03
(うん?)
急激に周囲で高まる魔力に、さすがに真紀も顔を上げた。
しかし次の瞬間、足元から一気に吹き上がる炎は彼女を飲み込んだ。炎の柱のようだった。それは数秒だったが、青白い高温をも示していた。果たして何百度か、あるいは何千度か。生身の人間の体など、あっという間に黒炭にできただろう。そのような炎の勢いだった。
「まともに入った……!?」
と驚いたのは、着地したティナだった。
御法真紀ならば、何かの技で炎を蹴散らすくらいのことはすると予測していたのだが――
「けほッ」
と、炎が消えた後、何事もなかったかのように立ち尽くしていた御法真紀は、そう軽く咳き込んでから、自分の髪の毛先を摘んで見ていた。
「今のは、ちょっと驚いた……あ、焦げてる」
「怪物めッッ」
ティナは叫び、だが今の一瞬で起こったことを分析している。焦燥はあれど、彼女はまだ冷静だった。冷静な、つもりだった。
(あらかじめ、強力な護法がかけられていた? 他の師範でも今のは印契を結ぶなり刀を構えるなりはしたのに……それとも、強すぎる霊力で弾いたとか? バカな。精霊の概念系の攻撃を単純に霊力で無効化するだなんて、それこそどんな魔物なのよ!?)
考えれば考えるほど、あり得ないことだった。
この女は、これまで見てきた魔法騎士とも魔術師、修験者、兵法者とも、何かが違う怪物だ。
そんなことは知っていた。
知ってはいたけれど、直接相対してから、改めて実感する。
こいつは人間じゃない。竜だの魔神だのの類がまだ近い。人の中にいる魔性だ。
(――だからって、)
負けられない。
負けてなんかいられない。
自分はどんなことをしてもこいつに勝たなくてはならないのだ。
と。
「……え?」
「ティナ!」
御法真紀が、いつの間にか目の前にいた。
明の言葉によって気づいたが、一体、何をされたのだ。どんな技で距離を詰められたのだ。さっぱり見当がつかなかった。霊力の昂ぶりも何も感じなかった。ということは、物理的な技であるはずだ。何か特殊な運足が使われた?
(……って、考えている場合か!)
目の前に敵がいるのならば、それは迎え撃つしかない。完全に虚をつかれている今では、魔術による移動もあてにならない。
双短棍術の打ち込みは刹那の間もおかず御法真紀に、
受けとめられた。
「え――――、」
片手を掴まれ、もう片方の手も掴まれていた。そしてそのまま左右に大きく手を広げられてしまっている。胸と胸が鉢合わせした。大きく柔らかく弾力あふるる、不可思議な物体だった。タンクトップのブラとシャツ越しにも解る、奇妙な何かだった。
(な、何、これ? なんなのこれ!?)
昨日、自分と榊美緒が顔を押し付けられていたアレだ。あれってこんな感触だったのか、ということにティナは戦慄を伴う衝撃を受けた。
(って、私は何を!?)
この距離でだって膝で股間を蹴り上げることくらいできる。一般に股間は男性の急所と思われ勝ちであるが、女性だって打たれたら大変に痛い。
だが、それはできなかった。ティナが胸の感触に衝撃を受けていた隙に、あるいはそれ以前にやっていたのか、真紀の右膝が先にティナの膝の間に入っていた。そして右足を絡め取っている。案山子のような状態になっていたのだ。
(なんて体幹……!)
残った左足で真紀の足を蹴るくらいのことはできそうだが、迂闊に動かしたらどういう展開になるか解らない。
(この態勢だと、何ができる? 何か魔術で道連れにしようったって、サラマンダラだってなんの効果も与えられなかったっていうのに……)
位置的に、明からは自分が盾にされている状態だ。
詰んだ。はっきりと解る。この状態で自分ができることなんかほとんどない。あるいは、できるとしたら、まだやれることがあるとしたら……。
(『魔法』――)
バカな。
一瞬でもそんなことを考えた自分を、ティナは恥じた。もう『魔法』は使わないというのが彼女の誓いだった。
(まだ、何か、私にも、できることが……)
胸ではなく、真紀の顔を見る。風の精霊の加護で彼女の体は不自然に風が取り巻いているが、その風は彼女の宿敵の髪をも靡かせていた。何年もろくすっぽ手入れしていない髪の下にある、御法真紀の素顔を丸見えにさせていた。
「きれい……」
ぽつりと、思わず呟いていた。
このひとを最初に見たのはいつだったろうか。遠見の『魔法』で決闘を覗き見た時か、王宮に来た時が最初だったかも知れない。それはもはや曖昧な記憶の彼方のことでよく覚えていない。ただ、その姿の美しさは覚えている。長い睫毛をしていると思った。透き通った意志を感じる眼差しをしていると思った。綺麗な色の唇をしていると思った。こんなひとが戦えるのか、そう思ったのも、覚えている。
あの時に見たのと同じ顔だった。
御法真紀はあの頃のままの眼差しで、ゆっくりとティナの顔へと自分の顔を寄せだした。
(あ、ああ……何、何、されるの、私……?)
食べられちゃう、と反射的に思った。あの決闘を見ていた時にも思ったことだ。歴史にも残る大魔法の遣い手である騎士さえも打ち倒した、あの瞬間にも感じたことだ。私たちは、この美しい怪物にみんなみんな食べられてしまうのだ、と。
恍惚とした震えが背筋を駆け上がった。圧倒的で絶対的な何者かの一部になる、なってしまうという感覚は、時に人に官能にも似たものを与える。
真紀の顔はゆっくりとティナへと寄せられ――
急激に離された。
(――――え。)
背筋を仰け反らせた、ということにはすぐには気づかなかった。何せ次の瞬間には、ティナは眉間に真紀の額を叩きつけられていたのだから。
頭突きだ。
閃光を伴う衝撃に意識が飛んだティナの両手から棒は瞬時に奪われ、その場で崩れて跪くのを真紀は感情のない眼差しで見送り、間をおかず床を蹴って跳躍していた。
(ティナ――――ッ)
何をされたのかは明の位置からは解らなかった。ただ、明の姫が何かをされていたのは解った。それだけで充分だった。
一歩の踏み込みで軽く十メートルを詰める明には、十五メートルくらいなら充分に間合いの内に入る。
抜きつけの一閃は、彼女ならば鋼鉄の塊さえも両断できるはずだ。
人間相手には、怖くてやったことはないけれど。
しかしそんなことを言っている場合ではない。
この相手には、全力で立ち向かわなければならない。
それだけは確信していた。
が。
突然、刀が重くなった。体の一部とまで使い込んでいた刀が、停止した。鯉口さえ切れなくなった。
(な、何――)
原因は解った。すぐに解った。柄尻を抑えるものがある。それが伸ばされた足なのだということを認識するのにコンマ五秒かかった。踵が乗っていたのだ。
御法真紀の足だった。
跳躍して伸ばした足で神護寺明の刀を押さえ込んでいたのだ。鞘も床についている。明の体術がどれほどのものであったしても、真紀の体重と勢いが乗った足を跳ね除けるなどできるはずがなかった。
そのまま刀は真上にまで跳ね上げられ――停止する。
「う、嘘……」
まっすぐに床に立てられ刀の上に、御法真紀は立っていた。
その場で腰から崩れてへたり込んでいた明は、その様子を呆然と見上げた。何をされたのかは解るのだが、それを脳が認識するのを拒否している感覚があった。あまりに現実離れしすぎていて、夢を見ているかのようだ。
「…………ん?」
と、どうやってか、刀の上で振り返った真紀は、眉間を抑えながら立ち上がるティナを見ていた。静かに眺めていた。
「ノームよ……立て!」
ファウスト流魔術の一つだ。地の精霊ノームを呼び出す。それは木の床なのに、そこから土でできた巨人が湧き出したように見えた。全長にして三メートルはあろうかというその土の巨人は、伝説のゴーレムに似ていた。
御法真紀は刀の上に立ったままで、下段に下げていた棒をゆっくりと中段に上げた。
「ずぅ」
それだけで。
それだけで、ノームは停止する。時間ごと止められたかと思えるほどの静止だった。
「たぃん」
真紀は中段から両上段に持ち上げた。持ち上げながら、体を傾けた。刀も傾いて、雪崩落ちるように真紀は宙を舞った。
「へつ!」
気合と共に、上段からの打ち込みをノームに決めた。棒は軽い植物性のものであるはずだが、そんなことは関係ないように土塊の巨人は切り裂かれた。
そして、真紀が着地した時にはノームは消えていた。土埃となって散らばって、そのまま大気に溶け去ったようだった。
「…………ッ」
解っていたことだったが、まるで何の痛痒を与えることもできなかったことに、ティナは歯噛みした。
御法真紀は棒を下段に下げたまま、すたすたとティナの前へと歩み寄る。
そして。
「手」
と言った。
「手?」
「はい」
棒を両方とも差し出された。反射的に掴んでしまったが。
真紀は言った。
「まだやる?」
静かな声だった。
明は息を呑んだ。
ティナは一度瞼を閉じてから。
開き。
「……結構です。腕前のほど、拝見させていただきました。これからも、よろしくお願い致します」
絞り出すように、言った。
御法真紀は「そう」と言ってから、口元を笑みの形にした。
「これからもよろしくね、二人共」
「…………」
「…………」
それから二人は、そのまま何も言わずに立ち去る彼女らの師範の背中を目でおっていた。
足は動かなかった。
(……こんなでよかったのかな?)
格技室から出た真紀は、五分ほど悠然と歩いてから、角を曲がって腕を組んだ。
どうにも、自分のやったことに自信がなかった。もっと他の勝ち方があった気がする。実際、あった。武器なんか奪わなくても、素手でもどうにかできた。多分。そっちの方がよかっただろうか。そんな気がする。いや、解らないけど。解らないけど……。
「うーん……」
唸るように言ってから、そのまま再び歩き始める。
「まあ、これからのことは、後で考えよう……」
まだ指導は始まったばかりなのだ。そんなに焦ることはない、と自分に言い聞かせながら、真紀は歩いている。だけど、最初が肝心だという話もあるしなあ、ともぼやきつつ、彼女は師範の詰め所までそんな調子だった。
◆ ◆ ◆
「…………」
そんな御法真紀の背中を、榊美緒は思い詰めた目でじっと見つめていた。
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