なぜ小説を書くのか~小説を書くために生まれたということ

 中島敦の「名人伝」という短編を十回は読んだはずだ。


 よく「山月記」とともに文庫化されているのですでに瀏覧された読者諸賢もおおいかとおもわれるが此処で梗概を紹介すると『邃古中国にて弓矢の道を窮めんとした男が巍峨たる山嶺に住む師匠のもとで修行し故郷へ帰還したら弓矢がなにかすらわからなくなっていた』というもので『弓矢の道を窮める境地』が『弓矢そのものをわすれること』であることを『さとり』と呼んでよいかわからないがともかく愚生が本稿で論じたいのは『さとり』についてである。


 仏教における涅槃としての『さとり』はそれによって『一切皆苦の三千大千世界をめぐる輪廻転生の円環から離脱するに到ること』なのだが此処では斯様なる『さとり』という概念を譬喩的にもちいて『なぜ愚生は小説を書くのか』というつまらないといえばつまらないであろう随筆を揮毫したいのである。


 こうして起筆してみたところで『さとり』について愚生が考覈したのは『人生のあらゆることにはさとりがある』ということであり曩時に千利休が『出がらしの味がわからなければ茶道を窮めたとはいえない』といったらしいがこれは『弓矢そのものをわすれる』ように『茶そのものをわすれる』わけではなく『窮極に茶ではない茶に茶を見いだす境地』とでもいおうかたとえばロックバンド黒夢のボーカル清春はヘビースモーカーなのだが喫煙者の巷間では有名な『ピアニシモ』という一番よわい種類の銘柄を喫っているらしい。


 そういえば生前の川端康成の邸宅に御友人が来訪した爾時に極端に無口な川端は友人と対峙するかたちで鎮座しながら二時間にわたって一言もしゃべらずに友人が「ではそろそろ」と踵をかえそうとしたところで「まあもうちょっといいじゃないか」というようにひきとめたという逸話を瞥見した記憶があるがこれは『真の会話とは沈黙である』というか厳密には『真の会話としての沈黙にも相手が必要』であるということであって愚生のいいたい『さとり』とは斯様な状況にちかい。


 上記の『出がらし』にせよ『ピアニシモ』にせよ『沈黙』にせよ斯様にさまざまな範疇において『さとり』というものはあるわけで二十年間アマチュア作家をつづけてきた愚生は輓近『おれはもうさとりに到るために小説を書いているのではないか』とおもうようになったわけだ。


『すべてのことにはさとりがある』のならば『すべてのことはさとりに到るまでの修行である』ともいえるわけでゆえに愚生が小説を書くのも『小説におけるさとりに到るために修行をしている』ということにほかならない。


 わかりやすく換言すればアドラー心理学において『勝負を降りよ』また『勝負をやめたとき他者はたんなる他者になるのではなく仲間になるのだ』といわれおなじくアドラーによると『勝負は縦の関係であり本統の人間関係は横の関係でなければならない』ということらしくつまり愚生は『新人賞や文學賞といった縦の勝負はもういいから巨億の作家の仲間たちと横の関係で尊敬しあいお互いに窮極の文學を目指したい』とおもうようになったということなのだ。


『すべては横の関係』なのでプロフェッショナルもアマチュアも関係なく歴史上の文豪も闇から闇に葬られた無名の作家もホメロスもジョイスもブコウスキーも愚生も読者諸賢も関係なく『おれたちの理想とする小説を書こうぜ』というただそれだけのことを本稿では書こうとおもっただけでありそれはけっして無意味なことではなく人生のすべてがすべてのさとりへの道程であるように小説を書く以上小説でさとるしかないわけで斯様なる磊砢たる道程をえらんだ以上愚生も『生涯を小説においてさとることに捧げよう』という――本統にできるかわからないが――『小説宣言』をしてみようとおもっただけのことである。


 畢竟愚生は『小説を書く』ために生まれてきたという一種の楽観でありまた一面では悲観であり厭離穢土であり欣求浄土の精神に到ったというそれだけのはなしなのだがなぜか『おれの人生は小説のためにある』と極端といえば極端に蹶起してみると――おそらく『そのほかのことはどうでもいい』というこれも一種の『さとり』に到るためか――胸臆がぬくもるところがあって『それもまあわるくはないな』とおもわれるのだ。


 逆説的だが『人生をなにかに捧げる』ことこそ『人生』なのかもしれない。

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