ニーチェの君主および奴隷道徳とアウフヘーベン

 ニーチェの話題だが、まずヘーゲルの弁証法について髣髴したい。


 ヘーゲルはあのいかつい風丰からは想像しがたいが、本気で哲学により世界平和を現実せんとした人間主義者であった。恁麼の哲学の方法というのが弁証法であり、弁証法の中核をなすアウフヘーベンであった。アウフヘーベンとは、われわれの信憑する『正』の命題に対峙する、『反』の命題が現前した爾時、『否定を否定』して、『正であり反でもある』『合』にいたるという経緯である。よくいわれることだが、ヘーゲルは演繹的にアウフヘーベンという方法を標榜したわけではなく、ヘーゲル哲学の各論が帰納的にアウフヘーベンのかたちを浮彫にしてゆくにすぎない。


 ヘーゲル哲学においては、個人の内宇宙におけるアウフヘーベンが『精神現象学』において、家族から国家レベルでの外宇宙におけるアウフヘーベンが『法の哲学』において、それぞれ敷衍され、最終的に敵対する国家同士がアウフヘーベンされることで、世界平和は到来するというのだ。恁麼の世界平和への歴史は、ヘーゲル的には必然であり、人類がヘーゲル哲学を理解せずとも、自然と実現されるであろうと豫言される。


 此処から、ニーチェの道徳観についてである。


 一時期、ネット上で『ルサンチマン』という専門用語が流行したが、ルサンチマンとはおおまかにいって、ニーチェの定義する奴隷道徳と同等である。奴隷道徳においては、自己否定、謙遜、慈悲、などが金科玉条とされる。奴隷道徳の反対が君主道徳である。君主道徳においては、自己肯定、傲慢、自発、などが自我同一性の基盤とされる。一般的に、ニーチェ自身は、奴隷道徳にも一理あるとしながらも、君主道徳を鑽仰したとされる。


 此処で、有名な精神の三段階について想起してみたい。


 ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで、人間の精神レベルのたかさを、第一段階の駱駝の精神、第二段階の獅子の精神、第三段階の赤子の精神に分類した。駱駝の精神においては、『なんじなすべし』という『だれかの命令にしたがう生き方』がなされる。いわば二人称の生き方である。獅子の精神においては、『われ欲す』という『自分のやりたいことをする生き方』がなされる。いわば一人称の生き方である。赤子の精神においては『なすがままに』という、いわば『零人称』の生き方がなされ、ニーチェは赤子の精神が完成段階だというのだが、はっきりとした定義はわからない。


 此処までの基礎的な知識を包括して、総論としたい。


 ニーチェの哲学において、駱駝の精神と、獅子の精神が、それぞれ、『奴隷道徳』と『君主道徳』に符合することは、おそらく明鬯である。ニーチェ自身、双方の哲学的関聯を、相互の内容の補完としていたのだろう。問題は、『赤子の精神に対応する道徳』を、ニーチェが想定していなかったことである。『赤子の精神』とはなにか。本統になんなのか。恁麼のこたえはニーチェ哲学そのものでは穿鑿できない。


 其処ででてくるのがアウフヘーベンである。


 あまりに単純すぎる論攷かもしれないが、駱駝の精神としての奴隷道徳と、獅子の精神としての君主道徳を『アウフヘーベンした』ものが、最終的なる道徳である『赤子の精神』なのではないだろうか。赤子の精神は『零人称の生き方』だとさきほど定義したが、そのながれで、奴隷道徳と君主道徳がアウフヘーベンされた『合』の哲学とは、『零人称の道徳』あるいは『赤子道徳』ともいうべきものなのかもしれない。それはもはや道徳といえるものではない。ゆゑにニーチェ自身にも定義できなかった。然様にかんがえると、これこそが『超人道徳』だともいえるのかもしれない、が、愚生に自信はない。


 なにゆゑに、斯様な考覈に紙幅をついやしたかというと、愚生は元来、自己否定型の人間で、謙遜を美徳とし、弱者を愛するという慈悲のこころを大切にして生きているからである。畢竟、ニーチェの哲学にふれると、どうしても、愚生が奴隷道徳≑ルサンチマンの生き方に安住している不安感を鬱勃たらしめられるのだ。其処で、幾何学の問題を解くときの意想外の補助線(安部公房談)として、ヘーゲル哲学をもって、『ニーチェの理想としたのは、君主道徳でも、むろん、奴隷道徳でもなく、双方を合一させた赤子の道徳だったのではないか』という結論らしきものに逢着したのである。


 ほかにも、デリダの脱構築をもって、ニーチェ哲学を解読せんという計劃もあったが、やはり、此処では、以上のように、ヘーゲル哲学のほうが抜群に相性がよかった。愚生が最初から最後までいいたかったことは、『奴隷道徳はたんなる反命題=アンチテーゼ』であり、『ニーチェの哲学はおそらく奴隷道徳も肯定するところがあって』『赤子の精神こそがその証明』であり、『われわれは歴史の進化をうながすアウフヘーベンの連鎖のなか』で、『自己否定を否定するばかりではない』のだということである。


 結句、『赤子の精神』とはなにか。おそらく、ニーチェ関聯の文献を渉猟すれば、きちんと理解できるのだろうが、愚生の勉強不足のために、これをひとつの宿題としてのこして、中途半端ながら、本稿を擱筆したい。

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