第九回 二刀の怪物

 辨助が汲んできてくれた水は冷たくて美味かった。無遠慮といっていい程の近い距離で隼人が水を飲む様子をうかがっている辨助に美味かったと礼を言うと、うれしそうに相好を崩して畑の方に駆け去った。また薪を作るのだろうか。真の親子でないと聞いたが、見るほどに――ちりぢりの蓬髪といい赤ら顔といい――無二斎にそっくりだ。


 その無二斎は語り疲れたのか、横になるというので、隼人は小屋の外に出ていた。ここは静かだ。時折、木々の梢を鳴らす風の音のほかは、しんと耳に染みるような静けさだ。傾き始めた穏やかな陽光が、妻山を赤や黄色に紅葉を照らし出している。まるで全山が燃え上がるようにみえる、見事な眺めだ。


 コン――。


 畑の方から鉈で木を割る音が聞こえてきた。遠くに辨助が薪を作り始めたのだろう、枯れ木に鉈を振るっているのが見える。


 山に捨てられた子。隼人も十二、三歳の頃は、ああして薪を作ったり、拾ったりしていたものだ。あの頃は、強くなりたいとのみ考えていたが、いま何が求める『強さ』なのかが揺らぎはじめている。


 隼人は、その畑に臨む古い木の切り株に腰を下ろして、無二斎の話を反芻しはじめた。





 正直に言って、無二斎の語るところは荒唐無稽な話だと思う。


 仮に、死んだ父や師の仁斎が企図したところが、無二斎の語るとおりだとして――隼人が鎌倉将軍家に連なる名家の当主に収まったとして、そう簡単に近隣の武士たちを糾合し、その棟梁となりおおせられるとは思えない。まして、この世から戦さをなくすなど、その道程を考えれば幾千里彼方の話かと思う。


 ただ、無二斎の言わんとするところは理解できた。それは、一個人の武芸だけでなし得ることは、己の身を守ることと、その剣の届く範囲にあるものを守ることそれだけだということ。そして、もっと大きなものを守ろうとして守れなかった無二斎ら『三斎』が、そのことに絶望してしまったということを。





 コン――。


 また大きな枯れ木を断ち割った。辨助が薪を作り出す手際は鮮やかだ。舞うように鉈を操り、たちまち倒木を薪に変えてゆく。


 舞うように――か。

 ふと違和感を覚える。


 それが何に起因するものなのか、分からなかったが、手元を見ているうちに気づいた。辨助は、左右の手に代わる代わる持ち替えながら鉈を振るっているのだ。右手から左手へ、左手から右手へ鉈が移る度に、一本の倒木がみるみる薪の山に変わってゆく。


 見事だ。鉈の一振り一振りに明確な意志が込められていて、無駄な動きが何一つない。それに、その力強さときたら、長さ、周囲共に一尺はあろうかという枯れ木を鉈の一振りで断ち割ってしまうほどだ。


 辨助は、単に薪を作っているのではない。薪割りを通して刀法の鍛練しているのだ。


 ――この子はいったい。


 この技量は、なまなかな鍛練で得られるものではない。隼人自身、幼い頃は鍛練と称して薪割りをさせられたものだが体に辛く、面白みのない作業だ。その仕事ぶりは、辨助のものとは比べるべくもなかった。それを辨助は、息を切らすこともなく、まるで舞うように行うのだ。


 見守っているうち、腋下にじっとりと汗がにじむのを感じた。


 ――鉈を刀に持ち替えれば、どうだ。


 辨助は、大変な遣い手となるだろう。無二斎は養い子に恐るべき刀法を教え込んでいた。


「両の手で刀を自在に操る」


 いつの間にか、背後に無二斎がやってきていた。その気配を一切消して、隼人の後ろに立っていた。この男もその心底と併せて技量の程が知れない。引きずるほど足が不自由ではなかったのか。


「ひとりの人間が、一人以上の働きを示そうとすると自然、二刀に行き着く」

「二刀――」


 辨助の鉈は一本だが、これを左右の手で自在に操る様は、確かに二刀を操るに似ている。


「我は兄たちと異なり、個人の力を見限れなかった。いや、自分自身の強さを見限ること、自分の弱さを認めることができなかった」


 武芸の修練は厳しい。それを極めるには、時に命を賭けてまでして、己の技量を計らなければならぬこともある、苛酷な道だ。


 この道を隼人の父と師は、真の強さに至る道ではないと自ら閉ざしたのだ。しかし、無二斎はこれに固執したのだろう。


「我はまだ、あのときの答えを得たわけではない。ただ――」


 ただ、なんだろう。


「いま、その答えの、最も近いところにあるのが」


 無二斎はゆっくりと手を上げて辨助を指差した。


「この子だ」


 ――コン。


 二人が見る前で、辨助の鉈が、高い音を立てて倒木を断ち割った。無二斎が『答えの、最も近いところ』というこの子と立ち会わなければ、この山を下りることはできないと、この時隼人は思った。相手が子供であろうとなかろうと『本当の強さ』に触れずしてここを立ち去るわけにはいかない。


「よかろう」


 辨助と剣をもって立ち会いたい――その隼人の申し出を無二斎は当然のように快諾した。


「辨助」


 隼人と立合うと聞かされた辨助は、わずかに目を見開いて驚いてみせたものの、その口を引き結んだまま一言も発しなかった。無口な子だ。


 木剣を借りたいと言うと、無二斎は手にしていた杖を投げてよこした。この杖で立ち会えと言うことらしい。辨助は当然のようにたったいま割いた薪を二本手に取った。その様子から、この親子はいつもこのようにして打ち合っているようだった。


 それは合図もなく始まった。

 薪を手にした辨助からは、まだそれを構えてすらいないのに、覆いようのない戦意――殺気といった方がいいだろうか――が、ほとばしっている。隼人は弾かれたように杖を青眼に構えた。刹那。辨助が跳んだ。


 いままでにないくらい低い位置に辨助が飛び込んでくる。隼人の腰のあたりだ。小柄な子供ならではの低い踏み込みに、とっさに仰け反ると顎のあった位置を薪が薙いだ。ごうっと空気を裂く勢いが凄まじい。打突に手加減を加えるつもりはないらしい。


 ――殺す気か。


 飛びすさって距離を置こうとしても、その動きを知っていたかのように同じ距離を踏み込んでくる。


 腹、膝――。一撃、二撃と得物が繰る出される早さが尋常ではない。左右の手に持った薪が交互に繰り出されるので、二人の剣士を同時に相手しているかのような錯覚を覚える。


 これは辛うじてかわし、逃げようと横に飛ぶが、辨助はこれも予期していたかのように付いてきた。


 完全に先手を取られた。機先を制せられた隼人は、辨助のとる拍子に合わせて舞わざるを得ない。


 ――近すぎる。


 間合いも隼人の獲物である杖にとっては近すぎる。杖で打つにはいま少し辨助との距離が必要だ。戸惑っているうちにも、左右から次々と薪が繰り出される。なんとかかわし続けているが、一方的だ。


 攻勢にあるときの二刀は威力は凄まじい。息もつかせぬ勢いで攻めが続く。一刀の二倍の手数を相手にした経験のない隼人には、反撃の機会すらつかめない。


 薪を受けて反撃しようにも、防御した次の瞬間には別の方向から攻撃される。結果、防御し続けることとなり、全く攻めることができない。


 ――それにしても。


 辨助はいつ息を入れるのだ。攻撃は最大の防御とはいえ、息を詰めて攻め続けると、やがて体が追いつかなくなるものだ。いつ止むともしれない攻勢にさらされながら、隼人は背筋が寒くなる思いだった。


 ――人並外れた気力と体力だ。


 目の前の辨助が、得体の知れぬ化け物のように見えてくる。戦う意思に凝り固まり、無限に得物を振るい続ける妖怪。それは、戦さそのもの。無二斎が語る戦さの宿業が、そのまま辨助に憑依したかのようだった。


 ――負けられぬ。


 戦さの宿業を超えるため、死力を尽くそう。いま戦っている相手は辨助という子供ではない、これまでもずっと隼人が戦ってきた、戦さの宿業そのものだ。


 隼人は己の四肢に力が漲るのを感じた。左右から襲いかかる薪を、払う、打ち落す。そして思い切りよく踏み込み――胸を柄頭で一撃。


 ――手応えあり。


 体の軽い辨助は、弾かれたように後方に大きくのけぞった。よし、止めた。


「いくぞ」

「応」


 辨助が、にこっと笑って応じる。どこまでも不敵だ――が、ここからは、仕切り直しだ。





 秋の日が遠くの山の端に差しかかろうとしている。青い空にまだ雲はないが、風が出てきたのだろう、鮮やかを増す妻山の紅葉はゆらゆらと揺らめき、時折ざあっと山が鳴る。雨が近いのかもしれない。


 妻山の麓に時折、杖と薪を打ち合わす音が響いていた。四半刻は打ち合っているだろうか、隼人と辨助の勝負は容易にはつかなかった。


 ――これは、化け物だ。


 これは勝負と呼べるものだろうか。十九の隼人が十二、三にしかならぬ辨助から逃げ回っているのだ。


 決して勝負を諦めたわけではないが、まともに打ち合っては、まったく歯が立たない。


 こちらから打ちかかれば、両手の幻惑的な動きにたちまち隼人の杖は絡め取られて逆撃を被るし、かといって受けに回れば、その両手の得物が通常の倍の手数をもって襲いかかってくる。


 結果として、辨助の得物である薪が届かぬ距離を保ちながら、打ち込む機会をうかがうことになるのだが、まったくそうした隙がない。間断なく攻めかかってくる勢いは、四半刻を経ても一向に衰えない。


 二刀の剣技、おそるべし。


 更に恐れるべきは辨助の底なしの気力と体力だ。年の功もあってか、剣の技量は僅かに隼人が上回っているものの、勝負にかける気迫では明らかに圧倒されていた。


 ――このままでは勝てない。


 辨助の攻勢を避けるため、畑の畝を飛び、森の木立の間を駆けながら、隼人は焦りはじめていた。日が山の端に沈めばあたりは暗くなり、土地勘のない自分に勝ち目はなくなる。日が沈むまでの僅かな時間にしか勝機はなかった。


 足元が悪いのも、隼人にとっては不利だった。僅かな畑以外は、不整地が続く。森、岩場、谷川。駆け回るうちに、いつしか隼人の脚や腕は傷だらけで、体力ばかりか気力も萎えていきそうになる。


「あっ」


 足を踏み外したのは、暗くなってきた足元がよく見えなかったことと、集中力を欠いたためだろう。しっかりした下生えを踏んだつもりが崩れ、一尺ほど下の川原に転落した。庇うようにして左手をついたため、手首をひどく挫いたようだ。


 痛みをこらえて向き直ると、辨助の視線とぶつかった。隼人の負傷を好機と捉えた目が爛々と輝くようだ。


 ――これまでか。


 弱気が頭をもたげたその刹那、辨助の背後に無二斎の姿を見た。厳しい目つきで養い子の戦いぶりを見守っている。


 無二斎はこの四半刻、一言も発することなく二人の立会いを見守っていた。時折その視線を感じていたが、それは、いつも辨助を追っていた。辨助に有利な形勢では優しく、逆に不利な形勢では厳しくなる眼差しに、親子の情を見る思いがしたが、いまその視線は極めて厳しい。


 見かけ上、形勢の不利は隼人だ。しかし、無二斎の辨助を見守る視線は厳しい。落ち着け、考えろ、この危地でこそ勝機を拾えるかもしれぬ。


「参る」


 すでに勝ったかのような気合いを発して辨助が襲いかかってくる。左手は利かない。飛びすさってかわすが、背後は谷川だ。もう足首まで川の水に浸かってしまった。もう逃げ場はない。


 ――水が。


「御免」


 かさにかかって打ちかかってくるのをかわし、水を蹴立てて川の中へ逃げる。しかし、川苔に足を取られて機敏に動けない。そこへ水飛沫も高く距離を一気に縮めてきた辨助が襲いかかる。


 ぶんっと空気を裂く音が鳴り、左右の薪で肩、腰と打たれた。骨が軋むような打撃だ。しかし、耐えた。打ち倒される程のものではない。


「ちっ」


 舌打ちし、退こうとする辨助に付いて、隼人は踏み込んだ。


 ――ここだ。勝機はここにしかない。


 一旦川に入ってしまえば、川底の苔で足元が滑るのは辨助も同じ。腰の据わらない打撃は、早いだけで威力は半減する。しかも、谷川の水の流れは隼人の脛まであるが、辨助にとっては膝に達する深さだ。体格に劣る辨助は川の中では圧倒的に不利となるのだ。勝気にはやった辨助は川に深入りし過ぎたことに気づかなかった。


 振り払うような左右の打撃は敢えてかわさず、体を小さくして更に大きく踏み込む。


 ――懐に入ってしまえば。


 相手との距離を詰めてしまえば、二刀は身体を守る術がない。得物を持った両手の内側は無防備にがら空きだ。


「やっ」


 杖を逆しまに、柄頭を抱くようにして辨助の懐に飛び込むと、みぞおち深く柄が食い込む手応えがあった。ぐっと息を飲むような声を上げて、辨助が膝から崩れ落ちるようにして川の中へ倒れた。


 終わった。大きく息をついて足元をみると、青い空を映した川面に、真っ赤な木の葉が舞い落ちてきて、ついと流れていった。

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