無人島にもってゆく一冊――『人間存在』についての論考へ

無人島にゆくならどの一冊の本をもってゆくか。

斯様な質問をたまに仄聞する。


『無人島にもってゆく一冊』という質問はあまりにも有名だがどういうわけか実際に生きてきてこの質問を直截に受けたことが一度もないわけでそれはともかくこの質問にたいする一番よくある回答は『無人島では本なんて読まないから一冊ももってゆかない』というものでつぎにおおく聞くのが『無人島でのサバイバル術を網羅した実用事典』というようなものである。


またたとえば愚生が一番共感したのはたしか生前の大江健三郎氏が仰有っていた『国語辞書をもって』いって『自分で小説を書く』というものなのだがここで一旦髣髴したいのは『無人島に一冊の本をもってゆくのならば』という質問そのものでありあきらかにここで『サバイバル術』云云と『国語辞書』という回答の狭間に巍峨たる障壁が屹立しているのだ。


というのも『サバイバル術』系統の回答の背後にあるのは『無人島を具体的に想像したら』という問題であり翩翻として『国語辞書』系統の裡側にあるのは『無人島を抽象的に解釈したら』という謎語であるからである。


つまり大江氏は『無人島にゆく』ということを『幾十億の人類と訣別し死ぬまで自由に時間がつかえるようになったら』というメタ領域にずらして考覈しているのであって愚生がおもうに此方側の思考をしなければ『無人島にもってゆく一冊』という問いかけには真面目に答えられないのではないかということになる。


アドラーが『すべての悩みは人間関係の悩みだ』といったのは有名だが愚生の記憶によるとほかの著作で『ゆえにすべての他者がいなくなったら必然的にすべての悩みは解決される』というようなことを揮毫されていたとおもうのだがこの『無人島』はまさしく『すべての悩みが解決された世界』の寓喩として成立しているわけで換言すれば『すべての悩みがなくなったらあなたはそれでもどんな本を読みたいですか』という問題がここに浮彫になるのではないか。


輓近中島梓氏の「文学の輪郭」を読了し再読するわけではないが冒頭にもどって論旨をたしかめたところそこに『かつて人間は数万分の一の価値があったが人口が増加した現代では数十億分の一の価値しかなくなった』というようなくだりがありこれはまさに『すべての悩みは人間関係の悩みである』がゆえに『人間の数がふえれば必然的に人間の悩みは倍増する』というアドラーの逆理になるかとおもわれる。


這般の議論を閲したうえで愚生もこの問題に――勝手に――回答したいのだが一応ここで申し上げておくと『ソーラーパネルで充電できるのならばKindleに一万冊入れてゆく』というような答えは『問題をメタ化していない』つまり『すべての悩みがなくなっても読みたい本はなにか』という主旨から乖離しているので擯斥させてもらう。


然様にすると矢張り大江氏とおなじく『国語辞書一冊』をもって『自分で小説を書く』のが最適解のようにおもわれたがこれでは本稿を揮毫した意味がないのでしばらく考覈してみたところ『世界史の教科書』くらいしかおもいうかばなかった。


壮大なるSFや幻想文學をのぞくと『現在の地球上でもっとも登場人物のおおい本』でありまた『もし神様が存在するとすれば人類史こそが神様の著作である』ことなどから『世界史の教科書』をおもいだしたのである。


と雖も然様にすると『人間関係の悩みから解放された』状況でなお『人間』という存在を冀求することになり矢張り九頭龍もこの問題の意図を誤解しているではないかといわれそうだ。


つまり『すべての悩みから解放』された状況でなお『人間存在の一部であるという悩み』をひきずってゆくのかということだがまず小説一般はいずれにせよ人間についてえがかれているので――たしか『都市』というSF小説はひとりも人間が登場しないロボットたちの物語だったはずだが其処にすら人間の歴史という痕跡はあるだろう――『すべての人間関係から解放された』状況でなおも『人間』と邂逅しなければならない。


これは自然科學の教科書や解説書でも同様で量子力学や相対論についての書物を読めばそこにはマックス・プランクやアインシュタインという人間の痕跡があるわけで以上云云と論理を敷衍してゆけば『そもそも人間の痕跡のない本』などは存在しないことになる。


そこで愚生は『人間関係という悩み』を抛擲するという選択肢を排除して人類という存在に出逢わなければならない『世界史の教科書』をえらぼうとおもったのだがそれがおなじく巨万の登場人物がえがかれた『戦争と平和』でもなく『百年の孤独』でもなく『世界史の教科書』であるのは畢竟『一部も欠かさずこの人類史のすべてがあった』からこそ『現在の自分が存在している』からである。


つまり『すべての人間から解放』された無人島で『自分が自分でいられる』ためには『ほかのすべての人間の痕跡』が必要で『それが自分を窮極的に苦しめるもの』であるとしても『愚生は自分が自分でいられること』をえらびたいのである。


斯様にかんがえると『人間関係という悩み』に埋没して生きている現状も『それら人間関係という悩み』があるからこそ『自分自身というものが存在できる』という寓喩としてとらえられるわけで『無人島へもってゆく一冊』についての論考は結句『人間存在』についての論考と合致することになったのだ。


と雖も愚生も本統に無人島へもってゆく一冊が『世界史の教科書』でよいのかさらなる千思万考の余地があるかもしれないしこれではあまりにもつまらない回答かもしれないがともかくここで一旦『無人島へもってゆく一冊』は『世界史の教科書』とさせてもらう。

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