『永遠平和のために』とアナーキズム~自然状態と戦争
カントの『永遠平和のために』は、曩時に読了したが、あまりに難解なので、無知蒙昧なる愚生には充分に理解できなかった。
といえども、輓近の世界情勢を見霽かして、『いまこそ再読しなければならない』と愚考し、まず、解説書をひもといてみることにした。
そこで、カントは『人間の自然状態は戦争である。問題はなぜ戦争がおこるかではなく、どうすれば戦争をおきなくさせるかである』というようなことをいっていた。
これは、ホッブズの『自然状態は万人の万人にたいする闘争である』という、いわゆる社会契約説からの敷衍だといわれている。
ホッブズのほうが有名なので、こちらを意識してもらえるとわかりやすいと存ずるが、愚生は曩時より、この『万人の万人にたいする闘争』説に懐疑的であった。
そもそも、ホッブズがいうには、自然状態において、人間はおたがいに暴力で権利をうったえるので、彊梁なるものだけが生きのこるようになった。
そこで、万人が生きる権利をわかちあえるように、法と秩序を豎立して、社会や国家=リヴァイアサンが誕生したというわけだ。
ここが、愚生には納得いかない。
人間がおたがいに暴力で権力を隴断していたのならば、自然の道理として、弱者が『社会契約をしよう』といっても、腕力という一種の既得権益があるので、強靱なる人間が『社会契約などさせないように暴力で壅塞阻止する』はずなのである。
理窟をつきつめれば、『万人の万人にたいする闘争』常態から、社会契約が誕生するはずはないのだ。
ゆえに、愚生は、たしかルソーやロックがいっていたように『自然状態において、人間は平和な関係にあった』というような楽観論を標榜している。
つまり、シュミット風にいえば『戦争こそが常態であり、平和が例外』なのではなくて、『平和が常態であり、戦争こそが例外である』といいたいのだ。
斯様に論ずると、たんなる性善説だといわれるかもしれないが、一応、ここで性善説にたいする誤解をといておきたい。
そもそも、『人間はみな邪悪なるものだが、それは、人間が生まれつき善であって悪に靡いてゆくためか、それとも、人間が生まれつき悪であるためか』という邃古中華文明における議論において、孟子が前者の性善説を、荀子が後者の性悪説を標榜したことから、これらの対峙的な思想は誕生した。
つまり、よく誤解されるように『人間の本性は善か悪か』という問題ではなく、『人間はなぜみんな悪なのか』というのが性善説と性悪説の淵源と結論であり、よって、愚生の楽観論とは相容れないものである。
さらに余談だが、性善説と性悪説の対峙は、結句、二十世紀に這入って、サルトルの『実存は本質に先立つ』という言葉で決着がついた。
つまり、人間は本来透明なる存在であり、善でも悪でもなく、善にせよ悪にせよ、悲観主義にせよ楽観主義にせよ、躬自らを未来へ投企して醞醸させてゆくものだということだ。
閑話休題。
ほとんどの紙幅を余談についやしてしまったが、つまり、『人間って自然にしておけば、そんなに悪いものじゃないよ』ということである。
結局のところ、愚生は本質的にアナーキストなのであろう。
中学生時代、がちがちの右翼だった愚生が、左翼に転向したのは安部公房からの影響であり、さらにアナーキストになったのは、丸山健二からの影響であろう。
無論、丸山健二のいうように、『アナーキズムは藝術家たちのゆめであって、現実ではない』のだろう。
ゆえに、愚生はあくまでも『本質的』にアナーキストであるにすぎない。
が、今回の随筆から『人間は自然状態でも平和な関係をむすべるのではないか』と、読者諸賢にいささかでも、微衷を斟酌していただけたら、とおもうのである。
またまた余談だが、愚生はひきつづき、解説書から『永遠平和のために』を再読してゆくつもりである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます