ウォーアーティスト・ブレイド・ショー
奇水
プロローグ 大兵法者の憂鬱。
01
多くの夢の中では匂いを感じることもないと何処かで聞いたことがあったが、真紀の近頃見る夢では必ず匂いがついている。
あまりにも嗅ぎなれたせいで脳にまでその記憶がしみ込んでいるのかもしれない、と思う。
もしも脳みその中身を洗浄することができるのならば、こんなものは全部洗い流してしまいたいとも思う。戦場を離れて三年もたつのに、真紀の脳みそはいつまでもフライパンに浮かび上がる錆のように血の匂いを忘れてくれない。
それどころか、最近では熱さえも伝えてくる。炎の熱さだ。声も聞こえる。怒鳴るような雄叫び、断末魔の悲鳴。戦場ではありふれたそれらが、血と肉の焼ける匂いとともに真紀の夢の中では溢れていた。
それは、戦場の夢だった。
「生き残った者は陣列を組め」
叫びながらも、真紀はすでに部隊の三割以上が失われているということに気づいている。
彼女の率いている兵法者の遊撃隊は、その性格上個々の戦闘能力に任せていて最低限の連携しかされることはないが、それでも三割が動けなくなっているというのは致命的だった。
「畜生」
誰かが言った。
「隠形法が破られたんだ」
「このコースで待ち伏せられるだなんて、絶対に情報が漏れている――」
それぞれが愚痴めいたことを口にしながらも、素早い動きで真紀を先頭にした方陣を構築していく。さすがに戦場往来の兵法者たちだった。すでに 奇襲を受けての精神的なショックは払拭されているようだ。
これならまだ立ち直せる、と彼女がささやかな希望を持ったその時だった。
――――――絶望がやってきた。
それは、そうとしか説明できない。
それは、そうとしか表現できない。
いや、他にも言い様は幾らでもあった。身長160センチにも満たない小兵。この雪中の世界でおいてさえ胸と腰に僅かな布を巻くだけの衣装の原始の少女。身体の至るところに文様を浮かばせた魔法の戦士。黒の魔剣を授かった神域の守護者。そして、狂神をその身に宿らせた
そのどれもがそれを表す意味を持ち、なおも不足していた。
そんな言葉の羅列では、それを説明し切ることなどできない。できるはずがない。
「ああ……」
真紀は思わず声を漏らした。それを見た時、それを視界に入れた時、それの気配を感じ取った時、全てを悟った。
「××××××」
かろうじて出せたのは、もうとうに意味を無くした名前だった。
あの少女にかつてあった名前。
真紀にだけ教えてあげると囁かれた名前。
少女と自分とで共有された秘密。
だけど、それはもはや意味を無くした名前だった。
もう彼女にはその名前は意味がなくなっているはずだった。
もう二度と、真紀には彼女の名前を口にする資格などなくなっていたのだから。
だから、吐出された名前には意味もなく、音の連なりでしかない。
もう今となっては思い出せなくなってしまっている、尊い少女と真紀との約束だった。
(もう、私にもあなたにも、未来はないんだ)
呼吸を整えてから、一度瞼を閉じる。
覚悟を決めるまでに二秒かかった。
「
御開祖の遺された偈を口にして、眼を見開く。
「
続けて出された真言で、真紀の腰の左右にぶら下がる刀の封を解いた。
驚きの声が背後からかかる。
第一級の兵法者として日本國に登録されている真紀は、遊撃部隊に参加することによって多くの支援を受けている。
そしてそのことの代償として、様々な能力制限をも受けていた。
その一つが『抜刀許可』があった。いついかなる非常時であっても、彼女は個人の意志での抜刀は許されない。
それが急襲を受けてのことであっても。
許可する者からのコンタクトが不可能な状況においてさえも。
それを破れば、重要なペナルティがつく。
勿論、それは真紀だって承知の上だった。そしてそれを知ってなお、こうすることを真紀は選択した。この選択以外はありえなかった。
少女は、少し笑ったようだった。
まだ、意志があるのか――あるいは、生前の仕草を再現しているだけなのか。
いや。
(嬉しいんだな)
どっちが、などということは解らなかったが、それだけは確信できた。
(そうだ、私もだよ。私も嬉しいよ)
状況は最悪だった。輸送機は撃ち落され、不時着したのは人跡未踏にほぼ等しい雪山の中で、相手は誰よりも大切だった――魔人の戦士。
仲間たちは今も炎の中で、吹雪の中で息が絶えつつある。果たしてこの少女を打ち倒せたとしても、何人が生きて山を降りて本国に帰ることができるのか、元の世界に戻れるのか、果てしなく怪しい。
それでもなお、真紀は嬉しかった。
絶望のただ中で、絶望を相手にして、なおも真紀は嬉しかった。
抜刀した双剣の左を前に差し出し、右を担ぐ構えをとる。
その少女も黒の魔剣をふりかぶった。
――――と。
不意に顕現した巨大な明王が利剣を振りかぶった。
生き残りの誰かが出したものに違いない。青黒い身体より火焔を発したその姿は不動明王。この魔法世界でなおありとあらゆる魔性を切り裂き、浄化してきた護法神。
真紀を助けるためか、あるいは絶対的な脅威である少女を倒すためか――繰り出された利剣は、しかし真紀の一振りにて受け止められ、吹き飛ばされた。
「――――邪魔をするなっ」
一瞥たりともしなかった。
真紀の声に応えるように、少女が跳躍した。
数十メートルの距離があったにもかかわらず、一瞬とかけずに距離を潰して撃ち込まれた巨大な黒の魔剣。
それを双剣の十字受で止めた。
背後に突き抜けていった魔力の衝撃があったようだが、どうでもいい。
雪山の中に響き渡る轟音と悲鳴。
だが、その時の真紀にはそんなことは耳に入ってもいない。知る必要もないことだった。考える必要もないことだった。
あるのは「今」と「ここ」。
それでいい。
それだけあればどうでもいい。
身の丈ほどもある巨大な魔剣を片手で振り回す少女の刃を受けて弾いて逸らして踏み込む。
(なんたる剛力)
(なんたる速さか)
伴う魔力は一閃されるごとに空を切り裂き、地を穿つ。
それでも真紀は揺るがない。
それでも真紀は止まらない。
自然と、笑っていた。
(そうだ)
(もっとだ)
(もっと見せてみろ)
(もっと私にたたきつけろ)
真紀の心の声は、あるいは外にでていたのかもしれない。
少女は、にいと裂けるような笑みを浮かべる。
「くる」
と、これは間違いなく声にしていた。
真紀は予感に震えた。
少女の全力が撃ち落される。
この世界でも有数の戦士の部族の、歴史に名を遺しただろう代表戦士が憑神してまでも求めた力の全部が、全技量がこめられた最高の一撃が撃ち落される。
それは間違いなくこの山を砕く力があるだろう。
間違いなく世界に千年と残る傷痕になるだろう。
本来、国を相手にさえも幾重と禁忌の鎖に絡まれた力が、真紀というただ一人の異世界の剣士に向かって、撃ち落される。
真紀は双剣を下段に下げて。
「まき」
声を聴いた。
もう二度と、聞くはずもない声だった。
二つの世界にて頂点に立った魔剣士の目が大きく見開かれた。
「まき」
もう一度、声が。
(違う)
思い出す。
この時に、あの子は私の名前を呼ばなかった。呼ばなかったはずだ。
「まき」
「起きなさい――
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