第5話金衛門邸へ

 次の日の朝、布団から起きると寝室に両親の姿はなかった。昨日寝る前に父が言ったことを思い出して居間に行くと、母がちょうど朝食を持ってきた。


「お父さんはもうご飯食べて先に船着き場に行ってるから、徳ちゃんも早くご飯食べてお父さんのところにいきなさいね。」


「わかったよ、母さん。」


 僕は食卓につき朝ご飯を急いでかきこみ、食べ終わるとすぐに手伝いの支度をし玄関を出た。夏がすぐそこまで迫っているとはいえ朝はまだ涼しい。船までの道中遠くに不夜知島が見えた。島にもう明かりは灯っていない。


 父の待つ連絡船の船着き場に行くと、父が出航の準備を始めていた。


「おはよう、父さん。」


 僕の声に気づいて、父はこっちを向いた。


「おう。すぐ出るから、はやく乗れ。」


 父はそういうと操舵室に入っていった。蒸気機関の音が鳴り始めたので僕はそいで船に乗りいつも通り乗客室にむかった。いつも遊女を島に運ぶ時には、僕は客室に行き、彼女たちの世話をする。それが今の僕のできる手伝いだった。


 しかし、客室に入ってみると人影はなく、座席はがらんとしていた。昨日はてっきり遊女たちを運ぶものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。そのうち船が動き出した。僕は不思議に思い、父のいる操舵室へと向かった。


 操舵室に入ると父がいつものように船の進む先を真剣に見つめ舵を操っていた。


「どうした。」


「今日、女の人たち乗ってないけどなんで島にいくの。」


「今日は仕事じゃない。人に会いに行く。」


 そういうと父は黙ってまた舵を動かし始めた。父が島の人に会いに行く、それはおそらく島の島主の種島金衛門に会いに行くということなのだろう。島に遊女を連れて行かないのなら、それ以外あそこに行く理由が見当たらなかった。僕はそれ以上父に何も聞くことなく客室に戻った。


 客室にはいくつかの窓がある。僕は窓の近くの席に座り、外の景色を眺めた。窓から僕らの住む村と大きな橋が見えた。ちょうど最終の汽車の時間だったらしく、橋の上を黒い汽車が灰色の煙を出しながら、村の方に向かっていた。来週にはあの汽車に乗って島へ向かう。やはり不安と楽しみな気持ちが入り混じりなんだか複雑だ。喜助はもう起きているだろうか。


 しばらく時間が経つと、景色の流れがゆっくりになり窓の外にはちらほら岩場が見えてきた。時間的にもそろそろ島に着いてもよい頃合いだった。


 僕は客室から船外へ出た。外は潮風が気持ちよく、日もすっかり上り晴天だ。おそらく今日は暑くなる。


 もうすぐそこに不夜知島が迫っていた。島の向こうには大きな入道雲がそびえ立ちこちらの様子をうかがっている。僕は操舵室のすぐそばに立ち、父の合図を待った。


 島の裏手の船着き場に近づくと父が合図を送ってきた。僕は船からのびる縄を持ち桟橋に飛び移った。すぐに縄で欄干と船を結び付けると、蒸気機関の音がどんどんと小さくなっていく。


 音が止まると父が操舵室から出できて、こちらへ飛び移った。その手には、贈答用に包まれた酒らしきものが握られている。


「よし、じゃあいくぞ。」


 と父は言うと船着き場からのびる一本の道を歩き始めた。船着き場の周りには桟橋以外の建物はなく、あるものと言ったら大きな岩や流れ着いた流木ばかりだ。島で暮らしている人もめったにこの辺りには来ないと父に聞いたことがる。それに彼らはあれがあるから自由に街から出られないのだ。


 岩場を抜けると、くるぶしくらいの高さの草が辺りを覆っていた。先ほどまでは波の音が近く、いくらか涼しさを演出していたがここまでくるとそれも聞こえず、日差しの暑さが身に染みる。草むらの中を真っすぐ道が伸びている。先は坂になっていてその先はまだ見えない。


 坂を上りきるころには背中に汗を感じていた。上りきったむこうには竹林とちらほら畑のようなものが見えた。畑には何か植えてあるのが見えるがそれが何なのか僕は知らない。


 道は竹林へと伸びている。それを超えると街が見えるはずだ。竹林の中は先ほどまでの暑さとうってかわって、竹の程よい影に加え風に揺れる笹のさわさわという音にしばし暑さを忘れることができた。竹林に入ってすぐに父は僕に言った。


「今日は金衛門さんに会う。徳も立派に仕事を手伝う年頃になったわけだし金衛門

さんにきちんと紹介するつもりだ。お前もちゃんとあいさつするんだぞ。」


 どうやら予想は当たっていたらしい。種島金衛門とは不漁の度、何度か顔を合わせていたが、改まってきちんと話をしたことはなかった。


 金衛門は年の割にはとても若く見えた。昔からこの島の島主をしているらしいが、見た目は父とそう変わらなくみえる。


 父と金衛門が話をしているのを僕は傍らでいつも聞いているが、金衛門はとても渋くいい声をしており、優しい雰囲気だった。


 僕が初めて金衛門を父と一緒に訪ねたとき、喜助の噂で鬼のように怖い男だと聞いていた。僕はそんな人には会いたくないと心の底から思っていたが、実際会うと優しそうなおじさんでほっとしたのを覚えている。


 竹林を抜けると目の前に朱い門と大きな壁が見えた。壁は高く街のまわりを囲っていて中の様子は外から見えないようになっている。門に近づくと門番の男が立っているのが見えた。男はこちらに気がつき会釈をしてきた。僕たちは男の方へ近づいていく。


「やあ、寛治さん。おはようございます。今日は何のようですか。」


 門番の男が笑顔で父にあいさつした。


「今日は、金衛門さんに会いに来たんだよ。そろそろ本格的に息子が手伝いをするもんだから、その挨拶をかねて。」


「そうだったのかい。息子さんもだいぶ大きくなったもんなあ。」


「私は、ここの門番をしてる哲男っていうんだ。何度かあったことあるがそういや名前を言ってなかったな。」


 初老の門番の哲男さんはこっちを見てあいさつしてきた。


「徳治です。これからお世話になります。」


「島主様はこの時間たぶん街の見回りに行ってるはずだから、先に屋敷にいって待ってるといいよ。」


 そういって門番の哲男さんは小型蒸気機関を稼働させた。蒸気機関からごっごっごと大きな音がして、つぎに目の前の大きな木製の門がぎぃっと音をたてながら開く。そのうち門が開ききると音は止んだ。


 門も向こうには無数の木造平屋が広がっている。ここは街の裏門で、このあたりには島で働く人たちの集合住宅があった。門をくぐり、集合住宅の真ん中を突っ切る通りを父について金衛門の屋敷の方へ目指し歩く。


 この時間から島で働く人々は就寝するのでやはり辺りは人通りがなく、平屋からは誰かのいびきが聞こえてきた。


 途中、迷路のようになっている平屋の集合住宅地を抜けるとすぐに大きな屋敷が見えた。金衛門の屋敷だ。屋敷に着くと女中が客間へと通してくれた。これだけ大きな歓楽街を治める島主の家だが広さ以外かなり質素であった。


 女中の出してきたお茶を飲み待っていると、奥の部屋から足音と話し声が聞こえた。襖が開くとそこに金衛門の姿があった。相変わらず若い。前に見た時よりももっと若く見えるのは気のせいだろうか。


「おお、寛治、よく来た。最近そちらの漁はうまくいっていると聞いているが、今日はなんでまたこっちにきたんだい。」


 渋い声で金衛門が言った。


「ご無沙汰しています、金衛門様。実は今日は、徳もいい年ごろになったのでそろそろ本格的に私の手伝いをさせようと思うので、その報告に来た次第です。」


「そうか。そんなに大きくなったんだな。これからよろしくな。徳治。」


 とこちらを見た。


「はい、金衛門様。これからどうぞよろしくお願いします。」


 僕はかしこまってお辞儀した。さっそく金衛門は女中に簡単なもてなしを指示した。それから父は、持ってきた酒を金衛門に渡し最近の村のことを話し始めた。


 はじめはそばで話を聞いていたが、少し長くなりそうだと僕は思い、金衛門に屋敷内を散歩していいかと尋ねた。金衛門はもちろんだと笑顔で答えた。


 一人客間を出て、中庭に向かった。この屋敷はとても質素だったが、中庭だけは金衛門自らが手をかけた立派なものだった。縁側に座り池の鯉や立派な松を眺めていると、庭の端から誰かが声をかけてきた。


「あら、徳ちゃん、こんなところで一人何してるの。」


 そのきれいで弾むような声の主は澄さんだった。澄さんはこの屋敷の女中で年は僕よりも5つほど上らしい。小さいころから父と金衛門が話をしている間、暇な僕の相手をしてくれていた。


「どうも盛り上がってきて長くなりそうだから抜け出してきちゃった。」


「あら、そうなのね。金衛門様も寛治様が来るとついうれしくってつい盛り上がっちゃうみたいね。」


 澄さんはこちらをみてはにかんだ。とても素敵な笑顔だった。


「徳ちゃんもずいぶん大きくなったわね。昔は奥座敷でけん玉とか可愛らしい遊びをしてたのに、今は中庭を見て物思いにふけるような男の子になっちゃって。」


「いつまでも子供扱いしないでください、澄さん。これからは本格的に父の手伝いをするようになるんですから。今日だってその挨拶に来たんですよ。」


「あら、そうだったの。よかったわね。船の運転も徳ちゃんがするようになるのかしら。」


 ちょっとだけからかいながら澄さんは言った。


「それにしても、ほんと大きくなったわね。もう私と遊んでくれなくなるのかしら。そうと思うとちょっと寂しいわね。」


 澄さんは、持っていた木製の手桶を庭に置き隣に座ってこちらをむいた。肌が触れ合いそうなぐらい近くに座ってきたもんだから、僕はちょっぴりドキッとした。それにこんなにも澄んだ瞳で見つめられたからなおさらだ。


「昔、奥の座敷で徳ちゃんがお漏らしして、それをお掃除してあげたのが昨日の事みたい。」


「そんな恥ずかしいこといつまで覚えているんですか。忘れてくださいよ。」


 顔が熱い。おそらく今僕の顔は真っ赤になっているに違いない。今になってお漏らしの事を掘り返されたせいでもあるが、大半はそうでない。


「せっかくの徳ちゃんとの思い出なんだから、そう簡単に忘れたくありません。」


 澄さんは少し頬を膨らませた。それから少し遠くの方を見つめた。とてもきれい

な横顔だった。


「私、徳ちゃんを弟だと思って今まで接してきたから、こうして大人になっていくのを見るととっても嬉しいの。けどこれから仕事で忙しくなってあまり話せなくなるかもしれないと思うと、なんだか感傷的になっちゃう。」


「別にさみしがることなんてないじゃない、澄さん。今まで通り父の付き添いでこの島に来るわけだし。」


 澄さんを励ますように僕は言った。少しの間澄さんはむこうを向いて黙っていたが、こちらを再びむいて、


「それもそうね。私は徳ちゃんと一緒に成長できないけど、別に会えねくなるわけじゃないから、気を落とさなくてもいいわよね。」


 澄さんの顔にまた笑顔が戻り僕はうれしかった。それからたわいもないことをしばらく話した。


 遠くから澄さんを呼ぶ声がした。


「いけない。まだ掃除の途中だったわ。また女中長に怒られるといけなから、わたし戻るわね。」


 澄さんは縁側から立ち上がりおいていたバケツをもって急いで屋敷の奥に向かった。途中こちらをむいて、


「またね。」


 とはにかんで奥の部屋へと消えていった。僕は中庭に再び目線を映した。池の鯉や松がやはり立派だった。しかし、先ほどよりもなんだか輝いて見えた。


 しばらく庭を見ていると父がやってきて帰るぞと言ってきた。再び金衛門のいる客間に行きもう一度今後のあいさつをした。


「いや、ほったらかしにしてすまんかったな、徳。」


「気になさらないでください。ぼくは結構ここの庭を眺めている時間がお気に入り

なので。それに少しの間澄さんが相手してくれましたし。」


「そうか。わたしの庭を気に入ってくれているのなら手をかけた甲斐がある。今度来たときは皆で庭を見ながら話をしよう。おまえに話しておかないといけないこともあるしな。」


「ぜひそうしましょう。」


 金衛門は見るからに嬉しそうだった。帰り際いくつか手土産を渡された。そして、


「今朝の見回りの時、ちょっとごたごたがあって少し疲れたから、今日の見送りは勘弁してくれ。」


 といって、ちょっとだけ疲れた顔をすると金衛門は奥の座敷に消えた。その後、来た時に案内してくれた女中が部屋にやってきて屋敷の門まで送ってくれた。門を出るときふと屋敷の奥を見ると澄ちゃんが手を振っていた。手を振り返したかったが父の手前恥ずかしさもあり、会釈だけして門を出た。


 それからもと来た道を戻り、島の裏門前までやってきた。裏門まで来ると哲男さんがいた。哲男さんに帰ると伝えると門を開ける準備をしてくれた。門が開き始めるとと哲男さんは父に


「最近、街の方で物騒なことがあったらしいから寛治さん、気を付けて帰んなさいよ。」


 と注意してくれた。父はあまり詳しくは聞かず


「分かりました。」


 とだけ答えた。


 その時だった。


 通りから脇道に入った平屋から、数人の顔つきの悪い男たちがこちらみているのに気がついた。そして、その真ん中にいた男と僕は目が合った。僕はすぐに目をそらしたが、目が合った時その男は笑っていたような気がした。門が完全に開いた。門をくぐる際にもう一度あの平屋の方を見たがそこに男たちの姿はなかった。


 それから船着き場への道を父と二人会話をすることもなく歩き、出航の準備をした。蒸気機関が音を立て船が動き始めた。やはり誰もいない客室の一席に座り、僕は澄さんの事を考えた。次、来た時にはもう少しだけ仕事を覚えておこうと心に誓い、島を後にした。

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