽流という」
無尽流は、仁斎が標榜した流儀と同じ名だ。仁斎は剣術をもっとも得意としたが、武芸は弓矢、槍術、小具足術となんでも指南していた。
「我ら三人は、師の門下において特に剣術に秀でており、幻軒門下の『三斎』などと呼ばれていた。即ち、一番の年かさで剛直な剣を遣った刀柳斎。変幻自在の技で相手を惑わすことを得意とした仁斎。そして、もっとも若く軽捷な身こなしが自慢であった我――無二斎」
目の前のかつては武芸者であった男――無二斎は、しゃがれ声で、しかし淡々と語りはじめた。
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