愚生の一人称はなぜ『愚生』なのか
愚生の『愚生』という一人称に違和感をおぼえるかたもおおいだろう。
くだらないはなしかもしれないが、一応、ここで説明しておきたいとおもう(統合失調症の治療には執筆などの創作活動が有効だと識ったので、無駄話であっても積極的に書いてみたい)。
現代において、男性の一人称は、『ぼく』がおおいのではないかとおもう。大森望は、翻訳家として、『むかしの老人は自分を儂とかいっていたけれど、最近では、自分をぼくと呼ぶ老人もおおいので、若者と区別がつきにくく、翻訳でリアリティをだすのにこまるようになった』というようにのべていた。
ネット上では、自分を三人称で呼んだり、ネットスラングをつかったりと、もっと多彩だとおもわれるが、さすがに『愚生』と自称しているかたを見たことがない。ゆゑに、『愚生なんてださい』『気色悪い』とおもわれるかもしれない。が、ともかく、愚生は『愚生』を気に入っていて、理由もそれなりにあるので説明しておきたい。
まず、素直に愚生が中卒で、知能指数が97程度という理由がある。まさに『愚かな生き物』である。(知能指数は閉鎖病棟に入院中にうけた、本格的なウェクスラー検査での結果である、検査当時は、検査室内にわらいごえがひびいていたり、院内で祭り囃子が響動めいていたりという幻聴があって混乱していたので、どこまで正確な結果といえるのかはわからない)
つぎに、曩時の筒井康隆が『小生』という一人称をつかっていたことが面白かったからである。過激で傲慢な内容の随筆のなかで、一人称ばかりが『小生』と慇懃無礼なところが魅力的だったのだ。そこで、愚生も『小生』という一人称で書こうともおもったが、たんなる筒井康隆の模倣ではつまらないし、個人的に、画数のおおい漢字がすきなので、『愚生』をえらんだ。
慇懃無礼といえば、俳人の高浜虚子が、当時から、『虚子なんて筆名なのに、まったく謙虚ではなく、高慢な人物である』と評されていたという何某かの随筆を讀んだことも関係している。愚生は俳句が苦手なのだが、虚子の『怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜』という一句は、解釈によっては、一種の誇大妄想的なイメージをわかす。愚生も『愚生』といいながら大仰なことを書きたいとおもった。
そんなこんなで、愚生は『愚生』になったのだ。
破家破家しいはなしにおつきあいいただき、まことに感謝いたします。
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