哲学メモ~ショーペンハウアー~人生の苦しみからいかに解放されるか

 輓近、スピノザの解説書を劉覧し、全体をメモしておこうとしたところ、『エチカ』についてはWikipediaでの解説が充実していて、ほとんど、加筆するところがなく、参考になった。


 そこで、スピノザに類似するショーペンハウアーの解説書を読了し、おなじくWikipediaでの解説を参考にしようとしたところ、『意志と表象としての世界』については、各章の概論しか執筆されておらず、全体像がぼやけていた。


 これでは、読書の手助けにならないのではないか。


 ゆえに、ここでは、――ショーペンハウアーの哲学書の著作権はきれているとおもわれるので――愚生が解説書を読んで、同時にまとめておいたメモを、ほとんど、そのまま発表したいと存ずる。


 あくまでも、愚生は直截にショーペンハウアーの著作を劉覧したわけではないので、これは『解説書の解説書』となるであろうが、これから、『意志と表象としての世界』を御覧になる読者諸賢にも、すこしは役立てると存ずる。


 無論、愚生はショーペンハウアーの専門家どころか、真面目な読者ですらないので、以下のメモの信憑性については、読者諸賢善男善女の知性に峻別をゆだねるしかない。


 また、ここにおける解説書とは、おもに講談社現代新書100『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』梅田孝太著であるので、できれば、興味をもたれたかたは、本稿を参考にして、こちらを劉覧し、『意志と表象としての世界』に挑戦されることを冀求する。


 補足しておけば、ショーペンハウアーの哲学は、『人生の苦しみ』を解決するためのものであり、いわゆる厭世主義からみた人生論である。


 人生の苦しみに懊悩しているかたがたのために、以下の概論や、解説書や、『意志と表象としての世界』が役立つことをこいねがう。


 ◇


 前提として、ショーペンハウアーの思想はカントの哲学を基礎としている。


 ここで重要なのは、カント哲学において、『われわれは世界の真実のすがたである物自体にはふれられず、現象として世界を体験することしかできない』ということである。


 人間は、前述したカントのいう現象、ショーペンハウアーのいう『表象』としてしか、世界を認識できない。


 つまり、われわれは、世界の客観を、われわれというモニターに、主観としてうつしているにすぎない。


 そのうえ、われわれは、時間、空間、因果律という根拠律によって、世界を主観的にみているが、客観的にみれば、世界に時間、空間、因果律という、人間のつくった尺度が存在する証拠はない。


 愚生補遺――時間、空間、因果律は、2つの点が存在するから、その狭間に生まれるものにすぎない。


 つまり、世界には、時間も空間も因果律もないかもしれない。


 結句、われわれは、表象の世界という贋物を体験しているわけだが、それを体験するわたしだけは――意志は表象ではなく、唯一直截に体験できるので――本物である。


 わたしの体は表象だが、わたしの意志は表象ではないので、意志と体に因果律はない。


 ここで、ショーペンハウアーは、意志が体をあやつることにおいて、意志と体は一体であるという。


 体とは意志の表象であり、表象ではない意志が、表象としての世界に存在するために、体という媒体となる表象がある。


 意志は、表象としての体からの要求で、生きよう生きようとうごいてゆく。


 これが、生きようとする無目的な意志である。


 愚生補遺――本来は『盲目的な意志』と訳されるが、これは差別的なので『無目的な意志』とすべきだという。


 意志と体のアナロジーから、あらゆる表象には、意志があるとおもわれる。


 あらゆる表象の意志が、ひとつの意志に輻輳されて、意志としての世界が見出される。


 つまり、われわれは、贋物の表象の世界を追求する、目的のない、生きようとする意志にうごかされるだけの、無意味な人生を生きることになる。


 これが『意志と表象としての世界』である。


 そこで、ショーペンハウアーは、クライマックスとして――表象の世界はもちろん――意志の否定、つまり涅槃を説く。


 そのために、藝術や、――すべてのものの苦しみを自分のものとして感じる――共苦や宗教がかんがえられる。


 藝術は、表象としての世界の設計図であるイデアを明澄に体験させてくれる。


 ゆえに、藝術の才能とはイデアを見出す能力のことであり、凡人にもわずかながらそれができるから、藝術に感動できる。


 たとえば、正義と人間愛、だれをも害さず万人をたすけよ、などということである。


 共苦は、あらゆる表象が、根源的にはひとつの意志だと知ることから発する。


 つまり、苦しんでいる他者も、自分と一体の意志だから、その苦しみを感じられるのである。


 が、共苦は、自分をすてて他者を救わんとする利他的行為であり――結局は一体であるわれわれの意志をまもるから――完全な意志の否定ではない。


 完全な意志の否定は、宗教によってなされる。


 愚生補遺――ショーペンハウアーは、当時、欧羅巴では異端視され、恐怖されていた東洋思想、とくに仏教から影響をうけていた。


 たとえば、聖者たちは、意図した自発的な貧困などにより、禁欲する。


 完全に自己を放棄したとき、諦念、つまり涅槃にいたる。


 が、意図的に涅槃にいたることはできない。


 むこうからやってきた諦念を極めることによって、われわれは、無の境地にいたる。


 斯様にして、われわれは『もっともっと』という、欲望の連鎖である意志からまぬかれる。


 ここにおいて、マーヤーのヴェール=『贋物の世界』ははぎとられるのだ。


 これが、意志と表象としての世界の全貌である。

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