02

「負けられないのに」

 と暗い通路を歩きながら、ティナは口にした。

 そして、自分がその言葉を声にだしていたということに気づいて歯噛みした。

「負けられないのに」

 今度は、意識してそう言う。

「負けられない」

 もう一度。

 ちかちかと点滅する電灯は、この『講武所』の電力供給が不安定であることを示していた。火力発電のために必要な原油の輸入が激減しているのだ。

〝大衝突〟による衝撃は多くの国に影響を与えたが、世界の石油の供給源である中東は比較的に遮蔽物が少ない地平であるせいか壊滅的な被害があった。そのことによって石油採掘施設は全壊し、その再建は進みつつあるものの供給量は往時よりも遥かに少ない。

 さらには輸送ルート上の海には海賊の出没も増えていた。

 結果として石油の値段は高騰し、火力発電所も稼働時間の制限を受けていた。

 さすがに病院施設があるような区域は優先的な供給を受けているが、大半の施設では昼間のはともかく夜も日付が変わる頃には使用電力が低下されてしまっていた。

 それは、この国営施設である『講武所』でさえも例外ではない。

 消灯時間も過ぎると、今は薄暗い通路から全ての光は消えて真っ暗になってしまう。だから、ティナはそれまでに帰ってこないといけないわけであるが。

 それなのに彼女の足取りはいつの間にか緩くなり、何秒か、あるいは何分か立ち止まった後、ぽつりぽつりと、思い出したように歩を進めるようになってしまっていた。

 歩みのたびに「負けたくない」と言いながら。

 それでも、なんとかジュースの自販機に辿り着き。

「負けたく、ない……」

 地の底にねじり込むように、口にした。

「あの人に、負けたく、ない……」

 涙で視界が滲む。弱音なんか吐きたくなくて、自分に言い聞かせるために目的だった言葉を積み重ねていた。目的だった。目的のはずだった。

 だけど、本当は解っていた。

(勝てない)

 絶対に。

 あの人には、勝てない。

 それを解ってしまった。

 いや、そんなことはずっと以前から解っていたことでもあった。

 御法真紀。

 恐らくは彼女以上の兵法者など、この世にはいまい。そのはずだ。彼女の国の、彼女の国の歴史上でも最高の騎士をも打ち倒した彼女が、兵法者として最強でないはずなんて、そんなことはあり得ない。あってほしくなんかない。

 それは、ティナのみならず彼女の国にあのときに生きていた者全ての認識だった。

 全ての者たちの願望だった。

 

 あの美しい魔人こそは、最強無敵の怪物であってほしい。


 そうでなければ、あまりにも惨めだった。

 そうでなければ、あまりにも悲しかった。

 あの日、あの時、あの決闘の結末まで見守った者たちは、真紀の剣のあまりの凄まじさに心を折られた。

 あれほどの者にならばこの国は敗れても仕方がない。そう思えた。

 以降の《魔法世界》で轟かせた真紀の勇名に、彼らは歯噛みしながらも安堵を覚えてもいた。最強にして無敵の魔人になら、自分たちが負けても仕方がない――そんな諦観は、甘美ですらあった。 

 ティナはそんな故国の空気に嫌気がさしながらも、真紀の名が伝わるたびに決して不快ではない胸の疼きがあったのは覚えている。

 そうだ。

 あの頃から、思っていた。

 ずっと、あの頃から、思っていたのだ。

「いつか、あの人に――」

 その想いの全ては、儚く消え失せてしまったけれど。

 いや。

 遠い、今はない故郷から、僅かな可能性を賭けてやってきたこの国で、会うことができた。

 それは奇跡にも似ていた。

 その時には、かつての想いは悲壮な決意に塗り替えれていたけれど。

「例え、届かないとしても」

 いつか、必ず。

 一撃を食らわせる。

 自分と、自分の民たちが味わった辛酸を、微かなりとも味あわせてやる。

 ささやかにすぎる望みであったかもしれないが、それ以上のことが自分にできるなどとはティナには思えなかった。妄想の中ですらもあの怪物に勝てるというイメージが浮かばなかった。勝つという願望を抱くことすら彼女にはできなかった。天地をひっくり返してもそんなことは不可能なのだと、ティナにだって解っていた。

 それでも。

「それでも、」

 ティナが改めて決意しようとした時、酒の匂いが鼻をついた。

 いつの間にか、酔っぱらいが近くにまできていたらしい。自分の油断か、あるいは、よほどの使い手なのか。

『講武所』ならば、どちらもあり得る。

(にしても)

 こんな酒臭いだなんてのはかなりのアホだ。常在戦場は名目にしても、決して忘れてはいけない兵法者の掟のようなものだろう。それなのに、距離にして五メートルは離れていても届くほどのこの匂いだから、よほどに深酒をしているようだった。

(ぶったたかれても、文句言えないわよ)

 むしろ、今は誰でもいいからぶったたきたかった。

 こつこつと近づく足音から、正確な距離を測る。

 三メートル。

(どうしてくれようか)

 風呂上がりであるが、気分が悪い。あんなことがあったせいだと思う。あんなものを見てしまったせいだと思う。

 いつも自分を圧倒している天才剣士が子ども扱いされた。

 自分を護ると誓ってくれていた騎士が軽くあしらわれた。

 改めて、力の差を思い知らされてしまった。あれで霊力は二割以下に抑えられてるというのだから、冗談にもならない。

 そして何よりも。

 怒りよりも。

 恐怖よりも。

 この心のざわめきが、そのようなものでもないことに、彼女自身が気づいていたから。

 だから、余計にイラつく。

 それは彼女を追い詰めていた。

 覚悟と決意を改めて、今更に口にしなければならないほどに、ティナを追い詰めていた。

(こんなものはいらない)

 いらない――いけない。もっていては、いけないものだ。

 もっと、心を荒ませろ。

 もっと、魂を軋ませろ。

 もっと。

 もっと。

「決めた、殴ろう」

 小さく、呟いた。 

 苛立ちに任せて、喧嘩を売って歩こう。誰彼構わず喧嘩を買って回ろう。今まで通りに師範たちに睨まれる問題児として振る舞い、これからも同級生たちに蔑ませられる馬鹿であり続けよう。

 さしあたっては――

 拳を握りしめた。

 でも。

 でも。

 でも。

(もしも、もしも……)

 もしも、

 もしも。

 ただの職員だったりしたら。

 その方がありそうな気もした。

 師範であれ、生徒であれ、仮にも兵法者ともあろうものが、こんな深酒の匂いをさせて深夜に歩き回っているはずがない。

 そうなると、自分が今からしようとすることは、ただのいじめだ。仮にも、仮にも兵法者の卵としてここで学んでいる者としてあるまじき行為だ

 まだティナは迷っている。

 お風呂上がりだし。

 酒の匂いが移るかもしれないし。

 足取りはテンポがよい、匂いほどには酔ってないのかもしれない。

 二メートル。

 だけど。

(ええい)

 ままよ。

 呼吸を整えたりはしなかった。

 握りしめた拳を、相手も見ずに振り抜いた。

 裏拳。

 あるいは、ハックハンドスピン、などと言われる技だ。

 もっともその時のティナは当てるつもりもなかった。むしろ、当たらないことを望んだ。鼻先を掠める程度でも、十分以上に威嚇になる。完全なる不意打ちだからこそ、それでいい。それで喧嘩が始まる。問答無用だ。相手にとっては理不尽きわまりないが、運が悪かったとあきらめてほしい。生きていたら、いつかなんらかの形でお詫びする機会だってあるだろう――

 …………などと刹那に考えた彼女の拳は、スパンと振り抜けた。

「え。」

 あまりにあっけなさに、つい声を漏らす。

 当たったのは解った。当たったのは解ったが、あまりにも手応えがなさすぎた。それがどういうことなのかも解ってはいた。

 まるで抵抗がなかった。

 当たると警戒した者は、意識せずとも筋肉は緊張する。身体を倒れまいと踏ん張る。それがない。

 それはつまり、打たれた者の緊張がその時なかった、完全なる不意打ちが決まったということで、そして意識が無くなったことの証拠だ。

(これは)

 彼女の人生の中でも、ほとんど初めてのK.O.が決まった瞬間だった。

「って、そんなことより――、」

 ヤバい。

 これはヤバい。

 喧嘩どころではなかった。

 不意打ちに拳を打ち込んで相手を失神させてしまうだなんて、まったく想像の埒外だ。

『講武所』にいる人間ならば、最低限の武術の心得くらいはあると勝手に思いこんでいた。

 まさか自分のパンチがこんな簡単に決まってしまうだなんて、思ってもみなかった。 

 それどころか、今の感じはヤバいと本能的に感じた。

 相手を殺してしまったもしれない感触だった。

(けど、大丈夫なんて聞けないし)

 どういえばいいのか。

 そう考えながらも、倒れた相手の側にしゃがみ込み。


「――――師範!?」


 彼女の宿敵である御法真紀が、きゅう……などと声をもらしながら、目を回して倒れていたのである。


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